107 第15章 トドマの港町 15ー14 山での警邏任務8
午後の警邏はスラン隊の隊員と向かう事になった。
動物達は再び、山の森林に戻って来てはいたものの、マリーネの魔石で一目散に逃げだしていく。
そして山林の奥に魔獣がいる気配を感じ取ったのである。
107話 第15章 トドマの港町
15ー14 山での警邏任務8
少し霧に烟る森の中を慎重に歩く。案の定、小さい動物たちが慌てて逃げていく。
本当は他の隊員には見られたくない光景だ。
こういう小動物を狙って、大型の肉食獣や魔獣も出て来ている可能性がある。
エルトンは、小動物が逃げていくのは不思議にも思ってない様だった。
まあ、人が踏み込んできたので、逃げ出したと思っていてくれるなら、それでいい。
しかし、まったく魔物なし、という訳にも行かないだろうな。
そう思っていると背中が疼いた。
「エルトンさん、止まって!」
私は鋭く言った。
彼を見上げると慌てたような顔だった。
「どうなされましたか、ヴィンセント様」
うわ、様呼びか。まあしょうがない。
私は左膝をついて、左手掌を地面につける。
「静かに、止まっていて」
気配を探る。
……
何かいる。気配は大きくはない。相手が少しうろうろしてくれたお陰で、方向が分かった。左の奥だ。
「エルトンさん、しゃがんで。左の、奥、何か、います」
彼にはさっぱり分からないようだ。顔に疑問符が浮かんでいた。
「たぶん、四つ足の、魔獣。二頭以上」
私はそう呟いた。
「判るんですか?」
「少し、うろうろ、しながら、こっちを、伺って、います」
「相手が、来るようなら、斬らなければ、なりません」
エルトンの顔に不安が浮かんでいた。
無理もないな。いきなり四つ足、二頭以上いるとか言われて、ハイそうですか。と言えるのは、相当慣れている者だけだ。彼も銀の階級なら、無印とは言え、それなりに経験はあるはずだが。
睨み合いが続く。
霧が薄くなってきた。左奥の薄暗い森の中、赤く光る目だった。
三頭いる。うろうろしていたが、やがて引き上げるかのようにして、森の奥に消えた。
……
「エルトンさん。魔獣は、去りました。戻りましょう」
そう言って私は立ち上がった。
エルトンも頷いて立ち上がり、二人とも、森の奥から伐採場に戻った。
スラン隊長は最後の一本の伐採作業を見守っていた。
「スラン隊長。報告、します」
「ヴィンセント殿。どうしたのだ」
「奥に、魔獣が、いました。距離が、離れて、いて、姿は、はっきりは、しません、が、気配で、三頭、いたのが、分かりました」
「その魔獣はそのまま去ったという事か」
スラン隊長の目が細くなった。
「はい。こちらを、暫く、伺って、いて、それから、森の、奥に、消えました。たぶん、また、出る、筈です」
「判った。明日から、ここで伐根作業がある。厳重な警戒が必要だな」
「赤い、目、でしたよ」
私は付け加える。
「そうか、あまり嬉しくない魔獣の予感がするな」
スラン隊長は薄く笑った。
「よし、撤収する」
隊長の号令で、全員が集まった。
樵ギルドのメンバーを囲むようにして、三列縦隊。
真ん中の人たちは、最後の丸太を担いだままだ。
私は殿に回った。
全員がゆっくりと山を下りていく。
二つの太陽が傾いて西の森を赤く染めている。
異世界でも、こういうのは変わらないな。
日がどんどん傾いて、沈みかけていた。
宿営地の門に着くと、護衛の隊はそのまま樵ギルドの人たちと作業場に向かって行った。
今日もお仕事は終わった。
部屋に戻って荷物を置き、何時もの様に、共同食堂で夕食を食べてから、娯楽棟に集合。簡単な報告を聞く。
スラン隊長は私が報告した赤い目の魔獣が伐採場の森の奥に居た事を皆に告げつつ、各地の警戒を促した。
魔獣が移動して南の方に向かえば魚醤工場の警邏隊と遭遇するだろうし、北西に移動していれば粘土採集場に出るかも知れない。
こういった情報の共有は必須だ。毎日ここで報告会が行われているのは、そういう事なんだろう。
全員、明日の警護は特に慎重にやるようにズルシン隊長が訓示を述べて終わった。
……
さて、他の人がいないのを見計らってお風呂だ。
誰も来ないのを確認して、共同浴場の戸を開ける。
この共同浴場に入るのは、初めてだった。
誰もいない、その中の部屋には松明が灯してある。
連日、湿気ている森の中を警邏して、大分汗も出ているし、体を洗っておこう。
中はかなり広い。服を脱ぐ為の部屋の先にはドアが二つ。
一つは看板が下げてある。
これが残念な事に読めない。たぶん、これが王国のあの女性たちの文字だ。
共通民衆語では書いていない。
まあ、そうだよな。この女性風呂は、アグ・シメノス人の彼女たち専用なのだ。私のような部外者が入る事は想定していない。
あの医療班の女性たちもここを使うかもしれないが、彼女たちは読めるのだろう。
