其の壱拾参:対話
並の牢より何倍にも強固に造られた独房に収容されて三年。入れられた当初は意地でも逃げおおしてやろうと、壁や扉を殴る蹴るは当然のこと、天井に爪を立てたり、自分の体重の五倍はあろうかという足枷の錘さえ持ち上げてぶつけてみたりもしたのだが、多少の傷や凹みは付いても逃走ルートを確保できるまでには至らなかった。
足掻きを無駄と捉えてからは筋肉維持の為トレーニングを欠かさず、体を休めたいときには備え付けられていたベッドに寝そべって耳を澄ませている。防音だと、自分をここに閉じ込めた冥界の宰相である双子の兄は信じて疑っていないようだが、どんなに厚い壁で空間を隔てようとしたところで空気の振動というのは侮れない。三年もこのような閉塞された場所に居座されれば、否が応でもそれなりに聴覚は発達する。例えば一人一人の刑務官の足音、地下牢に繋がれている囚人の息遣い、更には地下牢の扉からこの独房までのおおよその距離まで、把握できるに至った。
そしてまた、誰かの足音がこちらに向かって近付いてきている。
(裸足じゃない。靴を履いてるってことは牢番か?でも支給されてるブーツの音と違うな)
聴覚を研ぎ澄ます。どうしても耳に入ってくる雑音を追い払い、靴音にだけ集中する。
(やっぱブーツじゃない。ってことはリオンじゃないのは確かだな。これは……履いてるのは革靴か?)
足音が止まったのは案の定、この独房の前だ。敬礼したのか、衣類が擦れ合う音がした。
「お疲れ様。開けてもらってもいいかな?」
「は、はい!」
若干緊張した返事と共に重い扉が開く。
そこから現れた長身の男に、独房の囚人は高い口笛を鳴らした。
「ハッ!随分と久しぶりに見る顔がおいでになった」
久しぶりに顔を見合わせた血の繋がった兄の姿に、思わず皮肉の言葉が零れ出る。この牢獄に収められて三年ぶりの再会。今更何の用だという倦怠感と同時に、好奇心が沸き起こる。
兄といっても双子の片割れの方ではない。冥界の王の第一皇太子、時期冥界の王と謳われた男。
先日、彼について耳寄りの情報を手に入れたばかりだ。そこを突けばこの監獄を抜け出す好機が出来るかもしれない。
内心ほくそ笑みながら、レオンは言葉を選ぶ。
「リオンはたまに来てたけど兄貴は全くだったから、マジで忘れられてると思ってた」
「ごめん。ホントは何度も様子を見に行こうとしたんだけど、その度にリオンに止められたんだ。この地下牢を管理する鍵は刑務官長とリオンしか持ってないだろ」
「あいつら二人のどっちかを説き伏せたわけだ?あの頑固者達を」
口角を吊り上げて思わず笑ってしまったが、無言で首を横に振られ拍子抜けする。
「リオンがいない隙に鍵を拝借した。官長にはリオンの許可は取っていると嘘を吐いた」
(おいおい、そんな嘘あっさりバレるぞ)
どうやらシオンを利用して逃走する計画はあっさり崩れ去りそうだ。
この兄は容姿こそ飛び抜けて目立つが、おつむの方は今一つよろしくない。いくら勉強ができたとしても、悪知恵を働かせて図太くしぶとく打算的に行動してこそ悦楽の人生、というのがレオンの概念だというのに。
(兄貴もリオンも、どうしてそれが分からないかねぇ?)
