始まりの物語
暗闇から目覚めると、視界に広がるのは見慣れた白塗りの天井だった。
円形の照明は光っていないのに周囲が明るい。これは自然光だから、まだ日の当たる時間なのか。
上半身を起こして、辺りを確認する。
洋風の部屋に机と椅子。あとクローゼットに本棚。小物がほとんどない見慣れたようで少しだけ違う室内。
昔は机の上にパソコンなんてなかったなー。
なんてことを思いながら自分が寝ていたベッドから出る。
いつものように記憶は……ある。自分が何者かも思い出せた。
クローゼットを開けて扉の内側に設置されている鏡で姿を確認する。
決して不細工ではないがイケメンにはギリギリ届かない特徴の乏しい顔。中の上ぐらいで、嫌われにくい造形をしているといっていいだろう。
髪型は長くも短くもない平凡な感じ。
服装はジーパンにTシャツ。
ということはこの格好で寝ていたのか。せめてベルトぐらいは外した方が寝やすかったはずだ。
体つきは中肉中背と見せかけて筋肉はそれなりにある。細マッチョに近い体型。
「貧弱な体じゃなくてよかった……」
誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
現状は確認できたが、さてどうしよう。
取りあえずクローゼットをあさり、どんな服があるか調べてみるか。
中にあるのはロゴがほとんど入っていない、デザインもシンプルな無地の服ばかり。ここら辺も変わらないのか。
その中から学生服を見つけ出す。
昔ながらの学ランではなくブレザーの学生服。
胸ポケットを探ると学生証が出てきた。名前を確認すると《鬼龍院 爆》となっている。爆はそのままバクと読むのか。
きりゅういんばく、って……中々に痛々しい名前だ。この名からして嫌な予感がひしひしと……やめておこう。こういうのは考えるだけ無駄だ。
生年月日や他に重要そうな必要事項も暗記しておく。備えあれば憂いなし、の精神でいかないと後々苦労するハメになる。
それは既に何度も経験済みだから。
他に身元を確認できるような物がないか部屋の中で情報を集めてみる。
本棚にはラノベや漫画、更に格闘技系の本もある。勉強関連は一切ない。
「ここですべきことはもうないかな」
この部屋の探索する場所がなくなったので、今度は窓際に立ち外を眺める。
閑静な住宅地に建っている一軒家か。
隣や周囲の家、遠くに見える学校。すべてに見覚えがあった。少し違う点もあるが記憶にある景色と酷似している。
視界の高さから、自分がいるのは一軒家の二階ということが判明した。
となると一階に降りるべきなのだろうけど、その前に。
ズボンのポケットに何も入っていなかったので、スマホと鍵と財布を入れ……いや、ズボンを穿き替えよう。
ジーパンからポケットがいくつもあって生地が分厚いカーゴパンツに変更した。上も半袖の上に頑丈そうな長袖の服を羽織ろう。
脱ぐときにちょっと抵抗感があったが気にしない。そして、ポケットに必需品を入れるのだが、あることを思い出して押し入れの奥を調べる。
「あった、あった。前にハマっていたからな」
大量のアウトドア用品を発見した。
前回はキャンプをやっていたので、奥の方にまとめて片付けてあったようだ。
そこから頑丈で大容量のバックパックを取り出し、そこに本格的なアウトドア用品を詰め込む。
そして、室内だというのにそれを背負ってから部屋を出る。
廊下に出てまず他の部屋を確認する。扉が三つか。
一つはトイレ、もう二つは誰かの部屋。
正面の部屋の扉にはかわいらしいデザインのネームプレートが掛かっている。
《姫子の部屋》
と書かれている。察するに妹か姉の部屋だろう。
深呼吸をしてから扉を二回ノックする。
しばらく待つが返事はない。扉に耳を当てて音を探るが無音。中には誰もいないようだ。 念のために廊下に誰もいないかもう一度チェックしてからドアノブを掴む。
そしてそっとノブを回して扉を……開かない。鍵が掛かっているようだ。
直ぐさまあきらめて、今度はもう一つの扉の前に移動する。
同じようにノックをして返事がないのでドアノブを回す。
すると今度はあっさり開いた。
扉の向こうに広がるのは自分がいた部屋よりも大きな寝室。
ダブルのベッドに化粧台。壁際にはウォークインクローゼットがある。
中に入ってベッドの脇に置かれていた写真立てを手に取る。四人が写っていて一人は自分で間違いない。
自分よりも少し年上に見えて女優やモデルにも負けない美人の女は、さっきの部屋の居住者だろう。見た目の年齢からして、俺の姉か。
そして残りの二人なのだが男の方はそれなりの年齢に見える。外見だけで判断するなら三十代後半から四十前半ってところか。
問題はもう一人の女性だ。どう見ても二十代前半にしか見えない容姿をしている。
それも服装が大人びているからそう見えるだけで、姉らしき人物と同じく制服を着たら姉妹に間違えられそうだ。
となると、この男は十歳ぐらいの女性に手を出して子供を作ったということになる。……が、実は幼く見えるだけで、この女性も男性と同い年だ。あり得ない現象だが、そういうものだと受け止めるしかない。
