其の弐拾玖:禁忌
放った矢が敵の頬を掠り、そこから一筋の鮮血が零れ落ちる。それを拭う時間さえ惜しんでいるようで、ブルウィップを握る右手を振るうものの、打ちつけた場所から既に宇佐美は避難していた。パシッとリノリウムを叩く破裂音を耳にしながら新たに手中に白銀の矢を召喚し、素早く矢の末端を弦に番わせていつでも放てるよう体勢を整える。
(この前やり合ったときと比べたら、随分荒っぽい手捌きだな)
脇腹と脹脛に鋭く鞭の先を当てられたとはいえ、呻くほどではない。服を脱げば蚯蚓腫れ程度に赤い筋が残っているだろうが、これまでの経験上、ゲームが終了すれば痛みはおろか痕跡もなくなっているだろう。
向かってくる鞭を矢を飛ばすことでいなせば、舌打ちが零された。よほど思いどおりにいかない現状に苛立っているらしい。
(あいつの頭ん中、パニクってんだろうな)
リオンがまず第一優先としているのは、兄と交戦中である茉穂の元に訪れ、その命を狩ること。愚弟と罵る男の暴走を止めるのは、その次だ。
……言葉で表すのは簡単だが、どちらも一筋縄でいかないのは想像するに容易い。
連れ攫われた伶子を救出する為にレオンと対峙するのなら、宇佐美も協力する気がないわけではない。しかし冥界の宰相として、リオンは茉穂の命を狙うことを先行とした。
姪を人質にとった事実を踏まえ、そして教え子を守る為にも、宇佐美はこの場から退くわけにはいかなかった。
(つーか、ムカついてんのがてめぇだけだと思うなよ!)
『俺の側から離れんな。そしたらあのクソ野郎には指一本触れさせねぇよ』
そう断言したにも拘わらず、いとも簡単に奪われてしまった。突如出現した忌むべき敵を目の当たりにして、ほんの少し、少女から目を離した隙に。
(桜原、近江……七愛海!)
守りたいと思う存在がいる。しかし誰一人として守りきれた試しがない。その事象が何と歯痒いことか。
「……あなたは、事の重大さを分かっているのですか?」
「あぁ?!」
眇めた両眼で宇佐美を睥睨しながら、咽頭を震わせ、低音の声に静かな怒りを乗せて、冥界の宰相が剣呑に告げる。
「このまま災禍を冥界にのさばらせておけば、互いの世界の均衡が崩れ、いずれこちら側にも影響が及ぶ。素直に近江茉穂をこちらに差し出せば、あなたの姪御は帰します。……その気はないのですか?」
白皙の頬を激情に任せ赤く染め、真剣な表情を向けてくる相手を宇佐美は鼻であしらった。
「犠牲の上で成り立つ平和があるわけない、なんて綺麗事言う気は更々ねぇよ。だが生憎俺は、悪あがきしてどうにかなりそうならそうする性質なんだ。七愛海は絶対に連れ戻すし、近江は勿論、桜原だって佐保姫にはさせねぇよ」
伶子の名を口にした刹那、金髪の青年の双眸に悲愴感が滲んだ。彼の口から直接語られたわけではないが、一瞬覗かせたその動揺で、己の双子の片割れが宇佐美の教え子に何をしたのか、既に知っているのだと悟った。
「……うまく事が運んでいたなら桜原伶子、彼女こそが冥界の救世主となり得ていたはずなんです」
鞭を構えていた腕が下ろされ、宇佐美は警戒心を解かぬまま眉宇を顰める。
「てめぇの弟が桜原と初めて接触したのが三年前だったからな」
本来ならそのとき佐保姫が誕生していたかもしれない。
中学生の少女がたった一人で異界の化物と争い、傷付き、苦悩し、やがて殺されてこの世から姿を消す。そして死者の国でなおも、怨みが昇華されるまで戦いに身を寄せ続ける――――そんな過酷な運命に投じられそうになったというのだから、そうならずに本当に良かったと、密かに胸を撫で下ろす。
しかしそこでふと、一つの疑念が首を擡げた。
