其の弐:武器
忘れ物を取りに校舎に侵入したまではよかったものの、何の前触れなく照明が点灯され、違和感漂う状況に戸惑いながらも教室を目指せば、映画や漫画でしかお目にかかれなさそうな怪物との遭遇。必死で逃げ惑うも、鍵という鍵は解除しようとする伶子の行く手を阻み、絶体絶命の危機に陥ったところで現れたのは――――
「う、宇佐美先生……」
伶子は楕円形の眼鏡の奥にある瞳を大きく見開き、自分を助けた男を驚愕の面持ちで茫然と仰いだ。
元々目尻が垂れ気味な上、当たり障りない程度に髪を茶色く染めている所為か、宇佐美甲斐という男は一見、軟派に捉えられがちだ。しかし授業時では厳しい面を見せ、教育指導は至極丁寧、教職者らしからぬ言葉遣いの荒っぽさから、生徒や同僚からは外見と内面が一致しない人間と認識されていた。そういった点で、厳格というイメージを強く持たれているが、教師という職に就いてまだ数年しか経っていない、しかも稀に見る美顔の持ち主だからか、男女問わず生徒から親しまれている。
因みに男子からは“ピョン吉先生”、女子からは“ウサちゃん”と呼称されていた。
「ちっ……!よりによってこいつを助ける日がくるなんてな」
但し、どういうわけか伶子にだけは授業の有無関係なく、無愛想な態度で接している。彼が指導する数学を昨年に引き続き受けているが、二年になった今でもその理由は解明されていない。
「どうして先生がここに……?」
閉鎖された学校で化け物と鉢合わせ、ひたすら逃げる焦燥感しか頭になかったが、宇佐美が登場したことにより、もはやどこから驚けばいいのか分からなくなっていた。
図書室で不意に耳を掠めた、虫の羽ばたくような音。
暗闇だったはずなのに、扉を開ければ既に照明されていた蛍光灯。
廊下の真ん中で佇む、眼球のない筋肉質な巨体。その臀部には、金と紫という悪趣味な色合いをした蛇。
鍵の開かない校舎。
追い詰められた伶子を助けた宇佐美。
そして、その宇佐美の手に握られた白銀の弓……。
「邪魔だ。どうせこいつ倒さなきゃ校舎の外に出れねぇんだ。俺がいいって言うまでどっかの教室に隠れてろ」
「開いてたはずの図書室、閉まってたんです。……他に開いてる教室ってあるんですか?」
脳内では驚愕する出来事が山積みのままとなっているが、情報処理の追いつかない状態でも、ある程度冷静な判断ができるところまで落ち着いてきたらしい。
非現実的な状況下にも拘らず、不様に慌てふためく様子を見せない伶子が気に食わないらしく、宇佐美は舌打ちするのだが、目の前の化け物より自分の動作で首を竦めた彼女に、更なる苛立ちを覚えたようだ。眉間の皺が一層深まる。
膨れ上がる宇佐美の不機嫌具合を察した伶子としては、ただただ萎縮するしかできない。
「じゃあ階段の裏辺りで蹲ってろ!」
弓を構えた瞬間、宇佐美の右手に矢が出現した。素早く弦を引いて巨体の脇腹に命中させると、その一手に留まらず、次から次へ宙から矢を生み出しては放っていく。
容赦なく、慣れた様子で一連の動作を繰り返す宇佐美に、伶子は目を丸くするばかりだ。ぞんざいな口調で言い渡された忠告など頭の隅にやられ、立ち上がることすら忘れている。
「痛!痛ぇ!畜生、人間のくせに!人間なんかに!」
「うるせぇ!とっととくたばれ、デカブツ!」
「飼料の分際で小癪な!」
「悪趣味な蛇皮が何ほざいてやがる!」
「てめぇはそこのガキより先に殺す!」
