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春風戦華  作者: 地球儀
32/35

其の参拾弐:剥離

敵と見做していた男からの、突然の告白。

普段の柔和な雰囲気を押し殺し、いつになく緊張した面持ちで好意をぶつけてきたシオンに、茉穂はただただ呆気に取られた。真紅のルージュを塗り手繰った唇をポカンと開き、引っ切り無しに瞬きを繰り返す。まるでドライアイの予防対策をしているみたいだ。

(ちょっと待ってよ。こいつが好きなのって伶子じゃなかったっけ?)

脳裏に浮かぶのは日常の授業風景。教壇に立つ副担任を見つめている親友。微動だにしないその後頭部から視点をずらして一列挟んだ斜め前席に座る人物に目をはしらせれば、彼の視線の先には親友がいた。

そんな光景を目撃したのは片手の指を折って数えられる程度でしかなかったが、あながち自分の考察は間違ってはいないだろうと踏んでいた。

何故なら、これまでシオンからそのような恋情を含んだ眼差しなど向けられた覚えがなかったからだ。

(……違う。あたし、本当は……)

――――気付いていた。気付いていない振りをしていた。

“好きだ”、“付き合ってほしい”、“恋人になってください”……。同級生、先輩、後輩といった学校という箱庭を通じて知り合った者達だけでなく、どこぞのパーティーで知り合った男や街で擦れ違っただけの輩など、様々な異性から似たような台詞で告白され、その度“NO”を突きつけてきた。そんなことを繰り返しているうちに、自分に気がありそうな相手からの視線を自ずと察知できるようになっていたのだ。

自意識過剰だと思いたくなかった。だから回転の鈍くなった頭のペダルを踏み込んで言おうとした。「こんなときに冗談はやめろ」と。

しかし糾弾しようにも相手の怒声に遮られ、更に否定的な言葉を口にすれば、今度は実力行使に踏み切られた。

左肩に手を乗せられて、強引に顎を掴まれる。痛みにほんの束の間、表情を歪ませたが、その一瞬後には双眸を瞠った。

(……え?)

徐々に近付く端正な顔立ち。滑らかな黒髪が茉穂のオレンジの髪と入れ交じり、触れ合った部分を通じて相手の体温が過剰なまでに伝わってくる。シオンの黒い瞳に映る己は信じられないと言わんばかりに目を丸くして、紅を引いた唇を薄く開いていた。

そんな自分が段々狭まっていく。代わりに飛び込んできたのは相手の長い睫毛。瞼を伏せた所為で頬に影が落ちていた。

今の自分には持ち合わせない色気を充てられて、心臓が急速に脈打ち出す。

(ヤバイ、呑み込まれそう……)

このまま受け流れてしまうのも一興だろうか。酔狂じみた邪心に擽られ、茉穂も誘われるようにして睫毛を震わながら瞳を閉じる。

『……君達を正式な佐保姫にする為に、俺達は絶対やってはならない禁忌が幾つかある』

ふと脳裏に蘇る、佐保姫になるべきと闘いの渦中に陥れられる者達に対して、冥界の使者が犯してはならないタブー。

その一つ、体液を交えての深い接触。

パシッ――――!

開眼直後に飛び込んできた光景は、茫然自失とした様子で茉穂から視点を外したシオンの顔だった。猫のようにやや眦が吊り上がった目を瞠り、そのすぐ下が赤く染まっている。弟二人ほどでないにしろ、肌が白い所為で差した赤みがよく映えていた。

その色を認め、初めて自分がシオンに平手打ちした事実に気付いた。右手がぴりぴりと痛みを帯びている。指先は凍てついたかの如く感覚がないにも関わらず、掌は痺れるほど熱い。手首から下がみっともなく震えてしまう。

「……ごめん。嫌いな奴に無理矢理キスされるとか、堪えられないよな」

軽い口ぶりを努めたようだが、言葉の節々が震えていた。深く俯かれた所為で目元が隠れてしまい、表情は窺えない。それでも唇だけ観察すれば、失敗した苦笑というような、不器用際立つ歪みが生じていた。まるで本心という水が器から零れないよう、右往左往、四苦八苦しているのを必死で堪えているみたいだ。

