其の参:事情
瞼越しに朝の日差しを感知し、ゆっくりと双眸を開く。
白い壁紙を貼った天井。銀縁のジグソーパズル。花柄のカーテン。数日前に掃除したばかりのエアコン。
一日のはじめに飛び込んでくる、見慣れた光景。
(……目覚ましが鳴る前に起きるなんて、珍しいですね)
ベッド脇のスタンドに置かれた目覚まし時計に手を伸ばそうと上半身を起こしたとき、コンコンコンとドアをノックする音と共に「伶子ちゃん、起きてる?」と声がかかった。
「あ、はい!起きてます」
まさか寝ている間に電池が切れたのかと慌てて時計を確認するが、時刻は六時十分。いつもの起床時間より五分余裕がある。秒針も一定感覚で時を刻み、異常は窺えない。
ホッと胸を撫で下ろしたところでドアが開いた。
「おはようございます、広江さん」
「おはよう、伶子ちゃん。具合はどう?体、起こして大丈夫?」
心配そうに眉尻を下げながら問う義母に、思わず首を横に倒す。
「体……?」
額に手を当ててみるものの、特別熱いわけでもなく、喉に違和感もない。スンと鼻を鳴らしてみたが、鼻腔も詰まっていない。スムーズに深呼吸できた。
風邪をひいた覚えもなければ、体のどこかに外傷を負ったような痛みもなく、義母の心配する理由が分からなかった。
「もしかして覚えてない?昨日の晩のこと……」
“昨日の晩”というキーワードにハッとする。
置き去りにされた数学ノート。校門前で停車した自転車。図書室の窓。蛍光灯の点いた学び舎。廊下に佇む巨体。哄笑する蛇。閉ざされた扉。
「……宇佐美先生」
二の腕に鳥肌が粟立つ。
眼球の嵌まっていない化け物から放たれた触手で首を絞められ、窒息しかけた数学教師。眉間に深く皺を寄せ、酸素を取り込もうと薄い唇を開き、口の端から涎を零しながら苦痛の表情で伶子に訴えていた様子が、徐々に蘇ってくる。
……まるでフロントガラスに降りかかる水滴をワイパーで幾度と往復させ、視野を鮮明にするかのように。
「薄っすらと覚えてる?貧血で倒れた伶子ちゃんを送ってくださったのよ」
「……はい?」
(貧血?誰が?)
頭上で疑問符が飛び交う伶子に構わず、広江はホッとした様子で伶子の頭を撫でる。
「とにかく、その様子だと学校に行けそうね。ちゃんと宇佐美先生に御礼言いなさいね」
「あ、はい」
義母が部屋を出て行ったのを見届け、瞬きしながら昨晩の出来事を脳内で反芻してみる。
宇佐美の四肢を奪っていた触手を切り裂いたのは、伶子の嵌めたグローブから剥き出た鉤爪。それは最後、あの金と紫の皮をした蛇を突き刺し、絶命させた。
……あまりにも非現実的過ぎる。
(やっぱり貧血を起こして、夢でも見てたんですかね)
けれども例え夢だろうと、自分に死が近付いていたことよりも、目の前で命の灯火が消えかけているのを歯痒く見ているしかできなかったことの方が、より恐怖感が強かったのは覚えていた。
教室に一番乗りした茉穂はすぐさま自席に駆け寄り、机の中の物を掻き出した。
一週間に一度しか使用しない教科書をはじめ、開いた形跡のない参考書、無くしたとばかり思っていた電子辞書、クラスメイトから回ってきたくだらない伝言のメモ用紙、芯の折れた鉛筆、更には封の開いていないクシャクシャのラブレターまで出てきた。
裏返せば“三年 鈴木”と右上がりの角張った字。
(ごめんね、どこぞの鈴木先輩!)
