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春風戦華  作者: 地球儀
21/35

其の弐拾壱:過去(二)

ハンド:カードを公開すること。

フォルド:ゲームから降りること。

ポット:賭けたチップを置く場所。

アンティ:ゲームが始まる前に一定の額を払わなければいけない参加費。参加者は全員払う。

コール:前のプレイヤーと同額のチップを賭けること。

レイズ:賭ける金額をつり上げること。

スート:ポーカーではクラブ>ハート>ダイヤ>クローバーの順で強い。

ディーラー役をかっていた“Ash”の一人がショー・ダウンを宣告する。

「くそっ!フルハウス狙ってたのに!」

茶髪の角刈りが苛立たしげにハンドする。三の数字と六の数字が二枚ずつと一枚キング。結果ツーペアだ。

「私はスリーカード」

クイーン三枚をハンドしたのは“マロ”。“UNKNOWN”の一人で、眉尻の毛を抜いて眉頭しか残していないことから、仲間にそう呼称されている。

「勝った!ストレートフラッシュ!」

頬を紅潮させたもう一人の男がクローバーの二・三・四・五・六と数字の並んだカード提示した。

途端に自分のグループの勝利を確信したのか、“Ash”が雄叫びを上げた。高揚のあまり口内に指を含んでピーピー音を鳴らす者さえいる。

ショー・ダウン前にフォルドした“ペイント”の舌打ちが喧騒に呑み込まれ、隣に座っていた茶髪角刈りが馴れ馴れしくその肩を抱く。現金なもので、一瞬前の苛立ちが掌を返してご機嫌へと路線変更したらしい。

固唾を呑んでポーカーの行方を見守っていた者達は、今となっては喜びと落胆の二手に分かれている。ただ……唯一表情を変えていないのが一人だけいた。

「おい、因みにお前は何だったんだ?未だにカード見せたがらない辺り、粘ったけど結局ノーペアでしたってオチか?」

下卑た笑みを口の端に携えて、ストレートフラッシュを組み並べた男が未だにハンドしない伶子の手持ちカードを覗き込んでくるが、それを脳で認識されるより早く、カードを地面に滑らせた。

「私もストレートフラッシュ」

ゲーム中ポーカーフェイスを保っていた表情がここで初めて崩れる落ちる。剥がれたメッキの向こうにあったのは、まさしく本当の勝利を確信した者が浮かべるであろう笑み。

ハートの六・七・八・九・十。同じストレートスラッシュでもスート、数字共に伶子の方が格上だ。

「私達の勝ち」

「はい、残念でした~」

肩に置かれた茶髪角刈りの手を素気無く叩き落して一足先に場を離れた“ペイント”に続き、“マロ”も立ち上がった。苦笑、失笑、冷笑、嗤笑……あらゆる悦びが彼女達の胸を擽っていることだろう。

勝利の暁に、伶子はポットに置かれたチップに手を伸ばす。注意深く目測していたわけではないが、アンティで一人一万円ずつ賭け、コール、レイズとベッティング・インターバルがあったので、軽く五万円を越えているのは確かだ。

仮初の勝利に舌鼓を打っていた連中を憂鬱という奈落に突き落としてやった状況に満足しながら、賭け金回収係である“マネー”の元に赴く。自分の賭けた金額だけ戻ってくればいいと考える伶子は、余った分を全て彼女に任せていた。彼女はそれを“UNKNOWN”のメンバーに均等に分散し、端数となれば再び伶子の元に返している。

仲間がどうかはともかく、伶子は己に施すメイクやカラーリングといった費用はそうして稼いだものから得ていた。

「前髪長いからあんま表情分かり辛いけど、『私ズルしません』なんて大人しそうな雰囲気出してるくせに、結構卑怯な手使うよな」

「あたしぜってーあんただきゃ敵に回したくないわ」

決して“Ash”の連中には聞こえないよう、ボリュームを落としてケラケラと仲間が笑う。

「実は途中でカードが引っ掛かってヤバかったけどね」

左側のパーカーの袖を人差し指でくいと引っ張って見せれば、そこにカードの影。絵柄は先程使用されていた物と同じだった。

賭け事に参加するようになってから、度々ズルをやらかして勝利を獲得してきた。毎度繰り返していればさすがに怪しまれるので、やるときはアンティが高く賭けられたとき、もしくはムカつくことを囃されて溜飲を下げたいときだけだ。

再びカードゲームを呼び掛ける声がかけられたが今日はもう充分だと断り、私物を置いていたところに一人離れて座る。そして鞄から本を取り出し、光の当たる場所で読み耽り始めるのだが、それも束の間。次のページを読もうと紙を捲ろうとしたときだった。

