其の弐拾捌:嗜虐
気分は最悪といえど拘束はされていない。つまり反撃を許されている状況下にあった。
立ち上がろうと膝に力を入れてみるが、未だリンパ液が三半規管内を駆け巡っているのか、強い眩暈のあまり再び真っ赤な絨毯の上に屈する。あまりの体調の悪さに吐き気さえ催しかけていた。できることならこのまま横たわって気を失いたいところではあったが、実際そんなことをすればソファーで小気味良くこちらを傍観している男に何をされるか分かったものではない。
(せめてもの救いは、レオンがそれほどせっかちな性格でなかったことですね)
彼の双子の兄である冥界の宰相と腰を据えて話し合ったのは一度きりとはいえ、他者に邪魔されないよう外堀を埋めておくという、丹念且つ余計な犠牲が出ないよう慎重な性格をしているのは何となく窺い知れた。仮に対峙しているのがそのリオンだったならば、伶子を身動きできない状態にし、そのまま最も有力な佐保姫候補である茉穂の元へと向かっていただろう。そして彼女を完全な佐保姫に仕立てるまで自分を放置していたに違いない。
(どうにか宇佐美先生や茉穂ちゃんのいる場所に戻らないと)
けれども自分一人というわけにはいかない。この場に自分と天敵以外の、第三者がいることを示唆されたばかりなのだから。
その存在を確認する為、再度腰を浮かそうと試みるが、重心が定まらない。案の定まともに歩けそうもなかったので、それならばと伶子は腕を使って匍匐前進する。チアリーディングで培った体力のおかげか、それほどキツくはなかった。
だが端から見れば滑稽に映るらしい。ソファーに踏ん反り返る男からは嘲笑が投げかけられた。
「なんつーか、腰が揺れて誘ってるように見えんだけど?」
ギョッと、寝そべった体勢のまま硬直して首だけ振り返ってみれば、色欲をちらつかせた金茶の瞳が爪先からじわじわと伶子の姿態を舐めるように眺めている。脚、腰、背、肩、首、そして顔へと辿り着いて視線がかち合ったのを合図に、レオンは片目を眇めてこれ見よがしと薄い唇から舌を覗かせ、舌舐めずりして見せた。
からかい混じりの一言も然ることながら、欲情を匂わせる眼差しと仕草に身を竦ませて、慌てて目標としていた家具へと近付く。思いの外体力を削ったのは致し方あるまい。
ベットの裾で息を切らせながら上半身を起こし、寝台を占領している者の顔を覗き込めば、推定四、五歳ほどの幼女が長い睫毛を伏せて横たわっていた。おそらく彼女が宇佐美の姪だろう。双眸を閉じているので目元は定かではないが、鼻梁や耳の形がどことなく似ている気がする。野球やサッカーといった、屋外運動部の応援に遠征する機会がある為に、日焼けで悩む伶子が羨む美白のもち肌。育てば親友に負けずとも劣らない美人となるだろう。
(それにしてもやけに色白、というより青白い気が……)
柔らかいマシュマロを連想させる丸みのある頬に指を伸ばす。てっきり子ども特有の高い体温を感じるだろうと先入観を抱いていたのだが――――
「っ!」
咄嗟に触れた指先を逆の手で握り締める。
「さすがにビビるだろ」
喉を鳴らして面白おかしく笑うレオンを戦々恐々と振り返る。一寸の狂いなく想像通りの動作をしてくれたと言わんばかりの嘲りの眼とぶつかるが、それを勝る畏怖を傍らの少女から感じてしまった。
「この子……何でこんなに冷たいんですか?」
氷の如く、と例えるほどでないにしろ、温度を持たない無機物さながらの冷たさだった。人の体温が全く感じられなかったのだ。そう、まるで死人のような――――
(……死人?!)
生唾を飲んで、恐る恐る再度手を伸ばしてみる。衣類を纏っていない首筋に指を這わせ頸動脈を探すが、どこを押さえても冷たい肉の感触しかない。嫌な予感に自然と鼓動が高鳴るが、その反面訝しくもあった。
(でも死後硬直がないのは一体……?)