「死ぬのはてめぇだ!」
モンスター相手に、臆することなく言葉の応酬を交わす数学教師。このような非現実的な場面であろうと、傲岸不遜な態度は普段教鞭を振るうときと何ら遜色ない。恐怖で顔面筋を歪ます伶子とは対照的に、宇佐美は不敵に口角を吊り上げている。
……物凄く、表情が生き生きしているように見えるのは普段いびられている欲目だろうか。
(一番驚くべきは、こんな事態でも尊大な姿勢を崩さない先生なのかもしれませんね……)
肝が据わっている、なんて言葉では片付けられないだろう。
「死ね!」
どちらも聞くに堪えない罵り合いをしていたので、その台詞を吐いたのが宇佐美なのか、蛇なのか、判別できなかった。もしかしたら同時に同じ台詞を発したのかもしれない。
宇佐美が矢を放とうとしたタイミングに、巨体の窪んだ眼窩から赤く濡れそぼった細い触手が束になって飛び出した。
「ひっ!」
触手の気味悪さに悲鳴を上げる。
宇佐美も声こそ出しはしなかったものの、一瞬身を怯ませた。
二人が瞠目した刹那の間、左右の眼窩から噴出したそれが分裂して一層細かい束となり、宇佐美の体に巻き付く。
「しまっ……!」
「先生!」
足首、太腿、胴、手首、二の腕、脇下、首……各所に絡まるうねった触手が徐々に宇佐美の体を締め上げていく。服に皺が寄り、ミシミシと腱が悲鳴を上げる音まで聞こえてきた。
「うぐっ!」
顔を顰める敵に、蛇が嘲笑を浴びせる。
「ひゃはははは!良いザマだな、人間!苦痛で顔が歪んでいく様はそそるぜぇ。たっぷり時間かけながら骨砕いて、全身の筋肉が弛緩したら、生きたまま頭から喰ってやるよ!」
「やめて!」
立ち上がった伶子は触手を引き剥がそうと腕を伸ばすが、視野に入る自分の手に違和感を覚えた。
どろりとした鉛色の液体が、指先から手首までを覆っている。両手を持ち上げてまじまじと見遣るも、手首より下に伝うこともなければ、床に零れることもない。重力を無視して伶子の肌にベタリと張り付いている。加え、温度が全く感じられなかった。熱くもなく、冷たくもなく、それでいて濡れている感覚さえ皆無。
自身の触覚が機能していないことを覚り、鳥肌が立つ。
「何なんですかこれ?!」
気を動転させながらも傍の呻き声にハッとして、宇佐美の安全を確保することが先決だと判断し、触手を引き離そうと躍起になる。だが触れようにも粘度のある液体が触手の表面を滑り、爪で引っ掻くことさえままならない。
(このままだと先生が……!)
焦りで空回りする。酸素を取り込もうと口を開閉させる宇佐美の姿が霞む。
泣き叫んで助けを呼ぼうにも、ここには無力な伶子と死にかけている宇佐美、そして二人を襲う化け物しかいない。
「武器を……」
か細く息を吐きながら、宇佐美が掠れた声を出す。
弓を使えと言いたいのだろうと思い、宇佐美の足下を見渡すが、どこにも見当たらない。
「ちが……!思い浮かべろ……これ、切り裂く……お前が扱いやすいよう、な、武器……ぅぐっ……!」
“武器”という単語で、過去の記憶が脳裏を過ぎる。
宇佐美が数年前の自分を知っていて、その言葉を口にしたのかと邪推するが――――否、あのとき使っていたものでは触手どころか、切り傷さえ負わせられない。
一瞬の危惧の最中に思い描いた、凶器にさえならない道具。その思考に呼応し、伶子の両手を覆っていた鉛色の液体が姿を変えた。
――――ザクッ!ザシュ!シャッ!ザシュッ!
