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春風戦華  作者: 地球儀
14/35

其の壱拾肆:決裂

力が抜けそうになる膝を叱咤してどうにか階段を上りきる。休息したいのは山々だが、今は敵との距離を少しでも引き離すことが先決だ。そう自分に言い聞かせて歯を食い縛り、前を見据える。

こめかみを伝う汗を肩で乱暴に拭い、そのまま前へ進もうと一歩踏み込めば、足元がふらりとよろめいた。反射で手摺りを掴んだ為、倒れずに済んだものの……どうも腑に落ちない。

(さすがにへばってきたか?いや、汗は凄ぇがそれほど息切れしてねぇし、まだまだいけんだろ!)

しかし疲労困憊から這い上がろうとする気力とは正反対に、体は明らかに鈍ってきている。逃げ惑いつつ矢を放つという戦法に変えてからそれほど時間は経っていない。にも係わらず足の関節は酷使したかのように痙攣を起こし、動悸はやたら激しい。おまけに大した距離を駆けたわけでもないのに、まるで猛暑日の炎天下にいるような発汗量。

(まさか……年、とか)

考えられる理由に思わず顔が青褪めてしまう。確かに四捨五入すれば三十路に換算されるが……。

「……って、俺はまだ二十六だ!」

地団太を踏んで気を取り直し、一先ず踊り場から離れようと手摺りから指をどかそうとしたときだ。

目の端で細かい何かが煌いた気がした。

(何だ……?)

ほんの数秒間、違和感を覚えた一点に注視してみる。そしてそれが何であるか思い当たった刹那、自分が敵の手中に嵌まっていたことを察した。

「アハッ!やっと気付いた?」

階下の踊り場からひょっこり顔を出して、災禍が無邪気に微笑んだ。

「お前……!」

掌で鼻と口元を覆い隠し呻くが、今更そのような対処をしたところで意味は成さないのかもしれない。

よくよく目を凝らさなければ判別できないほどの小さな鱗粉が、空気中に散布されていたのだ。おそらく宇佐美と接触する前から仕掛けは施されていたに違いない。校舎中を駆け回り、息が上がるほどの決して浅くない呼吸を繰り返していたのだから、当然災禍の撒き散らした鱗粉を肺に取り込んでいるはずだ。

「効果は運動能力と集中力の低下、筋肉の弛緩、手足の痺れ。僕のスタミナは災禍の中でも低い方だけど、これだけ相手を弱らせることができる。まぁ吸い込んだのが微量ならあんまり効果ないんだけど」

脚の力が抜けたようで、宇佐美の体は手摺りに寄り掛かるようにして崩れ落ちた。

背後からは一段一段、少年の姿をした敵が段差を縮めてきている。

(くそっ!)

己の得物を出現させようと試みるものの、召喚できても掴み取ることができない。

「チェックメイト」

右手の爪を長く伸ばし、赤紫の血管を指先に浮かび上がらせた災禍が嫣然一笑ながらに舌舐めずりした。

しかし次の瞬間、シュッ、という小さな音と同時にその長く伸ばされた爪が指ごと消えた。

(?!)

「……え?」

刹那の間を置いて、災禍の切断された患部から噴水の如く真っ赤な血が噴き出した。

「う、あぁああああ!」

第ニ関節より先がなくなった人差し指、中指、薬指、小指を目を見開いた状態で凝視しながら、災禍が絶叫する。

頭上から降り注ぐ鮮血の雨を茫然と見つめる最中、宇佐美は自分達を除く第三者の存在がいた事実に漸く気付いた。

「チェックメイトです」

ハンカチを口元に当てた少女が災禍の頸動脈をあっさりと裂いた。

――――ブォン……!



