其の陸:恋情
「桜原さん」
部活帰り、寄り道の誘いを断って一人夕闇の路地を歩いていれば、背後から声をかけられた。肩越しに首を捻れば、石動学園高等部の制服に身を包んだ男子生徒が軽く片手を挙げ、小走りにこちらに向かってきている。
彼と擦れ違ったOL風の女性が目を瞠り、頬を仄かに赤らませながら振り返っていたが、過ぎ去った後方を気にかけることなく、不死原紫苑は真っ直ぐに伶子の元に足を運んだ。
「不死原君、今帰り?」
「うん。図書館で本を読んでたんだ。……よかったら途中まで一緒に帰っていいかな?」
「勿論」
隣に並んだ美貌の男子生徒はにこりと微笑むと、歩幅の小さな伶子に合わせてゆったりと進み出した。
昨日編入してきたばかりの転校生を上目遣いで眺めていれば(今日の図書館は大盛況だったんでしょうね)と、苦笑したい思いが沸き上がった。変な女という印象を残したくないのでそうしたいのを堪えるが、人目につく場所でこうして男子と二人きりで帰るというのは、些か緊張する。
近くで観察すれば、この新たなるクラスメイトがいかに華やかな容姿をしているか痛感してしまう。
教卓で紹介されたときは気付かなかったが、眦が少々吊り上がっている。涼しげというより猫目に見えるという印象を持ってしまうのは、大きな双眸をしている所為かもしれない。高い鼻梁は上向き過ぎず、自然と弧を描く唇は柔和な印象を醸し出していた。おまけに肌にはにきび一つなく、シミ、雀斑どころか毛穴の有無さえ疑ってしまいそうになる。
何より、小顔を頂点に置いた八頭身。百八十センチは超えているだろう。
(恥を忍んで、どうすれば背が伸びるのか訊くべきでしょうか……?)
百五十センチに満たない伶子との身長差は……およそ三十センチ。
自分の背丈の低さを意識すれば、必然的に体格の方も気にしてしまう。……女としての矜持が挫けそうになった。
「えっと、桜原さんって茉穂……じゃなくて、近江さんと仲が良いんだよね?」
「あ、はい。去年も同じクラスで、出席番号順に席が前後したことが切欠で」
中等部からの持ち上がり生徒が多い中で、巧くクラスの和に溶け込めず、緊張の面持ちで机と睨めっこしていた伶子に初めて声をかけたのが、後ろの席に座っていた茉穂だった。あの頃から明るい髪色に染めて髪型は縦ロール、派手なギャルメイクと、色々目に惹く容姿をしていたので、傍からすると地味な外見の伶子とは話が合わなさそうに見えたが、意外にも二人の間柄は親友という位置が確立され、その関係が築かれるのにさほど時間は要さなかった。
以前何気なく入学式の日に話しかけてきた理由を問うたことがあったのだが――――
『や〜、あたしより身長低い子がいるからさぁ。なぁんか嬉しくなっちゃって』
あのときはさすがに遠慮なく肩をバシバシ叩かせてもらった。
「そういえば不死原君、茉穂ちゃんとは一昨日から知り合いなんですよね?茉穂ちゃんをナンパから救ったって聞きました」
「ナンパから追い払ったのは事実だけど、知り合ったのはもっと前なんだ」
ふと脳裏を掠めたのは、昨日部活仲間との会話の中で飛び交った“彼氏”という単語。
(茉穂ちゃんは否定してましたけど、実は本当に……?!)