「とりあえず、あんたが見た目ほど落ち着いた奴じゃないってのは身をもってよく分かった」

触れられている相手の両の手を解いて、茉穂は腕を組み、壁に背を預けて斜に構えた。

「嫌いな奴だろうがそうじゃなかろうが、いきなりキスって冗談じゃないわよ。見た目軽く見えるのは自覚してるけど、あたしだってロマンの欠片くらい持ち合わせてるっての」

「………」

叱咤する茉穂に対し、シオンはただ黙って俯くばかりだ。全く反応を返さない敵に大きく舌打ちをする。

「……ねぇ、キスしようとしたのはあたしを好きだからってより、あたしを佐保姫にしたくない気持ちの方が大きかったからじゃないの?」

「………?」

「あたしを好きだと想うより先に、あたしを佐保姫にしたくないが為に体液を注ぎ込もうとした。……違う?」

茉穂以外の者を佐保姫に。そう考え、茉穂の冥玉を行使する能力を低下させる為に迫った。勿論、彼女への恋情が結果的に繋がっているのは間違いないだろう。しかし、もしそうならばと考えると鼻がツンと痛みを訴え、目頭が熱く滾ってくる。

(あたし、自分じゃもうちょっとメンタル面、強いと思ってたんだけどなぁ……)

シオンの目に自分がどう映っているかはようやっと理解した。敵だと認識していた相手だけあって、これまで受けてきた告白とは比べ物にならない衝撃だ。

だからだろうか。結果に大した違いはないのに、些細な過程が気になってしまう。

「……違うよ」

ぽつりと呟かれた言葉に顔を仰げば、明鏡止水とばかりに澄み切った瞳とかち合った。

「そんなこと、すっかり頭から抜けてた。俺の気持ちを疑われたくなくて、ただその一心だったよ」

「……あんたって意外と行動派だったんだね」

片手で顔半分を覆いながら衝動的に込み上げる笑いを堪えていたら、自然と肩の力が抜けた。自覚していた以上に体が強張っていたようだ。同時にささくれ立っていた胸中が安堵で満たされる。

(あ〜もぉ!こんなことで取り乱すなんて)

顔が熱い。ひたすら見て見ぬふりしていた己の気持ちをこの状況で引っ張り出さなければならなくなるなんて。

「茉穂?」

百面相する自分を怪訝に思ったらしく、シオンが上半身を屈めて顔を近付けてくるが、素知らぬ振りして顔を背ける。

そのときふと、自分達からではない、何らかの音を耳が拾った。

「……ねぇ、何か声みたいなの聞こえない?」

「声?」

再び耳を澄ませば、上階から甲高い、女声らしき響きがする。ここには微かにしか届かないが、力いっぱい泣き喚く、阿鼻叫喚という表現がまさしく相応しい音量で叫んでいるのが想像できる。

刹那、茉穂の脳裏に親友の顔が思い浮かんだ。この校舎にいる女性は自分の他に一人しかいない。

「伶子っ」

階段の段差を足裏で蹴りながら、上へ上へと突き進む。

けれども声の主が親友でないと察したのは、駆け出してすぐのことだった。

(伶子にしちゃ声があまりに幼いし……そもそも、あの子がこんなワンワン泣き喚くはずないよね)

ならばリオン、もしくはその双子の片割れのどちらかが伶子、乃至は宇佐美、或いは両方に危害を加える為に災禍を召喚したのかと邪推したのだが、冥界の皇太子の推測とは異なるらしい。

「まさか……いや、でも」

茉穂の後に続くシオンの口から驚愕と戦慄が織り交ざった呟きが齎される。

「あの声に心当たりあるわけ?」

災禍なのか、そうではないのか。どちらにしろ何者かがいることに間違いはなく、警戒心を持つのは然るべきだろう。いつでも光線が放てるよう神経を尖らせ、集中力を高める。

声の発生源らしき階に辿り着くと、茉穂は躊躇なく踊り場から飛び出した。

視界に映るは真っ直ぐ伸びたリノリウムの床。ゲームを展開している状況下とあって、昼間に眺めるときと違い、蛍光灯の光を爛々と浴びたクリーム色の平面はまるでリフォームした後のように、傷や汚れのない滑らかさを強調している。

