其の玖:疑念
一歩踏み出す度にブーツの靴底が石畳の地面とぶつかり合い、コツコツと音を立てる。
左右の壁には一定の間隔で燭台が設置され、灯された蝋燭がぼんやりと周囲を照らしながら歩く男の影を色濃く映し出している。天井にも壁にも、床と同じ強固な舗装材が施されているのだが、傷が付き難い材質にも係わらず、引っ掻いたものから抉ったようなものまで、様々な醜い傷跡が迸っていた。
漂う空気は鼻白みたくなるほどの血生臭さを孕んでおり、冷ややかで陰湿。
黴や埃の臭いに紛れていた腐った肉の臭気を嗅ぎ取り、堪らず息を吐き出す。
(唯一の救いは、静謐である点のみだな)
真っすぐに前を見つめ、ピンと背筋を伸ばしながらリオンは前進する。
燭台と燭台の間、鉄格子が設置された檻の中から微かな息遣いと射殺さんばかりの殺気を感じるものの、咬ました猿轡を食い破り、頑強な拘束具を引き千切って牢を抜け出せる者などいるはずがないと確信していた。
何故なら現に、冥界最強と謳われた実弟でさえ抵抗を断念し、大人しく牢の中で屈しているのだから。
目的地の前に辿り着き、二人の門番の敬礼を掌で制す。
「開けてくれ」
重く鈍い音を立てながら漆黒の門が口を開いた。
一般の囚人が収容されるものとは違い、常時換気がされている為、黴臭さはない。くわえて面積も広い。
だが今歩いてきた通路など比ではないほどに、壁、床、天井の四面には隙間なく抵抗の後が見受けられ、血飛沫の舞った痕跡も強烈に残っていた。
「……久しぶりだな」
錆色に変色した、古い血痕の残るベッドに腰掛けた男がのろのろと顔を上げる。
拘束衣を纏い、腕には手錠、足首に鉄の重しを科せられた、年若い囚人。その瞳には自分にも、ましてや一欠けらの野心さえ生涯持ち合わせなさそうな兄にも無縁な、獰猛で歪な煌めきが宿っている。脆さを感じさせず、虚弱を剥ぎ、抵抗するものを削ぎ落とし餌として食らいつく、まさしく肉食獣の如き双眸がリオンのそれを射抜かんとばかりに睨みつける。
この男と対峙するとき、稀ではあるが、心臓を冷たい手で鷲掴みされているような錯覚に陥る。
「調子はどうだ?」
その問いに、男は鼻で嘲笑った。
「見てのとおりだよ。退屈で仕方ない。あと何年こんな所に閉じ込めとく気だ?いい加減、干乾びちまう」
頑丈な拘束衣に固定されながらも器用に肩を竦める仕種をする男は、おどけた口調のわりに目を笑わせない。虎視眈々と獲物の隙を窺う目つきそのままだ。
「お前が自分の犯した過ちを悔い、殊勝な態度をとるようになれば考えてもみるが」
「でもそんな悠長なこと言ってられないから俺のところに来たんだろ?」
両眼を細めて沈黙するリオンに、囚人はチェシャ猫のような含み笑いを表情に宿す。
「たまにここまで聞こえてくるぜ、上の暴動。佐保姫はまだかよ?」
「その大願の存在を穢したのは誰だと思っている!」
腹の底から声を張り上げて激昂する冥界の宰相を愉快そうに見上げながら、男はくつくつと喉を鳴らす。
「佐保姫候補はまだ他にもいるだろ。確か兄貴が新たに見つけたとか聞いたけど?」
情報源はどこの口の軽い門番かと舌打ちしつつ、答える。
「兄上は彼女にやらせたくないと言っている」
「惚れたか?ハハハッ!やっぱ俺達は兄弟だな!」
「黙れ。兄上はお前と違って下衆ではないぞ」
凍てつくような冷ややかな声音でリオンは断言する。見下した眼差しを正面から受け止める男は滑稽だと言わんばかりに、形の良い薄い唇に弧を描く。
「んで?他に候補は見つかったのか?」
「今様子見をしているが……仮に奴が佐保姫になったところで気休めにしかならないだろう」
「て、ことはだ。今にも秩序が崩れそうなこの冥界、お前が有力と見做してる救済者は、兄貴が見初めた女なわけだ」
リオンは忌ま忌ましいと言わんばかりに犬歯を覗かせ歯軋りする。
