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春風戦華  作者: 地球儀
12/35

其の壱拾弐:真実

簡単に身なりを整えた伶子は早退したという茉穂と共に、人気のない閑散とした公園へと場所を移した。

会話だけなら桜原家でも充分だったが、見舞いに訪れた親友曰く「病気でもないのに部屋に篭ってるなんて、鬱憤が溜まるだけだっつーの」とのこと。おまけに「これ以上家族に下手な心配をかけさせるんじゃないわよ」とまで言われたら、外出せざるを得なかった。

現に実父も義母も、連日夜勤労働とあって目に見えて疲労が溜まっていた。あのまま伶子の部屋で話を続けていたら、父親はともかくとして、広江は茉穂が帰るまでリビングで待機していたことだろう。四人分の昼食の用意さえ拵えていたかもしれない。

なので家を出る際に外食する旨を伝えてきた。

鼻腔から大きく新鮮な空気を吸い込み、口から吐き出す。幾度か繰り返せば次第に、澱んでいた体内が浄化されていくような、まるで腐敗した草木が再び青々と茂るような、悪臭が一気にに吹き飛ばされるような……爽快な錯覚に陥る。

おかげで漸くまともに脳内が働き始めた気がした。

(茉穂ちゃんが連れ出してくれたのは正解ですね。あのまま引き篭もってたら、二人とも週末の旅行をキャンセルする、なんて言い出してたかも……)

両親にそのような選択をさせてしまえば、さすがに申し訳が立たない思いで胸がいっぱいになる。

だから帰る頃にはきっと、笑顔で玄関を開けれるようになってようと心に決めた。

「外に出たら、だいぶ気分が良くなりました」

「でっしょ〜。桜は散っちゃったけど、夏にはまだ早いし。今くらいの季節が丁度良いよね〜」

ブランコに腰を下ろした茉穂は早速鞄の中を弄りだす。

伶子もその隣りにしゃがんで上空を仰いだ。

(昨晩とは打って変わって晴れましたね)

綿あめのような白くて薄い雲がぽつりぽつりと浮かんでいるが、群青を幾層にも塗り重ねたかの如く、澄んだ色合いをしていた。濁りのない静謐な青の深みに、感嘆の息が自然と漏れてしまう。昨日は降水確率0パーセントという気象予報を裏切って、日が沈んだ後に重苦しい雷雲が天空を立ち込め、夜遅くには雷を伴って強い雨が降り出したというのに。

今は遊具に付着した水分を蒸発してくれる程度に、日差しは乾燥の役割を果たしてくれているが、まだまだ鮮明に足跡を残すほど、地面はぬかるんでいる。

「はい」

横から差し出されたのは、掌に収まるサイズの携帯機器。茉穂の手から零れた人形のストラップが、まるで伶子に手を振るようにして全身をぶらぶらさせている。

正味な話、こうして目の前に出されるまで携帯電話という存在を忘れていた。

「あ、りがとうございます」

手にするとついやってしまう癖で、画面をスライドさせ時刻を確かめる。あと一時間もすれば正午だ。

「それ、ウサちゃんから預かったんだけど……」

尻窄まりに小さくなっていく茉穂の声に顔を上げれば、ぬかるんだ地面を一点、ジッと睨み付けていた。

真っ赤な口紅を塗った薄い唇から小さく舌を出し、上唇を湿らす。両手に握ったブランコの鎖を握り締めて、今にも唸り声を上げそうな難しい顔をしながら、微かに緊張も滲ませている。

言うべきか言わざるべきか、逡巡しているのが手に取るように分かった。

「茉穂ちゃん……?」

あからさまに肩を跳ねさせて伶子を凝視する表情は主に驚愕ではあったが、見開いた瞳には、若干他の色も混じっていた。仄かに潤んだ双眸。まるで泣き出す一歩手前の子どものようだった。

思わず息を呑んだ伶子に彼女は顔を背けて小さく舌打ちし、頭振る。

「大したことじゃないわよ。ウサちゃんがどうして伶子のケータイ持ってたのか、不思議だっただけ」

確かにそれも疑問に思っていたうちの一つなのだろうが、一番に訊ねたかったことではなさそうだ。

もはや聞き出そうと問い詰めたところではぐらかされるのは明らか。伊達に一年間、親友としての付き合いがないわけじゃない。お互い、プライドの高さくらい測れているつもりだ。

