其の壱拾:前兆
巨大な女郎蜘蛛の爪先が伶子の鳩尾を圧迫する。勢いよく衝かれ、小さな体は呆気なく後方へと吹き飛んだ。
「ゴホッ!ゴホッ、ケホッ……!」
壁に背中を、肘を窓ガラスにぶつけ、それらの痛みに顔を歪めながらサッシを掴んで体勢を整える。零れる咳を宥めようと胸を擦るが気休めにしかならず、再び広がってきた錆び付いた金属の味を唾と共に吐き出して、新鮮な空気を吸う。
「もう少し乳があればダメージは和らいだかも知れぬが、貧乳が災いしたみたいじゃのう」
「だ、れが、貧乳ですか!」
衝撃の余韻で咳き込みながら敵を睨み付ければ、思いもよらぬところから更なるダメージを見舞われた。
「せめて幼児体型と言ってやれよ」
(宇佐美先生まで!)
傷口に塩を塗るとはまさにこのこと。どうやら自分の拘束を一向に解こうとしない伶子に苛立ちを隠せないらしい。不機嫌そのままに、声には棘が含まれていた。
泣き出したい気持ちを堪えつつ、再度災禍に向かって走り出す。
時間をかけて幾度となく攻撃を繰り出すも、大きな図体にも係わらず、女郎蜘蛛の動きは意外に素早い。
けれども反射神経の高い伶子とて負けてはいなかった。敵の足技を身を捩りながらかわしつつ、無秩序に腕を振るっているように見せかけながら、実は負わせた傷口に狙いを定め湾曲した爪を立てて、抉るようにして筋肉を、神経を、あまつさえ骨までも断とうとしている。
眼鏡のテンプルすぐ下にある頬に薄く一線、熱がはしる。裂けた皮膚から盛り上がった鮮血が重力に従い、輪郭に沿って顎へと伝わり、零れ、襟元を汚した。
手の甲で傷を乱暴に拭えば、否が応でも赤く濡れそぼった武器が間近に映る。
敵を傷付けたことによって生じた鮮血。天井からの降り注ぐ照明の所為か、まるで啜り舐めているかの如く、凶器の刃は爛々と輝きを増す。
「……なかなかやるではないか」
狭い隙間から空気を漏らすような息遣いを立てて災禍は言った。
八本あった足のうち、半分は使い物にならないようにした。二本を関節部分から腱を断ち、一本は重点的に攻撃したおかげで傷口が広がり引きずる有様。残り一本は鋭い刃のおかげか骨から断つことができた。
動きをだいぶ鈍らさせたとはいえ、致命傷にまで至らせていないのが現状ではあるが。
「お蔭様で疲労は半端ないですよ……」
肩でゼイゼイと息を整えながらこめかみに伝う汗を拭う。
小柄な体格を活かし、敵からの攻撃を避けつつ応戦しているとあって、深い傷というのはこれといって特にないが、やはり体力的には目の前の敵より劣ってしまうようだ。
(やはり一人ではきついですね)
チラリと宇佐美に横目をはしらせれば、すぐさま糸が飛んできた。それを鉤爪で断ちながら小さく嘆息する。
(やっぱりそう簡単に逃がさせてはくれないみたいですね)
よほど獲物を横取りされるのがお気に召さないらしい。
繰り出される足技と糸に苦戦しながらも、どうすれば災禍を倒せるのか頭の中を捻る。宇佐美を解放しようにも、敵はその隙を与えてくれない。下手に彼を絡める糸に手を出そうものなら、伶子自身も含め、宇佐美さえ巻き込み兼ねない。
宇佐美はそれを承知で先程から訴え続けているが、さすがにそれはしたくなかった。
(防ぐ手段が他にもあるのに、被害を拡大させるような真似、もう二度としたくないですからね)
過去に味わった経験が一瞬、脳裏を過ぎる。
一生分の苦痛といえるような一晩だった。食い止められた被害もあれば、手遅れの存在もあった。恥も見聞も捨て去り、例え信頼を築いていない第三者であろうと救いの手を求めてさえいれば……大事に至らずに済んだのかもしれない。あのときはああするしか方法はないと思い込んでいたが、今でこそ、それがとんでもない過ちだったと、身をもって理解している。
ただ当時と変わらないのは、見て見ぬ振りはできないということ。大切な人に傷を負わす畏れがある事象なら、尚更だ。
女郎蜘蛛の血塗られた脚を乱暴に蹴って体勢を崩させる。
「ぐあぁ!」
床に着いた脚の間を潜り抜けて懐に飛び込んだ。目の前に飛び込んできた腹部をめった斬りにする為、鉤爪を無造作に薙いでいく。
「う、あ……ぅ……」
得物越しに伝わってくる皮膚を、肉を、血を、臓腑を、裂いて、潰して、抉って、掻き回し、嬲る感触。
胸の底から湧き起こる高揚感。残虐に悦び、浸り、恍惚する。沸々と、滾る熱が体中を駆け巡っていく。まるでテンポの激しいリズムに乗ってはしゃぎ踊っているかのように。
興奮によって口腔内に分泌されて溜まった唾液を嬉々として嚥下してみれば、まるで熟れた果実のような甘美な味さえした。
――――ブォン……!
