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春風戦華  作者: 地球儀
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其の壱:遭遇

昼休みが過ぎ、迎えた五限目の授業。昼食を終えたばかりとあって、満腹中枢を刺激されて眠気に誘われる生徒は決して少なくない。

季節は春。春眠暁を覚えずという言葉もあるくらいだ。

私立石動(いするぎ)学園高等部、ニ年八組。数学を受けているこのクラスの様子を、桜原伶子(おうはられいこ)は中央列後方二番目の席から眺めていた。

今のところ、誰一人として眠っていない。見渡す限り、とりあえず女子は起きている。

男子も、二人ほど船を漕ぎかけたけれど、どうにか持ち直したようだ。

ホッと安堵の吐息を小さく漏らした伶子だったが、ふと背後から聞こえてきた読解不明な唸り声にギョッとし、振り返る。

オレンジに染めた小さな頭が、広げたノートの上でうつ伏せになっていた。

「……ストロベリーシェイク大好きぃ」

(知ってます!)

胸中で反応してみるものの、呑気に夢の中へと旅立っている親友に、目覚める兆しは全く見受けられない。

「ま、茉穂ちゃん」

小声で呼びかけながら彼女の腕を揺さぶるが、近江茉穂(おうみまほ)は真っ赤なルージュを塗った唇からムニャムニャと寝言を零すだけ。慌てる伶子の気も知らず「酢豚、春巻、北京ダック……」と、夢の世界で中華料理を堪能しているらしい。

「お願いですから起きてください〜」

「確かに、授業中に居眠りは関心しねぇよなぁ」

底冷えするような剣呑な声に、伶子の体は硬直する。同時に嗅覚が、教師の衣類に染み込んだ紫煙の臭いを捉えた。

「寝ている級友を起こそうとするのはいいことだが、授業を聞いてないって点じゃ、桜原伶子、お前も同罪だ」

油が切れたロボットのような、ぎこちない動きで首だけ振り返ってみれば、口角を引き攣らせながら無理矢理笑顔を取り繕った数学教師が、すぐ傍で佇んでいた。そこから漂う雰囲気は当然、好適とは言い難い。

女子からはイケメンと騒がれるだけあって、どんな笑みでもよく似合う容貌は溜息ものだが、伶子個人に向けられるそれは、恐怖を促す材料でしかない。

「う、宇佐美(うさみ)先生……」

「黒板に書いてある問題、近江の分も含めて全部解いてもらおうか」

チラリと視線のみ黒板に移してみれば、全部で四問。全て黒板の低い位置に記されている。

伶子の身長は百四十九センチ。茉穂は百五十ニセンチ。大して身長差はないが、例え茉穂が真面目に授業を聞いていたとしても、対伶子用として準備していたに違いない。

どれも応用に応用を重ねたような問題ばかりで、善良的に考えても、今までに習った公式では遠回りな解き方しかできない。

伶子の知る他の公式を使う方法もあるが、それは現段階では教わらない。仮に使えば宇佐美の機嫌を損ね、罵詈雑言を浴びせられることだろう。

(先生の機嫌が良かったら、解くのは一問で済んだかもしれませんけど……)