座る自分の前に誰かが佇み、影を落とす。読み難くなったことに微かな苛立ちを覚えて双眸を眇めながら顎を上げれば、額に包帯を巻いた“ドンキ”が立っていた。

「そこに立たれると邪魔なんだけど」

「あんたね、普通怪我の具合を訊ねるとか、ちょっとは心配しなさいよ」

「“ドンキ”のは頭だから派手に血が出てたんでしょ。寧ろ“ジャージ”の腕の方が心配なんだけど」

不服を唱えるグループのリーダーから視線を逸らし、少し離れたところで仲間と会話を交わしている少女を見遣る。顔の至る箇所に絆創膏を貼っているのはいつものことと、大して気にも留めていないが、首に布を吊って包帯を巻いた利き腕をそこに預けている姿は痛ましく映ってしまう。グルグルと何重にも巻かれたその白さが目に滲みた。

「筋を傷めて暫くリハビリが必要らしいよ。学校サボる代わりに病院だって」

「これに懲りて更正じゃないんだ」

肩を竦めて嘲笑混じりに鼻を鳴らす。

そんな伶子の横に座った“ドンキ”は小さく息を漏らした。神経に傷が付くほどの重傷ではなくてよかったという安堵からか。はたまた右腕が不自由の身のくせに、抗争になれば足手纏いになるのを承知でノコノコとこの集り場に現れた神経に舌を吐いたのか。どちらにしろ、重みを感じさせる吐息だった。

未成年で嗜むのは法律で禁止されている、飲酒、喫煙、ギャンブルといった行為は素知らぬ顔で犯すものの、万引き、カツアゲ、薬物、その他事細かにご法度とする決まりを作っている所為か“UNKNOWN”のメンバーになろうとする者は少ない。本名、年齢など自分のことを語りたがらない者同士集っているというのも一つの起因だろう。着ている制服でどこの学校に所属しているのか分かる者もいるが、殆どが原形を留めないほど改造していたり、“ジャージ”のように毎日違う色の服装を着てくる者だっている。なので互いを呼ぶときは相手の特徴を呼称していた。

因みにナックルを真似て親指を除く四本指にリングを嵌め、一緒に繋げてある鍵をその間に挟んで殴るという攻撃手段をとる伶子は“キー”と呼ばれていた。

“UNKNOWN”は若干七人という少人数にも関わらず喧嘩が強いとあって、果たし合いは連日のように行われていた。昨日の件が良い例だ。

昨晩は予想外に早い時間帯に奇襲をかけられ、伶子と“ドンキ”、“ジャージ”、“ペイント”の四人しか集まっていなかった。男十二人に囲まれて内九人を自分達だけで仕留められたことは鼻の高い思いではあるが、さすがに満身創痍とはいかず、刃物や凶器を持った敵三人を残し力尽きかけていた。

隣に座るリーダーにはとても言えないが、頭の片隅ではリベンジの画を描いていたのだ。

「……にしても、一気に倍の人数に膨れ上がった気がするんだけど」

顔を動かさず目だけぐるりと周囲を巡らせる。

レディースの溜まり場だというのに十人近い男が女を侍らせ、下卑た笑い声を飛ばしていた。彼らこそ、昨日の乱闘で劣勢だった“UNKNOUN”に手を貸した救世主“Ash”だ。

他のグループであるにも拘らず“UNKNOWN”の砦であるこの廃工場に現れた経緯は、実に簡単なことだった。

「“キー”!」

テンションの高い猫撫で声を上げて手招きするのは、伶子を不良グループに招いた“ブーツ”。相変わらずけばけばしい化粧を施し、スラリとした脚には黒のロングブーツを履いている。少なからずアルコールも作用しているのだろうが、高揚している本当の理由は意中の相手に肩を抱かれている所為だろう。頬を林檎と見紛うほどに紅潮させてキャアキャアはしゃいでいる。

その彼女と接触している男と視線が絡まる。途端ニィ、と細まった金茶の瞳。不敵と表現すれば聞こえは良いが、どうにも張り巡らせた巣に獲物が引っ掛かるのを今か今かと待ち望む蜘蛛の如く、貪欲に塗れている印象を受けた。その獲物というのが隣に座る“ブーツ”でも、向かいで片膝を立てている“マロ”でもなく、他でもない自分のような気がして、これ見よがしに首を左右に振って拒絶の意を示した。

