其の弐拾肆:過去(五)
瞼を開くより先に捉えたのは、鼻につんとくる薬品の臭い。どこかで嗅いだことがある気がして記憶を辿れば、小学生の頃に絆創膏を貰いに訪れた保健室がこんな香りをしていた。あまり好きになれなくてそれ以来、例え校内で怪我をしたり頭痛や腹痛を覚えても足を運ぶことはなかった。
しかしどういうわけか、今現在そういった場所のベッドに横たわっているらしい。
(“ジャージ”の家を出て、家に帰ろうとしてたのは覚えてるんだけど……)
脳裏を過ぎるのは『元気でな』と伶子の頭を優しく撫でる“ドンキ”と“ジャージ”の面差し。目尻を赤く染めて薄っすらと涙の膜を眦に盛りながら、それでも笑んで見せた痛々しい表情。あれほど辛そうに笑う顔を目にするのは初めてだった。
(きっと私も同じような顔してたんだろうな……)
そう自嘲の笑みを漏らしかけたところで、ふと本来の疑問を思い出す。
(……そうだ。“UNKNOWN”の解散を聞いたのはずっと前だ。私、あれから家に篭ってひたすら机にかじりついて――――)
『もう十月なのよ?』
(――――!)
息を呑んでハッと瞼を開く。驚愕で目を大きく瞠るが、飛び込んできた蛍光灯の眩さにすかさず眦を眇めて手を顔の前にやり、光を遮断した。
「よかった!気が付いたのね」
安堵した様子の女声に指の隙間からそちらを見遣れば、眉をハの字にさせた広江が伶子の顔を覗き込んでいた。その後ろで父が複雑な表情をして腕を組んでいる。白衣を着ているのはおそらくまだ勤務時間だからだろう。
そう推察すれば、ここが両親の働く総合病院だろうことに考えが行き着く。
「気分はどうですか?」
広江がいる場所から自分を挟んだ位置から話しかけられて目線を移せば、父と同じように白衣を羽織った男が首を傾げていた。白髪は見受けられないが、唇に模った笑みでほうれい線に皺が寄り、その深さからこの部屋の中で一番の年長者だろうことが窺える。
「……今は悪くない、です」
医師の隣り、伶子のすぐ脇に立て掛けられた点滴が管を通じて左腕と繋がっている。鎮静剤か栄養剤かは分からないが、空腹感も眩暈もなく落ち着いていられるのはこれのおかげだろう。
「気を失う前のことは覚えてますか?」
刹那の逡巡の末、未だ心配そうに自分を見つめる広江に焦点を向ける。
「まぁ朧げではありますけど」
「君がここに運ばれてから丸一日が経ちますが、今日が何月何日何曜日か分かります?」
「………」
同僚の子どもというだけで身勝手な親近感を持ち、馴れ馴れしく話しかけてこないだけマシだと胸の内で宥めてみるものの、敬語を駆使しながらもニコニコと無遠慮に見つめ返してくる男に内心眉を顰める。明らかに伶子には答えられないと確信している含みを持たせた言い草だった。
だからムッと口を尖らせてあてずっぽうに答える。
「……十月二日」
気絶する前に暦の情報だけは得ていた。しかし日にちと曜日はさすがに分からない。しかし広江は『もう』十月と言っていた。
つまり十月に入ってまだ間もないのでは……そう踏んだのだが、医師からの返答に愕然とした。
「そう十月。けど、もう下旬です。今年の夏は猛暑日が続き、今月中旬まで三十度を越える真夏日も稀にあったのは事実ですが、今週に入って一気に気温が下がったんですよ。ここ二、三日の最高気温は十五度を下回ってます。いくらなんでも半袖を着ている人はいませんよ」
「嘘……」
ふと医師の向こうに見える窓の外の一画が目の端に映る。風が吹いているのか細い枝が揺さ振られ、その先に辛うじて繋がっていた枯れ葉が飛ばされていった。
「君の症状ですが、栄養失調に睡眠不足、過労、貧血……とにかく十代女性の平均基準を大きく下回っています」
本当に医者と看護士が暮らす家で育ったのかと疑う眼差しを向けられ、父は視線を逸らし、義母は悔しそうに唇を噛み締めていた。
「二人は悪くない。広江さんが用意してくれたものを食べ切れず、毎度のように残してばっかだったから……自業自得だよ」
誰とも会いたくない。その一心で自室の扉に南京錠を取り付けて簡単に人が入ってこれないようにした。一向に部屋の外に出ようとしない義理の娘を心配して、広江は毎日部屋の外に食事の準備をしてくれていたというのに、精神的苦痛の所為で喉を通らず、砂を噛むような思いで嚥下し、作ってくれたものを殆ど食べ残してしまっていた。
くしゃりと、額にかかる前髪を乱す。艶のないパサついた感触。暫く鏡を見ていないが、櫛を梳いていない長い髪はさぞかし縺れていることだろう。根本から染色を施していない黒髪が生えて、プリンのような色具合となっているに違いない。
「そういえば名乗っていませんでしたね。僕は産婦人科医の坂越です。初めまして、伶子ちゃん」
「産婦人科医?」
(そんな人がどうしてここに?)