くよくよしても仕方がない。

昨年から続く地味な嫌がらせに今回も嘆きつつ、伶子は白いチョークを片手に式を綴っていく。

手を休めることなく全問解き終え、窺うように担当教員を振り返ってみれば……苦々しい眼差しとぶつかった。鼻白み、今にも舌打ちしそうな表情だ。

「……正解だ。席に戻れ」

そう告げられたところでチャイムが鳴った。

授業の終わりを告げる合図に、伶子は安堵する。

「黒板の答えを写し終えたら自主解散しろ」

最後に伶子を睥睨し、宇佐美は教室を去って行った。

蛇に睨まれた蛙の如く、再び硬直してしまったものの、クラスメイトに邪魔だと言われ慌てて自席に近付く。

「伶子、ごめん!」

視線を上げれば、夢から覚めたらしい茉穂が両手を合わせて謝罪のポーズをつくっていた。

まずは授業中に寝ていたことを注意するよりも、額に転写した制服の皺の跡を指摘してやる方が先かもしれない。



部活が休みだと茉穂に告げれば放課後、伶子は駅前のファースト店へ連れ出された。

先に席を取っとくよう言われて二人掛けの席で大人しくしていれば、目の前にハンバーガー四つとMサイズのポテトが一つ、シェイク二つを乗せたトレイが置かれた。

「あの、茉穂ちゃん?このハンバーガーの量は……?」

「いや〜……五限目に伶子、ウサちゃんに睨まれちゃったじゃん。だから罪滅ぼし!奢りだから、気にせず食べて」

「気持ちは嬉しいですけど、さすがに一個で充分ですよ。晩御飯、食べれなくなっちゃいますし……」

控えめに遠慮を唱えると、アイブロウで描かれた柳眉が顰められる。ほぼ一定に揃えられた前髪は眉の位置より短いので、眉間の皺は一目瞭然だ。

反射で肩を窄める伶子を一瞥し、茉穂はストローを突き刺したシェイクに一口だけ口を付ける。

「……ああもう、分かったから!余った分は茉穂ちゃんが持って帰らせていただきます。だから伶子は申し訳なさそうな顔しない!とりあえず好きなの一個取って。はい、バニラシェイク。ポテトは二人で半分こ」

面倒見の良い姉御肌口調になった茉穂に紙コップを持たされ、ポテトも傍へ寄せられ、更には好きな物を取るよう進言されたにも拘らず、勝手にチーズバーガーを差し出されてしまった。

とはいえ特に異議もないので、伶子はバーガーを受け取ると外紙を剥がし、ぱくりと噛み付いた。

「……美味しいです」

「ん」

満足そうに頷く親友にホッとして、再びハンバーガーに歯を立てる。

バンズとその間に挟まれた具を半分ほど咀嚼したとき、茉穂が小さく鼻を鳴らした。

「居眠りしててウサちゃんの機嫌、損ねさせたあたしの言うことじゃないけどさぁ。……今日のウサちゃん、いつも以上に大人げなかったと思う。いくら苛立ってるからって、八つ当たりなんてさ」

不貞腐れた表情をする茉穂は交差した左右の指の間にシェイクを挟み、視点を下げて睫の陰影を頬に落とす。言動だけを読めば数学教師に対する不満のみ汲み取れるが、濡れ烏のような黒い瞳には何故か自嘲の色が滲んでいた。

ベコッ、と凹んだ音が起つ。歪に変形した紙コップからは、茉穂自身の不快指数が伺えた。

紙ナプキンを敷いたトレイに噛み口の付いたハンバーガーを一先ず置き、伶子は口の中のものを素早く飲み込んで口早に言った。

「私が毎度の授業で当てられるのなんて、去年から続いてることじゃないですか。理由は分かりませんけど周知のとおり、私、宇佐美先生には嫌われてますし。でも私情を挿んで成績評価されてるわけじゃないですし、どう思われていようと全然気にしてないんです。……だから茉穂ちゃんが気に病む必要なんて、どこにもないんですよ」

「そうかもしれないけど……」

「そういえば私、まだお礼言ってなかったですね。ハンバーガー奢っていただいてありがとうございます」

この話はもう終わりです。そう締め括ってにっこり笑う伶子の意を汲み取り、茉穂は別の、今度は気まずくならないような無難な話を持ち出した。



伶子がファーストフード店を去って、程なく日も沈んだ。

夜の帳を迎え、客層も学生や子連れの主婦達からサラリーマンやOLといった面相に変わりつつある。それを抑揚のない眼差しで眺めていれば、カウンターの辺りで黄色い声混じりのざわめきが湧き上がった。そちらを背にしている茉穂にはその様子が窺えないが、耳に届く高揚した声が女性ばかりとあって、現れたのが待ち人であることにほぼ間違いないだろう。

ようやく来たかと、若干苛々しながら空になった紙コップに刺さるストローを噛んでいれば、目の前に真新しいコップが置かれた。

男に集中していた女性客の視線が、品定めするかのように自分へと向けられるのを全身で感じ取る。しかし、自分の容姿に恥じる部分など一点たりともないと信じて疑わない茉穂にとってはそんなもの、痛くも痒くもなかった。

