其の弐拾:過去(一)
小さい頃の記憶に実母と過ごした思い出は薄く、祖父母に至っては薄情と自覚しつつも面影さえ思い出せない。
浮気、性格の不一致、性的不満、ドメスティックバイオレンス……世間の離婚の原因というのは様々取り上げられているが、伶子の父と実母がその経緯を辿ったのは細々とした理由があるにせよ、家族親族との折り合いが悪いという点が要因だった。
父の話によれば元々祖父母と実母は馬が合わなかったらしい。些細なことでいがみ合い、互いに舅姑、嫁の悪口を近所に言いふらし、ときに父の不在を見計らって真っ昼間から罵詈雑言の嵐を家の中で浴びせ合うこともあったとか。そこに当時赤子だった伶子の泣き声が被さって騒音を生み、近隣トラブルを引き起こしたこともあったという。
実母がついに堪忍袋の緒を切らしたのは、伶子を腹に身篭ったのを切欠に婚姻届を出した年から四年後。深夜勤務だった父、一泊二日の老人会の旅行に出かけた祖父母不在で、家には伶子と実母しかいなかった。断片的に、伶子はその当日、そして翌日のことを覚えている。
実母と一緒に父を病院まで見送った帰り道、スーパーで買い物をした後にどこか白っぽい建物をした場所に立ち寄っていた。そこで彼女は職員に話し掛け、何らかの紙を受け取った。……成長した今でこそ分かるが、場所は市役所、紙は離婚届だ。
翌朝目覚めたときには既に実母の姿はなかった。代わりに、父がリビングで力なくソファーに腰を下ろし、項垂れていた。
憔悴しきったその姿を、子どもながらに首を捻って訝しんでいたのも束の間、電話が鳴っても身動ぎ一つしない父に焦れて、踏み台を使って受話器を取り上げれば、狼狽した旅行会社の者からの報せ。老人会のメンバーを乗せたバスがガードレールを突き破り、崖下に転落。運転手を含め半数が死亡。その半数の中に、祖父母は含まれていた。
家族を一気に三人失った上、娘を自分一人で養わなければならなくなったことで気負いしたのか、父は今まで以上に仕事に打ち込むようになった。ときに幼子を家政婦に任せたまま、病院から帰らない日もあった。もしかしたら内心負った傷を忘れる為の昇華だったのかもしれない。
おかげで家族二人が暮らすには充分すぎるほどの収入を得るようになるが、しかし家庭を顧みる余裕を失ったらしく、娘を蔑ろにするような父親と成り下がってしまった。
そんな男親の背中を見ていた伶子は、中学校に上がるまでは父の足手まといにならぬようにと、学校では優秀な成績を修める努力をし、また家事においても家政婦を雇わずとも料理、洗濯、掃除、裁縫など一通り熟せるようになっていた。
しかしそうして過ごしていくことを当たり前と思っていた裏側で、自分でも気付かぬ内に消化しきれないほどフランストレーションを溜め込んでいたらしい。
……いとも簡単に、非行にはしるようになった。
素行の悪い連中とつるむようになった切欠は、中学二年生の秋。
部活動に所属していなければ、放課後誰かと寄り道するわけでもなかったので、特別仲の良い友人というのはいなかったが、頭が切れ、話し掛けられれば当たり障りない受け答えを返していたとあって、同級生とは広く浅い交友関係を築いていた。理に適わないことを突きつけられれば頑固な一面を見せることはあれど、だからといって積極的な性格では決してなく、寧ろ自己主張を滅多にしない所為で印象の薄さが浮き彫りとなり、それが玉に瑕と捉えられていた。
この頃はまだ、桜原伶子という少女は世間一般の視点では“普通”の烙印を押されていた。
(これが所謂カツアゲかぁ……)
そして当時の彼女は誰彼構わず丁寧口調で話す癖などなかった。
「聞こえねぇのかよ?金出せっつってんだよ」
中学校からの帰り道。人二人が通れるほどの狭い路地を歩いていたら突如柄の悪そうな男女に絡まれ、コンクリートの壁際に追いやられた。欠席したクラスメイトの代わりに委員会に出席していたのだが、それが予想以上に長引いたので近道をして帰ろうとしたのが仇となったらしい。まさしく後悔先に立たず。助けを呼ぼうにも人が通る気配がない。
胸の上に流れ落ちる真っ直ぐに伸びた黒髪を耳の後ろに掛け、プラスチックレンズを隔てていない裸眼に剣呑な光を覗かせながら、冷淡な眼差しでつんと顎を持ち上げる。
