235 第20章 第三王都とベルベラディ 20-22 第三王都での鍛冶見習い2
下宿に戻って夕食後には、外の共同風呂。
風呂は個室を借りることになった。
そして、翌日は細工ギルドへ挨拶にもいくマリーネこと大谷である。
235話 第20章 第三王都とベルベラディ
20-21 第三王都での鍛冶見習い2
下宿に戻ると、私の部屋の前にいたのは、マチルドと名乗った女性だ。
「ヴィンセント様。お待ちしておりました。お食事をお持ちします」
そういうと彼女は深いお辞儀をして、足早に歩き去った。
私は鍵を開けて、部屋の中に入り、油ランプに火を灯す。
さて、作業着を脱いで、紺色のスカートと白いブラウスに着替えた。
暫くしたらマチルドが夕食を運び込んできた。
「どうして、私が、帰るまで、待っていた、のですか?」
「ご主人のアルティア様から、言われております」
「ホールト様が?」
「失礼のないように、と言う事でした」
「えっと。貴方の、名前を、もう一度、お願いします」
「マチルド・ヴュイヤールと申します。マリーネお嬢様」
うわわ。お嬢様呼びになってしまった。
「家名持ちなのですね。マチルドさん」
「はい。何か判らないことがありましたら、私にお尋ねください」
そういうと、彼女は深いお辞儀して出て行った。
まあ、彼女とは今後話す機会があるだろう。彼女は少なくとも、まったくの平民じゃないらしい。家名を持っているのだから。
手を合わせる。
「いただきます」
一次発酵させたパン。燻製肉を焼いたもの。肉と野菜の入ったシチュー。そして野菜のサラダ。
私はパンを千切ってシチューに潜らせて食べる。
シチューはいい味だ。
食べながら思ったのは、お風呂はどうしているのだろうか。
たしか女主人は外の共同風呂といったような気がする。
場所を聞いておくべきだな。
手っ取り早く、全部食べ終える。
「ごちそうさまでした」
手を合わせる。軽くお辞儀。
水を飲んで、トレイを扉の下に置こうかと思っていると、ノックがあってマチルドが入ってきた。
「食器をお下げいたします」
「はい。ありがとうございます。それで、訊きたいことが一つあります」
「お嬢様、何でございましょう」
「共同風呂は、何処にあるのでしょう? 私はこの辺りの事を全く知りませんの」
「お風呂でございますね。私が案内いたします。他の方もいらっしゃる場所ですので貴重品はお持ちにならないよう、お願いします」
「お風呂のお金は、いくらでしょう」
「お嬢様。共同風呂は、この王都では無料で使えます。どうしても個室を使いたい方は、入り口でその希望を仰って下さい。空きがあれば、一デレリンギで使えます」
「分かりました。私としては個室を希望します」
「それでは、今から行ってみましょう。片づけてまいりますので、ここでお待ちください」
彼女は、トレイを持つと急ぎ足で出て行った。
そっか。持っていく硬貨は一枚だけだな。
小さいポーチからは全てを出して、寝室の部屋のテーブルに並べた。
硬貨の入った革袋。代用通貨が四つ。あとは手を拭くのに使っているタオル一枚。
代用通貨は普段は使わないので、冒険者のと細工工房のは、テーブルに並べてみた。
その横に鍛冶の代用通貨。そして、とびっきり特別な商業ギルドの代用通貨だ。これは今回、全て置いていこう。
標章もそうだな。細工と鍛冶の標章を並べた。
冒険者の金階級のは、いつも首に付けておく。これは置いて行く事は出来ない気がする。これは私にとって最高の身分証明だからだ。
彼女が戻るまでに手っ取り早く、大きな革袋に入れてベッドの脇にいるチェストに仕舞った。
ポーチに入れたのは、デレリンギ硬貨一枚だけ。もし万が一失っても、このポーチと一デレリンギで済む。
タオルとか、たぶん要らないのだろうな。共同風呂のほうにあるのだろう。
暫く待つと、マチルドがやってきた。
油ランプが一つ。彼女の服装は、メイド服のままだ。私も油ランプを持った。
「お待たせしました。マリーネお嬢様。参りましょう」
「はい」
頷いてついていく。部屋から離れる前に鍵をかけた。
いちいちお嬢様呼びになったのは、何故なんだろう。女主人のアルティアが、何か思うところがあって、私をお嬢様扱いなのか。
うーん。おかしいよな。私はどう見たって、鍛冶屋で修業をする子供のような背丈の女職人なんだがな。