「本当に茉穂ちゃんの彼氏なんですか!」
「違う!まだこくは――――」
「告白、しようとしてるんですか?」
訝しむ伶子の眼差しに不死原はあ、と両手で口を押さえる。突然声を上げた少女の声に驚愕し、つい余計な一言を零してしまったらしい。口元を覆う男性的な角張った指の隙間から見える頬は、赤く染まっていた。
一方は唖然と口を開く、小さな女子高生。もう一方は半泣き寸前の赤面男子。
立ち止まる二人の横を、ベルを鳴らしながら自転車に乗った老人が素通りする。
……さすがにこのまま別れるのも気まずいので、二人は場所を移すことにした。
砂場にブランコにシーソー、それに古びたベンチしかない、こじんまりとした公園。茜色の空が徐々に闇色へと染まり始めているとあって、子どもの姿はなかった。
幸いなことに、ここを突き抜けようとする人影も見当たらない。
ベンチに腰を据え、まず切り出しに掛かったのは不死原だった。頬の赤みをそのままに、世話しなく左右の長い指先を絡め弄りながらぼそぼそと語る。
「ま……近江さんは俺の気持ち、知らないんだ。だからその、誰にも言わないでほしい」
「安心してください。誓って他の人には言いませんから」
まるで女子より乙女のような反応だと揶揄したくなる気持ちもあったが、それ以上に微笑ましかった。
精悍な顔立ちや姿態だけでなく、温厚な雰囲気をしている為か、どこか親しみやすさを感じさせる。加えて自身の容貌に鼻をかけている素振りも見せない。交わした会話は少ないけれど、性格も悪くなさそうだと思考する。
これだけの好条件が揃っているのだから、過去に女性と付き合った経験は当然あるだろうと踏んでいたのだが……だからこそ、このような初心な反応が予想外で、好感が湧いた。
「茉穂ちゃんに気持ち、伝えないんですか?」
不死原は瞼を伏せて首を振る。
「言えないよ。出会った頃に比べたらマシにはなってきてるとは思うけど、嫌われていることに変わりはない」
「嫌われてるなんて……!茉穂ちゃん、素直になれなくて意地を張るところがありますし、悲観し過ぎじゃ……」
「いや、茉穂……近江さんとは決して良い出会い方じゃなかったし、嫌われて当然だって、自分でも分かってる」
眉尻を下げて悲しげに微笑む彼に、何て言葉をかけていいものか逡巡するも、結局は違う問いをかけるという手法しか見出せなかった。
「普段茉穂ちゃんのこと、近江さんじゃなくて名前で呼んでるんじゃないですか?」
「え?」
「さっきからわざわざ言い直してたみたいですし。……このことも誰にも言ったりしませんよ?」
もちろん茉穂ちゃんにも。
そう含み笑いを浮かべる伶子に、不死原は「一度ボロを出したら大変だな」と苦笑を禁じ得ない。
「桜原さんは?誰か好きな人いるの?」
「えぇっ?!」
限界まで双眸を開かせた伶子を、不死原の黒目がジッと見つめる。さほど厚みのないプラスチックの眼鏡など、まやかしの道具としては不十分らしい。意趣返しとばかりに、瞳が悪戯っぽく輝いている。
好きな人と言われて思い浮かべる人物など、今まで皆無だったというのに――――
「正直今は……恋だというにはあまりにおこがましい、微弱な想いなんです」
もし、かの人物に対して抱く気持ちが恋と断言できるなら、立場としては隣にいる不死原と同じなのかもしれない。
嫌われている相手を好きになってしまった。
(……切ない、ですね)
「不死原君、もしよろしければ今日みたいな話、またしてもいいですか?相談したいこととか出てくるかもしれなくて」
「も、勿論!俺も相談に乗ってほしいこととか色々あるし。ただ、良いアドバイスできるとは思えないから、あまり期待しないで」
「聞いてくださるだけでいいんです。……よかった」
どちらからともなく、微笑が浮かぶ。
好きな相手から嫌われてる者同士の同盟が、こうして成立した。
袖を肘上まで捲り、昨日災禍に負わされた傷の具合を確認してみる。服の上からといえど鋭い爪で思い切り引っ掻かれたので相応の出血を余儀なくされたのだが、今では薄っすらと瘡蓋ができている程度。軽く爪を立てるだけで剥がれ落ちそうだ。
(日常でついた怪我なら、三日経たないとここまで回復しないでしょうね)
さすがは他空間での経験と感心するべきか。
「桜原伶子、お前の携帯電話、赤外線通信できるか?」
「は、はい!できますけど」
「俺の番号とアドレス送るから、受信できるようにしろ」
指示通り赤外線が受信できるように設定し、宇佐美が突き出した携帯電話の先に自分のそれを差し出せば“データを受信しました”の文字。
「登録しとけ」
携帯電話を折り畳んだ宇佐美はピンクパッケージの小箱から煙草を一本取り出し、咥えて火を点ける。
「いいんですか?」
「いちいち図書室から侵入すんのも面倒だろ。連絡くれりゃ裏門の鍵、開けといてやるから」
「それは助かりますけど……その、宇佐美先生は生徒にプライバシーに関することは喋らないって聞いてたんで……」
教室でクラスメイトから、部室にて部員より、廊下で見知らぬ誰かが友達に零しているところを偶然通りかかるなど、噂を小耳に挟む機会というのは案外少なくない。年若く、外見も申し分ないこの教師に憧憬以上の想いを抱く生徒というのは、矮小なりともいるらしく、そういった生徒から電話番号やメールアドレスを執拗に迫られることがあるらしい。
それが真実か否か不明だが、少なくとも宇佐美甲斐という教師は、人気を誇示するために自らの情報を開示するという、リスクをかけてまで見栄を張る性格はしていない。
口外せずともそんな伶子の思考を読んだらしく、宇佐美は眦を微かに眇めて宙を睨み、後頭部を乱雑に掻き乱す。言うべきか言わざるべきか逡巡しているらしい。
「……お前はむやみやたらに他人に言いふらしたりはしないだろ」
唇を尖らせながら渋々答えたのは、単に照れ臭かったからか、はたまた嫌々ながらも伶子のことを認めたが故か。
(……どちらにせよ、宇佐美先生のこんな顔を拝めたのは役得ですね)
戦闘中に落としかねないということで昨日同様、携帯電話を置いて宿直室を後にする。
二人が廊下に出てほんの数分のことだった。
――――ブォン……!