内心で諦念の吐息を漏らし、敢えて気付かぬ振りをする。

「昨日の部活のときに落としたのを拾って下さってたんだと思います。私、茉穂ちゃんほどケータイ弄りませんから、今まで失くしてたの、全く気付きませんでした」

「うっわ!伶子のくせに生意気!」

勢いよくブランコから立ち上がった茉穂はぐしゃぐしゃと伶子の髪を掻き乱す。伶子も身を反らせながら抵抗の意を見せるが、それほど嫌がっているわけではなさそうだ。

「……私、茉穂ちゃんに中学のときの話、しましたよね?」

乱された髪を整えつつ、声を落として伶子は語り出した。

和んだ空気が突拍子もなく払拭されて、茉穂の手が下ろされる。

静かに自分を見つめる視線を感じ、銀色の鎖を握る手に力を篭めた。

「昨日、会ったんです。例の人に」

“例の人”が誰なのか、思い当たる節がないといった様子で茉穂は暫し小首を傾げていたが、その顔色が見る見るうちに憤怒の形相へと変化していく。眉間に深く皺を刻み、怒りで頬を紅潮させ、わなわなと唇を慄かせる。

「……女の子に卑劣な真似しといて、そいつ、どの面下げて伶子の前に現れたわけ?」

信じられないと激昂のままに言葉を吐き捨て、ローファーが汚れるのも形振り構わず、ぬかるんだ土を抉る。地面に八つ当たりしたところで気が静まる筈もなく、茉穂は盛り上がった泥を思い切り蹴飛ばした。

「あの人を目にした途端に頭の中がパニックになっちゃって……。取り乱してそのまま逃げてきたんです」

罵る親友の足元を横目で映しながら、伶子は下唇を噛み締める。

「せめてあたしが一緒だったら、完膚無きにぶちのめしてやったのに!」

指を開いた左手に拳を固めた右手を叩き込んで意気込む親友に、ホッと胸を撫で下ろす。

恐怖で縮こまるしかできなかった自分の代わりに、こうして本気で激怒してくれる友達がいる。それだけでも、今が三年前と違う人生を歩んでいるのだと実感できる。

「……ありがとうございます、茉穂ちゃん」

「は?あたしまだ何もしてないけど?」

疑問符を頭に飛ばす少女を見上げながら、伶子はようやく安堵して笑うことができた。



(せき)先生、少々お時間よろしいですか?」

二学年主任が昼食を終えたのを見計らい、宇佐美は彼に声を掛けた。

今は産休の教諭の代わりにクラス担任を任されているとはいえ、元々は担当教科のみを取り扱っているだけの一教員。職員室内に設置されている互いの席には距離があり、また年齢も親子と称されてもおかしくないほどに開いていることもあって、数学担当の宇佐美と生物担当の関はそれほど親しくないが、かといって悪くもない、必要用件以外に言葉を交わすことのない、云わば当たり障りない間柄だった。

「おや、宇佐美先生。私に何か御用ですか?」

交流の浅い同僚に呼び掛けられ物珍しい表情を取り繕いつつも、関は柔和な笑みをつくってみせた。

「実は八組の桜原が今日欠席しておりまして」

「あの子が?珍しい……」

老年を思わせる縦皺の寄った細い手を顎に当てながら、徐に首を捻る。白い眉毛を八の字に歪ませて軽く唇を突き出し、心配そうに表情を曇らせている。

一見、生徒思いの教師という仕草ではあるが、間近でその面差しの変化を覗き込んだ所為か、どことなく違和感があった。

(生徒一人休んだだけでここまで気にするものか?昨晩のあいつの様子を目の当たりにしたならともかくとして……)

「それで、昨日具合悪そうにしてたこともあって、放課後見舞いに行こうかと生徒資料室で住所を調べてたんですが、そこで少し気になる点が――――」

「宇佐美先生」

ぴしゃりと、琴線を張り詰めたような硬い声が目の前から発されて、思わず背筋を伸ばす。休日は縁側で日向ぼっこしながらのんびりと茶を啜っていそうなイメージがあっただけに、その鋭い声色には一瞬耳を疑った。