疑念を露わにした面差しで見上げれば、眉根に皺を寄せた真剣な表情が待っていた。
「……やっぱり気付いていなかったようですね」
その硬い声に背筋がぞわりと震え、二の腕が粟立つ。喉が異様に渇きを訴えて、堪らず口腔内に溜まった唾液を飲み干した。
緊迫した空気。今になって漸く、両親が青褪めた顔色ながらも気丈に振る舞っている理由が分かった気がした。否、認めなくなどなかった。杞憂であってほしい、あるべきだと、弱々しく首を横に振る。
そう切願していたのに、無情にも言葉は紡がれる。
「……君のお腹の中には赤ちゃんがいます」
「嘘っ!うそ、うそウソ!嘘だ!認めないっ。あいつとの子なんて!絶対嫌っ」
金切り声を迸り、一心不乱に頭を振る。目の縁から濁流の如く涙を流し、乱れた髪を掻き回して、更に絡まらせる。相手の男を罵り、ひたすら否定の呪言を繰り返す。まるで鬼女そのものだ。
「鎮静剤を!」
「いえ、下手に刺激を加えると母子ともに悪影響を及ぼします」
「じゃあ何で告げたんですか?!」
「君の目にだって彼女が平常心であるように映っていたんでしょう?だから止めなかったんじゃないんですか?」
言い争う声がする。しかし耳の奥で幾層ものベールが敷き詰められているかのように遠い。
だがそんな些細なことよりも、神経が高ぶっていることに気が荒む。視界が赤い。熱く滾っている。頬が、首筋が、吐き出す呼気が炎のようだ。沸騰したヤカンにでもなってしまった心地。もはや自力で火を消し止められない。
――――パァン!
爆竹が炸裂したような音が耳を打つ。脳を揺さ振られたと誤認しかけるほどに激しく、しかし僅かな間の衝撃。そして一瞬おいてじわじわと左頬に痛みが湧いてくる。
怖ず怖ずと視線を上に傾ければ、広江の右手が逆の左肩近くまで上がっていた。
「ひ、ろえ……さん?」
熱を持ち始めた箇所に掌を添えて唖然と呟く。すると堰を切ったように義母の瞳から涙が零れ出し、その場にいた者達はギョッと目を剥いた。
「広江っ」
「樫村……じゃなくて桜原君、落ち着いてください」
「落ち着いてます!」
宥めようとする医者二人に、部下である筈の看護士はぴしゃりと言葉を返す。
その勢いに圧され、男達は口を噤んだ。
「……伶子ちゃん、あなた今、猛烈に後悔してるわよね?というか、してないなんて言わせないわよ。どういう経緯だか知らないけど、現にあなたのお腹の中には赤ちゃんがいる。あなたのさっきの取り乱し方からして、不合理にできただろうことは想像がつく。……産む覚悟なんてないんでしょう?」
憤懣も呵責も窺えない無表情。内なる面を読ませようとはさせない彼女に嘘は吐けないと、先程叩かれたショックを引きずったままの茫然とした思考で縦に頷く。
「なら合意だろうと嫌々だろうと、子どもをつくろうとする真似、するんじゃないわよ!何で……何で私達を頼ってくれなかったのよ……!」
散々言われ続けていたのだ。不良と手を切り、真面目に学校に通えと。
“UNKNOWN”に入らなければ“Ash”と……レオンと会合することなどなかった。“UNKNOWN”に入るきっかけとなった“NICOL”からの報復のおそれだって、わざわざグループに入って仲間を得ずとも、父なり学校なりに相談すればよかったのだ。
“UNKNOUN”と関わらなければ、とは言わない。だがこんなことになるくらいだったらと、悔やむ気持ちはどうしても捨てきれない。
後悔先に立たず。今ほどこの言葉を痛感しなかったときはなかった。
懺悔、やり切れなさ、悲痛、悲嘆……それらが綯い交ぜとなって胸に込み上げてくる。
「……め、んなさい」
視界が朧げに揺らめき、見上げていた義母の姿が次第に形を崩してゆく。
「ごめんなさ……ごめん……っ」
ボロボロと、止め処なく溢れて零れる涙。涙腺が緩んでしまったのか、一向に止まる気配を見せない。寧ろ干乾びるまで流してしまおうという気持ちでさえあった。