「ウ、ギ、ギャアアァァ!」
咆哮を上げ、蛇が悶絶する。
「げほっ、げほげほ……っ!」
触手から解放された宇佐美は床に手をつき、膝立ちになって酸素を求める。短時間とはいえ、強烈な力で締め付けられていたおかげで様々な部位が痺れを起こしているらしい。服の下の隠れた箇所は分からないが、素肌が露わとなっている左手首には鬱血の痕ができていた。
「うっげ……明日も授業あるってのに。危ねぇSM趣味だと思われなきゃいいが」
引き攣り笑いを浮かべながら明日までに痕跡が消えていることを切に願う宇佐美を尻目に、伶子はスタートダッシュをきる。
「ま、て!おうは……!」
「このクソアマ!」
咳き込みながら焦燥を絞り出す宇佐美と、蛇の怒涛。二つの声が伶子を中心とした距離で発される。
しかしその二つをあっさり無視し、腕を大きく前後に振って上半身をやや傾けながら、少女は巨体の化物へと足早に駆ける。
傷付けられた触手を眼窩に引き戻した怪物が掌を硬く握り締め、向かってくる対抗物に狙いを定める。
対峙する距離がリーチの差に詰まったのを目に留め、蛇が声高々に叫ぶ。
「死ねぇぇ!」
伶子の顔面目がけて振り下ろさせる攻撃は、宇佐美に仕掛けた触手同様、筋骨隆々の鈍そうな体つきに反し素早いものだったが、対する伶子の動きはそれを更に上回った。
踏み出した一歩を軸に時計回りに身を回転させ、敵の懐に潜り込んでそのまま腕を縦に振るう。ザクリと肉の避ける感触が得物を通じて伝わってきたが、それに気をとられてこのまま手を休めるわけにもいかない。
激痛に身を硬くした、金と紫の縞模様を描く胴体を躊躇なく掴み、渾身の力で引っ張る。遠心力を使って巨体の背後に回り込んで臀部を蹴りつければ、意外にも簡単に巨体と蛇を別つことができた。
スポッという擬音が聞こえてきてもおかしくないほど呆気なく。
「……あのでかい方は単体の生き物ではなく、単なる操り人形だったんですね」
「どうやら触覚の繋がりはあったみたいですが」と口を動かしながら蛇の体を床に押さえつけ、うねる尻尾の先を踏み留める。
「う、あ、あ……!やめろ!人間如きが――――」
「いい加減、性質の悪い夢は終わらせたいんです」
左手と右足で捕らえた、趣味の悪い紋様をした生物を苦々しく見つめ、そこに湾曲した得物の先を突き刺す。その上から左膝を置いて、じわじわと体重を掛ける。
「ぎぎゃああああぁぁぁぁぁぁ!」
断末魔の叫びを上げる蛇の体から、伶子たち人間と見る分には変わりない赤い鮮血が流れ出る。チラリと横目で、俯けに倒れた抜け殻の巨体に目をはしらせる。宇佐美が放った矢と伶子が付けた傷口から流れる液体も、紛れもなく赤色だ。
絶鳴が止み、動かなくなったことを確認して、そっと蛇から離れる。立ち上がると、突き刺していた蛇の死体が抜け落ち、一度床に軽く弾んでそのまま沈んだ。
「……俺よりえぐいこと、あっさりやってのけるんだな。お前」
失笑混じりの声にハッとして顔を仰げば、喉元を押さえた宇佐美が傍に佇んでいた。
「宇佐美先生……」
「それがお前の武器か」
自分の手に注がれる視線を追い、左右の手を持ち上げてまじまじと観察する。
指のない、黒皮のグローブ。指の付け根部分に金属が取り付けられ、そこから十五センチ程の細い刃が伸びている。
先が湾曲したその武器は、まさしく鉤爪。
「あ、ははは……」
伶子の口から力なく笑い声が溢れ出す。宇佐美の訝しむ眼光が感じられるが、構う余裕などなかった。
(やはり私の武器というのは、こういう形態なんですね……)
口角に自嘲を浮かべると同時に、視界が揺らぐ。眩暈と表現する方が正しいかもしれない。
――――ブォン……!
羽虫が羽ばたいたような音がした。校舎に侵入した際に聞こえた音と全く同じだが、誤認していたらしい。
(耳じゃなくて、何だか頭に直接響いているような……)
脳でその音を感知した刹那、蛍光灯の明かりがまるで示し合わせたかのように一斉に消灯した。
「今日はこれで終わりだな」
暗闇の中で呟いた教師の一言に疑問が擡げるが、その問いを口にする前に伶子の体が前方に傾く。
「おい、桜原伶子――――」
慌てる宇佐美の声が、遠くに聞こえた。
両腕を伸ばしきっても幅の余る広い机上には、小型の照明器具だけでなく、教科書、ノート、シャープペンシルと、勤勉の形跡が残るものばかり散らばっている。けれども主なる教材書に専用の筆記帳というセットではなく、古文の教科書、政経のノート、物理の参考書に和英辞書と、他にも様々な書物が開きっぱなしで放置されているという状態。
手の付けやすい教科から取り掛かろうと本を開いたはいいものの、途中行き詰って他の教科に目を向けるが、結局は全てに匙を投げたという事態が想像される。
部屋の主である茉穂は天井に設置している円型の蛍光灯を消し、スタンドライトの明かりを頼りに手の中のアナログ時計を静かに見つめる。
秒針は休むことなく数字の間を潜り抜けていくが、短針は十、長針は六で留まっている。
「そろそろ、決着がついてもおかしくないけど……」
茉穂が時間を気にしだしてから、一時間半が経過しようとしていた。
ファーストフードで軽食を済ましていたので、帰宅後は夕食を摂らず浴室に直行し、入浴を済ませて九時を過ぎるまでの間は机に向かっていた。……集中力が持続していたかどうかは別として。
そして戦いの合図を知らせる音を脳で感知してからは、乱れがちな集中力はさらに散漫してしまい、ついには時計から目を逸らせなくなってしまった。
――――ブォン……!
