其の参拾壱:理由
ソーサーにカップを置いた細い指先を一瞥し、伶子は改めて恩人を注視する。
後頭部に纏め上げられた、黒というよりも青墨色に近い髪。亜麻色の瞳を縁取る一重瞼は、顔のパーツとしては小さく見えてしまうものの、眦が若干吊り上がり気味な為か、形良く整えられた柳眉によく映えている。上向きの鼻の左横には黒子が一つ。瑪瑙色の口紅を刷いた唇は目元に反して口角が下がっているが、だからといって不機嫌というわけではなさそうだ。同性だからか、ついついほうれい線や目尻の皺といった箇所が目についてしまったが、手の甲や爪の先に塗った躑躅色のマニキュアを見る限りでは若々しさが垣間見れる。
(殺気が感じられず、レオンに突き出す素振りも見せなかったのでそのままついてきてしまいましたが……)
「あの……」
白いテーブルクロスを敷いた円卓に頬杖を付いて伶子を眺める彼女に声を掛けようとしたそのとき、赤い絨毯を敷いた大理石の床から地響きが伝わってきた。カタカタと建具や家具、食器類が小さく悲鳴を上げる。天井から降り注ぐシャンデリアライトが振り子のように揺れ動き、陰影が右へ左へと頼りなくぶれた。
「全く……相変わらず人の忠告を聞かない男だ」
一つ、舌打ちを落として女性は再びティーカップの取っ手に指を掛ける。
「とりあえずはまぁ、あの男の目を欺けたと言っていいと思う。ほんの少しの間しか、時間稼ぎはできないやもしれないが……」
カップを傾け中身を飲み干そうとする女性に、伶子は強く首を振る。
窮地に陥った自分の手を有無を言わさず引っ張って、鍵の閉まったあの部屋からそう遠く離れていない別室の、円卓の脚が完全に隠れるテーブルクロスの内側に匿ってくれたのはこの女性だ。レオンが現れたのはその僅か数秒後。まさに間一髪のところだった。
感謝こそすれ、非難する必要などどこにあるというのか。
「助けてくださりありがとうございました」
礼を口にして深々と頭を下げながらも、内心では助けてくれた理由について訝しむ。
先程彼女がレオンに語った口振りからして、やはりレオンは伶子には聞こえないテレパシーか何かで避難勧告を出していたらしい。
いくら牢獄に繋がれていたからとはいえ、次期皇帝や宰相の実弟。それなりの立場や権力もあるのだろうが、伶子がこれまで誰にも出くわさなかったことからして、やはりあの男の無法ぶりは同胞達にも周知の事実であり、故に速やかにこの建物を後にしたのだろうと思えてならない。レオンは当然のこと、ターゲットとされた伶子という佐保姫候補の存在も、決して関わりたくはない、云わば目に映すのもおぞましい腫れ物と認識されたに違いない。
(私を助けてくださったのは、私がレオンの“標的”だと思わなかったからでしょうか?)
しかし、ならばどうして彼女は未だここに留まっているのか。それにレオンが告げた『眼鏡掛けたちっこい女』という特徴からして、それが伶子だと思い至るのが自然だろう。
(いずれにしろ、助けていただいたのは事実です。これ以上ご迷惑をかけない為にも、ここを離れた方がよさそうですね)
下げていた頭を戻して口を開いた直後、伶子が入ってきた廊下と繋がる扉とは別の、おそらく隣室と繋がっているだろうドアのノブが音を立てて回転した。
(まさかもう……?!)