「簡単に種明かしすると、仮死状態に留めてんだよ。着いた場所が冥界だろうが違うとこだろうが、転移すれば、不慣れな奴は今のお前みたいに大層な不快症状を覚える。だからその負担を軽くする為にそうしたんだろ」
「それに気絶だといつ目を醒ますか分かんねぇからな」と脚を組み替え、両手の指を腹の上で交差させながら告げられる。
仮死を施したのは言わずもがな、この少女を連れ去った張本人である冥界の宰相だろう。今頃は幼女の叔父である宇佐美と闘っているはずだ。
(気分は最悪ですが、本当に気絶や仮死状態にされなくてよかったです……)
そうでなかったら十中八九、レオンの手によっていいようにされていただろう。想像するだけで身の毛がよだつ。
転移の際に今の自分のような症状を引き起こすのならば、このままの状態にしておく方が無難なのかもしれないが、根本的な問題は、いかにして再び元の世界に戻るかということ。当然伶子に転移といった能力はない。
転移能力を持つレオンを末っ子とした三兄弟のうち、望ましいのは同級生として付き合いのあるシオンだが、今の彼が茉穂を放って冥界に戻ってくるとは考え難い。リオンもやはり宇佐美と交戦中と考えるのが妥当だ。
消去法でいくと、やはり自分をここに連れてきた元凶に頼らざるを得ないが――――
「そもそもどうして私をここに連れてきたんですか?」
冥界は死者の行き着く場所だと聞いていた。レオンと同じ一室にいると自覚してから、鼓動が煩いまでに激しく高鳴り続けているので、生を絶たれてはいないと確信しているが、どうして生かされながらこの場に連行されたのかが分からない。そして仮死状態という宇佐美の姪を目の当たりにさせた意図は何なのか。
「三年前、佐保姫候補が見つかったという報せをリオンから受けて、俺一人があっちの世界に派遣された。日常茶飯事、寝る間も惜しんで戦ばっかの冥界とは打って変わって、人間は平和な世界でのうのうと暮らしてる。マジでカルチャーショック受けたね。お前等の死んだ魂が冥界で暴れ回って俺達は苦労してるってのに」
『本音を言わせてもらえばこっちは被害者、加害を侵しているのはそっち。文句言う義理あるのはこっちだっての』
激昂する茉穂に投げかけた、レオンが二日前に告げた言葉を思い出す。あのとき彼は何てことはないとばかりにのんびりと言ってのけたが、実際はらわたが煮えくり返るほど慷慨していたのかもしれない。現にレオンは伶子から視線を外し、壁の一点を親の敵のような鋭い眼差しで睥睨している。
(確かに、冥界の住人が私達を怨むのは無理もないと思いますけど……悔恨を残して死した魂が冥界に訪れ、災禍となるのは、おそらく自然の摂理なんでしょうね……)
そうでなければとっくに冥界は災禍を元の世界に帰しているはずだ。そして災禍の存在に脅かされるのは伶子達が暮らす世界の方だろう。
どう答えていいものか判断しかねて、結局は閉口し俯くしかなかった。冥界の情勢には同情するものの、かといって自分達の世界が脅威に晒されるのは堪ったのもではない。
「……なーんて不満感じたの、実はほんの少しだけだったりして」
怨みどころか、小さな悪戯に引っ掛かった誰かを指してケラケラ笑っているような、屈託のない笑い声に唖然とし、キョトンとした表情のまま顔を上げる。
「……は?」
「ぐちゃぐちゃ余計なこと考えんの、面倒臭いんだよ。同胞が災禍に殺されるの見て『運がなかったな』って哀れみはしても、別にそれ以上特に何も思わねぇし。災禍と闘うの、俺は嫌いじゃねぇんだ。いかに酷く、歪で悲惨な死体を創れるか、その過程を楽しむのが当時の俺のハマり事だったからな」
(あ、悪趣味な……)
薄い上唇を舐めながら瞳に悦楽の煌きを滲ませる男から僅かに視線を逸らして、そっと袖の上から二の腕を撫でる。繊維越しに肌が粟立っていた。このまま話に耳を傾けていたら毛穴という毛穴が開き、そこから冷汗が噴き出しそうだ。
「思いの外、災禍のいない世界も楽しかったぜ。女には困らないし、見苦しい嫉妬で喧嘩吹っかけてきた奴等を返り討ちにするのも退屈しのぎにはなったし。そうそう、俺が“Ash”に入るきっかけもそれだったな。俺が誰かの女とヤったとかでイチャもんつけられて、そいつの仲間含めてボロボロにしてやったら誘われたんだ。偶然とはいえ、おかげでお前が所属してた“UNKNOWN”とも接点ができた」
「“ブーツ”を口説いて、でしたね……」
“Ash”が持ち込んだ薬物の犠牲者となった、伶子の姉貴分。嬌声を迸り、一糸纏わぬ生まれたままの姿で異性の下肢に跨って、一心不乱に腰を振る姿。明らかに外見を魅入っていたといえど、彼女が想いを寄せていたのはレオンであったはずなのに、実際性行為していたのは別の男とだった。無理矢理男に抱かれたのか、薬の所為でレオンの幻覚を見せられていたのか、答えは一生不鮮明なままだろう。正直、分かりたくもなかった。
「顔はともかく、脚が綺麗な女だったな。ま、“ブーツ”だけじゃなく、お前以外の“UNKNOWN”のメンバーは面食いばっかだったから、付け入り易かったぜ」
