其の漆:確認
昨晩の就寝が遅かった所為か、今朝は頻繁に欠伸が出てしまう。
頬杖を付きながら逆の手を広げて口を覆うものの、上下に割かれた唇は掌の面積だけでは収まりきれない。こんな大きな欠伸をしょっちゅう繰り返していたらいずれ口角が裂けてしまうやもしれないと、心の中で自嘲する。
最悪の場合、顎が外れる恐れもあるが……さすがにそれは回避したかった。
眠気を払うためにも、手っ取り早くうつ伏せになって夢の中へ旅立ちたいところだが、既に朝のSHRは始まっている。担任代行で教壇に立つ宇佐美が億劫そうに連絡事項を述べているが、霞がかった思考に身を委ねている茉穂の耳には届かない。
再び沸き起こる欠伸と共に条件反射で眦に湧いた生理的な涙を拭いながら、ふと思う。
(あ~……今日のマスカラ、ウォータープルーフ使ってたっけ?)
クラウンの紋章をしたエンブレムが縫い付けてある胸ポケットから折りたたみ式ミラーを取り出して、素早く確認する。
マスカラは幸いにも落ちていなかったが、目尻に入れたパール入りのアイシャドウが滲んでいる。この程度と放っておくべきか、副担任が教室を去り次第トイレに駆け込んでお色直しすべきか。
そんな小さな葛藤の間にも、もう幾度めか計り知れない眠気を孕んだ呼気が漏れた。
とにかく眠くて仕方がない。
「近江、不細工な顔で欠伸すんのやめろ。眠いのはお前だけじゃねぇぞ」
指先でコツコツと、神経質そうに教卓を叩きながら宇佐美が忠告すると、そこかしこから失笑が沸き起こる。わざわざ振り返って表情を窺う者には睥睨の一瞥をくれてやった。眠気がピークに達しているので、さぞかし不機嫌な顔付きになっているに違いない。
目頭を軽く押さえ揉む。
(……気休めにもならない)
腹の底から息を吐き出して、観察がてら目の前にあるパーマのかかった黒い頭を見つめた。
ブラウスの襟から首筋を覗かせ、やや俯き加減にある。しかし顔を上げたかと思えば、再び頭を下げて……その繰り返し。時折物憂いな溜息も聞こえてくる。
(何やってんだろ?)
親友の行動を怪訝に思いながらも、振り子のような動きに眠気が促されてしまう。
これはヤバイと他に視線を巡らして……一人の男子生徒に視点を止めた。
不死原紫苑という偽名を名乗っている男。自分が暮らす世界の秩序を守る為、他界の住人を巻き込むという運命を背負わざるを得なくなった皇太子。
(悪役らしく非情な性格ならよかったのに)
ならば、良心の呵責なく敵対心が持てたものを。
胸倉を掴んで揺さぶりたい気持ちを堪え、代わりに険を含んだ眼差しで睨みつけていたのだが、前方に座る伶子同様、どこか様子がおかしかった。挙動不審とまではいかないが、宇佐美の話に集中していないのは明らか。
茉穂の座る位置から一つ挟んだ縦列の、後方二番目の席。どこかそわそわしながら時折ある一点に視点を向けている。
猫に似た大きな黒目が映しているのは、隣席に座る男子の更に奥に座る――――茉穂の前席。
(……うん?)
自分の親友と彼との接点が思い当たらない。
「じゃ、お前ら真面目に授業受けろよ」
投げやりにそう言いくるめて宇佐美は億劫そうに教室を後にした。
ただ、スライド式の扉を潜り抜ける際、彼が自分のいる辺りを一瞥していたのに気付く。
「さっきウサちゃん、こっち見てなかった?」
前にある背中を突きながら問えば「そうですね」と伶子が振り返る。
普段と異なる親友の変化に、茉穂は驚愕を隠せなかった。
「どしたの伶子、顔めっちゃ赤いよ?!」
SHRが始まる前は茉穂と同じく、眠たげながらもいつもと何ら変わりなかったはずなのに、今は疾走した後のように頬が紅潮している。いや、熱があるのかと疑わしいほど血色が良すぎた。
(まさか……まさかよねぇ?)
シオンに目を配らせれば視線がかち合い、即座に顔を背けられた。そのタイミングの良さ、こちらの様子を窺っていたのは疑い様がない。
(さっきのチラ見からして、伶子を気にしていたのは間違いない)
そして伶子の意識してるのは宇佐美。
(え?何なの、この一方通行。いや、三角関係?)