「……反省しなきゃいけないのは、伶子ちゃんだけじゃないわよ」
目尻を吊り上げ、伶子に背を向けた広江が睨み付けた先は、自分の夫だった。
立腹される理由が分からないと胸の前で両手を出して、父親はじりじりと後ずさりする。
「そもそもあなたが私とコミュニケーションとる前に伶子ちゃんとそうしてたら、ここまでこの子がグレることはなかったんじゃないの?!そりゃ自慢の器量良し娘が突然不良になれば戸惑うのも無理ないでしょうけど、あなたはこの子がしっかり自立してると勝手に思い込んで、おんぶに抱っこしてもらってただけ!まだ十五歳で、義務教育中の中学生だってこと分かってる?!」
夫の白衣を固く握り締めて揺さ振る義母の剣幕に、驚きのあまり伶子の涙は引っ込んだ。自分を想って父親を叱咤してくれる心意気には感謝しているし、とても嬉しいのだが……同じくらい恐かった。
(私……よく今まで広江さんの逆鱗に触れないでこれたよな)
それとも煮え繰り返っていたはらわたをどうにか押し止めていてくれたのか。どのみちその矛先が自分に向かなかったことには助かったと、密かに胸を撫で下ろす。
責められている父も自分と同じように顔を引き攣らせているのではないかと目配せするが、意外なにも真剣な表情をしていた。
「……確かに伶子に甘えていたんだろうな。父親失格だ」
胸倉を掴む広江の手をそっと解いた彼は娘の側に歩み寄り、ジッと顔色を窺い始めた。
何も語ることなく無表情で見つめられればさすがに居心地悪く、身じろぎしながらあちこちに視線を散らしていたのだが、やがて「伶子」と名を呼ばれ不承不承に目線を上げた。
視界に飛び込んできた父の頭のつむじに目を瞠る。
「……え?」
「すまなかった。お前に家のこと押し付けて、苦労掛けさせて、それが当たり前のように感じていた。非行にはしるお前に戸惑ったものの、俺は叱りもせず、その役目さえ広江に押し付ける始末だ。……つくづく悪い父親だよ、俺は」
「お、とうさん……」
頭を上げ、撫で付けていた髪をくしゃりと掻き乱す父親をよくよく観察してみれば、髪に数本白い色が混じり、心なしか目尻の皺も深くなった気がする。思い返せばこうして会話を交わすことさえ数ヶ月ぶりだった。
自責の滲む黒い瞳とぶつかる。広江に諭されたことで、漸く己の内に燻る悔恨と向き合う決心ができたのかもしれない。
「情けない話、子どもとの接し方が分からないと愚痴るのが、この人の口癖だったんですよね。もしかしたら、君は父親から放任されていると思っていたのかもしれませんが……臆病で不器用で、尚且つ極度の心配性なんですよ。君のお父さん」
クスッと微苦笑を漏らし肩を竦めながら坂越が口を挟む。
外科医である父と産科医の彼は単なる同僚というだけでなく、互いのぼやきを言い合える付き合いらしい。実の娘である伶子よりも父の性格を理解している、その事実に寂寥感を覚えた。
「……お父さん」
嗚咽を堪え、振り絞って紡ぎ出した声が緊張で硬く震える。皺が寄るほど強く入院着を握り締めれば、そこを通じて心臓の脈打つ音が届いた。皮膚を張り裂き、飛び出さんとばかりに強い鼓動。ベットの中にいるというのに眩暈がしそうだ。
しかし逃げるわけにはいかない。今こそ歩み寄る為の一歩を踏み出すときだった。
「私、変われるかな……?」
変わりたい。そう切に願う余韻を言葉に託して、父親の顔を怖ず怖ずと仰ぐ。
すると一度小さく鼻を啜って目頭を押さえ、微かに瞳を潤ませた父は伶子の頭を愛おしみながらゆっくり撫でた。
「ああ。変わろうな、一緒に」
胸中に広がる歓喜が高ぶるあまり、再び伶子の目に涙が溢れた。しかし先程と異なり、その表情は破顔一笑だった。
「その節は色々とお世話になりました」
小さな頭を深々と下げる伶子を見下ろしていた坂越だが、その面差しは不可解と言わんばかりに疑念に彩られていた。