「何で見ず知らずのあんた達にお金渡さなきゃなんないのか全く意味分かんないんですけどー?老け顔の高校生なのか親のすねかじりしてる無職なのか知りませんけどね、年下にたかんなきゃいけないほど、一体どんなつまんないことにお金使ってるわけ?」
目の前に立ち塞がっているのはどう見ても年上なので、辛うじて敬語らしく聞こえる言葉遣いを心掛けているのだが、物怖じせず果敢に睨み返してくる威勢が気に食わなかったらしい。
男が伶子の耳元すぐ側の平面をドンと叩き、威嚇した。
「ゴチャゴチャうっせぇよ!つべこべ言わずに金出せや!」
喚き散らすようにして声を張り上げながら、強引に鞄を掴んでくる。
「ちょっ?!離して!」
当然伶子は持ち逃げされないよう、必死に持ち手を握り締めて胸元に手繰り寄せようと奮闘する。革と布地がギシギシ悲鳴を上げているが、手放すわけにはいかない。
そんな二人の様子を男の後方から眺めていた女が、初めて言葉を口にした。
「因みにこのこと、親や先公にチクんなよ?ましてや警察に言えばどうなるか……分かってるよな?」
「知らないっての!」
隙を突いて逃げる為に相手を怯ませられるものを。
そう考えて咄嗟に上着のポケットを探り“ある物”を掴む。もう片方の手で握っていた鞄が強引に引っ手繰られて指から離れた瞬間、伶子は右手の中に収めた“それ”を素早く相手の腹部に突き刺した。
「痛ぇ!さ、刺されたっ」
脇腹を押さえて地面に転がり、痛みで顔を歪める男。刺されたという叫びとあまりの痛がりように、女も血相を変えて彼の側に跪く。
自分を睨んでいた四つの目が逸れたその隙に、伶子は鞄を拾い一目散に逃げ出した。
後ろを振り返る余裕もなく、我武者羅に手足を動かして無我夢中で幾つか角を曲がり駆けている内に、いつの間にやら帰路に着くはずだった家から遠く離れた公園に辿り着いていた。
酸欠して高鳴る胸の鼓動を平常に戻そうと、大きく息を吸い込んで、吐き出す。額に滲む汗を拭いながら顔を仰げば、白い月が下界を見下ろしていた。日が沈んだ西の空は仄かな朱色の明るさを残しているが、それも時間の問題だろう。
(ったく、とんだ災難だった……)
未だ硬く握り締めていた右手の指をそっと開く。そこから覗いたのは公園灯の光に反射してシルバーに輝く鍵。ロックを掛けた家を開ける為の手段で、本来なら穴に差し込み捻るしか使用法のない固形物。
「……は〜ん。成る程、それであのシャバ憎を突いたわけだ」
ギョッとして声のした方を振り向く。そこには息を切らした少女が一人立っており、伶子は相手を視界に入れた瞬間、顔を強張らせた。髪や服装が先程絡んできた女と同じ……いや、それ以上に刺々しかったのだ。
明るい茶に赤のメッシュを入れたセミロングの髪。細く薄く整えられた眉。顔に施した、けばけばしくて品の欠けた化粧。スカートは風が吹けばいとも容易く裾が捲れ、中が見えてしまいそうなまでに短い。何より目を引いたのが足元。改造しているとはいえ着用しているのはセーラー制服なのに、ローファーでも運動靴でもなく、脹脛半ばまである黒のロングブーツを履いている。よくよく注視しなければ気付かないが、爪先に何か仕込んでいるらしい。細身でそれほど背も高くないというのに、見るからにサイズが大きかった。二十五・五か二十六はあるだろう。
唇の両角を吊り上げて人を食ったような笑みを浮かべながら、女が近付いてくる。
仲間をコケにされた報復に来たのかと、不良の団結力におざなりな拍手を送りたくなる反面、これ以上厄介事に巻き込まれるのは御免だったので、慌てて彼女から背を向けたのだが「別に仕返しにきたわけじゃないから」と投げ掛かけられた声が意外に穏やかだった為、つい足を止めてしまった。
「外見がちっちゃくて大人しそうだったから、中身もつまんねぇチンケな奴と思ったんだけど」
「喧嘩売ってんの?」
じろじろと見下ろしてくる遠慮も謙虚もない両目を睨み返しながらこみかめを引き攣らせる。
「褒めてんだよ。見た目にそぐわず気ぃ強ぇなって。……でも、さっきの奴らに一泡吹かせたのはまずかったかもね。男の方、“NICOLE”って不良グループの奴だよ」
比喩ではなく本気で眩暈を覚えた。知らなかったとはいえ不良グループという聞くからに性質の悪そうなものに所属する奴に盾突いた揚句、刺す真似までしたのだ。一滴たりとも血を流させたりしなかったとはいえ、勘違いをさせてしまった。それも女が見ている前で。
自尊心が傷付かない訳がない。今度は仲間を引き連れて、再び伶子の前に現れる可能性が高い。
