58.過保護にもほどがある
仕方がない、と言えば仕方がないのだけど、監獄島から帰ってこの方私は片時も魔王さまの傍を離れる事を許されていなかった。
この「片時も」というのは誇張でもなんでもなく、本当に少しの隙間もなくである。
辛うじてお手洗いに行く時だけは抗議の末に許されたけれど、それでも護衛と称してセリ含め侍女が三人は着いてくるので、正直、限界を感じていた。
(ひとりになる時間が少しもないのが、まさかこんなにしんどいなんて……)
トイレの個室の中で私は頭を抱えた。この息継ぎのような時間もそう長くは取れない。セリに怪しまれないぎりぎりの時間を攻めるように息を吐く。
のろのろと服を整えて、一度だけ(トイレの中の空気なのでちょっと嫌ではあるが)深呼吸をして、個室の扉を開けた。
魔王さまが、みんなが私を心配してやってくれている事なのはわかっているのだ。だから、感謝こそすれ文句など言ってはいけない。わかっている。
「お待たせ、じゃあ、戻りましょうか」
だいたい王妃になったら個人的な時間なんてすっ飛ぶに決まっていて、自由のじの字もなくなるのだから、今から慣れておくくらいできっと丁度いいのだ。
なんでもない風な顔を貼り付けた私に、ついてくるセリが、ぽつりと呟く。
「お手洗いにすらついてこられて、嫌ですよね、ごめんなさい」
ずっと私付きで頑張ってくれていて私の事をかなり把握しているセリは、どうやら私がこの状況に苦痛を感じている事をとうに感付いていたらしい。
感付きながらも見ないふりをしてやるというのは、たぶん、結構な精神力を要する。それでも楽な道を選ぼうとはしないセリを、誰が責められるというのだろうか。
「うーん、確かにちょっと嫌、だけど、それよりもそうやって気遣ってくれるのが嬉しいから平気よ」
表情筋が貧弱なので下手くそな笑顔と共に言った言葉にもまた、嘘はなかった。
というか、セリはまだマシなのである。トイレの個室にちょっぴり長めにこもっても見て見ぬふりをしてくれるし、魔王さまに比べたらかなり良心的なのだ。
「あのう、ジークハルトさま。何度も言いますけど、これではお仕事がやりにくいでしょう?見える範囲にはいますから、降りてもいいですか?」
「何度も言うが、だめだ」
しつこいくらいに繰り返した言葉を駄目押しで口にするが、返ってきたのはやっぱり何度も繰り返された却下の一言だった。
私は、どういうわけか魔王さまの膝の上に座って、魔王さまが書きものをするペンの動きをじっと見ていた。
さすがに幼子や猫でもあるまいし嫌だと言ったのだが、有無を言わせぬ眼力でだめだと言われてしまっては、私にこれを拒否する術はなかったのだ。
重い方ではないとは信じたいが決して軽くはなく、同世代に比べたら小さくはあるが常に膝に乗せるには大きいので絶対に邪魔だろうに、魔王さまは少しも私を開放する気がないようで、書類仕事も軍議のようなものも全て私を膝に乗せたまま行っていた。
最初の内は「それは……」と苦言を呈してくれていた人もいたのだが、一向に改めようとはしない魔王さまに諦めたのかもうみんな何も言ってくれず、それぞれ驚きの順応力を持って元の自然さを取り戻していた。
順応できていないのは私だけという事だ。
ぱちん、とペンの蓋が閉まる音に顔を上げる。
「さて、今日はこのくらいにしておこう」
私越しに机に散らばっていた書類を纏めて処理済みの箱に収める。
仕事も終わったことだしこれで私は解放されると思われるかもしれないが、むしろこれからが本番なので私は内心で溜息を吐くのだった。
魔王さまは膝にのせていた私の膝裏と背中に器用に手を差し込むと、そのまま立ち上がる。俗に言うお姫様抱っこの状態で、私はこれから執務室を出て魔王さまの生活フロアまで移動しないといけないのだ。
「あの!これも何度も言うのですけど、私もう怪我も治ってますし自分で歩けます!」
「リリシアの“治った”や“大丈夫”は信用しない事にしているんだ。暴れると危ないよ、じっとしていなさい」
日頃の行いが祟ってぐう、と言うしかできないが、そもそも怪我は帰ってきたその日のうちに治癒魔法で治してもらっているので嘘など吐きようがないのだが、魔王さまは何と言おうと私を下ろす気はないようだ。
二人きりの時であればまだしも、魔王さまの生活フロアなのでまばらとはいえ侍従やらが通りすがるのにお姫様だっこで輸送など恥ずかしいにも程がある。
このような徹底した過保護、と言ってもいいのかわからない執着は、この後も食事からお風呂からおやすみまで続くのだった。
そう!お風呂もおやすみも嘘だろと思うが魔王さまと一緒なのである!