レオンが引き返してきたのだと戦慄し、得物を召喚すると同時に扉がゆっくりと開かれる。
小さな頭部に華奢な体、膝頭が隠れる長さのワンピース……白亜の建具の向こう側から現れた小さな人影は、予想だにしてなかったものだった。
「……え?」
どうして、という想いが胸中を渦巻く。
佇んでいるのは紛れもなく、仮死状態だと教えられた幼女だった。血の気を全く感じさせなかった丸い頬には赤みが差し、宇佐美の面影を感じさせる眦が下がった目元を眠たそうに擦っている。もう片方の手で扉の取っ手を掴んで寄り掛かってはいたが、長時間横たえられていたとは思えないほど、しっかりと自分の足で床上を踏み締めていた。
「ああ、おいで」
口を大きく開いて欠伸を漏らしながら女性の声に頷き、トテトテと擬態語がしそうな足取りで近付いてくる。寝起きとあって覚束無い様子ではあったが、それでもやはり一ヶ月弱横たわっていたと思えないほどに、足は真っ直ぐ動いていた。衰弱は一切感じられない。
傍に寄ってきた幼女を持ち上げ膝に乗せながら、女性は小首を傾げた。
「そういえば自己紹介がまだだったかな?私はウツギ。ここからあなた達の世界を見通し、佐保姫候補を見出す浄天眼の使い手だよ」
“あなた達”というのは紛れもなく伶子と宇佐美の姪のことだろう。つまり初めから伶子を佐保姫候補だと認知した上で助けてくれたことになるが、核心まではまだ遠い。ここは大人しく彼女の言葉に耳を傾けることにした。
「佐保姫に成り得る要素を持つ人間を見通すと、自然と私の手中に冥玉が創られるんだが……まぁそんなことはどうでもいいか。あなたを助けたのは、単にあなたをあの男の手に掛けたくなかったからだ。無論、一度レオンに体液を注がれ、本来の能力を消された所為で佐保姫としては力不足だろう点が否めないのも理由の一つだが……やはり嫌だろう?身も心も再びあの男に陵辱されるなど――――」
「当たり前ですよ!」
はち切れんばかりに膨れ上がった憤怒と底の見えない悲愴が綯い交ぜとなり、鋭い針に突かれた風船のように暴発する。耳を劈くまでに甲高くてヒステリックな声が出てしまい、伶子本人も思わず顔を顰めるが、これは心の底からの悲鳴だ。
頬にかかる息遣い。肌の上を這う長い指先。濡れた舌の感触。鼻腔いっぱいに広がった、錆びた鉄の臭い。口腔内を蹂躙する鮮血の味。殴られ、蹴られた箇所からじわじわと湧き起こる熱。下肢からは引き裂かんばかりの激痛。そして……ボロボロになっていく自分を至極喜悦した表情で見下ろす男の加虐な笑み。
……三年も前の出来事だというのに、まるで昨日のことのように思い出せてしまう。どれだけ消し去りたいと願っても、春風如きでは易々と飛ばされてはくれない記憶。忘れられないのはきっと、脳に、体に、心に、一生塞がらない裂傷を刻み込まれたからだ。
両眼に熱いものが滾り、それを堪えようと固く瞼を閉じる。そうしたことでレオンの唇の感触が様々と蘇ってしまい、堪らず袖口で何度も触れられた箇所を擦った。
荒波立つ胸の内が漸く静まり、嘆息を吐きながら顔を仰げば、ウツギの膝上で大人しくしていた幼女と目が合った。伶子の喚き声に、完全に目が覚めたらしい。愛くるしい双眸を真ん丸に見開いて驚愕を剥き出しにしている。
(逆上のままに子どもの前で大声出すなんて……)
咄嗟に微苦笑を取り繕うものの、やはり羞恥心が先走り、顔に熱が集中してしまう。
「えっと……私、宇佐美甲斐先生の教え子で桜原伶子といいます。お名前教えていただけますか?」
幼女の目線と水平に合うよう膝を曲げて小さな顔を覗き込む。極力破顔を試みてジッと見つめていれば、大輪の花が咲いたかのように満面の笑顔が返された。
「宇佐美七愛海、四歳です!甲斐おじちゃんの姪っ子です!」
弾むように明るく元気漲る声にますます笑みを深めながらも、どうしても気になったことが一つ。
(何となく宇佐美先生、“おじちゃん”呼ばわりは嫌がりそうな気が……)
授業の際、伶子を見る度に見せていた不機嫌な表情を思い出して思わず苦笑する。出題する問いに伶子が正解する度に悔しげに、今にも舌打ちを落としそうな顔をしていた。自分だけにそのような態度をとる宇佐美を、残念に思いながらも微笑ましく感じていたのだが……今は胸が苦しくなる。
(宇佐美先生にキスした直後、レオンと……ですからね)
「ウツギおばちゃん。おやつ食べてもいい?」
「あまり食べ過ぎないように」
はーい、と喜々して皿に盛り付けられた焼き菓子に手を伸ばす幼女を眺めながら、伶子は質問をぶつけた。
「この子は仮死状態にされてると聞きました。実際、体温を感じらず、脈がなかったのを確認してます。一体どういうことなんですか?」