素っ気ない妹分に“ブーツ”は軽く唇を尖らせるが、すぐさま気を取り直して媚びた眼差しを金髪の男に向け始めた。

「“ブーツ”が“Ash”の連中連れてこなかったら確かにヤバかったけど……奴等が敵側に回ること、ちっとは考えなかったのかねぇ」

口に咥えた煙草に火を点けて“UNKNOWN”のリーダーは呆れた様子でぼやく。

パッケージを差し出され、伶子も一本頂戴した。フィルターを啄ばむように軽く吸い込んで、薄く唇を開いて紫煙を吐き出す。誰かに促されない限り喫煙しようという意欲は湧かないが、それでも思い返せば一日一本は誰かから頂戴していた。

煙草を美味いと感じたことは一度もない。吸い始めた頃は噎せる度にからかい混じりの嘲笑を浴びせられたものだが、今ではラベルを見ただけでどんな味や臭いがするのか、舌が容易に思い出せるほど煙草というものに慣れてしまった。ヘビースモーカー、チェーンスモーカーとなる未来は想像できないが、ヤニで歯が黄色くなりつつある“ドンキ”を見ていると、依存する前に禁煙しなければという思いが起ってくる。

「“ドンキ”。“キー”」

離れた場所にいた“ジャージ”が二人の前で胡座を掻いて座る。背が高く、筋肉質で広い肩幅をしているだけあって、赤の他人として道で擦れ違えばアスリートと勘違いしてしまいそうだ。しかし化粧っ気もなくメンチ切りに慣れていないその顔は幼さを残していた。

とても口に出して言えやしないが、小柄な体格がコンプレックスという伶子は、彼女に羨望と嫉妬の感情を抱いていたりする。だからといって苦手というわけではなく、表情がコロコロ変わりやすいところなど、愛嬌があって好ましかった。

そんな彼女が眉間に縦皺をつくり、珍しく真剣な面持ちをしていると眺めていれば、逡巡の末に漸く口を開かれた。

「前にさ、ここら一帯でヤクザと連携して、大麻だか覚醒剤だか密売してるグループがあるらしいって話をしただろ。奴ら(・・)がクロだという核心はまだ掴んでないけど……そいつらが今度は催淫剤に手を出して女に試したがってるって聞いたんだ」

「“ジャージ”、その話本当?」

“ドンキ”が難しい顔をして問い返せば、その険しさに呑まれたのか頷きが何度も返ってきた。人好きする性格故、他グループにも仲の良い知人が多く、持ち帰ってくる情報は信憑性の高いものばかりだ。

“ジャージ”が訴えたいことは自ずと分かる。隣りに座るリーダーとアイコンタクトを交わせば、向こうも同じ考えのようだ。

「目的があるだろうって予想はしてたけど、それは“UNKNOWN”を取り込むつもりだけと考えてた」

舌打ちをして一際賑やかな一画を見据える伶子の横で“ドンキ”が表情を曇らせる。

「“キー”、どうするべきだと思う?」

今“Ash”に喧嘩を吹き掛けても返り討ちにされるのは目に見えている。多勢に無勢を承知で、プライドを優先し特攻するグループも多いが、“UNKNOWN”のブレーンとしては、それは最終段階に持ち越したいのが本音だ。おそらく“ドンキ”も同じ考えだろう。

「“ジャージ”の情報疑うわけじゃないけど、乱闘沙汰を起こした揚句、証拠見付からなかったら単なるピエロだ。ブーツみたいに“Ash”の男どもに入れ込んでる女もいることだしね。下手を打てばこっちが自滅する」

「つまり、暫く様子見ってこと?」

悔しいのは山々だが、首を縦に振って是を示すしかできなかった。



濃厚な血の臭いが充満した場所から抜け出し家に戻ったというのに、錆びた鉄の香りがいつまでも鼻孔から離れようとしない。

今日もまた多くの不良を薄汚れた地面になじり、掃き棄ててきた。外見だけで伶子の実力を軽視していた連中はいざ拳を交えさせると顔色を変え、やがて痛みを覚えた箇所を押さえてもんどり返る。それを小気味良く思いながら横たわる相手を踏みにじり、優越感と愉悦に浸る辺り、伶子は己の中に潜む残虐心に密かに畏怖していた。

だからかもしれない。その反動からか、家に帰れば勉学に打ち込むのは。

先日購入した問題集を開き、脳に仕入れた公式を駆使して解いていく。分からない問いかけは教科書や参考書を頼りに類似した例題を熟読し、とにかくパターンを覚えきるまで数を熟す。