「……あの、何か?」
「あ〜……いえ、僕と話すときはいつも敬語でしたけど、さっき御両親にも敬語使ってませんでした?」
「はい。いっそのこと徹底的に更正しようと思いまして、言葉遣いにも気をつけてるんです」
「……さすがにそれはやり過ぎでは?」
にっこり微笑む元患者の少女に小さく溜息を吐く。
「最近桜原先生が僕を見る度に変な顔をする理由、分かりましたよ」
愛娘が悪友と同じ言葉遣いをし始めれば、つい苦虫を潰したような顔をしてしまうのも無理はないのかもしれない。しかもそんな二人の様子は同じ職場で働く広江によって伶子の耳にも入っていることだろう。更正という言葉を建前に、胸中複雑な父を少なからず面白がっているのではないかと、苦笑を禁じ得ない。
しかしそんな彼女の小悪魔的なからかいを、弄ばれている本人に告げるつもりはなかった。自分を目にする度に娘を思い出して複雑な顔を浮かべる友人をほくそ笑むのも悪くないかもしれない。
「でもおかげで同級生と街中で擦れ違っても気付かれませんよ。背格好が同じでも、意外と分からないものなんですね」
髪を切って黒く染め直し、服装も際立って派手に見えるものは全て捨てたらしい。勉強により一層力を入れ始めたからか視力が衰えてきたので、近々眼鏡を買いに行く予定もあるとのこと。掛ければ益々不良グループにいたとは思えない、いかにも真面目な印象に見えるだろう。
「そういえば高校受験を受けないと聞いたんですが……本当にいいんですか?」
中学二年の秋頃から殆ど学校に登校していなかったというが、常日頃机に向かっていたとだけあって学力は同級生達に劣っていない……寧ろ偏差値の高い高校も充分射程内という知識を蓄えているとか。父親の話によれば数学は既に高校生レベルのものまで手をつけ始めているらしい。
「殆ど不登校だったんで、正直卒業を認めてもらえるか分からないんですよ。なので高校受験前に中認を取らないと」
「就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験ですか。君ならきっと大丈夫でしょうが、体には気を付けてくださいね」
「はい」
首を縦に振った伶子の横を、子どもを抱きかかえた母親が通り過ぎた。その子どもが母親の肩から身を乗り出して手を振っている。自分になのか定かではないがとりあえずといった面持ちで、伶子も手をヒラヒラ振り返した。
唇の端に笑みを乗せているとはいえ、その表情は到底笑顔とは言い難かった。
「……赤ちゃんを産む手助けをする医者がこんなことを言ってはバチが当たるかもしれませんが、君はまだ子どもを産まなくてよかったと思います。生まれてくる子どもに罪などありません。ですが――――」
「坂越先生」
上げていた右手を自らの腹部に当てて、少女は目を伏せる。
「どんな理由であれ、私が産まれてくるはずだった子を殺したんです。私自身が子どもだということ、例え産んだとしてもネグレクトするだろうことも勿論あるんですが、何よりあの男との間にできたという現実を認めたくなかった」
いずれにしろ私は、あの子の存在を愛することなどできなかったんです。
悲憤で震える声で言葉を搾り出し、伶子は硬く瞼を閉じて衣服を握り締める。己に対する憤懣からか、その手は白く染まっている。
「……私のエゴで、私はお腹に宿った命を絶った。その罪に対してどんな贖いができるのか分かりませんが……とにかくもう、二度と取り返しのつかない後悔だけはしたくない」
指先の力をそっと抜いて皺の寄った箇所を整えると、彼女は真っ直ぐに、強い意思を瞳に滾らせて見上げてきた。
「坂越先生。きっと私、もう二度とここへは戻ってこないと思います。……どうかお元気で」
「伶子ちゃんも」
父親の転勤でこの地を離れる少女に掌を差し出す。すると柔和な微笑を浮かべた彼女の、小さくて温もりのある手が重なった。