「夫から頼まれたんだよ。ずっと仮死状態にしていては体力や筋肉量が落ちて、向こうに戻ったとき、まともに体が動かせなくなるかもしれない。だからといって生身のままここに長期間滞在させれば、どこかしら異常をきたす恐れもある。だから支障が出ないよう度々仮死状態を解いていたんだ」
手に取ったクッキーを頬張りながら、七愛海は伶子とウツギの間に視線を彷徨わせている。内容が理解できずとも、自分のことについて話し合っているというのは、何となく感付いているらしい。気にならないはずがないだろうに、雰囲気を酌んでか、口を挟んでこようとはしなかった。
小さいのに良くできた子だと、こっそり感嘆しながら次の質問をした。
「あと、さっき仰っていた、体液を注がれて本来の能力が消えたって……どういうことなんですか?」
一瞬ではあったが、瑪瑙色の唇が薄っすら開かれて閉じられる。逡巡を覗かせつつも、ウツギは意を決した様子で理由を告げた。
「佐保姫候補に対し犯してはならない禁忌だよ。数ある禁忌の内一つに、冥玉を使う能力が失われるという過去の事例から、冥界の使者は候補に体液を与えてはならないという掟がある。夫に聞いたかもしれないが、レオンが牢に囚われていた主な原因がそれだよ」
(夫ってもしかして……)
学校を欠席した日、“World cross”での会合が脳裏に蘇る。独房に閉じ込めているという話は聞き及んでいたものの、てっきり罪状は伶子に暴力行為を働いたことによるものだと思っていた。勿論、婦女暴行も罪に含まれていたのかもしれない。しかし重点罪種はその禁忌だったというわけだ。
どちらにしろ伶子を狙う獣は現在、自由の身。胸を渦巻く遣り切れない不快感はこの際、目を瞑ることにする。
「……最後に一つだけ。あなたも近江茉穂さんを佐保姫にとお考えですか?」
掌が湿りを帯びる。硬い声を努めて問い掛けたものの、心の奥底で、それを訊いて何になるのだと自問する声が響く。冥界にいる以上、伶子には茉穂、乃至は宇佐美の戦闘に手出しはできないのだ。
それでもこの女性の真意を知りたかった。彼女が伶子達三人を佐保姫候補にと見出したのだから。
「……私は誰でも構わないと思ってる。寧ろ、佐保姫などいなくても構わないとすら考えてるよ」
「え……?」
「如何なる運命も受け入れるつもりだからね。例え冥界が災禍に占領されようとも、それもまた一つの運命。シオンやリオンは立場上、佐保姫を据えるべく動かなくてはならないが、あなた達が抗い、佐保姫にならない覚悟を貫けば、当然災禍を倒す災禍は生まれない。……とにかく、私がこれからするべきことは、この子はちゃんとあちら側に帰すことだ」
口の中に含んでいた物を飲み干してから、七愛海は自分の髪を梳くウツギを仰ぎ、その小さな唇を開いた。
「七愛海、もうすぐ帰れるの?」
「ああ。すまなかったね、私達の我儘でずっとこんなところに閉じ込めてしまって」
「甲斐おじちゃんに会えるのは嬉しいけど、帰ったらウツギおばちゃん達にもう会えなくなるんでしょ?そんなのやだよ……」
じわりと涙を滲ませ、幼女はウツギの胸に顔を押し付ける。胸元を握り締める手が小さく震えていた。小首を振りながら嗚咽を漏らすその様子だけで、別れを惜しんでいるのが充分窺える。
七愛海はまだ小さい。母親代わりをウツギが務めていたのだろう。
「寂しいのは私も同じだよ。でも七愛海にはまだ、やってもらわなければならないことがある」
「ちょっ?!ウツギさん?!」
これ以上七愛海を巻き込むつもりかと息巻いた伶子を掌を向けることで制し、浄天眼の持ち主は目を細めて幼女に微笑んだ。
「……七愛海にしかできないことなの?」
「ああ。伝言を頼みたい。私と伶子嬢の身が危険だと報せるんだ。リオンでも、あなたの叔父さんでも、この際誰でも構わない」
「危ないなら三人一緒に行こうよ!」
袖を引っ張る幼女にウツギは緩やかに首を振って、それはできないと告げる。
「私の転移能力では、大きさ的に七愛海くらいが精一杯だろうからね。……本当はあなたも一緒に飛ばしてあげれたらよかったのだが……」
申し訳なさそうに肩を窄める女性に、伶子は苦笑を浮かべた。
「七愛海ちゃんを無事にあちらに送ってくださるなら、一先ず安心です。……でも、急いだ方が良いかもしれませんね」
どうも胸騒ぎがして止まない。建物を崩壊しながらというやり方で伶子を捜索していたレオンの気配は、破壊による地響きで感じられた。それが先程から音沙汰なしだ。ウツギの忠告を念頭に入れたとはとても思えないが、単にここまで騒音が耳に入らないくらい地階に向かったのならいい。しかし標的は伶子だ。先日レオンには速力を測られている。とても楽観できる要素などなかった。
ふとこの場にいる誰のものでもない視線を察し、瞠目する。
(あ……あ、ぁあ……!)