さて、私の元の世界の常識で考えれば、札がある方は掃除中とか使用不可とか、そういう事が書いてあるに違いない。
そう思って、札の下がっていない方のドアを開ける。
何本かの松明で照らされて、大きな風呂桶があった。
風呂桶には溝状の樋が付いていて、別の場所からお湯が流れ込んでいる。
そして、風呂桶の一部に穴が開けてあり、そこにも大きめの樋が付いていて、溢れる前にそこからお湯が別の場所に流れていっていた。
お湯からは湯気が上がっていた。
お湯の温度を見極める。四二度C。
熱くはないので、これくらいがいいのだろう。
どうやってこの温度にしているのか興味はあったが、樋は壁の穴に接続されていて、その穴から流れ込んできているし、流れ出す方も同様である。
炭で釜にお湯を沸かして、どうにかして流しているのだろうか。
……
まずは軽く体を洗う。
お湯を掬って、二杯ほど頭からお湯を被って、体を擦る。
椅子の脇に置かれた木の箱の中には、白い石。乳石だな。
これを泡立てて、しっかり洗う。特に腕と脚だな。
垢を落とし、それから頭も洗う。泡立てて髪の毛につける。
櫛が無いので、手櫛である。髪の毛は適当に洗った。
あのオセダールの宿では、背の高いメイドの人が、かなり丁寧に泡立てて、髪の毛泡だらけにして洗ってくれたが、あそこまで丁寧でなくてもいいだろう。
おっさんな自分は、こういう時に昔の自分を思い出して、そんなに丁寧に、それこそ必死になって髪の毛洗う方じゃなかったなと、思い出す。
適当に頭皮が綺麗になっていればいいのだ。あとは余り頭髪から油分が失われると、髪の毛は傷む。この異世界で髪の毛に付ける油など無かろう。
一応、体は洗い終えた。
さて、私はこの深さを確かめないといけない。彼女たちの身長に合わせてあるのなら、私だと溺れるレベルかも。
洗い場で座る椅子を踏み台にして、そっと足を入れてみる。
案の定、深い。
足がつかない程深いのか、試してみる
脚はついたが、立っていないといけない。
あの体の大きなアグ・シメノス人の彼女らの座高に合わせたお湯の量なら、こうなるのは当たり前だが。
お湯の深さは七〇センチ強、八〇センチ近いな。私の首までお湯が届いている。
となると、オセダールの宿の岩風呂はすごく浅い場所と深い場所があったのだ。私は偶々、浅い場所に入ったから、しゃがめただけなのだな。
となれば、あれは中が緩やかな傾斜がついていて、大人なら横になって入れる岩風呂だった可能性もある。
両手を風呂桶の縁に載せて、そこに顎を乗せながら、暫くお湯に浸かる。
身長が低いと色んな所で、思うに任せない。
早いところ、身長、伸びてくれないだろうか。
そんな事を想いながら、もう一度体を洗い頭も軽く洗い流して、洗い場の外に出る。
私が服を着て、共同浴場を出ようとした所で、女性が二人。
私は取り敢えず挨拶をしておく。
「こんばんは」
軽く会釈してそういうと、彼女たちも挨拶したが、私のほうに寄って来た。
一人がくすくす笑いながらやって来た。
「珍しい香りが聞こえる」
もう一人は妖艶な顔をしながら、近づいてきた。
「面白い子」
彼女たちはそう言いながら脱衣所に消えて行った。
たぶん、私の血の匂いらしきものが、はっきり判るほど外に出ているのだろう。
スッファ街のあの遊び人風の二人がそれを教えてくれたのだ。
最初に下りて来た時は、大分汚れていた筈だが、それでも彼女たちはその匂いが判ったのだ。
ぞくぞくする様な香りだったと、二人は言っていた。
多少の個人差はあるのだろうか。まあ香合わせをやっているくらいだから、個人によって多少違うんだろうな。そうじゃないと、あれが競技性の有る遊戯にはならない。
廊下から、夜空を眺めたが今日も曇り空で月も星も見えなかった。
なんだか残念な気がする。
あの山の上の方から眺めた星空は絶景だった。
馴染みの全くない星空だったが、それでも息を飲むような美しさだったのだ。
また星空が見える時に眺めよう。
部屋に戻って、服をネグリジェに着替える。
ベッドに転がって、今日の出来事を反芻する。
白い魔獣。私を確かめに来た、大きな白い獣だ
銀の森の聖なる獣、か。
そして午後は、赤い目の魔獣が三頭。姿は分からなかった。
恐らくは明日、出るだろう。
こんな任務がいつまで続くんだろうか。
……
つづく
魔獣は結局、姿を現すことなく、山林に消えていった。
連日の汗と汚れを落とすべく、マリーネこと大谷は共同浴場に入って体を洗ったのであった。
警邏の任務は続くが、これは大谷にとっては、少なくとも本意ではなかった。
次回 山での警邏任務9
隊長代理のエボデンと共に粘土採集場の警護に行くはずが、トドマ支部へ顔を出すように指示を受ける。
マリーネこと大谷が支部に顔を出すと、正規の階級にするための書類へのサインが求められていたのだった。