「……貴様が“彼女”にあのような真似をしなければ、ここまで時間をかけることはなかったんだ」
緩やかに波を打つブロンドの長い髪。猫のように大きく眦の吊り上がった金茶の双眸。高い鼻梁。細い顎をした輪郭。
体格こそ異なれど、自分とほぼ瓜二つの顔をした双子の弟を、リオンは薄い唇を噛み締めながら卑睨した。
「どしたの?その絆創膏」
込み上げてくる眠気を押し殺しながら教室に入り、前席に座る親友に挨拶しながら相手を見遣れば、明らかに肌の色と異なる見慣れないものが飛び込んできた。
小さな怪我に使用する横に長いものではなく、正方形の広い患部に貼り付けるタイプの絆創膏が、顎先から首元にかけて被さっている。小柄な体型そのままに首も細いので、そんなオプションが加わるだけで痛ましさが胸を打ち、庇護欲が芽を出してしまう。
「昨日転んだ拍子に顎からスライディングしてしまって、おまけに小石が首に食い込んじゃったみたいです」
苦笑する親友に「何やってんの」と呆れながらも、ホッと息を吐く。
「そうそう、ちょっと聞いてよ。昨日家族で外食したのはいいんだけどさぁ~……」
何気ない言葉の応酬。数時間後には飽和してしまう薄っぺらな内容。
笑声、絶叫、叱咤、傍観、化粧、読書、惰眠、メール……様々な方法で時間を潰すクラスメイト達。
淡々と、充足感や刺激もなく、惰性のままに去り行く時間。
物足りなさを感じるときも多々あった。ありふれた平穏が不満で、誰かこんな日常壊してくれたらいいのに、などと他人任せに身勝手な考えを巡らすときもあった。
けれども今は熟知している。このままの、変則なき日々がどれほど素晴らしく、安らかなるものであるのかを。
「今日は二限、三限と体力テストでしたよね?」
「マジで?うっわ、だる~」
愚痴を零す茉穂を伶子が宥めていたときにチャイムが鳴った。程なくして副担任の宇佐美が現れ、着席しない生徒に注意を呼びかけながら教壇に立つ。
その際、宇佐美の視線が茉穂の方へ投げ掛けられるも……視線の先が自分に対してでないのを察する。
前に座る伶子が顎に貼った絆創膏に軽く手を当てながら微かに首を横に振った。それを確認した宇佐美は注視しなければ分からない程度に一つ頷き返し、何事もなかったように広げた出席簿に目を配りながら連絡事項を読み上げ始めた。
ほんの僅かなアイコンタクト。
(ウサちゃんは伶子の怪我を知ってる……?)
胸の内に沸き起こった微弱な疑念に首を傾げるものの、登校時にでも見咎められたのだろうと自分の内に結論付け、そのまま忘却の海に沈めた。
違和感があるのか、しきりに怪我した箇所に触れる伶子。退屈そうに頬杖を付いて宇佐美の話に耳を傾ける茉穂。
そんな二人を横目に、長身の転校生は静かに瞼を伏せた。
紙コップになみなみと注がれたスポーツドリンクは、あっという間に胃袋へと放り込まれてしまった。けれども渇いた喉は未だに潤いを求め、もっと水分をと渇望している。体を左右によろめかせれば、ちゃぷちゃぷと波打つ感覚。腹の中でどろどろに消化された昼食の残滓を揺らしているのだろう。
あともう少しだけと、二リットルサイズのペットボトル容器に手を伸ばせば、寸でのところで取り上げられてしまった。
「だ~め。残りは部活終わってからね」
「部長、あとほんの一口だけ」
項を曝け出して紙コップを掲げるも、部長を務める三年生は首を横に振って拒否を示し、クーラーボックスの中にしまい込んだ。
落ち込む伶子に「まぁまぁ」と数人が集まってくるものの、手に持つコップの中身を恵もうというボランティア精神者は皆無。
「そういや二年は体力テストだったんでしょ?出来はどうよ?」
「膝伸ばしたまま立位体前屈できなくて、あたし結局測定不可ですよ」
「あんた体硬いからね~」
「先輩、お酢は体軟らかくするって聞きましたよ」
「え~、あれって嘘じゃないの~?」