「そういや、どうしてそのときに桜原を佐保姫にしなかったんだ?」
「……今更それを訊きますか」
呆然と、弱々しく首を振りながらワザとらしく溜息を吐かれてムッと顔を顰めるものの、伶子の口からレオンとの接点を聞かされたときにその疑念が浮かんでもおかしくなかった。自分の迂闊さに思わず舌打ちが漏れる。
「先程の口振りだとレオンが彼女に何をしたのか、もうご存知なんですよね?」
「……ああ」
なら話は早い、と頷きが一つ返された。
「我々冥界とこちらの世界の住人とでは、見た目に大して差はありません。けれども性質まで同じというわけではないんですよ」
「どういうことだ?」
「……佐保姫候補を完全な佐保姫にする為、犯してはならない禁忌があります。あの愚弟は彼女にその一つを実行したんですよ」
「きゃあっ!」
滑らかな床にぶつかった、突き刺さらんとばかり勢いづいた鎌の刃先に驚いて悲鳴を上げる。あと一歩、踵を前に出すのが遅ければ腱を断たれていたかもしれない。一瞬で全身の血の気が引いた。現に額、こめかみ、掌、脇下、背中、内股など、全身のありとあらゆる箇所が汗でぐっしょりと濡れている。胸の内側も、まるでドライアイスを投下されたかのように冷たく、痛みを伴っていた。あまりの気分の不快さに、ついには二酸化炭素を圧縮した白い気体がもくもくと喉の奥から這い出てきそうだ。
(ヤバイ!ヤバイ、ヤバイ、ヤバイッ!マジでヤバイッ!)
両腕を大きく前後に動かし、腿を上げ、前だけを必死に見つめて逃げ惑う。正直、後ろを振り返る一瞬の隙さえも惜しい。隠れられるような場所はなく、かといって背後から迫ってくる男から逃げ遂せれるほどの脚力も持ち合わせていない。辛うじて、未だ無傷である現状を奇跡だと痛感しながら、今日ほど己の鈍足を呪ったことはなかった。
『絶対に無茶はすんな。命が危ないと思ったら形振り構わず一目散に逃げろ』
ゲームが開始される前に宇佐美より受けた忠告どおりの行動をとっているとはいえ、敵を振り切れない場合は一体どうしろというのか。副担任とはいえ、専門が数学である宇佐美は、茉穂の足がここまで遅かったことに考えが及ばなかったらしい。
(……つーかここ、一階じゃん!)
直感的に隣接する校舎に向かっていたつもりだった。しかしいつの間にやら渡り廊下のある二階を通り過ぎてしまっている。
闇雲に体を動かしていることも当然起因していると考えられるが、ほぼ恐怖や焦燥、動転による精神的なものが原因だろう。冷静に思考を働かそうと試みてもうまくいかない。
(あたしの馬鹿ーっ!このまま体育館に……って、だから外に通じる扉は全部開かないんだって!あ〜もぉーっ!伶子とウサちゃんどこよ?!)
四階から一階に下ったこの間に二人の姿は見えなかった。まさか四階より上、屋上に繋がる踊り場で戦闘を繰り広げていることはないだろう。やはり二階の渡り廊下から隣りの建物に移り、そのいずれかの廊下にいると考えるのが妥当だ。
(とにかくこの廊下を突っ切って、階段上がって渡り廊下に猛ダッシュ!)
そこまで今の速度を保てるか。否、そうしなければ命はない。すぐ後ろには大きな鎌を構えた死神が詰め寄っているのだ。少しでも足の動きを鈍らせれば首を刈り取られてしまう。
首を境に、頭部がスパンと切り離される想像が脳裏に描かれ、益々顔色がおかしくなっている気がしてならない。
(そんな死に方、絶対嫌!死ぬときは子どもと孫に囲まれて、旦那に手を握られながら老衰でって、決めてるんだから!)
突き当たりを曲がり、階段に足を掛けようとしたそのときだ。思いの外、体力を削っていたらしい。持ち上げた爪先が階段の先とぶつかり、つんのめる。
(ヤバッ……!)