開いているのか閉じているのか判別つかない一重瞼の奥から、キラリと黒目が煌く。

「……ここでは話し辛いので。そうですね、あなたが疑念を抱いた生徒資料室ででもお話ししましょうか」



微かに温もりを孕んだ春風が髪を嬲る。頬を擽る鬢を払い除けながら顔を上げれば、太陽はちょうど真上から地を照らしていた。

茉穂とは既に別れており、公園には伶子しかいない。

先程補導員らしき女性が前を通りかかり、制服姿のままだった茉穂を咎めたのだ。隙を見計らって逃げ出した女子高生を補導員は追いかけていったが、彼女の隣りにいた伶子には単に一瞥しただけで、特に叱責を口にすることはなかった。

(多分、複雑な事情で不登校になった子どもとでも思われたんでしょうね……)

Tシャツにキュロットスカートという軽装。ちょっとそこまでという安易な気持ちでの外出だったので、化粧はおろか、アクセサリーの一つさえ着飾っていない。制服を着用していないぶん、義務教育中の子どもと見做されたのだろう。

臭いものには蓋をしろ。降りかかる火の粉は掃うべし。

見て見ぬ振りをされたことに感謝半分、呆れ半分といったところだ。

(さて、そろそろ公園を出ましょうか)

握ったチェーンを下に引いた反動で立ち上がり、前を向いたその瞬間……我が目を疑った。

「――――!」

膝の力が抜け、崩れ落ちるようにして再びブランコに腰を落とす。見開いた目の奥が渇きを訴えて、痛みを伴いながら脈打つのが分かる。高ぶった胸の鼓動は体の内側から食い破ろうとするかの如く、尋常でない速度で跳ね上がっている。

首の後ろで纏めた長い髪を風に靡かせながら、男が一歩、足を踏み出した。

「いや!来ないで!」

――――脳裏を過ぎる過去の記憶。

薄暗い建物。散らばった注射器と吸引器。得体の知れない粉薬。明瞭なき笑声を迸りながら腰を振る半裸の女。焦点の合っていない瞳をした男。散り散りに逃げ惑う少女達。それを追う数人の外道。

断片的に蘇る記憶の中で特別鮮明なのは、金髪に金茶の瞳をした男が獰猛な肉食獣さながら自分を――――

(あのときと一緒。目が覚めて、“あれ”が終わっていたのを悟った後みたいだ)

がくがくと膝が笑う。指先から徐々に熱を奪われ、感覚を失ってゆく。逃げ出そうにも、腰は錘を嵌められたかのように持ち上がらない。

半端にぬかるみを残す土を踏んで、青年が目の前に佇んだ。

静かに見下ろす怜悧な眼差し。視線を逸らす勇気さえ持てず、伶子は四肢を震わせながら黙って見つめ返す。

「……そこまで似ていますか?私達は」

薄い唇から紡がれた低音。記憶の中にあるものと寸分厭わない音声に、益々身を縮こまらせる。口の中に溜まった唾液を飲み干せば、思いの外音が鳴った。

その緊張感が伝わったのか、小さく息を吐き、男は開いている距離を一気に縮める。跳ね上がった少女の細い両肩を掴み、鼻先が掠めそうなほど間近に顔を寄せてきた。

「よく見て頂きたい。ほぼ同じ顔をしているのは認めますが、私はあなたが思い浮かべているあの男じゃありません」

(え……?)

「おつむと鼻梁の高さに関しては、私の方が高いんです。悔しいことに、身長は奴に劣りますが。そもそもあの男と間違われること自体、私には不本意です」

肩を竦めて腕を組む目の前の青年を恐る恐る仰ぎ見ながら茫然と、震える声で問いを紡ぐ。

「……あなたは誰、ですか?」

答えは直ぐさま返された。

「私の名はリオン。あなたが勘違いされている男の、双子の兄です」



生徒指導室の更に奥の部屋とあって、扉を閉めれば清閑とした空間ができあがった。全くの無音というわけではなく、厚い壁とアルミ板越しに生徒の喧騒が伝わってくる。それでも普段から人気の少ない階層とあり、室内はどうしても沈鬱とさせる空気が生まれてしまう。

それはここが生徒指導室という重苦しく閉塞感漂う一室の隣りに造られたからか。あるいは持ち出し厳禁とされる資料が詰め込まれた密なる小部屋だからか。もしくはその両方かもしれない。