「中身は?」

「君の好きなストロベリーシェイク」

唇に挟んでいた長い筒を放して、前の座席に着いた相手に礼も言わず、新しいシェイクに口を付ける。

相手もそんな彼女の性格を知ってか、特に何も言わなかった。

(いつも思うけど、こいつと二人でいるとき、何人の人があたしらをカップルだって邪推してんだろ)

本当は天敵といって過言でない相手なのに。

「……ホント、嫌になっちゃう」

男との関係を第三者から勘繰られることもだが、ふと伶子といたときに漏らした愚痴を思い出し、嘆息する。

「さっきウサちゃんのことをね、苛立ってるからって八つ当たりは大人げない、なんて友達に愚痴っちゃった。……苛立つ原因の引き金引いた奴が何言ってんだろ」

自嘲する茉穂を痛ましげに見つめていた男は、ゆっくり目線を落としていき、やがてオレンジジュースの入った紙コップに視点を留めた。テーブルに置かれた自身の右手をグッと握り、押し殺したような低い声を出す。

「君にその原因を作らせたは俺だ」

「そうよ。何度も言うけど、あんたがあたしの前に現れなかったら、こんなことにはならなかった」

断罪を望む被害者の言葉。声を荒げることはなかったが、非難と後悔が綯い交ぜとなった悲痛の叫びに耐え切れず、男は固く双眸を閉じた。

整えられた眉の間に皺を刻み、唇を噛んで悔いる男の顔から視線を外し、少しルージュの剥げた唇で茉穂は忌々しげに呟く。

「その顔、やめて。あたしが言ったことは事実だけど、あんたが辛い立場だっていうのも、ちゃんと分かってる。自分の身を守るために責任転換したあたしだって、ウサちゃんに足を向けて寝れない立場なんだから」

伶子への侘びとして買ったはずのハンバーガーを二つ、男に差し出す。あれから二時間近くが経つので既に冷め切っていたが、食べられないことはない。

「貰っていいの?」

「冷めてるけどね」

微かに湧いた罪悪感を押し潰し、茉穂は立ち上がった。



時刻が二十一時を跨る頃、伶子は自転車を走らせていた。

本日出された教科課題を済ませ、最後に数学の予習に励もうと鞄に手を掛けた矢先、五限終了後にノートを茉穂に貸したままであったことを思い出したのだ。伶子が住むマンションから近江家まで、およそ自転車で十分。若干冬の冷気が残っているとはいえ、苦になる距離ではない。

今から取りに行っていいかと電話を掛けたものの――――

「あ〜!ごっめーん、六限目に書き写して、そのまま机の中に入れっぱだった」

「茉穂ちゃん、授業中に他の教科の勉強をするのはいかかがなものかと……」

「だって古文なんて退屈なだけだし〜。でも明日って数学ないっしょ?別に今日予習しなくったっていいじゃん」

確かにそのとおりなので、今日のところは諦めようと受話器を置いた。

しかし、だ。万が一、時間割変更があれば?

去年に引き続き、宇佐美から出題される問題は全て正解しているが、解けなかった場合、かの数学教師はさぞ溜飲が下がる思いをすることだろう。けれども他の生徒のいる手前、嫌味を連ねるのは目に見えている。

辟易して困憊するのは誰でもない、伶子自身。

時間割変更という僅かな可能性の為に、茉穂の机の中に眠るノートを取りに行くことにしたのだ。

閉ざされた校門の手前で自転車を置き、鉄門を乗り越えてグラウンドを横切り、図書室の窓ガラスを探す。

(確かこの窓でしたっけ。鍵が壊れてるって噂の場所は)

図書委員を務めている部活の先輩から聞いた情報によると、持ち上げるようにして何度か揺らせばロックが解除されるらしい。

ガタガタガタガタ――――!