先輩後輩関係なく、チアガール達は盛り上がる。
「そういや伶子って意外に運動神経良かったんだね」
「え?」
同じクラスの少女達が揃って首肯する。
「陸上部の子と引けをとらないくらい足速かったしさ」
「反復横跳びなんて学年一らしいよ。どんだけすばしっこいんだって話」
「そんな……長距離走は平均でしたし、握力なんか二十キロちょっとしかなかったですよ」
恐縮だと照れてみたものの、すぐさま精神的ダメージを負わされる。
「でも砲丸投げは酷かったよね~」
「……あれは忘れてください」
頭を抱えて小さくなる伶子に失笑して、部員達の表情は談笑の名残で穏やかなものになった。
「んじゃ、休憩終わり!持ち場ついて」
「はい!」
立ち上がり、駆け足で散り散りに離れていくチアリーダー達。その中で一際小さな背中。ウエーブをかけた黒髪を靡かせて、鼻梁からズレたらしい眼鏡の蝶番を指で押し上げている。
先程の体力テストの話題を傍聴していた顧問代理は、双眸を眇めながら自分の協力者である女子生徒の背中を怪訝な面持ちで注視していた。
吹き出した紫煙を目の端に映しながら、宇佐美は短くなった煙草を灰の溜まった皿に押し付けた。
窓際の壁に背を預けた彼が見つめる先には、助力者である教え子が鏡と向き合いながら絆創膏を貼った顎をしきりに気にしている。
百五十センチほどの背丈にほっそりとした体躯。たまに薄いメイクを施しているときもあるが、元の顔立ちが幼い為、中学生……下手をすれば小学生と言っても通用するだろう。
けれどもいくら外見が幼くても、中身は列記ととした高校生。それも頭に“優秀”の形容詞を加えていいような。
以前どの教師だか、模範にしたい高校生と豪語して周りも同意していたのを思い出す。
不本意ながらも、宇佐美もそんな教師達に賛同した。……もちろん胸の中だけで。
気に食わないとはいえ、授業態度や成績など、それなりに評価しているつもりなのだ。……表には決して出さないだけで。
しかし、こうして一緒に戦うことになってから猜疑心が生まれ始めた。
例えば昨日の戦闘。刀を武器とした災禍によって、彼女は顎に傷を負わされた。
近距離から、顔を串刺しにするかの如く刃を突き上げられたのだが、完全には避け切れなかったようで、皮膚を裂き、肉を通じて骨を食んだ傷跡からは大量の血液が噴出した。さすがの宇佐美もあのときは全身の毛穴から汗を噴き出し、肝を冷やした。
『まさかとは思いますが、顎が二つに割れたりしてませんよね?』
戦いの後、そんな軽口を言ってのけた伶子に思わず耳を疑った。危うく顔を串刺しにされそうになった人間が言うべき台詞ではないと。
肝の据わった度胸に軽い身のこなし……本当に、勉強のできるただの女子高生なのかと勘繰りたくもなる。
桜原伶子は不鮮明だ。皹割れた表面を元とは違った色や製法でコーティングしたような、きな臭さ。宇佐美に睥睨される度にビクついて見せるが、腹の中では余裕綽々とある気がしてならない。二重人格、八方美人とでもいうべきか。
「あの、先生。そろそろ行きませんか?」
不審な協力者に肯定して廊下に出た。
消化栓の赤ランプと非常口の緑ランプだけを頼りに、校舎の中を練り歩く。最初こそ昼間と印象の異なる職場に違和感を拭えず、不気味に感じることも多々あったが、今ではこれが学校の本当の素顔ではないのかと半分思っていたりする。
(まぁあながち間違いじゃねぇよな)
一階から二階へと場所を移し、渡り廊下から東校舎へ向かおうとしたときだった。
――――ブォン……!
毎夜のことながら、この戦闘の開始と終了を告げる合図は気に入らない。
耳元で虫が羽ばたいているような錯覚を起こす不快音。実際耳の周辺に虫がいるのも不愉快だが、脳に直接響く仕組みをしている辺りが悪趣味だ。
(てめぇは経験したことあるのか?)