待ち望んでいたその音に、ホッと息を吐く。約三ヶ月間、何百回と脳で聞いた音は今でも茉穂を苛め、一欠けらの安堵を齎す。
「……今日も先生、災禍を倒したよ」
声のする方を見遣ると、カーテンが引かれた窓際に数時間前に対峙した男が佇んでいた。
パーカーにジーンズという先程と変わらぬいでたちで、突如出現した男に動揺する様子もなく、茉穂は口を開く。
「先生、怪我しなかった?」
「首を絞められてたけど、大丈夫だよ。昨日負った怪我も、明日には回復してるだろうし」
「……よかった」
伏せ目がちに俯きホッと安堵する頬に睫の影が落ちる。
マスカラを落とした睫は化粧を落としても上向いたままで、わざわざ道具を使わなくとも充分長い。二重瞼だってアイメイクで強調せずとも大きいし、色白というより健康的な色をした肌は、にきび一つない。強いて欠点を挙げるなら、薄くて短い眉毛ぐらいだろうか。
「多分、異性として見られてないんだろうな」
「え?何か言った?」
小首を傾げて問い質されるも、男は何でもないと首を横に振る。
慣れ親しんだ間柄ならば、化粧を落とした素顔を相手に晒すことに抵抗はないだろうが、少しでも異性として意識しているのならば、多少なりとも恥じらいを見せるだろう。男が茉穂のスッピンを目にするのはこれが初めてではないが、一度たりとも取り繕う様子を見せないのだから、いかに異性として捉えられていないかがよく分かる。
「一度素顔を見られたから開き直ってるのかもしれないけど……何も意識されてないっていうのは悲しいな」
嘆息する男に構わず、茉穂は両手を挙げて伸びをする。
「先生が無事って聞いたら安心しちゃった。もう寝るから帰って」
「……そうだ、言い忘れてた」
椅子から立ち上がり、欠伸をしながらスタンドライトのスイッチに手を伸ばした状態で男に怪訝な視線を送る。安堵したら本当に眠気が襲ってきたらしく、半ば目が据わっていた。
「これだけ伝えたら帰るから」
「じゃあとっとと言いなさいよ」
「戦闘開始前に誰かが校舎に侵入してたみたいで、介入者が出たんだ」
「!」
瞠目する茉穂を直視できず、男は視線を落としたまま続ける。
「災禍に出くわして逃げてる最中に先生に助けられたけど……冥玉に触って武器を得た」
「ちょっと待って!それじゃあ――――」
「その子も佐保姫候補だ」
グッと両手の拳を握り、男は出現したとき同様、一瞬にして姿を消した。
「ちょ……!それが誰だったか言ってから消えなさいよ!」
乱雑した机にバンッと勢いよく音を立てて手を付くが、ふと数時間前に交わした会話を思い出す。
『茉穂ちゃん、今から数学のノート取りに伺っても構いませんか?』
『あ〜!ごっめーん、六限目に書き写して、そのまま机の中に入れっぱだった』
『茉穂ちゃん、授業中に他の教科の勉強をするのもいかかがなものかと……』
『だって古文なんて退屈なだけだし〜。でも明日って数学ないっしょ?別に今日予習しなくったっていいじゃん』
『……そうですね。また明日、今日の分も頑張ることにします』
口内に溜まった唾液を飲み干せば、心なしか大きく音が鳴った。
(でも、明日は数学の授業ないんだし……)
胸中で言い訳がましいことを呟くも、嫌な予感は消えないまま。
男の言う介入者が親友でないことを願いつつ、茉穂は今日も、眠りの浅い夜を受け入れる。
始まったばかりの夜は、いつも以上に長く感じられた。