「あんたもあたしらの仲間になる?」
「え?」
表情を曇らせた伶子に女はニヤリと不敵な笑みを模る。
「“UNKNOWN”って女ばっかのグループ。あんた、あたしみたいなの前にしてもあんまビビってないし、何か気に入った。……入ったらあいつらから助けてやるよ。どう?」
中学校の最高学年に上がる頃には、以前の面影が思い出せないほどに少女の容姿は変わってしまった。
身長は相変わらず伸び悩んだままで、十五歳女子の平均身長値と比較すればだいぶ低い。しかし背丈や外見の幼さなど何のその。
一度廊下を歩けばモーゼの十戒さながらに道ができた。脇に寄った生徒は視線が合わないよう俯いて、たまに目が合うと脱兎の如く足早に逃げ出す。そんな生徒達を、いつしか伶子は長い前髪の下から蔑みを篭めた流し目で見遣っていた。
背中に流れる、根元から毛先まで金一色に染めた髪。常に鋭い閃光を宿らせた剣呑な眼差し。厚く塗ったファンデーション。艶めくグロス。制服のスカートはワザとサイズの大きい物を履いているので、裾は踝丈まである。ウエストは自分で手直しした。
「おい桜原。いい加減その全身校則違反はやめろ!」
向かいから現れた中年教師は憤怒で顔を真っ赤にしながら伶子の行く手を阻もうと正面に立つ。体質からか、肌が脂ぎってテカっていた。百六十センチそこそこと男性としては低身長ではあるが、対峙するのが小柄な少女とあってか、威圧を感じさせようとワザとらしく胸を張り、自分を大きく見せようとしている。
それを下から斜め四十五度の角度で睨みつけながら、伶子は唇をへの字に曲げる。
「何だその顔は?文句を言われても仕方のない格好をしているのはお前だろう。このパーカーは学校指定にないだろうが」
「気安く触んな」
パシッと、上着の襟元を掴もうとしていた教師の手を振り払う。二人の様子を眺めていた野次馬が一斉に息を呑み、場の空気が一瞬にして凍りつく。拒絶された教師とそれを見ていた生徒達は驚きの表情で固まるが、ただ一人、伶子だけは溜飲が下がったと言わんばかりに眉間に寄っていた皺を緩ませた。
反抗的な態度を取られたことが逆鱗に触れたらしく、教師はより一層顔を赤くして右手を上げる。
「このっ!」
「きゃあ!」
平手で顔を張ろうとしているのを悟ったのだろう。女子生徒が小さく悲鳴を上げる。しかし彼の分厚い手が下ろされるよりも先に、伶子の足の動きの方が速かった。
一秒後には、何が起こったか分からないという顔の男性教諭が無様な格好で横たわっていた。
「すいませんねぇ、足癖悪くって。ついでにセンセ、これ社会と英語のワーク。全部解けたから先に提出しとくわ。残りの教科はまた気が向いたときに持ってくる」
足払いに成功した不良少女はニヤニヤ笑いながら鞄から取り出した教科書ワークを二冊、教師の顔の真横に放り投げ、踵を返して学校から去っていった。
本当ならあと一時間授業が残っていたのだが、どうもやる気が薄れて椅子に座っていることさえ億劫になったので帰ることにしたのだ。殆どの教師が伶子の出席だけを認めてあとは空気のように扱っていたというのに、帰るときになって正義感の強い厳格な教師に捕まったのはツイてないが、それでも鳩が豆鉄砲を食らったような顔を見れたのは役得かもしれない。
薄くなった鞄を脇に抱え、夜までどのようにして時間を潰すか、鼻歌混じりにぶらぶら歩きながら考えていたところで名を呼ばれた。
声がした方を振り返ってみれば、三日ぶりに見る顔が横に女性を連れ添って目を見開いていた。
「お前、学校は……?」
「ああ、お父さん。今日は仕事ないんだ?」
小首を傾げて肩を竦めながら二人に近付く。
「初めまして、娘の伶子です。どなたが伺っても?」
「え?あ……樫村広江です。お父さんの働いている病院で看護士をしてるの。よろしくね」
小学生と見紛う背丈なのに素行の悪そうな外見をしている少女の容姿に気圧されたのか、広江は一瞬の戸惑いを見せた後、取り繕った笑顔で名乗った。
隣に佇む父は気まずそうに視線をうろつかせている。娘に女性と一緒にいるところを見られた所為か、見るからに不良の格好をしている娘をこんな形で紹介する破目になったからか、もしくは娘を見かけてつい声をかけてしまった己に後悔しているのかもしれない。
「よろしくってことは、父とそれなりの仲だってことですよねぇ?」