カツカツカツと、やや右上がりの角張った文字が黒板に綴られていく。たまに躊躇するように手が止まり、一度書いた数字を消す動きもあるが、それでも白いチョークを握る指が中途半端な解答を記したまま放っておかれることはない。解答式は確実に終着点へと向かっていた。

宇佐美の出題した問いと自ら導き出している解釈式、相互を見つめる視線を幾度と彷徨わせながら、伶子は問題を解いてゆく。

手の中のチョークを少しずつ削る傍ら、彼女は昨晩の出来事を思い返していた。



「お前、どっから侵入してきたんだ?」

ゲームが終了すれば災禍が戦闘で残した痕跡というのは完全に消え去るはずなのだが、先程まで顔中を濡らしていた血の感触までは払拭してくれないらしく、宇佐美はしきりに袖で顔面を擦っている。

「保健室の窓が開いてたんで、そこから入りました。昨日あんな風に取り乱して、おまけに学校まで休みましたし……正直、宇佐美先生と顔合わすのが気まずかったんです」

伶子は口に当てていたハンカチを広げ、鱗粉が付着していないか確認しつつ答えた。念の為眼鏡も外して双眸を眇めながら確認してみるが、やはりレンズにも付いていない。

少女が鱗粉に気が付いたのは、羽虫が耳元で音を立てているような不快な戦闘開始音が脳に響いてすぐのことだった。視界に広がる光景に違和感を覚えレンズを外してみれば、どこで付着したのか記憶にない微小の粉末が付着している。鈍い輝きを放つそれを考慮して口にハンカチを当てながら行動していれば、宇佐美が災禍に襲われている場面に出くわしたのだ。

「……まるで自分一人で始末しようとしていた口ぶりだな」

声のトーンを落とし、憮然とした面持ちで宇佐美がそう言うのも無理はない。伶子の言葉も然ることながら、二人は未だ顔を見合わせない。

正確にいえば、伶子は宇佐美と目を合わすことを恐れていた。

先程の言葉に嘘は一切ない。あのような醜態を晒して逃走したのだから、対面するのは正直辛い。けれどもその根本は単に不様な真似をしたからというだけではなくて……。

(好きな人にあんなパニック状態のところを見られたんですから、凹むのは当然じゃないですか)

額に手を当てて大きく溜息をつく。

伶子にとってそれは自虐を表した動作だったのだが、傍らにしゃがんでいた共闘者はこれみよがしに呆れられたと感じ取ったらしい。

「確かにお前がいなきゃ、俺は殺られてたかもしれない。だがお前一人で片を付けようとするのは傲慢だろ」

片目を眇めて少女から顔を逸らしながら宇佐美は舌打ちする。

「俺が一人でどうにかしようとするのは当たり前のことだ。元は俺だけが災禍と戦うはずだったんだからな。お前は運悪く巻き込まれただけに過ぎない。俺には姪を取り戻さなきゃならねぇって理由があるが、お前は見て見ぬ振りができないって自己欺瞞だけで動いてる」

だから秘密裏に事を終えようとするのは見当違いだと、言外に告げられた。

確かに宇佐美の言葉は正しい。伶子も以前自ら宣言したとおり、災禍を倒そうという意思は欺瞞そのままと承知している。

過去に自分を苦しめた男が冥界と関係していたからといって、その考えを撤回し、身を引こうという気は毛頭ない。

顔を合わせ辛かった、というのは我儘だ。自覚もあった。

しかしその気持ちの本質を察してほしいと願うのは、おこがましいだろうか。

立ち上がり、伶子の前に立ちはだかった青年教師は目の前の小さな頭を乱暴に鷲掴みして首を上向かせる。自身も顔を寄せて、互いの鼻頭がぶつかりそうな距離で宣告した。

「誓え。金輪際、俺の目を欺こうなんて思うな。俺を見縊るんじゃねぇ」

まるで喉笛を噛み千切らんばかりの、獰猛な瞳の輝き。それは混じり気一つない熾烈な怒りのみが蓄積されたもの。

「……すみませんでした。でも、先生を軽んじていたわけじゃありません。それは断言します」

フン、と小さく鼻を鳴らし、伶子を解放した宇佐美は踵を返して背を向けた。

「俺をこんな目に遭わせてるあの男とお前の関係なんて知ったこっちゃねぇよ。顔が合わせ辛かった理由がそれなら、別に気にすんな」

それだけ言って何事もなかったかのように階段を降り始める男に、伶子はただただ瞠目した。

(徹夜覚悟で問い詰められると思ったんですが……)