自らの保身と欲望の為ならば、他人がどうなろうと知ったことではない。
「それで、俺のところに来た理由は?ホントは俺に用があったんだろ?」
意図的にチェシャ猫に似せた不敵な含み笑いを浮かべる。逃亡は半ば諦めたが、罪を負い、皇族の恥さらしとなった自分に如何なる用件を突き付けてくるのか興味があった。
「……頼みがあるんだ」
「だからそれは何だっての?」
俯き加減にあった視点が天井を見上げている。逡巡しているのがよく分かる。仮に頼み事というのが聞き入れられない内容であったとしても、一度紡がれた言葉は耳に入る前の状態には戻らないのだ。
(ここまで来たんだからとっとと言えばいいものを)
重石の付いた足を組んで、前身を倒して膝に頬杖を付く。
苦悩や苦痛で歪む表情というのはどうして自分の嗜虐心を擽るのだろうと、レオンはうっそり笑う。
年寄りも、子どもも、男も女も、この世界を苛む災禍のものでさえ、その歪の面差しは舌舐めずりしたくなる高揚感を湧かせてくれる。
(まぁ、特に注がれたのはあいつだけど)
その姿を思い出すだけで体内の熱が鼓舞し、昂る。
誰よりも冷静で、頭の回転が早く、俊敏で、狡猾な女。周りにいた女達の中でも特に幼い外見だったにも係わらず、その性格と態度は大人びていた。
何より、唯一彼女だけだった。最後までレオンの存在を拒否し、信用しなかったのは。
(だからこそ堪らない。この手であいつの顔も体もプライドも、全て無茶苦茶にしてやったときのことは)
眼前に兄がいなければこのまま自慰していたかもしれない。彼女はそれほどまでに自分の欲求を満たす存在だった。
覚悟を決めたのか、シオンは囚人の弟と真っすぐ向き合った。
「……リオンの計画を邪魔してほしい」
「あいつの計画?」
「リオンは、俺が候補として見つけた子を佐保姫にしたがってる。リオンが見つけた候補じゃ力不足らしい。もう一人、冥玉を使える人が現れたけど……どういうわけか、リオンは彼女のことも頑なに拒んでる。正直、俺としては三人の誰にも佐保姫になってほしくないけど、どうしても選ばなくちゃならなくなったら……俺の候補だけは避けたいんだ」
普段の優柔不断が鳴りを潜め、次期冥界の王としてまだ見ぬ佐保姫の隣に立つだろう男は決意を宿した瞳をレオンに向けて言った。
「兄貴」
交差していた足を組み替えて、独房の主は楽しげに笑む。
「自分が見つけた候補に惚れた?」
「………!」
吹き出もの一つない滑らかな頬を朱色に染めて、シオンは思わず絶句した。驚愕のあまり口をやたら開閉しているが、まるで水面に顔を寄せて必死に空気を取り込もうする金魚のようだ。
あまりに顕著な反応な為、問い掛けた側は遠慮なく腹を抱えて爆笑した。
「兄貴分っかりやす〜!つーかどこの乙女だよ。人界の女よりよっぽど初心。マジ笑える!」
「ちょっと待って。人界って……レオンは行ったことないだろ?」
「ああ、兄貴知らないんだっけ」
漸く笑いの虫が引いたのか、眦に浮かんでいた涙を拭い呼吸を整えながらレオンはあっさり言ってのけた。
「佐保姫候補は三年前に俺が一度見つけてたんだ。リオンに言われてそいつと接触したはいいけど、人界にいるってこと忘れててさ、ついやっちまったんだよなぁ……禁忌を」
だからこの牢に閉じ込められた。
茫然と目を見開くシオンを眺めながら、レオンは肩を竦める。
「兄貴の頼み、聞いてやってもいいぜ。俺をここから出すって条件、呑んでくれたらだけど」
(つーか、そうしなきゃ手助けなんてできないしな)
この牢獄から抜け出せる上に面白い話にも乗れる。まさに一石二鳥だと、内心うっそりとほくそ笑んだ。
ここ連日同じテーブル席に座り、それが続けて三度目となれば、もはや専用席と自負してもいいのかもしれない。
椅子に腰掛けてからというもの、伶子は顎を引いた状態で膝上に乗せている両手の拳をジッと睨みつけていた。俯き加減なので判別付きにくいが、頬から耳にかけてほんのり赤みが差している。
一方目の前に座る青年はというと、着席する際にほんの一瞬少女に目を配らせただけで、それ以降ずっとメニュー表に意識を向けたままだった。日焼けを知らない白雪の如く細い首を右に傾げ、何を口にしたいか決めかねている様子だ。
「いらっしゃいませ。ご注文はまた後程の方がよろしいでしょうか?」