もしかして、あの時、私が山の村で作った服を着て現れたのを彼女が見て、東方の高級な布地だといったからだろうか。たしか、ガイスベントのほうの上流階級が調達する布とか何とか……。
そういえば、トドマのギングリッチ教官も鉱山での葬式の時に、私のハンカチ兼タオルを見て、そんな高級な布をタオルにするのかといっていた気がするし、マリハのカサンドラおばさんも、この服の布地が東方の高級品と言ってたな。
お供もなしに、いきなりあの村に転移術でやってきた侯爵様は、あの村の村長が親しい友人だというようなことを言ってたような気がする。もはや、記憶があやふやだが。あの念話の侯爵様はガイスベントの貴族なのだろう。
ということは、あの村の村長も貴族だった。ということであの村の人々も、下手をしたら階級付きの人々だった。だが何か理由があって、お供も連れていないと。で、あの村の布は、彼らが普段使う服の布地なので、さらっと高級品が使われていたと言う事か。
……そんな事は全く知らない私は、あの村の布地でお洒落着だーとかいって、裁縫していたことになる……。
知らなかったとはいえ、まあ、あながち間違いではなかった、と言う事だろうか。
……
マチルドの後をついていくと、表の通りを東に行き、そして南側の道に入る。さらにちょっと進むと、大きな建物だ。
これか。
入り口には大勢の亜人たちがいた。女性用の方に入っていく。
今回はマチルドに任せるしかない。
彼女は、どうやら係の人に聞いている。
個室の空きがあるらしい。私は彼女に一デレリンギ硬貨を渡した。
「お嬢様。左の通路を入って、奥から一つ手前の部屋にお入りください。入ったら、必ず中から鍵をお掛けください」
「分かりました。ありがとうございます」
私は、示された部屋に入って鍵を閉める。
中は一言でいえば狭い。ただ油ランプが三か所提げられていて、割と明るい。
広さはせいぜい四畳半くらいの場所に、お湯が流れてきて溢れるままに任せられている風呂桶がある。
その手前が洗い場か。
私は服を入れておくものを探した。籠がある。これにいれて、一段高くなった場所に置いておくだけらしい。
持ってきた油ランプを籠の横に置いた。
籠はもう一つあって、タオルが数枚入っている。一つ取って手触りを確かめる。
洗うに使ってもよさそうだな。
お湯を風呂桶から掬って頭からかぶる。
汗を流して、それから少し体を洗った。
たぶん共同風呂の大勢がいるほうに入れば、いろんな話とかも聞けるのだろうけど、女湯だからなぁ。私の心は五〇も越えた草臥れたおっさんなのだ。そういう場所に自分一人いるというのは、絶対に心が持たない。
それに、私の背中から腰にあるらしい、何かの紋章も気になる。やたらと人に見せていいものではない気がするのだ。
ひとしきり洗って、風呂桶に入る。
例によって風呂桶は深いために私は立ったままだ。両手を風呂桶の縁に載せて、そこに顎を載せる。
取り合えず、これで回り始めたのだろうか。私の職人生活。
まだ何とも言えないのだが。
細工工房も近くだといいな。引越ししないで済む。
そうならば、この辺りの地理にも明るくなろうというものだ。
もっとも。この期間、雨というのが痛い。トドマの鉱山だと、もう本当に毎日土砂降りだった。外に出る事が出来ないほどの降り方で、あの宿舎から一歩も動けなかったものな。
雨の季節が早く終わってくれるといいのだが。
晴れていれば、休みの日は色んな所に見学に行けるだろう。
そんなことを考え、のぼせないうちに風呂から出た。
お風呂を出ると、マチルドは待っていた。
「お待たせしてしまって、すみません」
「いえ。私も今出てきたところです」
そういう彼女の茶髪の毛はだいぶ濡れていた。
彼女の長い耳はやや左右に開いた感じで、顔立ちはそれほど長くもない。これはコローナもそうだ。
あまり見たことのない顔立ちなのだ。女主人といい、このマチルドといい、どこの地方からきたのだろう。
それを聞く日が来るだろうか。
そんなことを考えながら宿に戻る。
彼女とは入り口に入ったところで別れ、私はそのまま油ランプを掲げながら自分の部屋に戻った。
戻ってからやるのは、植物図鑑を見る事だ。
油ランプに入れた植物油は、いったい何の植物なのか。
図鑑に載っているだろうか。
植物図鑑を頭から眺めていく。
今回見るのは、前に見た時はほぼすっ飛ばした『植物図鑑 Ⅰ』とさらっとしか見ていない『植物図鑑 Ⅱ』だ。