初日にさすがに無理だと拒否したのだが、ものすごく心配そうに、不安そうに、「無体を働くようなことは絶対にしない、ただ君が目と手の届くところにいないと不安なんだ。どうか、わがままを聞いてはくれないか……?」と言われてしまってじゃあ今日だけ、と許可してしまってからずっとずるずるそのままになってしまったのだ。
うっかり絆されてしまったばっかりに、時が戻せるのならあの時に戻って断固拒否したい。やはり何事も最初が肝心なのだ。
「リリシア?どうしたんだ?」
「……ジークハルトさまの過保護っぷりに思いを馳せておりました」
私のではないにおいのするシーツにくるまって隣で横になる魔王さまを見ていたら、視線に気付いた魔王さまが自由な動きで私の顔にかかっていた髪の毛を優しく指で梳いて除けてくれる。
「すまない、君に息苦しい生活を強いている事はわかってはいるんだ。でも、どうしても心配でこの手を放してやれそうにない」
「……そうやって申し訳なさそうな顔をすれば私が絆されるってわかっててやってます?」
「はは、ばれたか?でも絆されてくれるだろう?」
魔王さまはこれだから質が悪い。そしてそれにまんまと引っかかる私は頭が悪い。
「でも、さすがにお風呂は別がいいですね」
「何を言う、入浴中こそ無防備なのだから気を付けないといけないだろう?」
もっともらしく魔王さまは言うが、無防備だからこそ困るんじゃないかと叫びたかった。どこを見ていいかわからなくて浴室の天井の隅を見続ける私の苦労をどうか汲んでほしい。心臓がうるさく跳ねるのを抑え込むのがいかに大変かこの人わかっているのだろうか。
思い出したらなんだか恥ずかしくて死にたくなってきたので、私はぐるりと魔王さまに背を向けるように寝返りを打ってふかふかの枕を八つ当たりのように掻き抱いた。
「ひとりじゃなにもできなくなったら、ジークハルトさまのせいですからね!」
「…………それは、むしろ僥倖だな?」
「あなたって人は!もう知りません!おやすみなさい!」
これ以上の会話は自分の首を絞めるような気がしたので無理矢理に結ぶと、少しの静寂が訪れた。
静寂の中目を閉じて眠りの国に旅立とうとしたところで、背中に暖かさを感じる。はっとした時には時すでに遅く、お腹には腕が回り、後頭部に人の息遣いを感じた。
私の背後には魔王さましかいなかったので、この熱の持ち主はほぼほぼ魔王さまだ。
「ひょあっ!?」
思わず変な声が出て、慌てて飛び退こうとしたが、お腹に回る腕のせいで少しの身動きも取れず逃げる事は叶わない。
「なっ!?なんですか!?」
「……少しの距離でも離れているとどうにも不安で、我慢ができなかったんだ。我ながらこれはもう病気だなぁ」
裏返りそうになる声で意図を聞けば、自嘲するような響きの声が返ってくる。
その声色を耳にしてしまった私は、気が付いたら「すまない」と離れて行こうとする腕を捕まえていた。
「リリ?」
「……抱き枕にするだけなら、いい、ですよ」
離してはいけない気がして思わず捕まえてしまったが、どうしていいかわからず、私の口から出てきたのはそんな苦し紛れな言葉であった。
頭の後ろで魔王さまが息を飲む気配がした。
「……ありがとう」
笑われてしまうかな、と思ったが、たっぷり時間を置いて返ってきた魔王さまの声は安心と嬉しさが滲んでいるように聞こえてほっとした。
「おやすみリリシア、好きだよ」
「おやすみなさい、ジークハルトさま。私も、すきですよ」