盆にお冷やを乗せて現れた金髪のウエストレス、Bはマニュアル通りの営業スマイルを浮かべているものの、二人の間を漂う不穏な雰囲気……否、伶子から放出される緊迫した空気に充てられたのか、若干頬を強張らせていた。注文が取れ次第駆け足で立ち去りたそうな彼女の傍らには、耳の垂れた猫が待機しており、心なしか「客がどんな状態やろうと仕事はきっちりせぇ!」と言いたげな視線で睨み上げている。
「わ、私はペペロンチーノを」
尻上がりに震えた声で、顔を仰がぬまま伶子は答える。メニュー表は見ていないが、先日“World cross”を訪れた際にどのような品物があったか、ある程度は記憶していた。
リオンも漸く決断したのか、均整の取れた引き締まった顎を持ち上げ、告げた。
「豆腐サラダにミートスパゲティー、和風パエリア、卵とじうどん、唐揚げ定食、ビッグサンダーパフェ。それからホットコーヒーを」
「………」
「…………」
二人だけなのでメモを採らずとも暗記できると踏んでいたらしい従業員は勿論のこと、決して顔を上げようとはしなかった伶子まで、まじまじとブロンドの青年を見つめてしまった。
スマートな顎ラインを描く、小顔に見合った細身の肩幅。胴回りも胸板も、着痩せするのか厚みを感じない。肌が白い所為か、少食な上に胃の消化まで悪そうな印象さえ抱かせるというのに。
「……?もう一度言いましょうか?」
「あ、いえ!大丈夫です。ペペロンチーノと、豆腐サラダ、ミートスパゲティー、和風パエリア、唐揚げ定食、ビッグサンダーパフェ、ホットコーヒー……」
「……ニャア」
確認の口ぶりが段々自信無げになってきた従業員の、すぐ傍にいたスコティッシュホールドが小さく鳴く。
「卵とじうどん、の以上ですね?」
足元の猫に軽く笑み、「失礼します」と踵を返したBはキッチンへと去っていった。
「……何か?」
訝しげに問うリオンの声に、伶子は正気を取り戻す。かなり凝視していたらしい。
「す、すみません!」
「まぁ、こうして食事の場で奇異な目で見られることには慣れています。外見に見合わず大食漢だと、よく言われますので」
頭を下げる少女に青年は肩を竦め、気にしていないと言外に語る。
しかし伶子はそうではないと、首を大きく横に振って否定した。
「そのことにもちょっと驚きましたけど、そうじゃなくて。……あなたとレオンを見間違えたことにです。本当に申し訳ありませんでした!」
テーブルに額を擦り合わせそうなほど、深々と頭を下げて謝罪する。いくら身内、それも双子であったとはいえ、結局のところは別人。自分と目の前にいる青年が宇佐美を通じて敵対する間柄だといっても、初対面でいきなりあのような取り乱し方をすれば、不審に思うのは当然のことだろう。
「……謝らなければならないのはこちらの方です。愚弟が行ったことは明らかにあなたを冒涜する行為。本当に申し訳ない」
真剣な眼差しで伶子を見つめていたリオンは、姿勢を正して深々と頭を下げた。
混乱がなりを潜め徐々に冷静さを取り戻し出せば、過去に自分を凌辱した男と目の前に座る人物の違いが見え始めた。
服装の好み、体格、発音……顔立ちこそ瓜二つではあるが、心に消えない傷跡を残してくれた男は少なくとも、この青年のように真摯に謝罪するといった殊勝な態度など一切しなかった。
口角を吊り上げて笑みをつくりながらも、見下した瞳で他人を見遣り、歯向かう者は完膚なきに叩きのめして引導を渡した。極悪非道、冷酷無比といった言葉は彼の為にあるのかもしれないとさえ思ったこともある。
「……レオンは今、どうしているんですか?」
「冥界の、地下の独房に閉じ込めています。あいつの犯した罪は重い。可能ならば一生、牢獄から出さないつもりです」
顔を上げたその表情はギリッと奥歯を噛み締めて、嫌悪感を露わにしていた。被害者を前に演技している様子でもなく、本気で双子の弟に憎悪を抱いているようだ。金茶色の瞳孔が丸く開いている。
「……安心しました」
「え?」
「それならおそらくもう、あの人と会うことはありませんよね。絶対あり得ないって分かってますが、あの人が私に直接謝罪したいと連絡してきても、私は……二度と会いたくないんです」
指先が白くなるほど硬く掌を握り締めて、唇を噛み締める。
……テーブルを覆い尽くす大量の料理が運ばれてきたのは、それから間もなくのことだった。
――――ブォン……!