半分正解で、半分が誤りの、現時点で彼女が導き出した考察。
三角関係の中に実は自分も組み込まれていたという正式な恋愛関係を茉穂が知るのは……もう少し先のことだ。
部活動を終えて帰路に着く最中、眉間を寄せたり頬を朱に染めたり、ときにはニヤけたりもして、伶子は百面相を繰り広げていた。人通りを気にしてなるべく無心を心掛けるも、大して効果はない。
(やたら宇佐美先生を気にしてしまって、部活に集中できませんでしたけど……)
リズムに乗れずテンポを乱し、今日はやたら部員に迷惑をかけてしまった。
部活が終わり一人落ち込んでいれば「このくらいで凹むな」と後頭部を叩かれ髪を撫で回された。誰かと振り返れば、今日一日伶子の頭を占めていた数学教師。
その瞬間から今このときまで、胸中は嬉しい悲鳴の嵐だ。まさか宇佐美から慰めの言葉を貰うなんて、夢にも思っていなかったのだから。
「……はぁ」
ぷっくりした唇から零れ落ちた吐息は、知らず知らず桃色がかっていた。
「ただいま」
「伶子ちゃん!見て、見て、見て!」
玄関の扉を開ければ、異様にテンションが高い義母に出迎えられた。胸の位置に持ち上げられた目録に小首を傾げる。
「広江さん、それは?」
「今百貨店で五千円の買い物につき一回ガラガラくじができるんだけど、当てちゃったの!二等の二泊三日、温泉旅行!」
「凄いじゃないですか!」
「あの人に電話したら、運良く休み取れるって!来週末、三人で行きましょ」
今にも踊り出しそうな勢いの広江とは反対に、伶子の表情は忽ち曇る。
来週末――――宇佐美が冥界との関係に決着をつけるのは来週の土曜だ。
「……あの、これってペアじゃないんですか?」
「二人組にはなってるけど、一人分くらいちゃんと出すから、伶子ちゃんは気にしなくていいわよ」
「いえ、お父さんと二人で行ってきてください」
どうして、と迫る広江を両手で制し、にっこりと意図して微笑みながら伶子は答えた。
「新婚旅行、まだでしたよね?」
鼻と鼻がぶつかりそうな距離にまで近付いた広江の動きが静止する。上半身を反らしながらも肩を竦めるという器用なことをやってのけた義理の娘の顔を、大きく目を見開きながら凝視している。
彼女が桜原家に籍を入れ早三年。嫁いできたばかりの頃は家庭内のいざこざに否応なしに巻き込まれ、ハネムーンなどとてもできる状態ではなかった。おまけにこのご時世、病院の医師、看護士不足という問題にも悩まされ、非番の日でも呼び出されるということは今でも度々起こりえる事態。
なので夫婦水入らずの旅行なんて、このような切欠がなければいつできるというのか。
「だから二人でのんびりしてきてください。お土産、楽しみにしてますんで」
微笑を浮かべる義理の娘の気遣いに感極まったのか、広江は目の縁を赤く染め、瞳を潤ませながらそっと目の前にある小さな体を抱きしめた。
広江の背中に手を伸ばしながら、伶子は胸の内で謝罪する。
(ごめんなさい、広江さん。私情を優先した私に、感謝される筋合いなんてないんです……)
来週の土曜。その日の晩に宇佐美は冥界との関係に決着をつける。首を突っ込んだ伶子としても、このまま見過ごすわけにはいかない。
中途半端に逃げ出すような真似だけは、絶対にしたくなかった。
宇佐美が矢を放つと同時に伶子が前に出る。
白銀の矢をかわした災禍も前へ踏み出して、手に持つ鈍器で伶子の鉤爪とぶつかり合い、火花を散らす。
「桜原、どけっ!」
敵の腕を掴んでぶら下がった反動を利用し股の下から潜れば、頭上から驚愕の声が上がった。虚を付かれて動揺したらしい。
隙を作らせたその一瞬が功を成し、宇佐美が仕掛けた攻撃が敵にヒットしたらしく、くぐもった苦悶の音が災禍の口から漏れる。
しゃがんだ状態で振り向きざま、腕を薙ぎ払う。真一文字に、四本の傷が鱗に覆われた背中に深く刻まれた。
「このアマ!」
強い殺気を感じて腕で顔面を守りながら後方に跳べば、回し蹴りが襲ってくる。爪先が手首を掠めるが、大して痛くはない。
リノリウムの床に着地し、瞬時に前へ蹴って相手の懐に飛び込む。
我武者羅に、相手の鱗を剥ぎながら傷を付けることにのみ集中する。反射神経や素早さには自信があるものの、小柄な体型ではどうしても腕力に影響が出てしまう。