ふと、目の前が闇に包まれた。同時に今まで両手に掛かっていた重みも消えて、軽量化した甲が宙を切る。鼻腔いっぱいに蔓延していた錆びた鉄の香りも、痕跡を残さず消滅してしまっていた。
「……もう終わり?」
無意識に口の中で呟いた己の台詞に、伶子は目を剥く。
(――――私、今何て……?)
「桜原」
背後から肩を叩かれ、思わず跳び上がった。
「ひゃあ!せ、先生、ご無事で何よりでございます」
皮膚を突き破りそうな心臓音に胸を押さえつつ振り返れば、こめかみに血管を浮き上がらせた宇佐美が見下ろしていた。
あまりの形相に伶子の口調もおかしくなる。
(ば、万事休す、です……)
「てめぇ、ふざけんなよ!あの気持ち悪ィ糸切れってあれほど言っただろうが!なのに無視しやがって。何様のつもりだ?あぁん?」
もはや教職者というよりチンピラに近い口調と態度。
「す、すみません。でもあの災禍、かなり強くてそんな隙与えてくれませんでしたし、そんなときに糸を切ってたら先生も怪我を――――」
「お前が殺られてたら俺は今頃、あの状態で奴の腹の中だぞ!無抵抗で胃液に溶かされて死ぬくらいなら、戦って命散らす方が百倍マシだ!」
唾を飛ばしながら間近で怒鳴り散らす剣幕に怯え、上半身を反らせながら「申し訳ありませんでした」と伶子は蚊の鳴くような声で陳謝した。
憮然な面持ちで暫く宇佐美はぶつぶつと文句を零していたが、伶子の背を押して宿直室へ戻るよう言外に促した。
宇佐美に触れられていることに意識が集中し、足元を疎かに茫然と前へ進む彼女は気付かなかった。
背後の教師が真意を探るような眼差しで、ジッと自分を見つめていたことなど……。
扉を開けると、内側に取り付けられた鈴がカランカランと軽快な音を立てた。
「いらっしゃいませ〜」
喫茶“World cross”は日曜日と大して変わらず、店内は閑散としていた。
暇を持て余していたらしい金髪のウエイトレス、Bが凭れていたカウンターから背を起こしながら笑顔をつくり、キッチンに立つ三白眼のマスターは唇に煙草を咥えたまま来客二人を一瞥する。
ニ日前と異なる点といえば、男とカウンターを挟んだところに女性客が一人、スツールに腰掛けていることくらいで、彼女の隣には先日もいたスコティッシュホールドが手足をだらけさせてスコ座りしている。
二人だけなのでテーブルよりカウンターの方がいいのだろうかと、不死原と伶子は顔を見合わせるが、そうこう逡巡している間に「お好きな席へどうぞ」と促され、結局先日と同じテーブル席に座ることにした。
「ご注文、お決まりでしたらお伺いします」
手に取ったメニュー表を眺めていれば、水を運んできたBから声をかけられた。
「オレンジジュースを」
「私はミルフィーユとホットをお願いします」
伝票に注文の品をメモしたウエイトレスがキッチンに引っ込んだのを確認して、不死原は口を開いた。
「ごめん、部活の後で疲れてるのに」
「いえ、構いませんよ。」
水を一口含んで唇を湿らせ、伶子は上半身を前傾させる。
「茉穂ちゃんと何かありました?」
「あ、いや。俺と茉穂はこれといって進展ないんだけど……桜原さんはあったみたいだから、何かコツみたいなのがあれば教えてほしいなぁ……なんて」
顎を引いて上目遣いに言うクラスメイトに(高校男児でも容姿端麗なら違和感ないですね)などと暢気な感想を抱くものの、ふと言われた内容に暫し首を傾げ……火が点いたように頬を紅潮させた。
「え、ちょ……ふ、不死原君、一体何言って……?」
「HRでも授業中でも、先生、今日はやたら桜原さんを見てたから。それに今日の数学、桜原さん指されなかったよね?」
指摘されて、そういえば、と首肯した。
相変わらず睨み付けるような眼差しではあったが、今日はやたら宇佐美と目が合った気がする。それに数学の授業では毎回のように問題を当てられていたのだが、今日はただの一度もそれがなかった。
(ちょくちょく周りから視線を送られてたのは、それが原因だったんですね)
中には女子生徒による射抜くような鋭い眼差しも向けられ、背筋に悪寒を覚える度に何か怨まれるような真似でもしたのかと悩んでいたわけだが、タネが分かれば自ずと納得がいった。
運ばれてきた飲み物に舌鼓を打ちながら思考を巡らせていれば、再度そういえばと思う事柄が浮かび上がる。
