36.デビュー
「リリシア様も随分こちらのマナーが身についてきましたし、そろそろ社交の場に出てみましょうか」
社交。嫌いな言葉ワースト3に入る言葉に思わず顔を顰めてしまった。
フィロジーアに暮らしていた時も貴族の子女の嗜みとしてごくたまに行っていたが、行くたびにこそこそじろじろと不躾な視線や聞こえるか聞こえないかくらいの声の陰口に晒されるので大嫌いだった。ごくごくまれに物好きに話しかけられたりもしたが、何を話していいかわからなくて黙りこくってしまい、それがまた陰口に繋がるという悪循環を思い出して胃が痛む。
そもそも人がいっぱいいる所があまり得意ではないのだ。自分の小さな世界に閉じこもっていたい引きこもり体質故、そんな場所行かずにおうちで一人ぬくぬくしていたいのだ。
「まあまあそんな顔なさらずに!どうせ王妃様になられたら死ぬほど出なきゃいけないんですから、慣らしておかないと」
セリの言うことも尤もだ。だからこそ渋い顔が止められない。
「わかってる、わかってるけど、苦手なものは苦手なんだもの……」
「大丈夫ですよ、リリシア様はにこにこしてれば後はきっと全部陛下がなんとかしますから。さあ、ドレスは何色にしましょうか!」
顔を顰める私を適当に慰めて、セリはもう、あれがいいかとかこれがいいかとかうきうき顔で考えはじめていた。
社交の場、か。たぶんきっとフィロジーアでの時のように周りじゅうから顔を顰められたり陰口を叩かれたりすることはないのだろう。ここでの私は「幸福の君」で、「魔王陛下の婚約者」なのだから、そんな命知らずなかなかいない……と思いたい。
そう思って自分を奮い立たせようとした。したのだが、いや、あんな貧相な娘が幸福の君なの?とか、あんなちんちくりんが魔王さまの婚約者なんてとか絶対言われる。間違いない。どうしようごめんなさい魔王さま私が貧相なちんちくりんなばっかりに!という思考に囚われてしまい、失敗した。
そして、青い顔をした私を置き去りに、私のバルトロジカ王国での社交界デビューの日がマッハで近付いてくるのだった。
薄青地に同じ色と薄紫のチュールレースをたっぷり重ねて、胸元には繊細な花模様のレースが飾られた、惚れ惚れするほど可愛らしいドレスを身に纏い、髪の毛は自分じゃ絶対にできない編み込みを仕込んだ纏め髪。
セリを筆頭とした侍女衆による渾身の夜会支度だが、鏡の中の私の顔は酷く浮かないものだった。
ついに来てしまった。バルトロジカ王国社交界デビューの日が。
「はぁ……」
思わず大きな溜息を吐いてしまう。
ドレスも、髪形も、指先まで全てびっくりするほど可愛らしく仕上げてもらったが、中身は見た目のようには変身できないので、根暗で引きこもりでちんちくりんのリリシアのままだ。
今日失敗したら魔王さまの顔に泥を塗ることになると思うと、緊張で顔に笑顔を貼り付けることもできない。
「もう!まだそんな顔をして!大丈夫、今日のリリシア様は可憐な妖精さんですよ!」
さあ笑って、とセリが後ろから私の口角を指でぐいと上げ、そのままぐりぐりとマッサージしてくる。それがくすぐったくて思わず笑ってしまうと、セリも満足げに笑った。
「いつぞやの子爵断罪シーンでは上手くできてたじゃないですか、あの時と同じようにやればいいんですよ。女優になりましょう!」
「でも、あれはほんの短時間だったし……」
「女優の皮が剥がれそうになったらちょっと失礼って奥に引っ込んでくればいいですから!」
しつこくうじうじする私の背をばんばんと叩いてみたり、つい猫背にまるまる肩をぐいと反らしてみたりとセリがあれこれしていると、部屋の扉が叩かれる。
扉からひょこりと顔を出したのは、夜会用に髪を整えいつもよりも豪奢な衣装に身を包んだ魔王さまだった。
「リリシア?準備はできたか?」
息が止まるかと思った。
魔王さまの顔もだいぶ見慣れたと、耐性が付いてきたと思っていたのだが、どうやら勘違いだったみたいだ。夜会用に飾られたその姿が、もう、あまりにも格好良くて、私の小さなキャパシティーを軽くいっぱいにして溢れさせてきて、どうしようもない。
顔が一瞬で熱くなるのをどうすることもできず、固まっていると、そう言ったきり私を見つめて動かなくなった魔王さまが俄かに手で顔を覆ってそっぽを向いた。
「魔王さま?」