全てにおける元凶である男と、彼を前にして恐慌した伶子の関係を、敢えて聞き出そうとはしない。その真意は定かではないが、伶子にとっては非常に助かる状況だった。

過去の自分がどのような人間であったのかを彼に……片思いの相手に赤裸々に語る勇気はない。できることならそのような機会など一生こないでほしいとさえ願っている。

けれどもほんの少し、僅かながらであるものの自分の全てを知ってほしいという浮ついた気持ちがあるのもまた、一つの事実だった。



Xの答えを導き出し、それを黒板に書き示す。チョークを置き、教卓に肘を掛けていた数学教師を仰げば、そこには相変わらずの顰め面があった。

「……正解だ」

赤いチョークで大きな丸印が描かれる。一年以上宇佐美の筆跡を眺めているだけあって、今のマークが強い筆圧で付けられたものだと判別できた。今日もまた不正解だと言えなかったことを妬み、胸中で地団駄を踏んでいるのだろう。背中に突き刺さる視線が痛い。

席に着いて先程黒板で解いた問題をノートに書き写している間にチャイムが鳴った。

「二十八ページの問四と五、宿題な。あとワークの三十三ページ、これも今日教えた公式使えばできんだろ。つーか三十六ページまでやれそうだな。次の授業までにやっとけ」

「無理無理無理無理!」

「次って明日じゃん!」

生徒の反論など意に介さず、秀麗の容貌にニコリと笑みを浮かべた数学教師は思案する素振り一つ見せずにさらりと言った。

「明日の五限だろ。時間は充分にある」

爽やかな微笑みを残し去って行った男の授業をつい先程まで受けていた教室には、二年八組の生徒達による絶望の雄叫びが響き渡る。

「ピョン吉先生の鬼!悪魔!」

「血も涙もありゃしねぇ!」

「ウサちゃんの笑顔、素敵……」

指を組んで瞳を輝かせる女子生徒も中にはいたが、周囲からは「違うだろ」とツッコまれていた。

中指で眼鏡のブリッジを押し上げて、伶子は首を捻って後ろを見遣る。こんなとき誰よりも不平不満の表情を浮かべて愚痴を零すのは親友の特権なのだが、そこにあるはずのオレンジ色の後頭部はない。

今朝登校しているときに『気分が優れないから休む』というメールが届いたので欠席しているのは分かっていたのだが……。

一列挟んだ右隣に視線を流して、そこに人の影がないことに嘆息する。

「……二人が休みなのは、たまたまなんでしょうか?」

口の中で呟かれた疑問に返ってくる声はなかった。



「っは〜!漸く頭すっきりした」

ワイルドショートの金髪をガシガシと粗野に掻き乱し、一見二十代に見える青年は後背を反って伸びをした。

天へと掲げた長い腕は着用している黒のタンクトップとは対照的に、日焼けを知らない新雪の如く透き通った白さがある。ある意味病的なまでに青白い肌の色に、体毛が薄いことも加わって遠目では細身に見えてしまいがちだが、近寄ればかなり引き締まった筋肉が付いているのが分かる。上半身だけでなく、所々破けているジーンズの上からでも判別できるほど、下半身もスラリとした引き締まり方をしている。

今にも鼻歌を歌い出しそうな上機嫌な雰囲気を醸す弟とは反対に、横に並んで歩くシオンは若干憔悴していた。

「レオン、頼むからあまり目立たないでくれ。リオンに見つかったら色々厄介だろ」

「ハッ!何を今更。俺をこっちに連れてきた時点でもう厄介事を抱え込んでんだ。リオンの怒髪天なんて可愛いもんだろ」

それでも叱責を逃れたいと願うのは当たり前だ。面倒事は少なければ少ないほど助かる。

再び漏らしそうになった溜息を堪えてふと流し目で横を見遣れば、三人組の女性グループがこちらに注目しているのに気付く。シオンと目が合った途端、彼女達は顔を見合わせて黄色い悲鳴を上げた。