時間差を窺わせない、まるで示し合わせたタイミングで蛍光灯の光を宿した校舎は、一瞬にして学び舎であるはずの建物を戦闘の舞台へと変えた。
右へ、左へ、首を巡らすものの、静まり返った通路に宇佐美以外の気配はない。
窓の外は暗闇に包まれており、街灯や民家の明かりは皆無。仮に昼間であれば、体育館とプールを挟んだ向こう側に高等部の裏門、更にその奥には中等部の校舎が見えるはずなのだが……今は目を凝らしても建物の輪郭さえ判別できない。
冥界ではないにしろ、その空気に呑み込まれた箱庭の外は、完全なる闇がただただ茫洋と広がっているだけ。
勿論人影などありはしない。
「……ちっ」
忌々しいと言わんばかりに舌を鳴らす。玄関に鍵を掛けた記憶もあれば、図書室の扉が閉じてあったことも確認している。ゲームの始まる前にいつもどおり、否、いつも以上に鍵の掛かる場所は念入りに点検しただろうと自分に言い聞かすのだが。
(くっそ!苛々する……!)
この時間帯には自分の傍らにいたはずの存在。邪険にしたところで教師である自分の忠告などまるで無視して、自ら危ない場所に足を踏み入れる真似をする気に食わない女子生徒。
これほど気になって仕方がないのに自宅に見舞いに行かなかったのは、単に驕りだ。どんなことがあろうと、必ず災禍を倒しに現れる。
……そう確信していた。
「何が“全てを承知した上で、先生に協力することにしました”だ。来やしないくせに」
思わず悪ぶった口調で愚痴を零してみるが、内心ホッと安堵している部分もあった。
(あんな形で痛い目見るだなんて予想だにしてなかっただろうが……さすがに懲りただろ)
他人を心配して一喜一憂するなんて、らしくない。そう嘯く。
(つーか、元々俺のしなきゃいけねぇことだろ!あいつの手を借りることを当たり前に思って胡坐掻いてんじゃねぇよ、俺!)
「あんた、隙だらけだよ?」
唐突に、背後から冷たい吐息を吹きかけられる。
振り返りざま左手に持っていた弓で真一文字に薙いでみせるも、手応えはない。代わりに脇腹に熱を伴った鋭い痛みがはしった。
「っ!」
後方に跳んで敵との距離をつくる。
次なる攻撃に警戒心を昂らせ、相手を睥睨しつつその形態を観察した。
二本足で立つ人型。しかし人間と違って双眸の色は藍一色、瞳孔はない。背中から四枚の透けた羽を広げ、ほぼ天井の位置から宇佐美を見下ろしている。手足が細く、胸板の薄い見るからに軽そうな体つきは、人間に例えるなら成長期真っ只中の十ニ、三歳といったところか。
弦に矢を掛けて放つも、敵はひらりと避けてかわす。
「思ったより手軽そうだ。今まであんたと殺し合いをしてきた奴らはそんなに弱かったのかな?」
「知るか!」
続け様に矢を放っていくが狙った獲物に突き刺さることなく、天井や壁に空しく跡を残すだけ。
苛立ちに舌打ちする宇佐美を災禍が嘲笑う。
「ねぇ、段々命中力が衰えてきてるようだけど?」
「……ちっ!」
攻撃を仕掛ける仕種一つ見せず、両手を広げて宙を飛ぶだけでのおざなりな動作。どのように殺そうかと算段を立てているのか、もしくは単に宇佐美の体力を削ろうとするのが目的か。
どちらにせよ、このまま闇雲に矢を放っていれば集中力が途切れ、体力が尽きたところで首を取られかねない。
いつぞやと同じようにして敵との距離を作ることにした。
「ちょっと、どこ行くんだよ?!」
「てめぇに関係ねぇだろ!」
「いや、攻撃対象は僕でしょ!」
「喧しい!ムカつく奴にごちゃごちゃ言われっと否定したくなんだよ!」
「んな無茶苦茶な……」
廊下を駆け抜けて階段を上り、二階通路中腹に差し掛かったところで矢羽に手を掛けて、放つ。その速さは勢いを殺すことなく真っ直ぐに災禍の左腕を掠め、そのまま羽根にも穴を空ける。
ダメージを受けてバランスを崩すも、不安定な飛行ではあるが、敵はまだ宙に浮ける状態らしい。
「治るのにどんだけ時間かかると思ってんの?」
「知るか!つーかお前は今日、ここでくたばるんだよ」
そう言葉を吐き捨てて宇佐美は再び駆け出した。
「また追いかけっこ?まぁいいけど」
そろそろ効いてくる頃合だし。
薄く開いた唇の隙間から白い歯を覗かせて、にんまりと笑みを浮かべる災禍。飛行能力を持つ異界の敵は、逃げ惑う青年教師の背中を視線で追った。