56.夢か現か
良く干した布団のような、あたたかくいいにおいがする。
ふわふわとして、気持ちがよくて、ねむたくて、このままずっと目を閉じていたかった。
「……い、……おーい…………おーい、起きろー」
そんな気持ちのいい微睡を邪魔する声に、うるさいと一言文句を言ってやろうと思って重たい瞼をこじ開ける。
「あ、起きた」
私を覗き込む緋色の瞳は、私が目を開けたのを見るとたちまち視線を逸らしてどこかへばたばたと駆け出す。遠くで彼の「後輩起きたわー」という誰かへの報告を聞きながら、私は、はて、どうして彼がこんなところに?とぼんやりしたまま考える。
というか、頭もぼんやりしているが、どうにも体のふわふわが抜けなくて地についていない気がした。
「いやー、目、覚めないかと思ったわ。大丈夫か?」
「……あの、なんでいるんですか?」
戻ってきた彼……初代幸福の君はお得意のへらりと気の抜ける笑みを携えて私に問うが、私はそれに答える前に質問をかぶせた。
彼はそれに嫌な顔一つせず答える。
「だってここ俺の部屋だし」
大丈夫そうだな、いやーよかったよかった、と彼はひとり掛けのソファにどかっと腰を下ろした。
俺の、部屋?そこでやっと周りを見てみれば、壁一面の本棚と、あちらこちらに置かれたり吊るされたりしている植物が見える。その本と植物のジャングルのような部屋は私の知らない部屋だった。
それでも、なにより驚いたのはいつの間にか初代さんの部屋にいた事ではなく、中途半端に布がかけられた姿見に映った自分の姿だった。正確には、自分の姿の映らない姿見にだが。
「へ?」
向きのせいかと思ったが、私のすぐ側のソファに腰かけている初代さんはばっちり映っていて、ただ私が映っていないのだとわかる。
姿見を見て固まった私に気付いた彼はそりゃそうだ、とさも当然のように言い放った。
「だってお前今魂しかここにないもん」
「はあ!?え、それは、どういう……?」
「だから魂だけなんだって。幽体離脱っていうの?捕まって逃げようとしたんだろうなあ。体の方は知らんがまあ看守がどっかの牢屋にぶちこんでるんじゃないのか?」
「いや、でもあなたとは話ができてるじゃないですか?」
「そりゃあ俺幸福の君だし。チート能力のひとつやふたつ」
到底理解できない話をされて、頭がパンクしそうだった。魂だけだなんて、幽体離脱状態だなんて、そんなファンタジーな事そうそう起こらないでしょう……?
ほら、体が透けてるとかもないし、と両手を眼前に持ってきて確認しても私の目にはちゃんと映っている。
「でも浮いてんじゃん」
お茶を啜りながら指摘する初代さんの言葉を認めたくはなかったが、確かに、最初から私の足は地を踏んでいる感覚というものが全くないのであった。
怖くて見ないようにしていたのに、どうしてそんなにさらっと言ってしまうのだろう。やめてほしい。もっとオブラートに包んでほしい。
「ど、どうしたら戻れるんでしょう……」
「戻ろうと思えば戻れるんじゃね?まあ今戻っても縛られて牢屋の中だろうから、迎えがくるまでここでもうちょっと待っといてもいいと思うけど」
「そんな雑な……」
だが、私としても冷たい石の上に縛られて転がされたぶんあちこち痛い体に戻るのはちょっとな、と思ってしまい、悩んだ末、少しくらいならとここに留まる事にした。
「……あの、ずっとここにお一人でいるんですか?」
「お?質問コーナー?……いや、一人ではないよ。言ったろ、カミサマに近いからここに住んでるって」
「かみ、さま……」
「そうそう、カミサマ。で、俺の奥さん」
「奥さん」
沈黙に耐えられずに問えば、奥さん、と言う時だけ夢を見るように、幸せそうにふにゃりと表情を蕩けさせてついこっちまでなんだか恥ずかしくなった。が、ここはツッコんどいた方がいいところなのだろうか。
かみさまで、奥さん、とはどういうことだ。
「見た方が早いんだろうけど人見知りだから出てきてくれない……かな。それにしてもお前運ないなあ。俺もたいがいだったけど、幸福の君って本人は運がないやつしかいないなほんと」