(意外に音が大きいですね。警備員に見つからなきゃいいんですが……)

とはいえ、鉄門にしっかりと南京錠が撒きつけてあった事実は敷地に侵入した際に確認していた。校舎内を探検したわけではないので断言こそできないものの、自分以外の誰かがこの石動学園にいる可能性というのは極めて低い。そう結論付けて、伶子は構わず窓を揺らし続けた。

約三十秒後、カチッと言う音と共に窓が軽やかに横滑りした。

「よ……い、しょ」

サッシに手を置き、肩と手首に重心を掛けて肢体を持ち上げる。図書室の床に降り立ち、一息吐いたところで土足だったことに気付き、慌ててスニーカーを脱いで右手に纏めた。

靴下越しに伝わる冷たい床に筋肉を強張らせながら、図書室と廊下の間を隔てる扉に手を掛けようとした、まさにそのときだった。

――――ブォン……!

「キャッ!」

羽虫が勢いよく羽ばたいたような音が耳元を掠め、思わず小さな悲鳴を上げて飛び上がる。きょろきょろと周囲を見渡すも、外から漏れる月明かりしか頼りがないので、虫と景色の判別がつかない。耳を澄ませるも、虫の飛び回る音などしなかった。

緩くパーマをかけたショートボブの黒髪を一撫でして、跳ね上がった鼓動を落ち着かせ、再度扉の窪みに指を掛けたときだ。

「……あれ?」

鍵が開錠されていることに気付く。内側からも手動で鍵の開閉ができるようになっているのだが、ロック部分を薄闇の中で凝視してみれば“開”の字が見受けられた。

(鍵、掛け忘れたんですかね?)

顔付きからして神経質そうな司書を脳裏に描きながら廊下に出たとき――――伶子は我が目を疑った。

「………え?」

天井から照らされる蛍光灯の光に当てられ、反射的に双眸を眇めたものの、すぐに目を瞠った。

頭上から降り注ぐ白光。窓の向こうが濃厚な闇色を彩っているからか、光の刺激を強く感じる。直視しようと試みるだけで影を求めたくなる眩さだ。

電気が点灯していた。校舎の外にいたとき……いや、図書室の中にいたときから、廊下の明かりなど確認できなかったのに。

廊下に出た途端に蛍光灯のスイッチが入れられたのかと勘繰るが、僅かな間も不点灯のリミットがなかったというのは、どう考えても訝しむ材料にしかならない。職員室の方角に目を光らせるものの、人の気配は全くといっていいほど感じられなかった。

言いようのない不安がじわじわと胸に込み上げてくる。

(と、とにかく、ノートを取って早く帰りましょう)

ゴクリと口の中に溜まった唾液を飲み干して階段に足を伸ばしたとき、ここもまた電気が点いていることに気付く。

何かがおかしい。漠然とそう感じながら三階、ニ年八組の教室がある廊下に差し掛かったとき、伶子は我が目を疑った。

天井に届きそうなまでの背丈をした巨体。肌は褐色を通り越して土色。未だに小学生と間違われてしまう体躯をした伶子よりも、一回りも二回りも大きくしたほどに太い手足。筋骨隆々な腕と脚、臀部からして雄だと判別できた。けれでも“男性”ではない。尻の割れ目から数センチ離れた所から生えているものは……どう都合よく解釈しても尻尾。禍々しい色をして、先端に蛇の頭が付いている。

ギョロ、と横に細い双眸が伶子を射抜く。

「!」

「人間だ!獲物がいやがった!」

目元まで口角を吊り上げて声高々に蛇が哄笑した。

ゆらりと振り返った巨体の上半身に、戦慄する。土色の皮膚から突き出た鎖骨。ワイヤーのような金属で歪に縫われた唇。猪のように突き出た鼻。眼球の嵌まっていない二つの窪み。

首から上、顔に当たる部分を視界に取り入れた時点で、伶子は反射的に踵を返して全速力で階段を駆け下りていた。

「逃がさん!」

地響きを起こしながら背後から迫る化け物。伸ばされる腕に捕まってはいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響く。

あの蛇は人間を“獲物”と呼んだ。あの図体のでかさ、捕らえられればどうなるか、想像に難くない。頭から引き千切られるか、それとも爪先からか。そんな些細な違いしか考察できない。

乾いた笑いが漏れそうになるが、楽観視できる要素など、今の現状のどこにもない。

足が絡まり、幾度と転倒しそうになりながらも、躍起になって出口を求める。

本能的に赴くまま、向かった先は下駄箱。横に倒されロックのかかった鍵を縦に捻ろうと指圧に力を掛けるものの、動く気配をみせない。頑ななその扉を諦め、隣の平面ガラスにも同じことを試みるが、全くビクともしなかった。