学校の授業に出席しない代わりに、自宅学習する不良。どこのフィクションキャラクターかと胸中で皮肉るが、それでも手持ち無沙汰に暇を持て余すよりはずっとマシに思えた。たまに廃工場に教材を持ち込み解読するときもある。しかし字を書くには不便な場所の為、やはり自室の机に向かう方が集中できた。

しかし最近はその集中力も乱れがちだ。

「伶子ちゃん、ちょっといい?」

扉の向こうからされたノックに手を休めることもなく「どうぞ」と答えて招き入れる。わざわざ振り返り相手を確認する必要はなかった。

この家に住むのは伶子と父親、そしてつい最近その父と婚姻を結んだ義母。父が仕事に出ているのは玄関の靴の有無で予め分かっていたので、消去法で考えれば一人しか該当しない。

「何か用?広江さん」

数式を解く思考に意識を集中させながらも上辺だけ、背後に佇む義母に問い掛ける。

「伶子ちゃん。家で勉強するのは悪いことじゃないけど、学校で学ぶ方が知識の視野が広がるんじゃない?」

真面目に学校に通うべきだ。悪ぶった連中と関わるな。非行をしてはいけない。

彼女がこの家で暮らすようになってから幾度と繰り返された言葉の数々。耳にたこができるほど聞かされていい加減辟易しているのだが、義理の娘という立場が遠慮をしているのか、どうしても無下にあしらえない。それでもなけなしの反抗心を生起させ、筆記具を持つ手を休めず、後ろに振り返ろうとはしなかった。

「今こうして机に向かってるのは、別に将来の不安を覚えてとか、そんなんじゃないよ。学校行っても所詮教科書のなぞりじゃんか」

屁理屈を口にする血の繋がりのない娘に鼻白んだのか、重みのある溜息が落とされる。秒針を刻む時計と伶子が動かすペンシルの音しかしない空間の中で、それは必要以上の大きさを齎した。

「広江さん。あなたがお父さんの為に良妻を務めようとする姿勢は認める。私を更正させようって努力も、それはそれは素晴らしいものだと思う。……でもさ、もう放っておいてくれない?近所から色々同情買ってるんでしょ?急にあんな不良娘を持つことになって大変よね、なーんて」

伶子が生まれる前からこの地で暮らしている住人は少なくない。近年引っ越してきたばかりだという者だって、遅かれ早かれ噂好きのお喋り主婦辺りから情報を得るのだ。

母親が蒸発、その矢先に祖父母を失い、父親は仕事に掛かりきり。その結果娘は非行にはしる。……井戸端会議のいいカモだ。

「だから余計に反発心も芽生えてるんじゃない?私に構う暇があるなら他のことに有効利用しなよ」

広江は寿退社したしたわけではなく、今でも父の勤める病院で看護士をしている。仕事と家事の両立が結婚以前より負担になっているだろうことは想像に難くない。父と義母がいない隙を見計らい伶子も些細な家事の手伝いをしているが、それでも疲労は大きいだろう。

自分に接する時間があるならどうか休息に充ててほしい。そう素直に告げたいのに、不良というレッテルが意地を張って邪魔をする。

「……血の繋がりはないけど、娘に後悔をしてほしくないっていう本心から言ってるの。お願い、伶子ちゃん」

肩を掴まれて強引に振り向かされ、否応なく目を合わせられる。切望する義母の瞳は涙で潤み、渇望を訴えていた。その意志に情を揺さぶられて思わず首を縦に振ってしまいそうになる。

(……私が“ブーツ”の誘いに乗って“UNKNOWN”に入らなきゃ、この人の手を煩わせずことはなんてなかったんだろうなぁ)

過ぎ去った時間は如何なる方法においても修正は利かない。もしも不良グループに所属せず一人の平凡な中学生としての道を選んでいたなら今頃、広江を通じて父親と三人、新しい家族としての生活を満喫していたかもしれない。

だが今“UNKNOWN”を抜けようと思っているのかと問われたらNOだ。

漫画にあるような、脱退する際はけじめとしてリンチを受けなければいけないという規定は“UNKNOWN”にない。仮にあったとしても、満身創痍とはいかないだろうが逃げ切る自信がある。問題はそこではなくて、今一番に懸念している“Ash”の存在だ。

毎日のように“UNKNOWN”の溜まり場である廃工場に出入りする男達。ちらつく薬物の影。そしてあの男――――

「……ごめん、広江さん」

やんわり両肩に乗せられた手を解くと、伶子は微苦笑を残して足早に部屋を後にした。ドアを閉じる直前に声が届いたが、それを振り払うようにワザと大きな音を立てて扉を閉めた。



