63.湯煙
「はぁー、極楽……」
体の奥底から溢れ出た感動が湯けむりと共に空に溶けていく。
私はフラメルーシュ随一と言われる温泉施設にて、西洋風ファンタジー世界にはとても似合わない極楽を味わっていた。
しかも、こんな大きなお風呂を警備の都合上とはいえ貸し切りにしてもらっているので、幸福の君かつ魔王陛下の婚約者としてはいかがなものかという声を出しても誰にも咎められる事はないのだ。最高。
最初は、私ひとりに一番人気のお風呂を貸し切りなんてとんでもないと断ろうとしたのだが、ここの支配人からむしろ箔が付くので是非にと三回くらい強く言われてしまったので甘えてしまう事にしたのだ。お湯に浸かってしまえば、その選択をした私を褒めてやりたい気持ちしかなくなった。
「まさか、この世界に生まれて温泉に浸かることができるとは……」
じわじわと温まる身体に、涙が出そうなくらいの幸福感が駆け巡った。
ちゃぽん、とお湯が跳ねる。
まあ、よく考えれば前世の世界の外国にも温泉施設くらいあったし、この世界にあってもなんらおかしくはないのだけど。それでも、生まれ育ったフィロジーアには温泉の“お”の字もなかったので、まさか恐ろしき魔族の国にあるなんて露程も思わなかった私は感動もひとしおだった。
かけ流しのお湯が流れる音と、空を行く鳥の声を聞きながらぼーっと空を見上げる。
「もう秋かあ……」
火照った頬をひんやりとした風が撫でた。
今年に入ってからというもの、武術から魔法から学問まで御妃教育をしこたま詰められ、その隙間に攫われたりトラブルに巻き込まれたりしていたせいでなんだかあっという間に秋になってしまったなあと感じる。
折角の花の17歳なのにこれといった青春イベントが全然起きていない事が残念ではあるが、前世の17歳時に比べたらよっぽど青春をしているような気がするのでまあ良い。
そもそもそんな青春イベントが起きたところで喪女として生きてきた私がその波に上手く乗れるのかという問題もある。
「あー。でも、海行きたかったなー、慶倖陵の時行ったけど春だったし、どうせなら夏の海に行きたーい」
「じゃあ来年は行こうか」
お湯の上を漂う湯気のように気ままに浮かんでは消えていく考えを、誰もいないのをいい事に口に出していたら、まさかの返答が返ってきた。その声は聞き間違いであってほしいがとてつもなく魔王さまの声に似ていた。
完全に油断していて答えが返ってくるなんて少しも思っていなかったので、驚きに体が固まる。恐る恐る周囲を確認するも、この露天の浴場にはやはり私ひとりであった。
どういうことかわからずきょろきょろと周囲を見回すが、何度確認してもあるのは四方に高く聳える美しい装飾を施された壁だけだ。
……しかし、ここは露天風呂である。
前世での温泉施設ではだいたい男女の浴場は隣り合わせに作られていた。つまり、この世界のこの場所も壁ひとつ挟んだ隣に男湯の露天風呂が設置されていてもなんらおかしい事はなく、私がお風呂を頂いているのだから魔王さまもとなるのもおかしくはないのではないか。
「……空耳ということにしよう……」
私は、現実を受け止めるのを止めた。
うっかり鉢合わせて空耳じゃなかったと現実を突き付けられるのも嫌なので、ゆっくりゆっくり出たはずなのに、どういうわけか私と魔王さまはほぼ同時に脱衣所から出る引き戸を開けた。
「あ!?れ、ジークハルトさまも入ってらしたんですか……?」
「ああ。久しぶりに長湯をしてしまった。リリシア、温泉は堪能できたか?」
「えっ、あ、はい、存分に、頂きました……」
動揺のあまり一音目が完全に裏返ってしまったのが恥ずかしい。
しかし、魔王さまはそんな事少しも気にしない風につやつやした顔で「よかったな」と私の頭を優しく撫でるのだった。
これはもしややっぱり空耳だったのではと期待を込めたが、現実は無情である。
「やはり海辺に別荘を建てよう。慶倖陵の近くでも、ヴィアベーラの方でも。どちらかと言えば海が綺麗なのはヴィアベーラ側だが、あちらは君には賑やかすぎるかもしれないな」