背筋が凍り、全身の毛穴から脂汗が滲み出す。震える指先を手の内側に包み込みながら、視線を感じる方向……廊下へと繋がる扉を見遣った。
眦が猫のように吊り上がった金茶の瞳が二つ、僅かに開いた隙間から覗いていた。目が合った瞬間、高い鼻梁の下にある唇がニィと歯を見せて弧を描く。
産毛が逆立ち、悪寒が全身を慰撫した。心臓が力いっぱいにビートを刻み出す。
「みぃーつけた」
けたたましい音を立てて蝶番を弾きながら建具が吹っ飛ぶ。
舌舐めずりする獰猛な獣の眼差しに、竦み上がる肢体を振り切るようにして、伶子はウツギと七愛海の前に飛び出した。右手で空を掻くように鉤爪で薙ぎ払う。威嚇にもならない真似事ではあるが、そうでもしなければ気圧されて萎縮しかねなかった。
「ウツギおばちゃんっ!」
幼女の切羽詰まる叫びに振り返れば、彼女の体が闇に呑み込まれようとしていた。足元、右腕、腰、肩……徐々に姿が眩まされてゆく。意識が遠のいているらしく、辛うじて片方の瞼だけ開かれていた。
咄嗟に伶子は口を開きかけたが、拳を強く握ってそれを堪える。気を失わせようとしているのは、向こうに送られた際に後遺症を残さない為だろう。吐き気、眩暈、平衡感覚の皆無……それらの不快感を四歳児が長時間味わうのは非常に酷だ。実体験した伶子にはそれが身に染みてよく分かる。
「七愛海。私がさっき言ったこと、ちゃんと届けておくれよ。……今までありがとう」
「ウツギ、おばちゃ……」
幼女の瞳が完全に閉ざされると同時に、その姿は闇に紛れ、消え去った。そして七愛海の後を追うようにして闇もまた、跡を濁すことなく消滅した。
「んじゃ、お見送りはそのくらいにして、おっぱじめようか」
片目を眇ませ不敵に笑みを刷く男。
震えそうになる心身に鞭を打ち、唇を噛み締めて男を睥睨する少女。
二人の動向を静かに見つめる女性。
緊迫する空間の中、真っ先に床を蹴って先手に出たのは――――伶子だ。
扇を広げたような睫毛を更に強調させ、大きく目を見開く茉穂。そんな彼女を静かに見下ろし、シオンは愛おしげに相手の頬に手を這わせる。指先で擽るようにして柔らかい肌を撫でてみるが、告げられた言葉からそう簡単には立ち直れないらしく、瞬きさえ忘れ瞳孔を小刻みに震わせている。
(やっぱり気付いてなかったんだなぁ)
想い人の鈍感さに少なからず落胆したものの、相手を驚愕させた一種の意趣返しに、少なからず胸が空いた気分になる。
思いもよらぬ告白を受けた茉穂に、今の自分がどう映っているか、不安がないわけではない。身体にこそ傷を負わせなかったが、誇り高い気丈な心を踏み荒らした自覚はあった。
唐突に姿を現して災禍と闘うことを強要し、他人を犠牲とした逃げ道を用意し、ついには彼女の知人を巻き込んだ。果てに、結果など火を見るより明らかであるはずなのに、培った想いをぶつけてしまった。
冷め止まない驚きの表情そのままに、茉穂が唇を開く。
「こんなときに何、冗談なんか……」
「冗談のわけないだろ!」
唐突に声を荒げられたいう理由よりも、優男の外見どおりのシオンが声を張り上げるという姿を初めて目にしたからなのだろう。茉穂の肩が上下して怯んだ様子を見せる。
咄嗟に「ごめん」の一言が零れかけるが、寸でのところで思い留まった。
告げた想いを拒まれたり、否定的な台詞を口にするのは寧ろ当然の流れだと、想像するに容易かったはずだ。しかし、いざそれを体言してしまうと胸が軋み、今まで認識したこともない、獰猛な邪心が牙を剥く。
「……何を血迷ったか知らないけど、あたしにそんな感情向けるのは不毛でしょ」
怒りで視界が赤く染まるというのは、まさにこのことかもしれない。首筋から頬にかけて熱が滾る。ここまで激情に駆られたのは初めてだった。
視線を外し、俯いた少女の肩を強引に掴んで、もう片方の手でその小さな顎を鷲掴みにする。大きな双眼が更に見開かれて、その黒い瞳を覗き込めば、剣呑な鋭い光を宿した己が映っていた。
そんな自分の姿が徐々に近付いてゆく……。