「ぐっ……!」
鈍器を振り下ろそうとしていた災禍の動きが止まる。再度宇佐美の矢を喰らったようだ。
伶子はその一瞬を逃さず、右手は湾曲した爪を腹部に食い込ませ、左手で左肩から右脇腹へ斜めに得物をはしらせる。
「調子に乗るなっ!」
あまりに前へ詰め寄り過ぎたらしい。かわす余裕もなく吹っ飛ばされ窓ガラスに激突した。
「桜原!」
ゲームの世界とあってか、割れてもおかしくない勢いであったというのに、窓は振動でガタンと音を立てただけだった。
(今更ですけど、こんな激しい争いをしてるというのに、壁や床に傷跡一つ付かないんですね)
こめかみに伝う鮮血を乱暴に拭い、異形の整体をした怪物と向き合う。
「餌の分際で歯向かってんじゃねぇよ!」
「てめぇは化け物の分際で調子こいてんじゃねぇ」
パシュ、パシュ、と弓の弦から矢の放たれる音。
痛みに顔を顰めながら災禍を見遣れば、口腔、そして伶子が鉤爪で傷を付けた二ヶ所に白銀の矢が貫通していた。災禍の肉体を貫いた先には赤い液体が絡み、滑り付いている。
一滴、滴り落ちようとすれば災禍の体が傾き、同時に消滅した。
――――ブォン……!
「……大丈夫か?」
照明が消えた薄闇の中から宇佐美が近付いてきた。
心配と焦躁が綯い交ぜになった声に、不謹慎ながらも全身が高揚する。それを見透かされないよう平常心を努めながら「大丈夫です」と返事すれば、思いの外冷たい声色になってしまった。
案の定、宇佐美の機嫌は急降下したらしい。
「いいから見せてみろ」
「あ、頭なんで大袈裟に血が出てるだけですよ」
じりじりと後退するものの、すぐさま両頬を掴まれ強引に顔を持ち上げられる。
吐息がかかるほど間近に宇佐美の顔がある。その事実に気付いて緊張感が高まり、頬に熱が集中する。半歩近付けば密着する距離感が、伶子を一層緊張させた。
(ど、どうすれば……!これほど近ければ挙動不審なのがバレそうですっ)
「暗いからよく見えねぇな。宿直室に救急箱あったはずだし、着くまでこれで押さえてろ」
差し出されたハンカチを受け取りながら礼を述べ、宇佐美が上半身を起こして自分から離れたことに安堵しながらも、どこか物足りなさも感じていた。
(恋は貪欲。どこで聞いたか忘れましたけど、確かに的を射てますね)
自分の内側に存在していた気持ちを改めて自覚し、胸が疼く。
……嫌われている相手を好きになることの不毛さに、溜息を吐きたくなった。
宿直室に着いて改めて傷の具合を診てもらう。濡れたタオルで流血を拭い、消毒液を浸した脱脂綿で患部を当てれば、じくじくと痛みが蘇ってくる。
「……ゲームが終わったからこそ掠り傷程度に治まってるが、この血の量だ、実際には縫ってもおかしくない怪我だったかもな」
「今更傷の一つや二つ増えたところでどうってことないですよ。チアガールやってたら、転んだり打ち身なんてしょっちゅうですし」
苦笑を浮かべながら何てことはないとアピールするも、反応一つ返ってこないことに困惑し、暫し途方に暮れる。
「……今からでも遅くない。お前、もう夜中に学校来るな」
視点の中心を宇佐美に止めれば、赤く染まった脱脂綿が放物線を描いてゴミ箱へと吸い込まれていくのが目の端に映る。
初めて目にする苦悶の表情がそこにはあった。痛ましげに双眸を揺らす焦げ茶の瞳に、正座する伶子の姿が映っている。
「……私が自分の意志を語ったのは、ほんの三日前だったと記憶してますが」
「三日坊主、上等じゃねぇか」
「冗談じゃないですよ!」
激昂し、その場に立ち上がって座ったままの宇佐美を見下ろした。
「遊びじゃないってことは充分承知してます。私が災禍から受けた傷は、避け切れなかった自分の責任です」
「じゃあ例えその所為で命を落とすとしても、そう言い切れるんだな」
「言い切れます」
「……口だけは一人前のつもりか、ガキの分際で」
氷の刃で一突きするような、硬く冷たい声。けれども伶子を見上げる宇佐美の眼光は声とは正反対に、灼熱を思わせる憤怒が宿っていた。
宇佐美を纏う空気が、じわじわと黒い澱みを醸し出す。