その上にぽつんとしゃがんだ一つの影。こちらに背を向けている所為で後頭部しか窺えないが、ゴシゴシと目元を拭っている動作と喚き声の中心であることから、泣いているのは間違いなかった。

やや茶色を帯びた髪をツインテールに束ね、赤いワンピースを着用し、子ども向けのスニーカーを履いている。その外見はこれまで闘ってきた災禍とは似てつかない。

「七愛海っ」

虚を突かれたように身じろぐ茉穂の後ろで、シオンが叫ぶ。

「……シオン君〜!」

首だけ振り返った幼女は、呼んだ相手が誰かを確認するとすぐさま立ち上がり、覚束ない足取りでシオンの胸へと飛び込んだ。

「びええぇえぇん!」

間近で聞くと半端ない声量だ。茉穂は思いきり顔を顰めて両の手で耳を塞いだ。

「あ〜も〜!何なの、この子?!」

「宇佐美先生の姪御さんだよ」

「……えぇっ?!」

驚愕する茉穂を一瞥してから、シオンは上着の袖で幼女の涙を優しく拭う。

一人置き去りにされて不安だったのだろう。見知った顔と遭遇したことにより漸く落ち着きを取り戻した小さな少女は、次第に鳴咽を終息させる。

(ウサちゃんの血縁とあって、やっぱ可愛い顔してんだなぁ)

頬が紅潮し、眼球を赤く充血させた涙の跡が残るクシャクシャな顔になっているものの、それを差し引いても面立ちが整っているのがよく分かる。下がり気味で温厚そうな印象を見せる目尻の辺りなど、特に副担任と似ていた。

「七愛海、一体何があった?」

幼女を宥めすかそうと、表情を幾分緩めながら問い掛けるものの、やはり彼女がこの場にいるのは予想外の出来事なのだろう。シオンの声に緊迫感が篭る。

しかし精神的にいっぱいいっぱいらしい七愛海は、そんな相手の様子を訝しむ素振りも見せず、たどたどしく言葉を紡いだ。

「七愛海がウツギおばちゃんのところに行ったら、そこにおばちゃんと伶子ちゃんがいて、その後でリオン君そっくりの男の人がドアを壊して入ってきたの。そしたらおばちゃん、このことを誰かに伝えなさいって……」

“伶子”という名詞に茉穂とシオンは顔を強張らせ、リオンそっくりの男という台詞では、ついに顔面を蒼白させた。

「……ドアを壊して入ってきたのは、リオンじゃなかったんだね?」

「違うよ。髪の毛短かったし……服も、いつも着てるようなのと違ったよ」

大きく首を振って否定を強調する幼女から視点をずらし、茉穂はシオンの肩を掴んで自分を見るよう促した。

「ねぇ、この子が仮死状態で冥界に幽閉されてたって話は前に聞いてたけど、伶子が冥界にいるってどういうことよ?!」

指先から徐々に震えが拡がってゆく。眼に映る光景は霞がかったようにぼやけ、朧げに揺らぐ。全身に酸素が行き届いていないような錯覚さえしていた。まるで真綿でじわじわと首を絞められているみたいだ。息苦しさに、喘ぎ声まで零れそうになる。

しかしそれよりも先に腰が砕けた。佇むことさえ辛くなり、膝を地面に預け、血の気を失くして茫洋とした眼を晒しながらも、縋るようにシオンを見上げる。

「茉穂、冥玉はまだ使える?」

一度瞬きをした後に口を開く。混乱と焦燥が綯い交ぜとなって落ち着かない胸中ではあったが、力の息吹を腹の底に感じる。

「わぁ……」

驚愕と感嘆を交えた声を上げる七愛海の側で、シオンは一つ頷いた。

「大丈夫。桜原さんは生きてる」

「何で断言できんのよ?!」

「佐保姫が確定すれば、その瞬間に他の候補の冥玉は消滅するんだ。そして佐保姫が死去するまで、冥玉は誕生しない」

微かに安堵を滲ませながらも険しい面差しを崩さず、冥界の次期王と謳われる男は毅然として立ち上がった。

「でも生者をずっと冥界に留まらせれば、程なくして本当の死者になってしまう。七愛海は度々仮死にされてたから大丈夫だったけど、桜原さんを連れ去ったのがレオンなら、きっとそんな処置は施していない」

「……!」

ギリッと歯軋りをして茉穂は焦燥感を露わにする。そんな彼女を宥めすかすように、そっと肩を撫でられた。

「俺が一旦、冥界に戻るから。だから茉穂、七愛海を連れてこのこと、リオンと宇佐美先生に伝えてほしい」

あたしも一緒に――――!