「先生が私を見てたこと、茉穂ちゃん気付いてなかったですよね?」
勉強嫌いという先入観だけで、自身を低能だと過小評価している節があるが、勉学が苦手と豪語するだけあって成績こそ芳しくないものの、状況を客観的に見る冷静さがあり、それに対応した演技と弁を即座に使いこなせることから、適材適所に優れた能力を持ち合わせていると、伶子は親友をそのように主観していた。
たまに捉え方の勘違いをすることもあるが、自分やその周辺に向けられる視線には結構敏感なのだ。伶子のすぐ後ろに座っているのだから、宇佐美の視線の先がどこにあるのかなど、朝の内に気付いていてもおかしくない。
だのに、短い休み時間や昼休みにも、茉穂は全くその話題に触れようとはしなかった。ただ、眠そうに何度も何度も欠伸をしていた。
「……最近疲れが溜まってるみたいだよ。授業中もたまに寝てるときあるし」
ストローから口を離して呟かれたその顔は、どこか憂いを帯びていた。視点を下げたことにより、天井から注がれる明かりによって睫毛の陰影が頬に落ちた所為かもしれない。
「茉穂ちゃんに言ったらきっと怒られますけど、最近また一段と化粧が濃くなってきてますからね」
特に目元。目尻の赤みを消すために黒のアイラインをわざと太めに入れたり、隈を目立たなくしないようファンデーションやコンシーラーでごまかしている。
「入学したときからメイクは一日欠かさずしてましたけど……今年に入ってからですね、化粧が濃くなったのは……」
ミルフィーユをフォークで突き刺しながら溜息を吐く。舌は美味いと訴えているのに気持ちが乗ってこない。
前に座る不死原も同じらしい。沈んだ面持ちのままだ。
「……元の話から脱線してしまいましたけど、宇佐美先生とは何も進展してませんよ。お役に――――」
お役に立てず、すみません。
そう言葉が続くはずだったのだが、どこからか激しく噎せる音がした。
ギョッとして振り返れば、マスターが口に手を当てて咳き込んでいる。思いの外苦しいのか、眦に薄っすら光るものが見えた。
「何やってんですか」
「マスター、お水!」
どうやら煙草を深く吸い過ぎたことで、肺に予想外の煙を注いでしまったらしい。
Bが慌てて店長に水の入ったコップを渡し、女性客は頬杖を付いて嘆息している。彼女の隣りのスツールで仰向けにだらけきった座り方をしていた垂れ耳の猫も、呆れたように半眼を閉じて鳴き声を上げた。
もしや自分達の話を聞かれてたのではないかと危惧したが、どうやら違うらしい。
思わず安堵の息を漏らせば、同じタイミングで不死原も息を吐いていた。
互いに顔を見合わせ、またもや同時に吹き出して苦笑いの表情が滲んだ。
天井はおろか外からの月明かりさえなく、消火栓と非常口のみが頼りの通路は、おどろおどろしい仄暗さに包まれている。
(……やっぱり、見られてます、よね?)
歩きながらチラリと肩越しに振り返れば、すぐさま視線がかち合い、伶子は即座に首を前に戻した。背後からの突き刺さるような鋭い眼光は確実に彼女を見つめ――――否、睨んでいる。
まるで冥玉によって創造した、彼の武器である白銀の矢が背後から狙って射ているようだ。心なしか産毛が逆立ってピリピリした痛みを覚える。
(いいかげん、理由を訊ねるべきなんでしょうか?)
今朝からやたら宇佐美と視線が絡む。
顔を見合わす機会があれば、常に宇佐美は苦虫を潰したかのように不機嫌な表情をつくり顔を背けるのだが、今日に限ってそれがなかった。寧ろ眼球の裏側まで探るかのように凝視してくる。授業中でもそれは継続され、問題を解く指示さえ与えられなかった――思えば初めてのことだった――のだが、代わりに注視の嵐に苛まれた。
「あの、宇佐美先生。私に何か御用が……?」
意を決し、踵を返して宇佐美の正面に佇んだ伶子は怖ず怖ずと頭一つ以上高い教師を見上げた。
心を寄せる相手から真っ直ぐ向けられる眼差しに、伶子はほんのりと首筋を朱に染めるが、薄闇の中ではさほど目立たない。
窓の向こうからゴロゴロと、雷の唸る音がする。雨こそ降っていないものの、落雷の恐れのある空模様に近付きつつあるのかもしれない。
薄い唇を一舐めして、目前に佇む教師が言葉を発しようと口を開いたときだった。
――――ブォン……!