どうしたのかと、もしやこの格好が似合わなかったのかと不安に感じて恐る恐る声をかけると、魔王さまは「すまない」と捻りだすように何度か言って、暫くの後にやっと私に向き直った。
「リリシアが、あまりに可愛らしくて、正気を失うかと思った……」
そう頬を染めて、金の目を柔らかに細めて言うので、私はまた熱くなった顔を持て余すこととなった。
「セリたちが頑張ってくれたので、見た目だけはなんとかなったと、思うのです」
「見た目も大変可愛らしいが、リリシアはその中身も可愛いよ」
「それは気のせいですね」
あまりにいつも通りに魔王さまが練乳のように甘ったるく私を全肯定してくるので、なんだか肩の力が抜けてしまった。
そんなことないと拗ねたように言う魔王さまに向かって頭を下げる。
「今日は頑張るので、よろしくお願いします。たぶん失敗しちゃうと思うので、ごめんなさい」
先に謝っておくスタイルを決めた。これで安心だ。
「別に無理に頑張らなくていいんだ、君は君のままでいてくれたら」
私の頬に手を添えて上を向かせると、魔王さまはそう優しく微笑んだ。私が私のままで挑んだらとんでもないことになりますよ、と言うとそれでもいいさと笑うので、この人どれだけ私の事好きなんだろう、と自惚れてしまう。
「さあ、行こうか」
「はい」
差し伸べられた手をぎゅっと握って、扉をくぐるのだった。
落ち着いたと思った私の頭は、頭上で煌めくシャンデリアの灯と目の前で次々と花開いていく色とりどりのドレスに再び落ち着きを失い思考を停止させていた。
レースの手袋が手汗で湿っていないかだけを気にしながら、引き攣った顔をなんとか笑顔の形に持っていこうと力を入れる。
危惧していた陰口だとか、私を蔑むような視線が投げかけられることはなかったけど、代わりにぶつけられる称賛の声だとか夢を見るような視線は、それはそれできついものがあった。
「お会いできて光栄です幸福の君」
もう何人目かもわからない挨拶を曖昧に微笑んで受ける。魔王さまがこっそり相手の名前を耳打ちしてくれるが、覚えられる気がしない。
そういえば前世からずっと人の顔と名前を覚えるのが苦手だった。
「いやあ、妃を迎えるという話をずっと聞かないので心配しておりましたが、これで安泰ですな。そのお相手は幸福の君だというから猶更!」
上機嫌で豪快に笑いながら去るなんとか伯爵を見送り、ふう、と息をつくと魔王さまが心配そうに顔を覗き込んできた。美しいお顔が近付くとぎょえってなるのでやめてほしい。
「大丈夫か?疲れてはいないか?」
「いえ、あの、大丈夫です。顔は痛くなってきましたけど、まだ」
「そうか?だめそうならすぐに言うんだよ」
指先で私の頬をするりと労わるように撫でる。それだけで心臓が跳ね、頬が熱くなる。
「ご機嫌麗しゅう陛下、今宵はお招きありがとうございます。お召し物、とてもよくお似合いですわ」
凛とした、ほんの少し甘やかな声が響く。
聞き覚えのある声に顔を向けると、金の髪をゆるりと巻いて星空をそのまま仕立てたかのような黒いドレスに身を包んだハウフヴェルン公爵家の令嬢が立っていた。
「エマ嬢も、とてもよくお似合いですよ」
魔王さまのその一言にぱっと頬を染めるその可愛らしさよ。嫉妬も吹き飛ぶその可憐さを心の中で拝んでいると、エマさんはこちらに視線を移してきた。
「陛下、少し幸福の君をお借りしてもよろしくて?」
「え?私?」
エマさんはするりと私の腕に腕を絡めてきて、魔王さまを見遣る。
「わたくしの友人が幸福の君を紹介しろとうるさいんですの。ね、リリシア様にも同年代…は難しいですけれど、もっと女性の友人がいた方がいいと思いますし」
「いや、しかし……」
私を心配そうに見る魔王さまに、意を決して口を開いた。
「い、行ってきてもいいですか?」
人見知りで、一人が好きなはずの私の思わぬ一言に、魔王さまが驚いたように目を開く。
私だってこの決断に心臓がうるさいのだ。でも、いずれ王妃になるのに魔王さまの腰巾着、金魚のフンのようなままではいけないと思って、汗のにじむ手をぎゅっと握る。
「リリシアが、言うのなら……」
「あら、じゃあ決まりですわね。すぐお返ししますから、ご心配なく」
まだ心配そうな魔王さまの目に見送られながら、嬉しそうに、跳ねるように歩くエマさんに連れられて、私は休憩用の小部屋の扉をくぐった。