「さて、桜原さんのことでしたね」

指先を彷徨わせることなく、二年八組の戸棚から桜原伶子の経歴書が取り出された。

「まず最初に約束していただきたいことがあります。これから話すことは他言無用です。このことを知っているのはほんの一握りの教職員で、殆どの先生方は何も知りませんから」

「分かりました」

「あなたが担任代理となり、こうして彼女の資料を見つけることがなければ、私も語ることはなかったでしょう」

バインダーに挟まれたページを捲り、経歴のところで手が止まる。

「中学卒業と高校入学の年度が噛み合わないことで疑問を抱かれたんですよね?」

訊ねる口調ながらも、学年主任の瞳には確信が満ちていた。

はい、と首肯し、続けて他にも怪訝に思っていた点も述べる。

「それに出身中学にも。伊川谷(いかわだに)中学は県の最北端にある学校ですよね?わざわざ最南の石動学園でなくとも、姉妹校の不知火(しらぬい)学園の方が、距離は近かった筈……」

「それならば理由は二つあります。一つは父親の転勤です。医師としての高い技術力が認められ、地元の総合病院から特別指定に認定されている石動赤十字病院に移られたそうです」

石動赤十字病院は県内でも特に評判の医療機関だ。高等技術の手腕を持つ医師と看護師が揃っていることに加え、患者への対応も迅速、丁寧だという。

風邪どころか虫歯一つなく、ここ数年病院とは無縁の生活を送っていた宇佐美にとって、どこまでが真実なのか計り知れないが。

「それで、もう一つの理由とは?」

「……不良素行です」

一オクターブ低い声で呟かれたその言葉に、思わず思考が止まった。ただ、瞬きを忘れるほど瞠目して唖然と半端に口を開き、随分と間抜け面して硬直している自覚はある。

「………あの桜原伶子が?」

憐憫、哀愁、同情……。

神妙な面持ちで頷いた関は、手にしている資料の表面をかさついた指先でなぞりながら両目を眇め、目尻の皺を一層深くした。眼球が悲痛を帯びて、微かに湿った潤いの膜を張る。

「この空白の一年は、彼女が過去の自分と決別するのに必要だった期間です。再スタートを切る為、以前の自分を知らない人達が暮らす地域で新しい生活を送りたくて、父親の転勤に応じたそうです」

開かれたバインダーが反対に向けられ、そのまま押し付けられた。

「私が喋れるのはここまでです。どのような心境の変化があったのか、核心を知りたければ本人に訊いてください」

「関先生はご存知なんですよね?」

資料室を後にしようと扉に手を掛けた年配教師は首だけ振り返って否定の意を示す。

「人は誰しも、他人に語り辛い過去を持っているものです。これ以上踏み込むのはさすがに野暮だと思いまして。教職者で知り得ているのは、おそらく理事長と校長ぐらいじゃないでしょうか」

言外に自分は知らないと語ったニ学年主任は目尻と口元の皺を広げて柔和な笑みを残し、宇佐美を一人置いて去っていった。

「……他人に語り辛い過去、か」

普段使用されない部屋は一瞬にして静謐を取り戻す。

閉ざされた白いカーテンの向こうから木漏れ日が射すものの、寿命の短さが窺える蛍光灯のおかげで、室内は儚い明るさに抱かれている。

校庭では昼食を終えた生徒が遊びに興じて校庭を駆け回っているのだろうが、最上階の端に位置するここにまでその声は届いてこない。

手渡された女子生徒の資料に目を落とせば、名前の横に貼られた証明写真と目が合った。

ショートボブの長さの、ウエーブがかった黒髪。パーマをかけた後ろ髪とは逆に、前は真っ直ぐに伸ばされ、その隙間からアイブロウのごまかしなど一切ない、形の良い眉を覗かせている。やや低めの鼻には縁なしの眼鏡が乗り、弾力のありそうな唇は正面から撮られることへの緊張からか、真一文字に結ばれていた。

楕円形をしたプラスチックの向こう側から見据える二重は、優等生としての勤勉さを覗かせると同時に、聡明な意志の高さも窺わせた。

(この顔で元不良とか言われても、現実味湧かねぇよ)

天井を仰ぎ双眸を眇めた宇佐美は嘆息する。

何やら無性に煙草を吸いたい衝動に駆られた。

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