壁に手を付き、どうにかこけるのを防いだものの、動きが一時停止してしまった。慌てて逆の腿を上げるものの、今度はそちら側の爪先が躓いてしまう。顔面が階段の段差と距離を縮めるその刹那、もう駄目だと身を固くし、前と後ろ、どちらの痛みが早く訪れるのかと胸の内で軽く皮肉った。
「………?」
上履きの跡の残るリノリウムとキスをする感触もなければ、鎌が空気を切り裂く気配も感じられない。一向にやってこない痛みを怪訝に思い、頑なに瞑っていた瞼を薄めに開いて、恐る恐る視野を広げてみた。
まず最初に焦点が合ったのは、オーバーパンツの上に履いたミニスカートから伸びる脚。体育の授業にしか俊敏に、また豪快に体を動かさず、好んでしょっちゅうファーストフードを口にしている所為か、たまに肉付きの良さが気にならないこともない、見慣れた自身のもの。その膝の影からは対災禍用に使用しているスニーカーが見え隠れしている。
つい先程まで駆けずり回っていたのを思い出したのか、即座に心臓が早いリズムで刻み出し、真紅のルージュを塗った唇からは決して浅くない息が吐き出され、同時に新鮮な空気を求めた。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」
緊張が限界値を越えた僅かな間には忘れていたというのに、今は茉穂の意思に背いて煩わしいまでに体が酸素を要求している。
(真っ先に文句をぶつけてやりたいのに……!)
肩で息をする茉穂の腰が優しく締め付けられる。ストライプのカッターシャツの上に羽織った、シックで上品なダークグレーのジャケット。それを上品に着こなしていた男の腕が、少女の腰に回っていた。
「一体……ど、う、いう……つもり、よ……っ?!」
声を途切れさせながらも、振り絞るように剣呑な色を含ませつつ、背後から抱き締めてくる男へ問いかける。
階段に躓き、転びかけていた茉穂の体は、後ろから抱き寄せるシオンによって支えられていた。彼が手を離せば否応なく床に顔を打ち付ける破目になるが、それ以上に今なお生きているこの状況が解せない。自分の命を狙って追ってきていた敵に助けられている現状は一体どういうことか。
「今のあたし、隙だらけでしょうが……!」
鼓動も呼気も、漸く落ち着きを取り戻す。しかしシオンの手に捕らわれた以上、もはやもがいて逃げ回るのは無駄な足掻きだと悟った。
こうして平常心になった今でこそ分かる。そもそも茉穂の全速力が彼のそれとイコールであるわけがないのだ。身長差による脚の長さは勿論のこと、加えて彼女は足が遅い。欠席だったシオンのタイムは分からないが、先日の体力測定で長距離、短距離ともに茉穂は学年でも後ろから数えた方が早い順位だった。
それらを踏まえれば、シオンがいかに茉穂を追いかけるのにワザと手を抜いていたのか、想像するに容易い。
どうしてこんな些細なことにさえ気付けなかったのだと、茉穂は自分に立腹する。
「……答えなさいよ。何?散々あたしを候補に奉り立てようとしてたくせに、やっぱり力不足って?こんなに足が遅い奴は、かえって冥界でも役立たずって言いたいわけ?」
ふざけるな、そう怒号を飛ばそうとしたそのとき、腰を掻き抱く腕に力が篭った。
「違う。前に言っただろ。『自分の決断を諦める気はない』って」
「それって、つまりあたし達の内一人を必ず殺すって意味なんでしょ?!死んで、冥界で一生、佐保姫という災禍となって、あんた達の飼い犬になるって――――」
「だから違うって言ってるだろ!」
唐突の叱責に茉穂は肩を跳ね上がらせる。間近で大声を発させられたというよりは、柔らかな面差しでいつもどこか申し訳なさそうな感情を双眸に滲ませていた優男に怒声を浴びせられたという事象の方が衝撃だった。
「俺が第一優先としているのは、君を佐保姫にさせないことだ」
「………は?!」
(え?!ちょ、どういうこと?こいつ、さっきまであたしに物騒な鎌向けてたよね?いや、でもそれはワザとだったわけでしょ?危うくアキレス腱切られそうになったりしたけど、結局手ぇ抜いて走ってたわけだし。つーか、思えば災禍と闘ってるときみたいに鋭い殺気、全然感じなかった。……こいつ、最初っからあたしを殺す気なんかなかったってこと?)