目を細め、口角を吊り上げて笑った顔をつくってみせるが、瞳が笑んでいない。だからといって怒っている雰囲気でもなく、強いて言うなら体裁よく振り舞おうという姿勢だ。
言外に「どうして自分に何も言わなかったのだ」と訴えているように父の目には映ったらしい。小さく咳払いをして、真剣な眼差しで伶子を見下ろした。
「伶子。お父さんな、近いうちにお前に広江さんを紹介するつもりだった。結婚を前提にお付き合いしていて、お前にさえ認めてもらえれば結婚しようかと――――」
「すれば?勝手に。私に気を使う必要ないわよ。どうぞお幸せに」
クルリと身を翻して背後に向かって手を振って再び歩き出す。背後から父の自分を呼ぶ声が聞こえたが、到底振り返る気にはなれなかった。
「ま、反対もしなけりゃ祝福もしないけどね」
日が沈むまでまだまだ時間はあるが、どうも自宅に戻る気も遠出する意欲も湧かず、伶子の足は自然といつもの場所に赴いていた。
自分に向かってくる拳を避けて相手との距離を一気に詰める。間近に迫られ慄いた一瞬を逃さず、右手の指に挟んだ獲物をそのまま敵の腹部に押し付けたのだが、いつもならば柔らかい肉の感触が道具を通して伝わってくるというのに、今日は硬い何かに押し止められた。
「?!」
相手は中肉中背というより少々肥満に近い体躯をしている。腕を振るう度に二の腕やら顎の脂肪が揺れていたので、腹にだけ頑強な筋肉が付いているとは考え難い。
(くっそ!仕込みなんて小賢しい真似しやがって)
胸で悪態を吐くと同時に、にんまりと含み笑いを浮かべたその男が今度は伶子の腹部に膝蹴りを食らわした。
「うぐっ……!」
咄嗟に後ろに跳んだのでダメージは激減できたものの、体重が軽い所為で思いの外吹っ飛ばされた。
「“キー”、大丈夫?!」
「私は全然平気だけど……“ドンキ”、あんた美人が台無し」
レディースとしては少人数ではあるが、最近の“UNKNOWN”はこの辺一帯の地域でカラーギャングに勝るとも劣らないほどの少壮気鋭ぶりと噂されていた。おかげ集い場としている廃倉庫には毎晩のように賭け事、もしくは今日のように喧嘩を持ち込んでくるグループが現れ、伶子達はその対応に追われている。
武器は使用してもいいが刃物は使うな。薬物に手を染めるな。警察沙汰は面倒だから起こすな。そうグループで制約を作り、メンバーを取り締まっているのが“ドンキ”と呼ばれる彼女だ。
側頭部を強打されたのか、眉からこめかみ、頬、顎へと鮮血が滴り落ちている。しかし得意としている、彼女の呼称の由来でもある鈍器は手放していない。右手に握る得物は日によって違うが、今日は鉄パイプだった。
「うわっ!」
仲間の悲鳴にそちらに目を走らせれば、緑のジャージを着た少女の腕が赤く染まっていた。かなり疲弊しているのか肩で息をしている。対峙する男の手には鈍い光を放ちながら先端を血に濡らしたナイフが見えた。
「“ジャージ”!」
「“キー”、しゃがんで!」
言われるがままに膝を折れば、“ペイント”のペイント弾が先程まで伶子の頭のあった場所を通過した。それと同時に「ぐあっ!」と男の悲鳴が上がる。どうやら後ろから狙われていたらしい。
(!)
伶子を助けるが為に、対峙していた敵に背を向ける体勢となった“ペイント”を襲おうと、男が木製バットを振り上げているのが視界の隅に映る。
「させるかっ」
素早くその男の懐に入り、腹部が防御されている虞を踏まえて肌が露出している部分、鎖骨と鎖骨の間にある窪みを狙う。
喉のすぐ下とあって気管が圧迫されたのだろう。男は悲鳴も満足に上げられないまま両手で首を押さえてもがいている。
「このガキ!」
先程伶子と争っていた肥満男がすぐ後ろに迫っていた。
(やっば……!)
歯を食いしばり頬にくるだろう痛みに堪える覚悟で両目を強く閉ざしたのだが……痛みは一向に訪れない。
(………?)
「どうして“Ash”が……?!」
茫然とした“ドンキ”の声に双眸を開いた瞬間、強引に顎を掴まれ持ち上げられた。眼前に飛び込んできた異国人らしき男の顔に思わず目を剥く。
男の長く伸ばされた金髪が伶子の頬にかかる。こそばゆさを感じつつも、その金糸めいた髪が振り払えない。金茶の瞳はそれほどまでに強烈で歪な光を携えていた。
「よぉ?無事だったか?」
くつくつと喉を鳴らし、獲物を狙う獰猛な肉食獣が宿すような光を双眸に滲ませ、軽薄な笑みを刷きながら彼――――レオンは愉快そうに伶子を見下ろしていた。