蛍光灯の点灯を感知し、得物を出現させた。宇佐美は弓、伶子は両手に嵌めた鉤爪の感触を確かめる。
指を曲げると革がギュッと縮こまり、伸ばせば弛緩する。咄嗟とはいえ、自分の都合で創造したことだけはあるかもしれない。まだ数日しか経っていないというのに程よく馴染んでいる。
「桜原伶子」
緊張を含んだ教諭の声に顔を上げる。
廊下の向こう、階段を目の前にした位置に佇む姿があった。
全身を白い布で包み、顔も同色のフードで覆い被さっているのでどんな人相か窺い知れない。背丈はそれほど高くなさそうではあるものの、身動き一つせずこちらを窺うその様は、どこか不気味だ。
先手必勝とばかりに動いたのは宇佐美だった。右手に白銀の矢を生み出して素早く放つ。
それをさらりとかわした敵は階段へと身を翻し、二人の視界から姿を消した。慌てて後を追うにも、上ったのか下ったのか分からない。
「桜原、お前は上を!俺は下に行く!」
「はい!」
宇佐美と分かれて三階、四階、更には屋上に繋がる階段も見て回るが、白い影はどこにもない。
(宇佐美先生……!)
慌てて段を駆け降り一階に足を着ければ、宇佐美が受け身をとりながら敵の攻撃をかわしていた。接近戦に持ち込まれ、弓で対抗しようと振り回すものの大振りし過ぎるらしい。
「先生、しゃがんでください!」
リノリウムの床を蹴って跳び上がり、宇佐美の向こうにいる災禍に狙いを定めて腕を振り上げる。障害となっていた宇佐美の背が、鉤爪がこれから描くだろう予測軌道から外れた瞬間に素早く薙ぐ。
災禍の腕から小さく赤い飛沫が舞い、手応えを覚える。足を振り上げて抗う災禍をいなし、勢いのまま前へ前へ腕を振るうものの、相手はそれを難なくかわしていく。
「おい、また逃げられるぞ!」
宇佐美が声を張り上げたときには既に遅し。壁際まで追い詰めていたにも拘わらず、横に身を翻した災禍は階段を駆け上がった。
「くそ!」
慌てて宇佐美が矢を放つものの、ひらめく布にさえ掠りもしなかった。
「馬鹿、逃がしただろ!」
(えっ!私の所為ですか?!)
「あの野郎、ちょこまか逃げやがって」
「どこか袋小路に追い詰められれば……」
そう呟きながら一箇所だけ、思い当たる場所があった。
階段を半ば駆け登った災禍は、慌てて足を踏み留めた。屋上まであと数段を残すところなのだが、そこへ繋がる扉は雁字搦めに鎖が巻かれ、南京錠で固定されている。
「さぁ、これでもう後はないですよ」
乱れる呼吸を肩を上下させながら整えつつ、伶子は一歩一歩、踊り場から災禍までの距離を縮めていく。
首を左右に振って抜け道を探す素振りを見せていた敵は意を決したように振り返り、手摺りに体重をかけて……飛び越えた。
(往生際が悪いですね)
肩を竦めつつ手摺り越しに階下を見下ろせば、災禍のフード下、隠れた顔面に宇佐美が矢を突き付けていた。
「手こずらせやがって、クソッタレ」
宇佐美が右手の指を離した数瞬後、ゲームは終了の合図を鳴らした。
宿直室に戻ってまず携帯電話を手に取る。見開き画面右上を目にすれば、どっと疲れが押し寄せてきた。零時三分。一体の敵と二時間以上も追いかけっこをしていたらしい。つくづく明日……否、今日が午前授業の土曜日でよかったと痛感してしまう。
「げっ……すっかり忘れてた」
苦々しく顔を顰めるのは、同様に携帯電話を開く宇佐美。
口の中で唸り声を出しながら、躊躇や逡巡で後頭部を乱暴に掻き乱すその姿は、まるで彼女との約束を忘れ、咎められてうろたえる男のようだ。
そんな妄想が頭の中で働くと、胸に澱が生まれたような錯覚を抱いた。
黒く、腐臭が漂うヘドロがベチャリと音を立ててこびり付く。白く滑らかな表面に付着し、不協和音を奏でながらギチギチと荒い刃で傷を付けつつ、侵食していく。
(訊いちゃ駄目、訊いちゃ駄目、訊いちゃ駄目……)
「……もしかして彼女ですか?」
震えそうになるのを押し殺し、トーンを上げて明るい声で訊ねる。
内なる自分が質問したことに批判の悲鳴を上げる。胸の中で絶叫が鳴り響いた。
(だって、傷付くなら早いに越したことないじゃないですか……!)