微笑みを湛えながら魔王さまはあれこれと私に提案してくる。
これは、どう考えてもさっきの事が空耳なんかではなかったという事の裏付けにしかならない。あれは本当で空耳なんかではなくて、あれが聞こえていたという事はつまり私のあられもないおっさんじみた溜息もばっちり聞こえていたという事だ。
「死にたい」
「何故!?やめてくれそんな縁起でもない!せめてちゃんと人間の寿命までは頑張ってくれ!」
死んだ魚のような目をする私に、魔王さまが本気で慌てて懇願してきたが、私のこの消えてなくなりたさは解消される事はない。
私とて今は17歳の思春期真っ盛りのぴちぴちのお嬢さんなのだ。好きな人にあんな無防備な様をサウンドオンリーとはいえ見せつけてしまった衝撃と転げまわりたいほどの恥ずかしさはちょっとやそっとで消え去りはしない。
「むりです……、あんな慎みのない声を聞かれてしまったからには私はもう……」
「録音したいくらい可愛かったし何度この壁をぶち抜いてやろうかと思ったかわからない。大丈夫だ」
「……ジークハルトさま、あなた私に対して盲目すぎやしませんか?」
「君に目を潰されるならそれも本望」
胸をはってそう言う魔王さまにちょっと引いてしまったが、その反面ちょっと嬉しかったので乙女心とは複雑である。
「さて、神伺いも無事終えてしまったし、時間が余ってしまったな。どうする?もう帰ってもいいし、この街を見て回ってもいいし、宿の中でゆっくりしていてもいいが」
今回は滞在一週間で予定が組まれているのだが、これは神伺いにかかる最長で計算されているとのことだ。初日の結果がいまいちで、かつ三日目の朝の結果も良くないと、もう一日二日あそこに篭って身を清めお祈りをする必要があるのだとか。
しかし、私達は運良く何のトラブルもなく無事通常コースの三日間で終えてしまったので、あと三日間時間が残っているのだ。
「そう、ですね……。せっかくここまで来たのにもう帰っちゃうのもちょっと勿体ない気がしますし、どうせならもう少し街を見てみたい、ですかね?」
「そうか、ならばそのようにしようか。早く帰っても仕事が待っているだけだからな、私もその方が正直ありがたい」
いたずらっぽく笑う魔王さまについ口元が緩んでしまう。
普段はさらりとスマートなのにたまにこういういたずらっぽい笑い方をするのが魔王さまの恐ろしいところだと思うのだが、どうだろう。セリやエマさんあたりに聞いたら首がもげるほど肯定してもらえそうだ。
「あー、そうだ。それと、姉から無事終えたのならば食事を、という申し出が散々来ているのだが……どうする?」
魔王さまは笑顔を引っ込めてどこか嫌そうに顔を顰めると、渋々といった風にそう私に問うた。
やや吐き捨てるように「散々」と言っていたので、きっと本当にたくさんだったのだろう。しかし正直、「食事を共にしたい」という言葉は社交辞令の一種なのではと思っていた気持ちもあったので、本気だったんだ!とちょっぴり驚いでしまった。
「ええと、私としては、ジークハルトさまのご家族とも親交を深められたらな、と思ってますし、あの、ぜひお願いしたいのですが……」
我ながらいい子ちゃんすぎるかと思った答えだが、好きな人と共に暮らし育った家族の方ともよい関係が築けたらいいなと思うのは本心である。
本心ではあるのだが、正直に言えばそんな緊張しかないイベント御免被りたい。
「リリシアが良い子すぎて胸が苦しい」
「何を仰っているんですか」
「いや、……わかった、それなら承諾の返事を出そう」
魔王さまはそう言うと立ち上がり、この部屋の扉の外で控えている従者に声をかけた。
その様に、ああ、退路が断たれてしまった……と、自分で選んだ道だというのについ絶望してしまったが、私が今やるべきは未来に絶望する事ではなく、未来に来ていく女性親族に受けの良さそうなドレスを持ってきているかどうかセリに聞くことなのである。