樹木の載っている『植物図鑑 Ⅲ』と『植物図鑑 Ⅳ』は後回しである。
まず、説明文に油が出てくるものを、どんどんページを捲って探していく。
……
あった……。たぶんこれだ。
『ペネーローエ ───
林の外縁と平野部でごく普通にみられる植物である。通年を通して黄色い花を沢山つける。
背丈は七フェムほどの小さな植物である。
花が咲いた後は沢山の種が稔る。茶色の種でこれを集めて擂り潰すと油が得られる。
食用としては、あまり適していない。雑味があるため食用には別のものが用いられる。この油は主として、灯火のために用いられている。
だいたいは野生ではなく、平地にて大量に栽培して、種を採集する。水はさほど必要ではないが、寒さには弱い事に注意が必要である』
どうやら、これらしいな。相変わらず、覚えにくい変わった名前だ。
平野部で大量に栽培しているのか。そして、食用の油は別にあるのだな。
よし、食用油も探そう。
……
あった……。これだな。
『サーメル ───
平野部で水が豊富にあれば、普通にみられるが、湿地帯に生えるわけではない。
通年を通して橙色の花をつける。背丈は八フェムほどの小さな植物である。
花が咲くと、やや独特の香りがする。その香りはラタレーエルに似るが、ラタレーエルの花は紫である。またラタレーエルの花にはその花弁に若干だが、毒がある。
サーメルの種は微細で、軸の中央に大量につく。これを採集して潰し油を得る。野生でも生えてはいるが、栽培には水が多く必要であり、ペネーローエ程簡単ではない。また極端な暑さと寒さにも弱い』
ふーむ。ランプの油にしているペネーローエ程簡単に栽培できるわけではなく、水が必要で温帯の平野部に咲くのか。
ペネーローエよりはかなり値段が高いのは確定だな。
食用油の事も判ったし、今日はこれで寝よう。
翌日。
起きてから行うのは、いつものストレッチからの柔軟体操。
下に降りて行って、空手と護身術。そして剣の鍛錬といつも通りである。
空は曇っているが、雨になりそうには見えない。
朝食もいただいて、作業着に着替えて準備をする。首に階級章。そして鍛冶のギルド標章。細工のギルド標章もポーチに入れた。
リュックを背負ってすぐに鍛冶の工房へ。
ここで一度アスデギル工房の事を訊いておいた。
「ケニヤルケス親方様。アスデギル工房はこの近くでしょうか?」
「ああ、ルデスタの所か。この工房から五軒隣になる。どうしたね。ヴィンセント殿」
「独立した、折には、そこに、一度、行く必要が、ありますので、先に、挨拶しておきたく、思います」
「そうか、なら、今すぐ行ってくるといいだろう」
ケニヤルケス親方がそういうので、さっさと用事は済ませてこよう。
私は小さなポーチから独立細工職人の標章を取り出して首に掛けた。
五軒隣か。
この工房の扉には、小さいながら少し凝った細工を施した看板が掛けられている。
「アスデギル細工工房・第一作業所」
第一作業所と態々書いているくらいだから、第二や第三があるのだろう。
扉を叩いて、出てきた人に、用件を告げる。
「マリーネ・ヴィンセントといいます。アスデギル工房の親方様に、お会いしたく思います。どちらに伺えば宜しいでしょうか」
若い男は、腰を屈めて私の顔をよく見ようとした。その時に私の首から下にぶら下がっている階級章とギルド標章に気が付いたらしい。
目を見開いている。
「こちらには、いらっしゃいませんか」
そういうと男は慌てて首を横に振り、それから中に入っていった。
先ほどの若い男が戻ってきた。
「ヴィンセント様、中にお入りください。アスデギル親方様がお会いになられます」
「はい」
中に入っていくと、中はやや暗い。
階段を上がるようにいわれて、階段を上がった場所の扉を開けると、その奥にやや細い男性がいた。
身長は二メートルちょいか。金髪の髪はちょうど首にかかる辺りまで伸ばしていて、真ん中分け。薄い蒼の瞳。
やや焼けた感じの肌だが、もともとではなく炉の温度で焼けたのだろう。顔立ちは彫りが深い。鼻は細くやや長い。輪郭は面長だが、馬面というほど長いわけではない。そして男性にしては、細い長い指。
この男性はかなり質のよさそうな服を着ていた。履いているのは紺色のズボンで、上は白い長そでのシャツ。そのシャツの上に羽織っているのは緑色のチョッキのようなものだ。
「ごきげんよう。アスデギル様」
私は胸に手を当てて挨拶してから、お辞儀。