「よぉ。たまには俺と話さねぇ?」

地面に本を広げ、片膝を立てその天辺に頬を預けた体勢で読んでいたのだが、声と同時に全身に影が射された。またか、とあからさまに嘆息を吐きながらおざなりに顔を上げて、思い切り不快な顔を見せつけてやる。

肩より長く伸ばされた、きつくウエーブのかかった金髪。金茶色の瞳。北欧辺りの血が混じっているのか肌は血管を透かしそうなほど白いが、だからといって虚弱という印象を持つ者はおるまい。百九十センチ近くはあるだろう八頭身。タンクトップの上からでも窺える引き締まった胴体部。胸や腹部だけでなく、衣類に隠れて見え辛い腕や脚といった部分にも程よく筋肉が付いていることだろう。

袖を通しただけのレザージャケットは肩を肌蹴させ、他の男がそのような着崩し方をすれば単なる間抜けとしか思えないが、この男だからこそ格好良く映えてしまう。

面白くもないくせに笑んだ振りして眇めた眦、弓形に吊り上がった口角というのは良心的に考えようにも、人を小馬鹿にしているようにしか見えない。しかしそれさえも、彼に群がる女達には野性味溢れた特徴の一つとして捉えてしまうらしい。見目も然ることながら、彼独特のフェロモン効果もあるのだろうと伶子は睨んでいる。

「私じゃなくて向こうにいる子達に構えば?リップサービス以上のことしてくれるはずだけど」

つんけんどんに言い放ち再び膝に顔を戻したそのとき、ぐしゃりと音を立てて本が踏み躙られた。破れたジーンズの裾から伸びた、泥や血痕が付着したスニーカーが印字の上で左右に踊る。

こちらを窺っていたらしい連中の忍び笑いが耳に届く。小柄な外見をしているというだけで格下だと嘲笑う“Ash”の男どもだけでなく、女の失笑も。同じ“UNKNOWN”に所属しているといっても、この男に構われているというだけで伶子を気に食わなく思う仲間もいるのだ。

「女の嫉妬は怖いよなぁ」と呑気に口の中だけで呟く反面、目の前に佇む男に苛立つ。

「今すぐその足退けろ」

未だに本から退かそうとしない足を見据えたまま、静かに告げる。

「可愛くお願いしてくれたら退けてやっても――――」

次の瞬間、密かに伶子の右手に握られていた鍵が本を突き刺した。そこにレオンの足はない。間一髪で逃げられた。

舌打ちすると同時に周囲が戦慄する。

「“キー”!てめぇ、レオンに何しやがる!」

筋骨隆々の黒髪の男が肩を怒らせて近付き、座っていた伶子の胸倉を掴んで無理矢理立たせた。首が絞まった苦しさで眉根を顰めながら相手を見返せば“Ash”のNo.3と謳われる男。血の気が多く手が早いという情報は“ジャージ”を通じて伶子の耳にも入っている。

体格差や状況から見て、少女の方が圧倒的不利と誰もの目に映っていたが、それでも彼女の表情に動揺の色はなかった。

「放せよ」

「このガキっ」

拳を握った男の腕が振り下ろされるよりも、伶子の爪先が相手の脛を蹴り上げる方が速かった。脛骨のすぐ上に神経がはしっている箇所とあって、打たれれば当然痛い。短く悲鳴を上げた男の体から力みがなくなる。

胸倉を掴んでいた手が緩んだ隙にもう一発、今度は得物を握り締めた手を鳩尾に叩き込んだ。

胸と向こう脛を押さえて崩れ落ちた彼を目にし、“Ash”が一斉に立ち上がる。緊迫した空気が廃工場に渦巻いた。

「はいは~い。とりあえずそこまでな」

おどけるように両手を叩いたのは伶子の挑発した本人だった。嫣然と微笑みを模って横たわった男を見下ろすその瞳に、伶子は硬直した。

「折角“キー”が俺を構ってくれたのに、それを台無しにしたのはこいつ。自業自得。だからお前らが“キー”に喧嘩売るのはお門違いだろ」

“Ash”のリーダーではないにしろ、実力No.1であるレオンに睨まれたくはないらしく、彼等は大人しく引き下がった。

自分の肩を強引に抱く男を茫然と見遣る。視線を交わす度に向けられてきた、獰猛な肉食獣を連想させる瞳をこれほど間近で眺めるのは初めてだった。その鋭い牙に似た眼差しが今にも喉笛を食い千切りそうで、小さく息を呑む。

「……お前、ホントそそるな」

何が、とは訊き返せなかった。否、訊き返したくなどなかった。

この男が伶子を見て煽られるのはきっと――――嗜虐心。

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