胸中で顔知れぬ鈴木少年に謝罪するものの、反省の色は全くない。まともに受け取ったとしてもお断りする確率の方が高いし、正直今はそれどころじゃない。
「これでもない」、「また違う」、と歯軋りしながら掘り出し物を次々床に落としていく。
ぞろぞろと二年八組の生徒が教室に足を踏み入れるが、誰も茉穂に挨拶しない。固唾を呑んでその様子を見守っている。
躍起になって机の中を穿り返す茉穂とて、そんな周囲を気にしちゃいなかった。
目的の物が中々見つからず、自身の整理能力の低さに不快指数がボーダーラインに達しようとしていたとき、ようやくそれが発見された。
「あったぁ〜……」
胸に掻き抱き、腹の底から大きく息を吐き出しながらしゃがみ込む。
「……おはようございます、茉穂ちゃん」
椅子を引く音と被さった、怪訝なニュアンスを潜ませた声に顔を上げれば、声を体現した面持ちの伶子が茉穂を見下ろしていた。
「あ〜……おはよぉ、伶子〜」
「何か、朝から随分疲れてますね。それにやたら物が散らばってるんですけど……」
「あ、はははは。うん、心配事が杞憂だったことにホッとしてたとこ。ノート、ありがとね」
両腕で抱き締めていたキャンパスノートを持ち主に返し、先程までの不機嫌はどこへやら、鼻歌を歌いながら床に放っていた教科書類を再度机の中に戻していく。
その量は明らかに収納スペースの容量を超えていて、茉穂の様子を始終見守っていた級友達は、まさか四次元に繋がっているのでは、と青褪めていた。
茉穂が伶子の数学ノートを探していたのは、昨晩、男の言っていた介入者が伶子でないことを確認したかったからに他ならない。万一、伶子が深夜の校舎に侵入してノートを取りに来ていたのなら、茉穂の机から消えて伶子の手に戻っていたはず。
……けれどもノートは茉穂の机の中に放置されたままとなっていた。
(本当は手っ取り早く本人に訊くのが一番なんだけど……訊けるはずないじゃない)
昨日の晩にノートを取りに来たかと問い、イエスと答えられたら……考えるだけで背筋が凍る。
着席し、両手で顔を覆い溜息を押し殺したとき、チャイムが鳴った。タイミングを図ったように、教壇側の扉が横にスライドする。
いつもなら、SHRに現れるのは担任の女性教諭のはずなのだが――――
「チャイム鳴ってんだ。席に着け!」
現れた宇佐美を目にし、生徒は全員怪訝な顔をする。
「あれ?ウサちゃん?」
「ピョン吉先生、まだ一限のチャイム鳴ってないッスよ〜」
「つーか、今日は数学ないっしょ」
騒ぐ生徒を教壇から見渡し、若い数学教師はニヤリと口元を緩ませた。不敵に笑みを漏らす様子にほとんどの女子生徒が色めき立つ。美形の顔には見慣れつつあった茉穂も例外ではなく、微かに胸を高鳴らせた。
けれども唯一の例外と言って過言でない、茉穂の前に座る伶子にとっては、嫌な予兆にしか捉えられなかったらしい。制服の上からでも瞭然なまでに、肩を強張らせている。
「田中先生は暫く産休だ。復帰されるまでの間は、副担任の俺が代理を務めることとなった」
「は?!ピョン吉先生、うちのクラスの副担だったの?!」
「一年の政経は教頭が教えることになったんだが……二年のお前らには関係ねぇな。んで、田中先生が顧問してたチアリーディング部も、俺が顧問代理だ」
(え、ちょ……チア部って)
宇佐美から伶子に視線を遣れば、背中にどんよりと暗い影が漂っていた。普段はウエーブのかかった黒髪に隠れている首筋だが、露わになるほど深く項垂れている。
春休みには野球部の応援で晴天下に駆り出されることが多かったらしく、顔や太腿など露出している箇所は目に見えて日焼けしているのが分かるが、首の裏側はそれほど焼けなかったらしい。
「ウサちゃ〜ん、チア部じゃなくてブラバンの方来てよ。中島先生をチア部にあげるからさぁ〜」
「中島先生が産休になったら考えてやるよ」
ありえない、と教室内が爆笑の渦に包まれている中で伶子がポツリと独り言を呟いた。
「……中島先生、産休にならないでしょうか」
(いやいや、中島、男じゃん!)
後席の茉穂だけが伶子の言葉を耳にして、胸中でツッコミを入れた。
幸い、教卓に立つ宇佐美には後方に座る伶子の小声が届かなかったようだ。
「最後の連絡事項だが、その中島先生が風邪をひかれてな。一限の物理はお前達の大好きな数学に変更だ」
即時にブーイングの嵐が巻き起こるが、嵐の引き金を引いた教諭が更なる油を注ぐ発言を醸し出す。
「安心しろ。教科書とノートはいらねぇ。今から配る小テストで今日のところは勘弁してやる。ただ、結果は成績として評価するからな」
生徒による阿鼻叫喚が飛び交う最中、茉穂の前に座る小柄な少女の上半身が力なく突っ伏した。
「伶子〜。昨日復習できなかったくらいでそんな落ち込まなくても平気っしょ、あんたなら」
むしろ本当に心配すべきは、最近授業をろくに聞いていない茉穂の方だろう。
マイクから響くチャイムを耳にした宇佐美が、腕時計で時刻を確認する。それを横目で眺めていたらバッチリ視線がかち合い、瞬時に顰め面された。
思い返せば、今日はやたら宇佐美と視線がぶつかった。目が合えば眉間に皺を寄せ、嫌な顔をされたが、その度に昨晩の出来事が頭の中で過ぎり、どうしても気になってしまう。
あまりにも非現実的すぎて、性質の悪い夢のような体験。義母は貧血を起こして気絶したと言っていたが、夢だと一言で括ってしまうには、あまりにも生々しい。
胸を突き破りそうなまでに膨大した恐怖と鼓動。満足に息ができず、もがく宇佐美。指のない皮手袋、そこから伸びた鉤爪。何より、その凶器で巨体の体を裂き、あの禍々しい色をした蛇を絶命させた……。
冷たい蛇皮の表面、緊張で筋肉を強張らせた細長い生き物を圧迫した感触――――。
瞼を伏せれば瞬く間に蘇る。
(あれは……本当に夢?)