もっとも。紫色の作業着なので、優雅さは全くない。
「話は伺っているよ。ヴィンセントお嬢さん」
彼は椅子から立ち上がった。
「それで、うちにこれから少しの間来るのかな?」
「いえ、今は先に鍛冶屋に入りました。申し訳ありません」
「ほう。鍛冶もやるんだね。しかも、うちに来るのを後回しにすると言う事は、そんなに長くはかからないと言う事かな」
「そのつもりです。監査官様に、お願いして、鍛冶工房を、紹介して、いただきました。近くの、ケニヤルケス工房、です」
「ふむ。一般の刃物をやるという事か。普通なら最低でも五年から八年はかかるのだがね。しかし、貴女の口ぶりだと、せいぜい一年もかからないという感じだな」
「予定では、一節季以内の、つもりです」
アスデギルは一瞬目を見開いた。
「それはそれは」
アスデギルはちょっと笑い顔だった。
「しかしまあ、メルランデール殿の話では、細工の方もとんでもない腕前の物を見せたらしいし、鍛冶の方もそうなんだろうね」
「見せたのは、銀細工の鳥です。鍛冶は剣です」
「ほう。私もそれは見てみたいね。今度見せてくれたまえ。なにしろその鳥細工は、あのギオニール・リルドランケン殿が絶賛されたとか聞いているよ」
「リルドランケンお師匠様をご存じなのですか」
「ははっ。この王国で細工をやっている者で、彼を知らないのはよほどの無知か潜りだろう」
「もう、今となっては、その姿を見た者もほとんどいないのだがね」
「お師匠様は、トドマの方にいます。もうお店や工房を構えることはしていません」
「ほう。貴方はどうやって知り合ったのだね」
「私が、住んでいた、家が、たまたま、お師匠様の、家の近くで、お師匠様は、晴れた日は、いつも、安いクラカデスを、作っていて、私はそれを、見学して、いたのです」
「ふむ。リルドランケン殿ほどのお人が安いクラカデス作りとはな……」
「それを、手伝っているうちに、私は、弟子にして、貰いまして、金属細工、木工、革細工、革は、特に、靴を、習いました」
「なるほど。なるほど。まあその辺の話は、今度聞かせて貰えるかな。私はこれからとある商会にいかねばならんのだ」
「はい。お会いいただきまして、ありがとうございました。また、お伺いに、きます」
「ああ。待っているよ。次は是非、作品を見せてくれ」
「承りまして御座います。それでは、ごきげんよう。アスデギル様」
「ああ。ごきげんよう。ヴィンセントお嬢さん」
私はそこで、階段を下りて工房を後にした。
取り合えず第一印象としては、悪くない。紳士然とした対応だったが、普段の彼がどのような態度なのかは判らないが、少なくとも態々、ここを指名したのだから酷い場所ではないだろう。
私は鍛冶の工房に走って戻る。独立細工職人の標章は、小さなポーチに仕舞った。
「ただいま戻りました」
「ああ。ルデスタはいたかね」
「アスデギル工房の親方様に会いまして、鍛冶の独立をした後、あちらに行く話をしました」
「そうか。まあ、貴女なら、そんなに時間はかからないだろう。なにしろ武器は叩けているのだからな。さあ。続きをやってくれ」
「はい」
昨日の場所に行くと、ゼワンが私の叩くべき鉄片を渡して寄越した。
試し打ちの包丁を加熱して叩いていく。
他の人々も、ハンマーで鉄を叩く音で、この空間は満たされていた。なにしろ、たぶんだが一番西の方の反射炉からかなり東の方の炉まで、途中に壁がない。柱しかない。それでここの騒音は、全て横か上に抜けるようになっていた。
たぶん、上の部分も王国ならではの対策がしてあって、あまり大きな音にならないよう、かなり消音されているのだろう。
熱しては叩く。
そうこうしていると、鐘が鳴らされ、みんなが作業を止めた。
全員ぞろぞろと、昨日お昼を食べていた部屋に移動する。
今日は私の分もここで出されると聞いている。
見ていると、少し小さい葉っぱの包みが私の前に出された。
ま、まあ。そうだよな。こんな小さい姿の少女が、二メートル越えの大男たちと同じだけ食べるとは思わないだろう。
手を合わせる。
「いただきます」
葉っぱの中にあったのは分厚い燻製肉が真ん中が刳り貫いたかのように凹んだ状態になっており、スープか何かで濡らしたパンがその部分にぎっちり詰められていた。
……。これは初めて見る。
どうやって食べるのやら。手掴みで食べるのは、みんなやっていない。