正面に立つ伶子は双眸を細め、ジッと相手の瞳孔を観察する。そこに普段見せる畏怖や萎縮といった怯みの感情は一切浮かんでいない。代わりに、微かながらに宇佐美が滲ませているのと同じ、怒りの感情をちらつかせていた。
「……命を投げ遣りにするつもりなんて毛頭ありません。死ぬ気なんて小指の先もないです。自分の言葉にどれほどの責任が、重みが付き纏うのか、ちゃんと分かってます」
半眼を閉じて、畳の地面へ視点を落とす。
過去に犯した数多くの過ち。思い返せばその度、締め付けられるように胸がキリキリと痛みを伴う。
後悔、懺悔、悲観、悲痛、贖罪……あらゆる負の感情が交差し、絡み、混同し合って、伶子を雁字搦めに拘束する。
「詭弁と捉えられても、私は何度でも諾いますよ」
レンズ越しに、三日前と同じく強い決意を秘めて真っすぐに見つめてくる二つの瞳を、宇佐美は探るように見つめ返した。
「……たまに、本当に高校生かって疑わせるような……毅然とした目をするよな、お前」
淡く染めた茶色い髪をくしゃりと掻き撫で、弓矢の使い手は諦観の息を吐きながらテーブルの上に転がっていた煙草に手を伸ばした。
「………」
宇佐美が改めて共闘に了承したことを安堵しつつ、伶子は深く頭を下げる。
動揺と哀惜が滲む表情は、垂れ下がった前髪によって覆い隠された。
灰色の厚い雲に包まれ、息苦しさを帯びた空模様。雨が降る直前の泣き出しそうな天気とは、少し違う。日の光を遮るため、薄闇色のベールを幾十にも天に巻き付けたような明るさが、外界を満たしている。
沈鬱な表情の天空から地上へと視点を流せば、そこは阿鼻叫喚の誘い。
摩天楼の如く高層の建物内、上階に位置するここまで音が届くことはないが、喧騒の嵐というのは想像に難くない。
咆哮しているのか、大きく開口して咽頭を震わす災禍。斧を振り上げる兵士。抉れた地面に降りかかる鮮やかな赤。切り離された胴体と首……。
激動は時間と共に加速してゆく。
「恐らく、もってあと五年です」
淡いブロンドを項で束ね、胸の上にゆるりと流した青年が、机上に広がる書面と睨み合いながら呟いた。デスクの両脇には彼の座高を越えるまでに積み重なった何百枚もの書類が、今か今かと目に通されるのを心待ちにしている。
「前の佐保姫が逝去し三百年、前王が登霞されて二百年余り。一刻も早く次なる佐保姫が必要なのは……兄上、あなたが一番ご存知なはずです」
「分かっている。けれども、どうしても彼女を巻き込みたくなかった」
「あなたはこの冥界の次なる王となる方……なるはずの方です。そんな甘いことを言っていられる状況ではないでしょう」
万年筆を滑らせ書き終えた用紙を脇に除けながら、彼は続ける。
「別の佐保姫候補が見つかったとはいえ、百年もつかもたないか。やはり彼女を冥界の救世主として迎えたい」
悲愴な面持ちで窓から外界を眺めていた男――――シオンは、煩わしそうに書類を片付ける弟を振り返る。
「リオン、自分が担うべき世界と一人の少女とを天秤にかけている時点で、俺は王の器に相応しくない。やはり君がなるべきだ」
「笑止!私はこうして宰相としての身分が適しています。確かにあなたの優柔不断で、たかが小娘の色香に唆された事実には苛立ちを隠せませんが……私も妻のある身だ。後者に関して覚えがないわけではない」
パチンと音を立ててペン先をキャップに収め、立ち上がったリオンは窓辺に佇む実兄と対峙する。
「兄上、以前にも私は王になるつもりなど毛頭ないと宣告していた。渋りながらもあなたは一度、王になる意志を私に誓った。それでも反故するというならば、あの愚弟がこの冥界の王となることになりますが……」
それでもいいと仰るんですか?
冷徹な眼差しで見上げてくる弟に、シオンは瞼を伏せて天を仰ぐ。
暫し閉目を保っていたが、目を開けると同時に割った唇から吐き出した言葉は、リオンの問いに対する答えではなかった。
「……前々から思ってたんだけど、宇佐美先生を手助けしてる第三の佐保姫候補、お前が彼女の話題に触れようとしないのはどうしてなんだ?」
その質問に、今度はリオンが押し黙る。
何も答えようせず、沈黙を保つ弟から視線を逸らし、シオンは再び重苦しい窓の外の風景に目を向けた。