否と選択し、宇佐美に真実を問う行動を起こすべきか。はたまた夢という烙印を押し、忘却というスイッチを選ぶべきか。
「じゃ、チャイムも鳴ったことだし、今日の練習はここまで」
組んでいた足を解いてパイプ椅子から立ち上がった宇佐美は、部長を呼び出し一言二言告げると体育館を後にした。
「一年、足並み揃ってなかったよ!揃うまで居残りだからね!二、三年は後片付け。あ、でも桜原さんはいいから」
「はい?」
「宇佐美先生が、着替えたら数学準備室に来いって。……何か物凄く怖い顔してたけど、大丈夫?」
(全っ然、大丈夫じゃないです!)
「お、お先に失礼します」
青褪めた顔で回れ右をして即、更衣室に足を運んだ。
運動で紅潮していた頬が一瞬にして色を失ったことに先輩後輩は訝しむが、同級生は呑気に伶子の背中に手を振った。
宇佐美教諭が桜原伶子を敵視しているという事実、実はニ学年の生徒の間だけの暗黙の了解だったりする。伶子が宇佐美の出す問題を解けなくなる日がいつか、などというトトカルチョが生徒間で行われているとかいないとか。
それはともかく、体操服から制服に着替えた伶子はすぐさま数学準備室へと向かった。待たせている間に更に機嫌を悪くされては困るからだ。
「桜原です。入ります」
四回のノックの後、了承が室内から返ってきたのを鼓膜で受け止め、ドアを開ける。そこから漂ってきた紫煙の臭いに双眸を眇め、思わず口に手を当てたくなったのを寸でのところで留めた。
(そういえば宇佐美先生ってヘビースモーカーでしたね)
三分の一ほど窓が開いていたが、大した消臭にはならないようだ。
窓枠に背を凭れ、外を眺めながら煙草を口にするその姿は、モデル雑誌に載っていても不思議じゃない。小さな顔に細い指、長い手足。ファッションセンスも悪くない。女子が格好良いと騒ぐのも、こうして眺めれば確かに納得できた。
けれどもどうして見た目より性格を重視しないのか、宇佐美に絆されている生徒を訝しんでしまう。邪険にされたくないので口にしたことはないが。
「突っ立ってないで適当なところ座れ」
紫煙を吐き出す宇佐美となるべく視線を合わさぬよう、正面のデスクと向き合う形に設置された古びたソファに腰を落とす。それを目の端で留めた宇佐美は窓枠から離れ、今度は行儀悪く机に浅く腰掛けて近くに置かれた灰皿に煙草を押し付けた。
「えっと……昨日は貧血で倒れてたところをわざわざ自宅まで送ってくださりありがとうございました。あと、自転車も駐輪場に置いてくださったんですね」
頭を下げる伶子に鼻を鳴らし「んなことどうでもいい」と一蹴する。
「つーか貧血?あれはお前の母親を納得させるための言い訳だ。お前、昨日の晩のこと、夢だとでも思ったか?」
思ってないくせに。そう睥睨する宇佐美の眼差しに、胸が震えた。部屋の空気が一気に冷やされた錯覚がして、両手を軽く擦り合わす。
「じゃあやっぱり、昨晩のことは事実なんですね」
宇佐美は胸ポケットから取り出したシガーケースから新たに一本煙草を抜き、咥えて火を点ける。息を吸い込み、紫煙を吐き出すまでの仕草を、伶子はジッと見つめた。
「俺の住んでたアパート、老朽化が酷くてついに建て替えすることになってな。先月、否応なく追い出された。新社会人や学生になる奴らが溢れるそんな時期だ、空きのワンルームなんてありゃしねぇ。それを理事長に相談したら、夜間校舎の警備する代わりに宿直室貸してやると言われてな」
「え?でも警備員さんがいるんですよね?」
「私立のくせに経費削減だと。まぁ前の警備員は定年で、契約は昨年度までだったらしい」
微かな灰を皿に落とし、宇佐美は続ける。
「そんなとき、仕事で一ヶ月日本を離れなきゃならなくなった兄夫婦に頼まれて、姪を預かる破目になった。春休みが終わるほんの数日前だ」
(宇佐美先生のお兄さん、宇佐美先生が学校の宿直室で暮らしてるって知ってたんでしょうか……?)