咽喉まで出かかった言葉をどうにか押し止める。視界の隅に映った小さな少女。彼女を再び一人ぼっちにするわけにはいかなかった。

「……分かった。でもお願い。伶子をまたあんな目に合わせるようなこと、絶対させないで」

シオンの左手首を両手で掴んで、切実に訴える。触れた部分を通じて温もりが伝わってくる。このとき初めて、自分の掌がかなり冷えていることに気付いた。

「……うん。絶対、桜原さんを助けるよ」

右手で茉穂を頬を一撫でした後、シオンは一瞬にして姿を消した。

戸惑いと不安を滲ませた表情で自分を見上げる幼女に微苦笑を返し、再びシオンが姿を消した辺りを一瞥する。

(頼んだからね、シオン……!)



鉤爪の先が敵の短い前髪の先しか掠めなかったことに苛立ち、舌打ちを一つ零す。捉えたと核心していただけあって、あと一歩というところで届かなかったのが実に悔しい。左右の手で連撃しているにも拘わらず、未だ掠り傷程度のものしか負わせられていない。

その点は伶子も同じだが、どちらに分が傾いているかは……火を見るより明らかだった。

「はぁ、はぁ……」

肩を上下させながら息継ぎをし、疲弊を表わにする少女を、男はせせら笑う。

「もうバテてんのか?随分お疲れみたいだな」

「あなたの相手をするくらいなら、災禍と闘り合う方が、精神的にもずっとマシだと思ってましたから」

息を吐く度に喉がか細く音を立てている。心なしか、酸素の濃度が薄くなってきている気がする。まるで山頂にでもいるかのようだ。

睨み付けていたレオンから視線を外し、部屋の隅に佇む女性を一瞥する。

眉間に皺を寄せて浅い息を零しながら、しきりに胸を撫でていた。初見した数十分前と比べ、明らかに顔色が悪い。頬の赤みが青白く変化し、紅を刷いた唇も、色を解けば紫がかっていると予測される。

「結構無茶しやがったよな、ウツギも。寿命縮めるぜ?」

「……なぁに。これくらいどうってことないさ。あの子を争いに巻き込まぬよう、万が一のときは向こうに送ろうと、予め決めていたからな。覚悟の上だよ」

吐息混じりではあるが、口調は滑らかでしっかりとしていた。片側の口角を吊り上げ、笑みを模って見せてはいるものの……それでも顔色が優れない所為だろう。無理を圧しているだけで、本当のところは体調が芳しくないと思えて止まない。

不安を抱く伶子の胸中を読んだのか、レオンはますます喜悦の色を深めた。

「冥界の連中、皆が皆、転移能力が使えるわけじゃねぇんだよ。使えんのは俺達王族くらいで、中でも使い熟すとなると、俺と兄貴とリオンくらいだ」

眉間に皺を寄せながらわざとらしく肩を落とし、ウツギは口を開く。

「君の人格はどうも受け付けられないが、転移能力を含めた潜在能力、その点だけは評価しているよ」

「そりゃどうも」

皮肉を鼻先であしらい、シオンは再度伶子に視線を向ける。

「……少し甚振りゃ、メッキの猫は剥がれ落ちるか?」

(……?)