「……どういう意味ですか?」
ニヤニヤと人を食ったような一癖ある含み笑いを浮かべる男を、双眸を眇めて見つめ返す。
伶子とて顔の造作が整っている者に見惚れることもあるので、面食いでないわけではない。確かに廃工場で見かけていたレオンの左右には常に“UNKNOWN”の誰かが付き纏っていたが、それだけで“UNKNOWN”が面食いな女の集まりと称されるのは聞き捨てならない。少なくとも“ドンキ”や“ジャージ”は容貌だけで揺らぐほど軟な精神はしていなかった。
「お前があの溜まり場に来なかった日は、隙あらばと色んな女が寄ってきてたぜ。“ブーツ”、“マロ”、“マネー”、“ペイント”、“ジャージ”、あとリーダーだった“ドンキ”もな」
「……仮にそうだとしても、皆が皆、あなたに心を許していたとは思えませんけど?」
何故なら“Ash”が薬物の密売に関わっているかもしれないと疑いの目を向けていたのは伶子だけではなかったからだ。情報を齎した“ジャージ”、それを伶子と共に耳にしていた“ドンキ”は真偽を確かめる為にレオンに近付いた可能性がある。
「覚えてるか?お前らがあの現場を目の当たりにしたとき、俺だけ遅れてきただろ。今の今まで偶然だと思ってたか?残念ながらそうじゃない。どうしてか……お前なら頭捻らずとも分かんだろ?」
口角に嘲笑を刷いて行儀悪く土足のままで片足だけソファーに乗り上げる様を、疑り深い眼差しでジッと見つめる。
喉が渇きを訴え、口の中が粘つく。まるで真綿で首を絞められている気分だった。冷たい手で心臓を慰撫されているかのように鼓動は悲鳴を上げている。
信頼という名の土台が、横倒しになったドラム缶の上で、右へ左へ揺れ動いていた。
「嘘じゃないぜ。お前、“Ash”がヤクの売人してるって情報、予め聞いてただろ?情報源はどこからだと思う?それにカードゲームで稼いだ金、ホントにグループ全員に均等に分けられてたと思うか?……案外あいつ等との付き合い薄い俺の方が、意外と裏の顔知ってたりしてな」
酷薄な笑みを浮かべるレオンに咄嗟に口を開くものの、言葉が出ずに結局は悲痛の面持ちで瞼を伏せるしかできなかった。先の尖った何かで抉られているみたいに胸が痛む。嘘の可能性は勿論否定できないが、レオンに嘘を吐く必要性がないのも尤もな話なのだ。
例え遠回しに告げられたことが事実だとして、それを悲しいとは思えても、不思議と彼女達を恨む気持ちは湧かなかった。別れの際に流していた彼女達の涙が今でも脳裏に焼き付いている。伶子との別れだけでなく、そこに少なからず何らかの後悔が含まれていたのは、あのときにも悟っていた。
「……先程から話されてることって、私の質問の答えにはなってませんよね?」
自分をここに連れてきた理由を訊ねたにも拘わらず、はっきりとした返答はまだ得ていない。
「まぁ聞けよ。つまりあっちの世界で全く懐を許さなかったのはお前だけだったってことだ。ガキにしか見えないのに大人びた態度と判断力。俊敏な身のこなし。狡猾な機転で他人を欺く様。……何百年と生きてきたけど、お前ほど俺をそそらせる女、他にいねぇよ」
レオンにとっては最高の褒め言葉なのだろうが、伶子にしては有難迷惑……寧ろ心身ともに生理的嫌悪を覚えるまでに慄いてしまう。
(本当に、悪趣味にも程がありますよ……!)
本人の口から自分のどこに興味を惹く部分があるのか、それを聞かされても到底納得はできない。
(ガキにしか見えないとか、狡猾とか、他人を欺くだとか、そんなこと言われて喜ぶ人、いるわけないでしょう?!)
「好奇心で私に執着してるなら、とっとと飽きてください!」
これ以上レオンを直視するのが怖くなって、視線をあちらこちらに彷徨わせながら素っ気無い口振りを努めて吐き捨てるようにして言った。
「そう簡単にできるならとっくに手頃なので手を打ってるっての。三年前に比べて随分地味な恰好や口調になったけど、こうして眺めると……これはこれでそそるよな。押し倒したらあんときみたいに抵抗するのは想像できるし、そんな状態で今度こそ反抗できないくらい屈服させるの、物凄く愉しめそうだ」
「………」
眩暈がより一層深まった気がして額を押さえる。掌から高熱は感じられない。熱による空耳ならどれほど良かったことか。
目頭が熱い。わざわざ鏡で確認せずとも涙目になっているのが分かる。羞恥心、鬱憤、口惜しさ……どの感情が起因してこれほどまでに気が昂ぶっているのか判断できない。いや、おそらく全てだ。
「……つまり私をここに連れてきたのは、私を甚振ることで嗜虐心を満たしたいからですか」
さすがにここまでくれば宇佐美や茉穂の手には及ばない。レオンの兄二人も、各々の相手をしているので邪魔は入らない。それを見越して伶子をここに連れてきたというわけだ。
「まぁそれが理由の大半を占めてるな」
「大半?つまり他にも理由が――――」
「佐保姫だよ。佐保姫にはお前がなってもらう」
(……!)