後ろ手でグッと拳を握って、伶子は無理矢理口角を上げて笑みをつくる。
そんな彼女を一瞥した宇佐美は不敵な笑みを浮かべた。
「俺はモテるからな」
携帯電話の画面を突きつけられて思わず顔を背けそうになったが、「読んでみろ」という命令に逆らうことができず、渋々受け取った。
「『昨日、お母さんの誕生日だったでしょ!お兄ちゃんからプレゼント贈られてくるの楽しみにしてたんだよ。今はもう不貞腐れて寝てるから、朝ちゃんと謝っときなね!』……あの、これは?」
「妹からの批判メール。お袋の誕生日なんてすっかり忘れてたぜ」
「……妹さんも毒牙にかけたんですか?」
「はぁ?!」
「だって彼女からですかって訊いたのに、否定もせずに自分はモテるってナルシシズムに浸ってましたんで」
どうやら不快指数ラインに達してしまったらしく、トンと額を小突かれた。思いのほか指圧が強く、足元のバランスを崩しふらついてしまうものの、すぐに支えられた。
「おっと」
伝わってくる掌の熱さに鼓動が高鳴る。
「お前な、馬鹿言ってんじゃねぇよ」
(う……わ、ぁ)
普段自分に向けられている不機嫌そうな顔が崩れ、今はくしゃりと破顔していた。
触れられている肩が異様に熱い。肩だけでなく、頬に、耳に、首筋にまで熱が篭っている。
胸の内に湧いた澱が嫉妬によるもので、今顔が紅潮している理由が恋情によるものだと……認めざるを得ない。
身悶えそうになるものの、とりあえず今はまず――――
(手!手を退けてくださらないと……っ!)
もはや顔だけに留まらず、全身に行き渡った熱が下がらない。
深夜現れるときの定位置である、カーテンを曳いた窓辺に姿を現せば、部屋の主である茉穂は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
夜遅いとあって、化粧を落とし寝巻き姿だった。リクライニングチェアに腰を沈め、両腕を広げても有り余るスペースがある机の上で、左右の指を交差させている。手の甲に浮かぶ枝分かれした血管は薄い皮膚の下で息継ぎ、電気スタンドの照明に晒されている。日の下にいるときよりも一層青白い線が引き立っているように、シオンの目には映った。
「宇佐美先生、無事クリアしたよ」
「うん……」
自分の一言を耳にして、彼女は今日も安堵の溜息を吐く。
ホッと安心したように胸を撫で下ろす姿は彼女の好きな一面ではあるものの、その喜びが自分の手によって齎されたものでないのが、少しだけ歯痒くて悔しい。
そんなシオンの気持ちなど露知らず、両指の交差を解いた茉穂は「あのさ」と呟いた。
「このあいだの介入者のことなんだけど。一昨日……じゃなくてもう三日前か、バーガー奢ったあの日、ウサちゃんがその介入者にあのときのことは夢だって誤魔化した……そう言ってたじゃん。その人、校舎に忍び込んだりとかしなかった?ホントに夢だって信じてくれたのかな?」
薄っすらと表面に水膜を張って両眼を潤ませ、茉穂は真っ直ぐにシオンを見上げる。その瞳には微かな困惑と疑心、そして大きな懇願が綯い交ぜとなって揺れていた。緊張で強張った面持ちから、危惧がまた一つ増えることを恐れているのが窺える。
少女は、宇佐美を巻き込んだことを後悔し続けている。もしかすれば本心は、彼の手助けをしたいと望んでいるのかもしれない。
けれども再び掴み取ったものとを天秤にかければ――――
「……大丈夫。宇佐美先生を心髄から尊敬してる子だったし、心配しなくても平気だよ」
瞼を閉じれば、昨日のことのように思い出せる。
全身から赤い血を被り項垂れた、小さな背中。震える喉から迸る慟哭。悲痛の絶叫。涙。
あの経験をもう一度繰り返させたくないが故に、シオンは嘘を吐く覚悟を決めた。