彼はちらりと私の奥、隣の部屋の方を一瞬見てすぐ諦めたように話を変える。たぶんだけれど、そっちにかみさまとやらがいらっしゃるのだろう。ほんのり気になるが、触らぬ神に祟りなし、というやつだ。
「あの、初代さん以外の幸福の君は……」
「普通に寿命を全うして死んでるな。一部は違うけど」
「そう、ですか」
「ん?残念そうだな」
初代さんが生きているのなら、他の幸福の君も存命だったりするのかと思ったが、そうではないらしい。ちょっとだけ期待していたんだけど、幸福の君というものはそこまでファンタジーな生き物ではないようだ。
首を傾げる初代さんに曖昧な笑みを返す。
「でも、歴代の幸福の君ってみんなすごいんですね。それに比べて、私は何もなくて。前世もぼろぼろでしたし」
「そうかあ?俺なんか何もしてないし前世だって適当に生きてたらトラックに撥ねられてテンプレにお陀仏だったぜ?みんな似たり寄ったりだって」
緋色の目を細めてにやりと笑う。しかし、騙されてはいけないのだ。こういう時にいう「なにもしてない」は信用してはいけない。テスト勉強してないと同じくらい信用ならない言葉だ。
「ただ、悪運を凌駕するチート能力が備わってるからそれを使って何とかもがきながら生きただけ。まじで神に感謝ってやつだよなあ」
彼はへらりとした笑みをそのままに言うが、一瞬だけその瞳が憂いを帯びたので、ほんのわずかに彼のこれまでの苦労を察せられた。
そのまま二人とも何も言わず沈黙の時間が続く。微かに潮風が窓を揺らす音だけが聞こえた。
こんこんこんこんこんこん
突然、小さなノックのような音が背後か聞こえる。部屋に響く音に何だろうと振り返る前に、初代さんが「あっ!」と声を上げ立ち上がる。
「すまん、奥さんがお怒りだ!いやあ嫉妬深くて困っちゃうよなあ」
全く持って困ってる、という顔をしていない緩んだ顔で彼は頭をぼりぼりと掻く。
「若い女の子とふたりきりなのに焼いてるんだぜ、一番かわいいのは奥さんなのになあ……というわけで、またな後輩よ!」
私が何か言う前に、とん、と背中を押された。
「はっ!?」
「リリシア様!」
目を開けると、さっきまでの暖かさといい匂いが嘘のように消え、薄くじめじめとした黴臭い空間だった。
どうやら薄いベッドに寝かされていたようで、ベッドサイドに膝をついたセリと目が合う。
セリはその丸い目に涙を溜めながら、擦り傷のついた顔をぱあ、と場違いに明るくさせて私を見ていた。
「よかった、ちっともお目覚めにならないから……」
「えっと、心配をかけたみたい、ね?」
まだ夢見心地でぼんやりするが、体の痛みがこれは現実だと教える。
「夢、だったのかな……?」
首を傾げる私にセリが首を横に振る。
「夢なんかじゃないです、リリシア様が叫んだ途端黒い風が起きて、リリシア様に触れていた者が倒れて、それでリリシア様も気を失ってしまわれて……」
私が指した夢が私の視界がブラックアウトする前の出来事を指していると合点したセリが途切れ途切れにそう言う。私、そんな事をしていたのか、と人事のようにぽかんとした。
「倒れたリリシア様を看守が悪しき魔女だと言って、それでここに……」
「そう、だったの」
なんだか、またすごい事をやってしまったらしい。
それでも、セリと同じ牢でよかったと胸を撫で下ろす。ひとりきりで牢屋に入れられるなんて耐えられないもの。
まあ、孤独は大丈夫だけど牢屋は牢屋、暗いしじめじめしてるし黴臭いしどこからか叫び声が聞こえるし体中痛いし、できるだけ長居はしたくない。
「はやく、迎えにきてくれないかなー……」
その呟きは、セリの溜息と共に消えていった。
ーーーー時は、少し巻き戻る。
不意に、リリシアの気配が城から薄れたからおかしいとは思った。
庭にでも出たのかなと思って、息抜きにお茶でも誘おうと探すもどこにも見当たらない辺りで、嫌な汗が背を伝った。
想像に過ぎないと目を背けようとしたが、リリシア付きの侍女の一人が慌ててやってきて咳き込みながら言う言葉を聞いた途端、想像は現実へと変わり、心臓の音がいやにうるさくなる。
「リリシア様が、攫われたと、セリが……!セリもリリシア様を追って、」
相当急いだらしく蒸気してはいるが同時に青褪めている侍女の声を聞き終わる前に、私は走り出していた。