「やっぱ色男が二人並ぶと目の保養になるんだろうなぁ」

くつくつと愉快そうに喉を鳴らしながらレオンが手を振る仕種をしてみせれば、道を歩いていた女性達が頬を仄かに赤く染めて挙動不振な動きをする。中には声を掛けようかと相方に相談する者までいる。

「お前の近くにいると目立ってしょうがない。ここで別行動にしよう」

「まだいいだろ。時間はたっぷりある」

アイドルさながら無駄に笑顔を振り撒いている弟に肩を竦め、どこか時間を潰せる場所はないかと周囲を見渡してみれば、いつの間にか駅前大通りまで歩いてきていたことに気付いた。

ふと、全国展開されている何度か訪れたことのあるファーストフード店の看板が目に留まった。

「レオン、一旦解散な」

「え、ちょ、兄貴?」

一人足早に歩き出した長男の後に続こうとレオンも前に踏み出すが、それを阻むようにして女子大生らしき二人組が寄ってきた。

「あの、もしかしてモデルの方ですか?」

「よければ一緒にお茶しません?」

「あ〜、お誘いは嬉しいんだけどさ……」

背後の声は次第に遠ざかり、目的の建物の自動ドアを潜ってしまえばいとも簡単に外の雑音はシャットアウトされた。

レジに並んで期間限定のハンバーガーとシェイクを注文し、トレイを持って空いてる席を探そうとうろつけば、壁際の一番端、二人掛けのテーブル席に見慣れた後姿があった。

服装は紺のブレザーではなく、白い春ジャケットに黒のミニスカート。足元も、普段のルーズソックスに焦げ茶のローファーとは違い、黒と白の縞模様をしたニーソックスとベージュのショートブーツを履いている。

「茉穂、今日学校じゃ……」

細い肩を大きく跳ねさせて少女が振り向く。ゴールドのアイシャドウを施した瞼を大きく見開き、グロスを塗った真紅の唇から中途半端に赤い舌を覗かせている。まるで数年来顔を合わせていなかった相手から久々に声を掛けられた、そんな驚愕に彩られた表情だ。

「あんたこそ、昨日に引き続き今日も休んだの?」

マスカラでボリューム感を増した睫を一度上下させることによって平常心を取り戻したらしく、座れと、少女は人差し指で前の空席を指し示す。

椅子に腰掛けて紙コップにストローを突き刺していると、ひしひしと強い眼差しを感じる。いうまでもなく茉穂からだ。

「あたしがこうして学校サボってんのは、あんたを待ってたから。正直、昨日ウサちゃんの様子を知らせに来なかったあんたがあたしの前に現れる可能性は低いと思ってたし、来るとしても学校終わってからだと思ってた」

コップを手に持ちストローを通して中身を飲み込む様を眺める。喉を潤す為に行う動作。それは目の前の茉穂やシオンとて例外ではない。

(何だろ?何かいつもと違うような……)

店で会うときは大抵制服だからだろうかと、いつも見るその光景にどこかに違和感を覚え、訝しむ。

向けられる眼差しは相変わらず強靭性を秘めていた。シオンの存在を頑なに認めようとせず、しかし彼の使命を理解せざるを得ないと表面上は納得はして、そして己が下した苦渋の手段に後ろめたさを覚えながらも葛藤している。

残り今晩を含め三日。それまでにリオンが茉穂をかどわかす可能性だって充分ありえる。

それを考慮して最良だと判断した方法が、レオンと手を結ぶことだった。

「俺を待ってたってことは、何か言いたいことがあるんだよね?」

「それより先に訊きたいことがあるの。昨日今日と学校休んで何してるわけ?ウサちゃんと口約した期限は明後日。……一体、何企んでるの?」

眉宇を顰めて疑念を露わにした不安げな表情を一掃するように、シオンは豪快にハンバーガーに齧り付く。それを咀嚼し、嚥下してから口を開いた。

「久々に弟と会ってたんだ」

「弟って……!」

「宇佐美先生の姪御さんまで巻き込んだ方じゃなくて、その下。末弟の方。ついさっきまで一緒にそこの通りを歩いてた」

血相を変えて茉穂はガラス張りの板の向こうを見遣るが、書類袋を脇に挟んで走るリクルートスーツの女性、杖を付きながらよろよろと歩く老人、気だるそうに連なって横断歩道を渡る作業服の男達……それらしき人物は見当たらない。普段と何ら変わらず、人が縦横無尽に自分達の進むべき道を進んでいる。