ソファーから立ち上がった長身の人影が一歩、また一歩と伶子に近付く。相変わらずの軽薄な口元の笑みに寒気立ち、よろつく足を踏ん張って立ち上がる。完全に眩暈や吐き気が引いたわけではないが動けないほどでもなかった。背後にベットがある為、じりじりと横歩きでレオンが障害物を避けて向かってくる側から逆の方へと移動する。
「リオンはあの不細工を佐保姫に仕立て上げたがってるけど、兄貴がそれを拒んでる。俺は兄貴に借りがあるから、お前かあのいけ好かない野郎、どちらかを殺さなくちゃいけないってわけだ」
(茉穂ちゃんを不細工呼ばわり……。思考回路だけじゃなく、この人審美眼までどうかしてますよ……)
本人が耳にしたら怒髪天を突くこと間違いなしの台詞を口にする男に心底辟易しながらも、緊迫感故にさすがに表情は崩せなかった。
「あなたがいけ好かない相手を佐保姫にするはずありませんよね?」
「だからお前になってもらうって言ったんだよ。とはいえ、俺とお前のゲームはこれからだ」
「ゲーム……?」
「再会したあの日の続き、鬼ごっこ」
無我夢中で校舎内を駆け回ったのはつい先日だ。いくら伶子の足が速いとはいえ、身長差からなる歩幅や筋肉量で圧倒的に不利なのは身をもって熟知している。どう足掻いてもほんの僅かな時間の間に捕まるのは目に見えていた。
無理だ、と首を横に振ろうとしたそのとき、細く角張った色白の指先が伸ばされた。一本の指が示す先は伶子の後方で横たわる青醒めた幼女。
「お前に拒否権はないぜ?ぐだぐだ言うようなら、今すぐああして眠らせてやる」
唇の端を弓なりに上げて笑みを浮かべているものの、金茶の双眸は無邪気さなど皆無の軽佻浮薄な喜悦に浸っている。斜に構えた態度がこの男にはよく似合う。なお伶子がNOと答えれば、それはそれで愉しもうという算段だろう。
捕まれば最後、骨の随をしゃぶり尽くすまで離さないつもりかもしれない。
「時間制限とハンデは、勿論あるんですよね?」
苦し紛れに、それでも僅かな望みがあるなら勝機を握る有効な手段を得ておきたい。
「少しでも状況を愉しみたいのなら、私に分がないと。あなたに比べ私の方が体力的に劣っているのは目に見えて分かりますし、実際に体験されたでしょう」
「まぁ確かに。それじゃあ五分猶予をやるよ。建物の中にいる連中には、お前に手出ししないよう忠告しとくし。時間は一時間。……充分すぎるハンデだろ?」
僅かに残されていた距離はあっという間に残り半歩というところまで縮められ、腕を伸ばしたレオンは伶子の顎を強引に掴み、仰がせた。
四十センチ高い相手を間近で見上げなければならなくなると、首に相当負担がかかる。怨み節を言いたい気が微塵も湧かなかったのは、眼前に佇まれるだけで全身が震え、怯臆のあまり頭の中が真っ白になった所為だ。薄く開いた唇の隙間からは「ひっ、ひっ」と嗚咽混じりの浅い息が漏れている。高鳴る心臓は衝動のままに血管を引き千切り、今にも逃げ出してしまいそうだ。
そんな恐怖に歪んだ伶子の表情に加虐性欲をそそられたのか、レオンは噛み付くようにして伶子の唇に己のそれをぶつけてきた。
「ぅんっ?!」
驚愕で目を白黒させるものの、情欲に濡れそぼった柔軟なものが唇を割って侵入してきたのを察すると、咄嗟にそれに歯を立てた。
「っ!」
「一時間!一時間逃げ切ったら私と彼女を元の世界に戻すと誓ってくださいっ!」
顔を真っ赤にして肩で息をする少女をニヤニヤと見下ろしながら、レオンは血の滲んだ唾を大理石の上に吐き捨てて口角を吊り上げる。
「……ああ。死に物狂いで足掻いてみろよ」
信用できる証拠は一切ない。それでもYES以外の返答ができる状況下ではなかった。
硬く握り締めた右手の甲で唇を拭い、自分を辱めた男を鋭い眼差しで睨み上げた。
「鬼ごっこ……受けて立ちます」