写真の男性と女性は夫婦で俺と姉はその子供。つまり今回も家族という認識でいいのだろう。
一応、部屋中を調べてみたが特に怪しい物はなかった。出生の秘密や両親が実は謎の組織に狙われている、といった設定もないようだ。
まだ油断は禁物だが、取りあえず安堵の息を吐く。
部屋を出て一階に降りると、まず台所に向かう。
冷蔵庫の扉に紙が貼られてはいない。ここに家族の伝言を書いた紙が貼っている、というパターンが結構あるのだが違うようだ。
ふとあることを思いだし、ポケットを探りスマホを取り出す。
起動させると両親らしい人物からのメールが届いていた。
『爆よ、すまん。急な仕事が入って、母さんと一緒に海外に出張することになった。姫子と仲良く留守番していてくれ。詳しい話は落ち着いたらするので、あとはよろしく』
ご丁寧に、夫婦揃って肩を組んで微笑んでいる写真が同封されていた。
「また、ベタベタな」
思わず漏れた心の声に、慌てて手で口を塞ぐ。
俺はもう一度メールを確認するところからやり直し、読み終えたところで大きくため息を吐く。
「またかよ。相変わらず仲のいいことで」
とぼやいた。
この展開はあまり好きじゃない。この流れはよくない。
そう思いはするがどうにもならないので、とりあえず冷蔵庫や乾物入れから日持ちがしそうな乾物や缶詰。調味料とかも小袋に入れてからバックパックに放り込む。
あと水筒に水を入れるのも忘れない。
このまま家でのんびりしたいところだけど、俺は気がつけば靴を履いていた。
足下を見るとスニーカーだったので靴もアウトドア用の頑丈なブーツに履き替える。玄関に置いてあった雨具も入れておこう。
準備万端で外に出る。
日中の住宅街だけど誰も歩いていない。
右と左を確認してみたが左右反転しただけのような町並みに見える。
どっちに行ってもいいのだけど、なんとなく右に行こうと一歩踏み出すと背後から声がした。
「ばーくちゃん、今日は学校だったのにサボってどこ行く気なの。そんな大荷物背負って。ははーん、さては趣味のアウトドアにでも行こうって魂胆でしょ。ずばり、大当たりなのかな?」
小さなため息を吐いた後に振り返ると、道路を挟んだ向こう側の小道を駆けてくる女の姿が見えた。
黒髪ロングのストレート。黒縁の眼鏡。ブレザーの制服のスカートがやけに短く、胸部を押し上げる制服の膨らみから、かなりの巨乳であることが一目でわかる。
そんな女が走るから胸は過剰に揺れて、スカートもパンツが見えそうで見えないギリギリの動きをして目を楽しませてくれていた。
あの馴れ馴れしい態度に強めの個性と体型。
それにあの顔は間違いない。たぶん、幼馴染み……もしくはもっと親しい間柄か。
「おいおい、お前はドジなんだからそんなに走ると……っ!?」
その女は道路を横断してこっちに向かおうとしていたが、突如、何の前触れもエンジン音もなく道路からワゴン車が迫ってきていた。
大きく鳴り響くクラクション。
その音と迫り来る車に怯えて足が止まる女。
俺はためらいもなく道路に飛び出し、その女を弾き飛ばす。
トラックはクラクションを鳴らす時間はあったのにブレーキも踏まず、進路を変えようとする努力すら見せず俺に突進してくると――激突した。
全身を走る衝撃と大きく宙に浮く体。
周りの時間がスローモーションのようにゆっくりと流れていく。
涙目で名を叫ぶ女。
ようやくブレーキを踏んで急停止する車。
迫り来る地面。
その地面に叩きつけられる直前、俺の体は不思議な光に包まれると世界が暗転した。
辺りに光が戻った。
視界には大空が見える。
車にはねられたはずなのに痛みが一切ない体を確認すると、服が破れてもいなければ痛みもない。バックパックも背負ったままか。
俺は慌てることも取り乱すこともなく、上半身を起こして辺りを確認する。
風が吹き渡る草原に俺はいるようだ。
さっきまでいた町並みなんてものはどこにもない。
「このパターンはまさか……」
信じたくはなかったが状況確認するために立ち上がり、もう一度、注意深く周囲を見回す。
草原から少し離れた場所に道が見える。道といっても草が生えてないだけで舗装もなく地面がむき出し。
まだ見ていない背後に視線を向けると、そこには鬱蒼と草木が茂る森があった。
条件は揃っている。ここでもう一つ決め手があれば確信が持てるのだけど。
そんな心の呟きに応えるように、森から何者かが現れた。
髪が一本も生えていない頭に大きな目と耳。かみ合わせが悪そうな歯が並んでいる口はなぜか半開きだ。
皮膚は緑で服は腰に獣の皮を巻いているだけ。二足歩行はしているが、どっからどう見ても人間には見えない。
じゃあ、それは何に見えるか? と訊ねられたらファンタジーをある程度理解している人ならこう言うだろう。「ゴブリン」と。
これで状況証拠は揃った。
普通なら驚く場面なので、一応俺もリアクションを取っておく。
「な、なんだ、あの化け物は!」
と言ってみたものの心は驚くほど冷静で別のことを考えていた。
今の叫びは本心じゃない。口に出したかった言葉はそれじゃないんだ。
本当は――
「先生、今度は異世界ですか?」
と問い掛けたかった。