「……茉穂、学校サボってまで訊きたかったことって何?」

食べ終えたハンバーガーの包み紙を丁寧に四方に折り曲げながら、優男の印象を抱かせる男は訊ねた。店内を照らす光は若干オレンジを含んでいるので判別つきにくいが、彼の頬は微かに紅潮している。

(まぁ恋沙汰の可能性はゼロに等しいけど……)

それでも本心では期待していたらしい。だからこそ、彼女の絶対零度にまで冷ややかな声色を耳にした瞬間、言葉の内容を捉えきる前に胸が凍った。

「先週現れたって言ってた介入者、ホントはウサちゃんの手助けしてるんでしょ?」

問いかけではあったが、吐き出された言葉は間違いなく確信に満ちていた。

ヒュッと、喉が鳴る。反射的に顔を上げれば、黒色の双眸が静かにシオンのそれを射抜くように見つめていた。

指先が震える。産毛が一斉に逆立つ。毛穴が開き、二の腕が粟立つ。異様に喉が渇くが、目の前の存在が微弱な動きも逃さないとばかりに眦を眇めている。

「昨日休んでたから知らないと思うけど、実は伶子も昨日休んでたのよ。今日はちゃんと登校してるみたいだけど」

茉穂の手の中にある紙コップが音を立てて凹む。ジャラ、という音からして中身はまだ入っているらしい。

「たまに、変だと思うときがあった。でも昨日はあまりにもおかしな点が多かった。伶子、いつもローファー履いて来んのに下駄箱の中はスニーカーだし、靴あるのに学校休みだし、ケータイはどういうわけかウサちゃんが持ってるし……」

右手に紙コップを掴んだまま、左手で前髪をくしゃりと掴んで大きく溜息を吐く。深く項垂れ表情を隠している所為で、今どのような心境なのか、計り知れない。

「冥玉触って武器を得たって言ってたわよね。佐保姫候補だとも。……そうだよね、貴重な佐保姫候補だもん、簡単にあんた達が見逃すはずがない。伶子はあたしの親友だし、候補辞めるって駄々捏ねてるあたしが下手にしゃしゃり出ると色々厄介だし、だから黙ってたんでしょ」

「ちが――――!」

立ち上がって弁解しようとしたシオンよりも、茉穂の動きの方が早かった。

「最っ低!」

シオンの顔に液体が降りかかる。

何が起こったのか分からず、中腰の体勢のまま茫然と茉穂を見遣れば、手に持っていた紙コップが蓋の外された状態で自分に向けられていた。中に僅かだが氷が残っているのが見える。

今になって漸く、茉穂が紙コップの中身を飲んでいたときに覚えた違和感の理由に思い当たる。今日に限って飲み物の嚥下がスムーズだったのだ。

(そういえば、いつもストロベリーシェイクだもんな)

下唇を噛み締めて、目尻からボロボロと涙を零しながら自分を睥睨する茉穂に、「ごめん」と小さく謝罪の言葉を口にする。

次の瞬間には中身の軽くなったコップを顔に投げられ、走り去られてしまった。

自動ドアの開閉する音がやけに大きく聞こえる。わざわざ顔を上げずとも、店内にいる人間から注目を浴びているのは分かった。皆が皆、固唾を呑んでこちらを凝視しているらしい。

「兄貴が惚れた女、かなり気性が激しいな」

びちゃ、と音を立てて濡れた床を踏む男物の靴が視界に入る。

「それにしても、あんな不細工のどこが良いわけ?」

「あの子を不細工呼ばわりするお前の審美眼を疑うよ」

唇を舐めれば、若干苦味のある烏龍茶の味。

(……オレンジジュースじゃなかっただけ、情けをかけられたって自惚れてもいいのかな)

小さく息を吐き出し、シオンは気の抜けた様子で再び椅子に腰掛けた。

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