虫の羽音が脳を揺さぶる。同時に、天井から蛍光灯の眩さが降り注ぎ、二人の足元に影を落とす。廊下の端から端まで視線を滑らせるが、今のところ不審な物影は見当たらない。
ふと目に入った窓ガラスに映るのは、緊張感を滲ませた二つの姿。
手前に立つ、黒い皮手袋を嵌めた伶子の指の付け根からは先の湾曲した爪が伸び、上から降ってくる蛍光灯の白い光に反射して、ぎらついた輝きを放っている。昨夜あれほどまでに鮮血を浴びたというのに、まるで新調したかのように傷一つ見当たらない。
一方宇佐美は左手に弓を持ち、非常階段のある通路奥を見遣っている。
口を閉ざして前方に意識を向けた横顔は凛々しく、整った目鼻立ちに更なる精悍さを加えさせる。
窓に映るその容貌に、思わず見蕩れてしまっていた。
「……桜原伶子、聞こえるか?」
名を呼ばれて正気を取り戻し、小さく驚きの声を上げれば、黙れと叱咤されて耳を澄ますよう言われた。
――――コツコツコツ……
足音。上履きやスリッパのようなゴム製の靴底とは違い、ヒールやブーツのような硬い履物で床を歩く音だ。
急かした様子なく、だからといって悠長でもなく、一定の感覚で足音が近付きつつある。一段一段、階段を上り、もしくは下っている。
翳した右手から矢を出現させ、宇佐美が弓を構える。伶子もまた、いつでも飛び出せるよう脚を軽く開いて前に重心をかける。
踊り場で音が止まり、リノリウムの床に影が差した。
まず姿を現したのは鳶色のブーツ。そして黒と見紛うダークネイビーのアルペン帽子。中世ヨーロッパを彷彿させるマントにナポレオンジャケット。服装だけでなく垂直に伸びた背筋、立ち振る舞いなど、前時代の貴族を連想させる。
姿を現したその人物の素顔に、伶子は双眸を大きく見開いた。
「お前……!」
歯を剥き出し、剣呑な面差しで宇佐美が呻き声を上げる。
「お久しぶりです」
唇の端に弧を描き、若い男は不敵な笑みをつくった。
緩くウエーブがかったブロンド。鼻筋の通った高い鼻梁。薄い唇。シャープな顎のライン。何より、猛禽類を連想させる金茶の瞳。
(どうして?!何でここに……?!)
戦慄で震える指先を持ち上げ、口元を覆う。胸の鼓動は血管を引き千切りそうなまでに狂った脈打ち方をしている。薄く開かれた唇からは浅い、けれどもテンポの速い呼気が洩れ、次第に掌が湿り気を帯びてくるが、温もりなど一切感じられない。肩は強張り、膝に至ってはがくがくと震えて立っているのもやっとの状態だった。
傍らに立つ宇佐美は目の前に現れた天敵にしか集中しておらず、伶子の様子など全く気付いていない。
「てめぇはラスボスかと思ってたが、まぁいい。ぶっ殺してやる!」
「早合点しないでいただきたい。確かに今日は災禍を召喚するつもりはありませんが、あなたと、そして彼女の実力を確かめたく………?」
宇佐美から伶子に視点を移したところで、青年の言葉が途切れた。
訝しげに眉根を顰める敵の表情に疑問を抱き、宇佐美も倣って左隣にいる教え子を見遣る。
その先にあった、あまりにも悲惨な顔色に驚愕した。
「桜原?!」
近くにいるはずの宇佐美の声が遠い。もはや立っているのか、座っているのかさえ分からない。目の縁に涙が溜まっているからという理由だけでなく、視界は平衡感覚を失い、ぐにゃりと歪みを催す。
けれども離れた所に佇む男の姿だけは、否応なく判別できた。
「あ……ぃ、やぁ……!」
握った拳をズキズキと偏頭痛が苛む側頭部に当てれば、キーンと耳鳴りがした。喉の奥からじわりと、吐瀉した後のような苦味が口一杯に広がる。
軽く目を見開いた金茶の双眸が、伶子を凝視していた。
視線が、絡み合っている。鈍りきった脳が遅ればせながらそう認識した瞬間――――
「い、やぁぁあぁああああぁああ!」
劈くような悲鳴が少女の喉から迸った。