35.後始末
バルトロジカ王国、そして私、リリシア・カテリンにようやく平穏が帰ってきたのか、ここしばらくは何事もなく過ごしている。
王妃になるにあたっての心構えとか、国の政に関しての勉強とか、護身術の訓練とか、これまで横槍が入って中々進まなかった事もここ最近で随分進んだ。毎日頭と体がパンクしそうだが、余計に精神のリソースを食うものがないので楽と言えば楽だった。
外を見れば雪の積もっていない地面もちらほら見かけるようになったし、日中日が差す事も増えてきて冬の終わりも感じさせる。もうすぐ春かと思うとなんとなく浮き足立ってしまうのだった。
……それにしても、先日のファウスト・エル・リントヴァルドによる「魔王を王都から引き剥がして魔王がいない間に幸福の君を拐かし結婚して自分が魔王の座に収まろう作戦」は大変だった。
それ自体も大変だったんだけど、その後がまた。
あの後、事の次第を知ったバルトロジカ王国ルサリカ関の関守長でありファウストさんの父親であるヴォルガン氏が魔王城まで文字通り飛んできたのだ。氏はその幾筋も傷の入った強面の顔を強張らせ、そのせいでとんでもない威圧感を湛えさせながら額を床に叩きつけるが如く土下座をした。いや、実際叩きつけていた。すごい音したもの。
「この度は!愚息が大変申し訳ありませんでした!!五十も生きておらぬ若輩者ではございますが、罪は罪、何卒厳罰を!!」
よく通る声が玉座の間に響く。
「これも全て親の私の不徳の致すところにございますれば、どうぞ私にも厳罰をお与えください!」
ビリビリと体に響いてくるようなその声の圧に私はしばらく動けなかった。
固まる私をよそに魔王さまが頭を上げるように言うと、ヴォルガン氏は渋々といった感じに頭を上げたが、真一文字に結ばれた口元やその鋭い金の目は、まるで断頭台の前にいるような緊迫感を放つ。
「確かに、ファウスト・エル・リントヴァルドは悪戯にヴィアベーラの混乱を拡大させ、私の不在を狙って我が婚約者、幸福の君に薬を盛って無理矢理な婚姻を結ぼうとしていた。これは到底許される所業ではない」
私は魔王さまの斜め後ろあたりに据えられていた椅子に控えていたのでこの時魔王さまがどんな顔をしていたのかわからなかったけど、その声色は低く、恐ろしいほどに静かだった。
「幸いにしてヴィアベーラでは死者は出ていないし、婚姻に関しては未遂で終わっている。」
息を飲むのも躊躇われる程しん、と静まり返った広間の中、魔王さまの声だけが響く。
「罪に対して妥当なところでは50年の監獄島送りだが、ファウストはまだ24、更生の余地が充分にあると見て貴方の元でまた一から下働きで充分と判断した」
「いけません!いくらなんでも甘過ぎます、もっと重い罪を!」
魔王さまがそう言うが早いか、それまで押し黙って魔王さまの言葉を聞いていたヴォルガン氏が吠える。
「……現在彼はこの城の地下牢に入っている。監獄島に送らない分、死なない程度に厳しくしてやれと看守に命じてあるから、もう充分自分の罪の大きさを感じている事だろう。それとも何だ、私の言うことは聞くに値しないと?」
「……いえ、そのような事は」
吠えるヴォルガン氏に魔王さまは変わらず冷ややかに返す。
ヴォルガン氏は俯いて口を閉ざすが、暫くして深く頭を下げた。
「……温情、痛み入ります」
短く言うとやっと場の空気が少しばかり緩んだ気がした。私も慣れない空気のぴりぴり感がなくなって胸を撫で下ろしていたが、ヴォルガン氏の目がこちらを見ている事に気付くとそうも言ってられない。
「な、何か……?」
強面のおじさまとのにらめっこに耐えられず震える声でそう聞くと、ヴォルガン氏は声を張り上げた。
「幸福の君、以前ヒペグリフ子爵から良運をこそげ取ったと魔女に聞きました。その術をどうか息子と私にもお願いしたい!」
「は?え?ええ?」
「貴女にも大変な真似を致しました、貴女からも咎めを、どうか!」
「いや、そう申されましても……」
良運をこそげ取った、って何!?