自分に災禍を倒すことを強要させた男を脳裏に思い浮かべ、胸中で悪態吐いた。
早速、冥玉によって創り出した得物を召喚し、すぐにでも攻撃できるよう周囲に視線を巡らせて緊張感を保つ。戦闘開始と共に攻撃を仕掛けてくる災禍に対応する為だ。
天井の照明が一斉に瞬くと同時に背後から襲われた経験があった。おかげでそこそこ気に入っていたTシャツを駄目にしてしまい、地団駄を踏んだのは早々忘れられない。
あれ以来、夜は安物の軽装で過ごすようにしている。
「先生、上から何か……音がしませんか?」
伶子の指摘に、宇佐美は耳を澄ませる。
カサカサカサカサ……
「どう考えても人型の足音じゃないな」
「……まさかとは思いますが、ゴキブリみたいな外見してませんよね?」
仮に忌み嫌われるあの虫の形状だとして、下の階にまで届く音の具合から、通常サイズはありえない。地響きを起こすほどではないにしろ、かなりの体積だろうことが推測できる。
「お前、虫は平気か?」
「ゴキブリ以外ならとりあえずは。……ちなみに先生は大丈夫なんですか?」
「当たり前だろ」
冷静さを装い平気な顔をしてそう断言してみたものの(近付きさえしなければ)と内心で冷や汗を流す。実際は蝶と蛾を区別する為に凝視することさえ胸糞悪い。
引き返したくなる気持ちを押し止め、階段を上がり、踊り場からそっと廊下を覗き見る。宇佐美も伶子も、思わず顔を顰めた。
黄と黒という踏み切りデザインの腹。胴から左右に四本ずつ伸びた細い足。頭の先には短い二本の触覚が生え、胡麻粒ほどしかない小さな目が、まるで草食動物のようにこめかみの位置に付いている。
簡潔に言ってしまえば、巨大蜘蛛だった。
(うへぇ……近付きたくねぇ)
ちらりと横目で少女を見遣れば、レンズの奥で双眸を歪ませている。自分も似たような表情を浮かべているのだろうと思ったら、眉間に皺を寄せて舌打ちしてしまった。
その微かな音を聞き入れたらしく、蜘蛛に相似した怪物が素早く二人のいる方角を振り返る。
(やべっ!)
慌てて身を引いたものの刹那の差で間に合わなかった。
災禍の顎下から放たれた白い糸。それが宇佐美の右手首に絡み付く。しゅるしゅると瞬く間に幾重にも巻き付き、引き剥がそうと躍起になるが、さらには逆の手まで絡まってしまうという悪循環を起こしてしまう。
「動かないでください!」
伶子が鉤爪で引き裂こうとしたが、一足遅かった。
ぐん、と糸を伝って引っ張られ、体が宙に浮く。勢い余るほどの強力さに、宇佐美の絶叫が轟いた。
「宇佐美先生!」
壁に激突しそうになり、次に襲ってくるだろう痛みに歯を食いしばったが、奇妙な弾力が背中越しに伝わり恐る恐る状況を確認する。
「まだ怪我はさせぬよ。美味そうだし、一滴の血さえ惜しいわ」
古風な口調で喋る女声は、意外にも透き通っていた。
あまり見ていて気分良いものではなかったが、災禍の顔を注視してみれば、糸を放っていた顎下から白い牙が見え隠れしている。どうやらあれが口らしい。
体を捻ろうにも糸は強度の粘着力を保っており、自力で抜け出せそうもない。
「離しやがれ、雌蜘蛛!」
「安心せい。わらわの腹の中に入るときには離してやる」
恍惚した様子で小さな両眼をいっそう細めながら、災禍は伶子へを向き直る。
「メインディッシュは最後に獲っておくタイプでの。じゃから先に前菜を頂くことにしようかのぅ」
巨大な女郎蜘蛛と視線を交わす少女もまた、両の目を眇めていたが、こちらは反対にかなり不快そうだ。
「食べられることによる消化が死因だなんて、冗談じゃないです」
(確かに)
蜘蛛の糸に抵抗しながら同意する。その拍子に髪の一部が巣に引っ付いてしまい、首を捻るものの頭皮が悲鳴を上げたので足掻くのは断念した。この年で禿げを作るのはさすがに遠慮したい。
「来るがよい、小娘」
小気味よく笑声を立てる蜘蛛へ、伶子が正面から飛び込む。
薙ぎ、振り下ろす鉤爪を、敵は大きな体をものともせずに細い足を器用に動かして、軽やかにかわしていく。
「桜原伶子、先にこの糸を切れ!」
矢の先端である鏃で糸を切るのはさすがに困難ではあるが、本体である災禍は大きすぎる的だ。伶子の武器は、今回フォローに徹する方が無難だろう。
宇佐美の意図に気付いた様子の伶子は一度敵と距離を置こうと後ろに跳ぶが、足首を掴まれてしまう。
「あっ!」
災禍が首を振る動きに合わせて伶子の体は宙を舞い、右肩から窓ガラスに勢いよくぶつかった。
「桜原っ!」
巧みに己の武器を扱い、足首の糸を切ってすぐさま立ち上がる。
目立った怪我は見当たらないが、かなり痛みだったらしい。眼光鋭く女郎蜘蛛を睨み付けながら唾を吐いた。口の中を切ったようで、リノリウムに付着した唾液の中には赤いものが混じっていた。
「ホホ……大人しそうな顔をして、随分と気性が激しそうな」
「さすがに痛かったんですよ」
痛みに顔を顰めつつも、少女は冷たく言葉を吐き捨てて地面を蹴った。