「ヒャハハハハハハ!」

甲高い蛇の嘲笑と共に自分へ向かってくる大きな掌を、転がりながらどうにか避け、玄関口が開かないならばと、次は侵入した際に利用した図書室へと腿を振り上げる。

玄関口のロックが解かれなかったのだから、きっと窓ガラスも同様だろう。すぐ真後ろに空想上でしかお目にかかれそうもない生き物が存在している時点で、校舎内がフィクション次元とシンクロしているのは明らか。おかしな力が働いて、全ての扉と窓が開かなくなっている可能性は否めない。

けれども図書室のドアと窓は開けたままにしていた。ならば外と繋がっているはずだ。

ここだけでなく、石動学園以外の場所でも異常現象が起こっているかもしれないが、今はまず、助けを呼ぶ、もしくは安全な場所に逃げ切らなければならない。

……だが伶子の期待を裏切って、少々色褪せた図書室の扉は固く閉ざされていた。

「な……!」

青褪め、躍起になって建具の窪みに指を差し込んで横にスライドさせようとするものの、擦りガラスがガタガタ音を立てるだけ。開かない。

「さぁ、鬼ごっこは終わりにしようか」

巨体の腰に巻きついた蛇が舌を出す。二股に分かれたそれは血のように赤い。けばけばしい黄と毒々しい紫の皮が、生理的に気持ち悪かった。

近付いてくる人外の生き物から逃れようと、一歩、二歩、伶子は後退する。

「……あっ!」

右足の踵が何かを踏み、バランスを崩す。そして平衡感覚を立て直す間もなく、尻餅をついてしまった。

その拍子に掴んでいたスニーカーが手の中から零れ落ち、代わりに硬い物が指先に当たる。咄嗟に見遣れば、ビー玉サイズの透明なガラス玉が転がっていた。これを踏んでしまったらしい。

隙をつくった獲物を見逃さず、蛇の尻尾をした眼球のない肉体が一気に距離を縮めてくる。

「ヒヒヒャハハハハ!」

狂いそうなほどに高鳴る鼓動。震える肢体。額に、首筋に、鳩尾の上に、腋に、内股に滲む汗。眼鏡のブリッジは鼻梁から下にずれて、その所為か、迫りくるモンスターとの距離感がうまく掴めない。

……確かなのは、自分がもうすぐこの化け物に殺されるということ。

化け物に襲われる恐怖。

一冊のノートの為に校舎に忍び込んだ後悔。

これから見舞われるだろう痛覚。

家族と親友へ、先逝く謝罪。

過去の懺悔。

果たせなかった贖い。

……様々な感情が渦巻き、喉の奥に酸味が広がる。眼球が熱い。吐き気に、生理的な涙が込み上げてくる。

死を覚悟してグッと全身を硬直させ瞼を閉じたとき、いつの間にか自分を転ばせた原因であるガラス玉を握り締めていたことに気付いた。

(最後の最後に縋るものが、こんな小さな物だなんて……)

胸中で皮肉げに自嘲を零したそのときだった。

「痛ってぇ!」

蛇の痛烈な叫びに思わず目を開く。伶子を襲おうとしていた怪物の腹部、ちょうど臍に当たる部位に一本、白銀の矢が突き刺さっていた。

半ば口を開けて茫然と、苦痛で悶える蛇を眺めていたときふと、苦味の中に甘さを感じさせる臭気を嗅ぎ取った。この香りには覚えがある。

「どうしてお前がここにいる?桜原伶子」

女子に人気の、少し渋みのある声音。水面を静かに震わせるようなテノール。今日の授業時と比べれば若干疲労も滲ませた、けれども伶子の名を呼ぶときは常に倣岸不遜で、冷徹な声色をしたその人。

恐る恐る振り返り、目を瞠りながら徐々に視線を上げて声の主の正体を確認する。

これ以上何に驚けばいいのか、伶子には分からなくなっていた。

「う、宇佐美先生……」

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