「ってことは、あたしの代わりに伶子かウサちゃん、どっちか殺すってことよね?!ふざけんな!」
シオンの右腕から逃れようと、ジャケットの上から爪を立てたり、上半身を捻ろうと抵抗感を露わにするが、それを咎めるように一層腕の力が強まった。内蔵を圧迫され、うら若き乙女にあるまじき呻き声がグロスで艶めく唇の隙間から零れる。それを捉えたらしく、すぐさま拘束は弱まったが、回された右腕が解かれることはなかった。
「ご、ごめん」
「……いいから、この腕離してよ。それでもって洗い浚いあんたの考え、吐け」
身体能力はおろか、冥玉で得た攻撃さえシオンの前では無力だと目の当たりにされた。彼と交戦する直前まで、相手を叩きのめして一生この世界と関わらないよう身をもって思い知らせてやろうとまで考えていたのに、逆に敵わないのだと痛感させられたのだ。屈辱を覚えないわけがない。
(伶子、ウサちゃん……マジごめん……!)
あまりの悔しさに涙が滲むが、それを相手に悟られぬよう湧き上がってくる嗚咽を堪え、強く下唇を噛み締める。硬く握り締めた拳の内側で爪が皮膚に食い込むが、そんな痛み、胸のそれに比べたらなんてことはなかった。
「……君達を正式な佐保姫にする為に、俺達は絶対やってはならない禁忌が幾つかある」
一つ、冥玉を渡さぬまま殺してはならない。
二つ、冥玉の力を解放させぬまま殺してはならない。
三つ、災禍に怨みを抱かせぬまま殺してはならない。
「そしてもう一つ、冥界の使者の体液を候補者に与えてはならない」
「あんた達が取り決めた掟とか、そんなの――――」
関係ない。そう口にしようとしたところでふと疑念を抱く。
一つ目と二つ目は問題ないだろう。既に茉穂を含めた候補者三人は冥玉で武力を創造し、使いこなしている。三つ目も、人であった頃どんな不幸な死を遂げたかは知らないが、今となっては茉穂を苛立たせる生き物でしかない。きっと宇佐美も姪を攫った世界に生息する天敵と認識しているだろうし、伶子も……多少なり同情をしているやもしれないが、敵と捉えているのは間違いない。
その伶子が冥界の者とファーストコンタクトをとったのは三年前だ。
「ねぇ、冥界の使者っていうのは災禍のことじゃないよね?」
災禍と闘う期間に茉穂は三ヶ月、力不足と言われていた宇佐美でさえ一月の期間が設けられていたにも関わらず、伶子が災禍と闘ったのは僅か二週間程度。いや、そもそも三年前に冥玉を手渡されてなかったのだろう。
「使者っていうのは俺やリオン、レオンのことだよ」
歯を剥き出して舌打ちする。
つまりレオンは自身の世界を顧みずに伶子を性欲の捌け口としたのだ。
(マジであいつ、クソ野郎だ……!)
災禍よりも背後にいるシオンよりも、まずレオンを縊りたい。息の根が尽き、その顔を刃物でぐちゃぐちゃにしても、きっと腹の虫は収まりそうにない。親友を辱めた女の敵。罪状はそれで充分だ。
(あれ?でも……)
「掟を犯された候補はそこで候補じゃなくなるわけじゃないの?」
そもそも掟を作るくらいだから、裏を返せばそこにリスクがあるということだ。
「過去に、レオンみたいな無法を働いた例があった。被害に遭った候補は二度と冥玉で得た武器を召喚できなかったり、そのまま殺されて他の災禍と変わりない成り果てとなって冥界に堕ちたよ」
「じゃあ何で伶子は佐保姫候補の一人としてここにいるわけ?だってあの子の鉤爪、冥玉で創り出したものでしょ?!一体どうなってんのよ?!あんたが私をあたしを佐保姫候補にさせようとしない理由とか、もうわけ分かんないし!」
癇癪を起こして地団駄を踏む茉穂の後ろ髪が微かに揺れた。首筋を擽った毛先と頭の天辺に浴びせられたぬくもりを含む空気で、シオンが吐息を漏らしたのだと察する。
「ちょっと!溜息吐きたいのはこっちだっての!」
「……君を佐保姫にさせたくない理由、本当に分からない?」
肩を引かれ、強引に壁に体を押し付けられる。前振りなく肩と背中が固い平面とぶつかり、その痛みに顔を顰めつつも、茉穂は気丈に、目の前に立つ冥界の皇太子を睨み上げた。
しかしその鋭く尖らせた眼光は次の瞬間、驚愕に彩られる。
「茉穂が好きだから、佐保姫になってほしくないんだ」