「その日の夜だ。昨日お前が見たような化け物が現れて、俺の目の前から姪を攫ったのは」
「!」
目を瞠る伶子を一瞥し、宇佐美は再び手の中の紙筒を咥える。
「消火器持って暴れ回った。けど歯が立たねぇ。化け物に殴られ蹴られ、地面に這いつくばされて死を覚悟したとき、化け物と一緒にいた男が俺にゲームを持ちかけてきた」
「ゲーム……?」
紫煙を吐き出し、短くなった煙草の火を灰皿で揉み消す。
「毎晩、冥界から災禍と呼ばれる化け物が召喚される。それを倒せばその日はクリア。一ヶ月、倒し切れば姪は無事帰すだと」
硬く握り締められた拳が、怒り任せにデスクを叩く。灰皿の中で山盛りになった煙草は飛び上がり、伶子もまた、大きな音にビクついた。
「くそっ!ふざけやがって……!」
宇佐美の口からギリッと歯軋りが鳴る。ジッと、床を親の敵のように睨みつける彼を、伶子はただ黙って見ているしかできなかった。下手に慰めの言葉をかければ、却って宇佐美の神経を逆撫でるだけだ。
赤子の手を捻るかのように災禍と呼ばれる化け物達に嬲られ、その上目の前で姪を攫われる。唯一助ける手段が、相手から持ちかけられたゲームに参加すること。姪御のライフラインを繋ぐ方法となれば、否が応にも条件を呑まざるを得ない。
……自身の無力さを痛感し、プライドをズタズタに蹂躙されたことは、想像に難くない。
(どんなに抵抗しても、暴れても、それ以上の力で襲われれば逃げることさえ容易じゃない……)
瞼の裏に蘇る残虐な情景。眼球に熱が篭りそうになり、今重視するのは自分のことではないと頭振る。
夕日は西に沈み、室内も徐々に闇に溶け込もうとしていた。
「災禍を従えた奴は、俺に冥玉という想像力で武器を創る珠を置いていった」
「もしかして、昨日使っていた弓矢が……?」
「ああ。中学、高校と弓道、大学はアーチェリーを嗜んでたからな。武器はゲームの空間内、己の意思で出現させることができる。一度創造した冥玉は二度と他の形態に変わることがないってのが不便だがな」
「あの……先生は冥玉を二つ持っていたんですか?」
縦に首肯する宇佐美の顔が徐々に不機嫌さを増していく。
「ああ。どうしても近距離で倒さなきゃいけなくなったとき用に切り札として取っといたんだが……うっかり落とした物を、まさかてめぇが拾ってるとは夢にも思ってなかったぜ」
鋭く眼光を迸りながら睥睨され、伶子は肩を窄めつつも(私もあの珠の所為で転んだりして大変だったんです!)と、胸中で弁明するのだが、蛇に睨まれた蛙の如く縮み込むのが精一杯。本音をぶちまけるなど、とてもできなかった。
「……嘘を突き通しても良かったが、事実を語ったのは警告のためだ」
「え……?」
「半信半疑でまた校舎に侵入されたら堪ったもんじゃねぇ。これは遊びじゃない。ゲームの中でどんだけ重傷を負っても、終了すれば十分の一くらいに軽減されるが……」
ベルトの太い腕時計を外し、見せ付けるように突き出された手首。そこには太い縄を二重にして強く巻きつけたかのような、赤黒い痣が薄っすら浮かんでいた。
痛ましげに双眸を細める伶子の脳裏に、あの血色に染まった触手が蘇る。暗闇を思わすような真っ黒な眼窩から飛び出したものは宇佐美の四肢を縛り、絞め殺そうとした。
手首だけでなく、全身の至るところに同じような痕が残っているらしい。よくよく服装を注視してみれば、黒いハイネックを着ていた。
「怪我なら、この程度で治まる。致命傷でも、災禍を倒しさえすせばどうにか助かる。だが、殺る前に殺られたらそこでゲームオーバーだ」
「姪御さんが絶対に戻ってこない、という意味ですか?」
「それだけじゃねぇよ。俺の命もそこで尽きるってことだ」
息を呑み、瞬きを忘れ、伶子は眼鏡の縦幅に達するのではないかというまでに大きく瞠目する。
そんな彼女を静かに見つめる宇佐美は軽く息を吐き出し、告げた。
「昨日のことは忘れろ。ただこれだけは覚えとけ。今後絶対、門の閉まった校舎に入るな」