どうやら包んでいた葉っぱの中に一枚、分離した葉っぱがあった。これで端を掴んで食べるらしい。
私もそれを真似してやって見る。かなり味の濃い燻製肉と、味の沁みたパンだった。
これは、水が欲しい所。すると陶器の器に水を汲んだものが置かれた。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、見たことのない顔だ。
「ケネットです。昨日はお休みしていました。ヴィンセント様。よろしくお願いします」
昨日いなかった、青年らしい。
私は笑顔で、軽く会釈。
食べ終えるとみんな雑談しているが、例によって共通民衆語ではないので、私には判らないのだった。
この辺、トドマの山で警護した時もそうだったな。
私も彼らの言葉を覚える必要があるのだろうか。
小さく鐘が鳴らされた。昼は終わりらしい。
小さい炉の方に行く。
私の位置はゼワンの横だ。また、タオルで顔を覆って、鼻と口から喉も覆う。
火は消えてはいなかったが、これから鞴で温度を上げていくようだ。
温度が七〇〇度C超えるまでは、炎を見つめて待つ。
よし、温度は七五〇度Cを超えた。『やっとこ』で、やや分厚い鉄片をつかんで、熱し始める。
鉄片が赤熱するまで、十分熱する。
そこで取り出して鉄砧の上で叩き始める。
他の人も、素材がだいたい赤熱したらしく、叩き始めた。
見極めの目で、密度がおかしい場所を集中的に叩いて修正していく。
元の状態が芳しくなかったのだが、何とかまとまったようだ。
さらに全体を叩いていく。
……
よし。これでいい。内なる声はこれで十分だといっている。
私は一度水の中にその鉄片をいれた。
猛烈に蒸気が上がる。
水から取り出して、その横にあった雑巾で拭いてみる。
焼き入れすべきだろう。そう考えてこの鉄片を『やっとこ』で掴んだまま、あの金属を溶かす作業場の方の横にあったオーブンのような炉の方に持っていく。
叩く時より高い温度が必要だ。焼き入れは凡そで、九〇〇度Cくらいが必要なのだ。
そこに突っ込んで、私は鉄片の温度をずっと見ていく。
見極める。
八七〇度Cを僅かに超えた。左右ともに同じ温度だ。
この温度を維持させつつ、暫くやらないといけない。
位置を動かしたり、ちょっと外に出したりで、だいたい温度を九〇〇度C以下で、焼き入れを続ける。
焼き入れる時間が、酷く長く感じられる。
……
見極めの目。もういいだろう。
取り出して水の中に一気に突っ込んだ。
猛烈な音と蒸気が上がるが、音は周りがうるさいので、背後の音に溶け込んで、目立つような音にはならない。
その鉄片を取り出し、またさっきの場所に戻る。
さらに、焼き戻しが必要になる。
鉄片をつかんで、片側ずつ五〇〇度Cになるのを見極める。
そして、左右に熱が当たるように、炉の熱に当てて六〇〇度Cになるまで待つ。暫くこの温度が必要になる。
これがまた、本当なら一時間ほど必要なのだ。
暫くこの温度を維持しつつ、焼き直しを続ける。
地味に温度に対する耐久度が問われる作業だ。鉄片をじっと見つめる。汗が止めどもなく流れていく。
……
よし。素早く外にだして風に当てる。『やっとこ』で掴んだまま、移動して風車のだす風に当てた。
よしよし。これでいいはず……。
元の場所に戻る。
と、その時に全員がこっちを見ているのに気が付いた。全員が私の焼き入れを見つめていたのだ。
「ヴィンセント殿。なぜ、一度向こうに行って焼いたのだ」
ゼワンが訊いてきた。
「え?」
まさか、焼き入れの事を聞かれるとは思わなかった。
「ここで、皆さんが、叩いている、時に、私だけの、ために、鞴で、温度を、上げる訳には、参りませんので」
「そうか……」
山の村で作った剣は、今回と同じ、最後の焼き戻しが一回しかやっていない。
本当は温度を変えつつ、三回必要なのだが、一回でもすぐ割れるわけではない。まったくやらないよりは、全然いい。
二回目のは焼なまし、三回目は焼きならしという。これによって素材の組成が変化するのである。
取り合えず、今回はここまで。
つづく
鉄片を順調に叩き終えて、焼き入れ。見極めの目は、正確にそのタイミングを教えてくれる。
焼き入れた後は焼き戻しもやって、終了。
鍛冶仕事は順調である。
次回 第三王都での鍛冶見習い3
仕上げた包丁には、オーケーが出て、いよいよ本番。
客に納める、やや大ぶりな包丁を作ることになったマリーネこと大谷である。