敵の発言に訝しみながら武器を胸の前に構えて、警戒心を更に昂ぶらせたそのときだ。

「気をつけろ……!」

注意を促す女性のアルトが耳朶に届くと同時に、大理石の上に広がる赤い絨毯が蹴られた。

ジャキン、という音に反応して後方に跳ぼうとするも、ほんの一瞬出遅れた。振り下ろされた右手に握られた敵の得物、その先が伶子の肩を強打する。

「――――っ!」

反射で歯を食いしばるものの、込み上がる呻き声が殺せない。ほんの切っ先しか触れなかったにも拘わらず、噛み殺せないまでの痛み。堪らず眉間に皺を寄せる。

(壁や地面を破壊する怪力ですし、まともにくらえば骨がイってたかも……)

熱と痛みを訴える左肩を逆の手で抱えながら、レオンが弄んでいる凶器を見遣る。

「警棒というのは想定外でした」

三段階に伸縮するらしく、勢いよく腕を下ろしては、先を掌に押し当てて柄の方へ畳んでいる。

「お前のイメージだと、俺って何振り回してると思ってた?」

「使ってほしくないですけど……バタフライナイフのような刃物のイメージでしたよ。でも壁や床を壊してきたみたいですし、意表を突いてツルハシも在りかと思ってました。白のタンクトップにヘルメット姿というのも、なかなかお似合いかもしれませんよ?」

強打された左肩をさりげなく上げてみる。顔には決して出さなかったが、劈くような痛みがはしった。再度同じ箇所を攻撃されれば、間違いなく使いものにならなくなるだろう。

キュッと唇を緩く結び、伶子は跳び出す。伸ばした右手の鉤爪は警棒で防がれてしまったが、外向きに体を反転させて相手の横へと回り込み、怪我を負わされた左肩を仕返しとばかりに切りつける。

「ってぇ〜!」

声を尖らせながら上半身を捻って得物を横薙ぎしてきたが、伶子は咄嗟にしゃがみ込んでそれを回避し、逆に腰から太腿にかけて爪を立て、服と肉を裂いた。

レオンの血がこめかみに降りかかる。しかしその直後、そこを狙いと定めたかのように脚を出され、蹴り飛ばされた。

「ぁ、う!」

壁に衝突し、今度は右肩を擦り剥くも、それ以上にこめかみの激痛に気を取られてしまう。

揺らぐ視界に瞬きを繰り返しながら傷口に触れてみる。水のような濡れた感触ではあったが、冷たくなどなかった。

(やっぱり血が出てますね……)

指先で軽く撫でた程度にも拘わらず、濃厚な赤がたっぷり付着している。頭に近い箇所だから尚更だろう。

「ったく、痛ェっての!意外に切れ味抜群なんだな、その鉤爪」

目を眇めてよろよろと立ち上がれば、既に男が側に佇んでいた。反射で腕を出すものの、警棒で手首を打たれ、更には胸倉を掴まれる。

バシッ――――!

まずは頬に平手を一発。それを皮切りに、拳を連発。膝蹴り、裏拳、警棒による殴打、突きなど、全身至るところに傷を負わされる。鮮血が衣類にじわりと滲み、露出した肌の上を重力に従って零れ落ちてゆく。

……どれだけ嬲られていたのかは分からない。ほんの数秒の間のことだったのかもしれないが、一つ一つ痛みが重ねられるごとに、まるで華の花弁を一枚一枚、毟り取られ踏み潰されているような錯覚がした。

(私、このまま……死……)

死ぬまで延々と、この暴力は続けられるかもしれない。絶望に意識が遠のいたそのとき、小さな振動を感じた。

「……ウツギ、てめぇ!」

「ウ……ッギ、さん……」

「さすがにもう、黙って指を咥えているのは無理だ」

いつの間にか体は床の上に転がっていた。腫れ上がった所為で重く閉ざられていた瞼を持ち上げ、首を横へと倒す。

離れた場所で得物を振るうレオンの姿と、それによってウツギの体が崩れ落ちる光景が目に焼きつく。(………!)

喜悦に歪んだ口元、狂喜が滲んだ瞳。男の横顔にぞっとした。

しかしそれ以上に、胸の奥底から湧き上がってきたのは怒りだ。アルコール度数の強い酒を一気に煽られたかの如く、体内で熱が暴れ出す。

「い、い加減に……しろよ、レオン……!」

肘を立て、それを支えにして上半身を起こす。駆け巡る痛みよりも、今は憤怒の方が断然上回っていた。

女性の胸倉を掴んでいた男の口角が三日月形に広がる。

よろめきながらも立ち上がった伶子は滾る思いそのままに、吼えた。

「その汚い手を離しやがれ!ぶっ殺してやる!」

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