どうやら私は私の知らないうちにそんな特殊攻撃をしていたらしい。そんな術を使った覚えは一ミリもないが、あるとすればあのいやらしい横っ面を引っ叩いた時だろうか。
少しくらい痛い目をみたらいいとは思ったが、良運をこそげ取るとか、なんだか「少し」の範疇を超えている気がする。少なくとも度胸のない私にはそうなるとわかっていて出来ることではない。
「あれは、無意識で、そんな事になっていたとは今知ったくらいですし、狙ってできるとは思えない、といいますか……」
「そうなのですか…………では、試しに一度」
「えっ」
立ち上がり、大股でずい、と近付いてくる強面の大男に思わず後ずさろうとして、椅子に座っていた事に気付く。椅子の背は私をしっかりと受け止めて逃してはくれなかった。
「お願いします!」
ヴォルガン氏は迷いのない足取りでやってきて私の前に跪き、キッとこちらを強い眼差しで見上げる。しかし、そう言われても、じゃあ、と手をあげる事も当然のごとくできず、私はただただ狼狽えるばかりだった。
「ま、魔王さま!」
「まあ、君からの咎があって然るべき事ではあるからな……」
救いを求めて魔王さまを呼ぶも、どうやら助けてくれる様子はないみたいで。
どうやらやらないと終わらない事を悟り、暫く悩んだ後めちゃくちゃやりたくないけど意を決して深呼吸をした。
できるだけ少なめに、でもちょっとは罰を受けてる感出てるくらいで、狙ってできるかは知らないけど。
「では、失礼して……」
「はっ!よろしくお願いします!」
ただ、特に何も思っていないおじさまの頬を張り倒す度胸はやっぱり出なかったので、そのおでこに向けて中指を弾いた。
つまり、でこぴんである。
こつ、と小さな音がした。
「こ、これでどうでしょう……?」
ごくごく小さな痛みに目を見開くヴォルガン氏はぺた、とおでこに手をやる。
暫くおでこをさすってみたり、何か考え込むようにしてみたりしていたが、ほんのり困惑の滲む顔を向けてきた。
「その、私にも良運の糸やらは見えぬので、なんとも……しかし、わざわざありがとうございます」
「いえ……」
「うーん、一週間分ってとこねぇ」
きりりと顔を締めお辞儀をするヴォルガン氏とそれに曖昧に笑う私というなんとも微妙な空気にふんわりとした声が乱入してきた。
声の方に目をやるといつの間にか司書さんが立っていた。
「一週間、運がいいなって思う事なくなるわねぇ。まあ悪運が強まるならともかく、良運がなくたって生きていくのに問題はあんまりないからねぇ」
くすくすと笑う司書さんの話をぽかんと聞いていたヴォルガン氏がばっと私を振り返る。
「後ほど愚息を連れてまいります。どうかきつめに灸を据えてやってください」
「やだリリシアちゃん面白いことしてるのねえ」
そう早口に言って立ち去っていくヴォルガン氏を司書さんが面白そうに見ていた。
「私にそんな特殊能力あったんですね……」
「子爵をひっぱたいた時に開花したみたいね、リリシアちゃんって未知数でほんとおもしろいわあ」
司書さんはそのびっくりするほど可愛らしい顔に可愛らしく笑みを浮かべてくすくす笑っているが、知らないうちに特殊能力が増える私は笑えなかった。
気付かないだけでもっとあるんだろうか、転生者チート能力……。
「リリシア、ちょっといいだろうか」
これまでじっと黙って成り行きを見ていた魔王さまが真剣な表情で口を開く。
「なんでしょう?」
「今の、額を指で弾くやつ、私にもやってくれないか」
一瞬何を言われたのかわからなかった。真剣な顔で何を言ってるんだろうこの人。
ぽかんとしていると魔王さまは私の前で跪き、期待に満ちてきらきらした顔で私を見上げる。
「さあ!」
「さあじゃないでしょう!被虐趣味でもあるんですか!?」
「いや、そういうのはないが、だがリリシアが相手ならば!」
……その後、結局やるまで離してくれなかったのは思い出したくない記憶である。
「はぁ……」
思い出したらなんだかどっと疲れが出てきて思わずため息をついてしまう。
「どうしたんですか?覚えることはまだまだありますから、頑張りましょう!」
セリがにっこりとお茶を差し入れてくれる。
セリというと、セリもまた大変だったのだ。「セリはリリシア様のお付きなのに毒に気付かず無様にも地下室に転がされていてリリシア様をお守りできなかった!こんな役立たずいたってしょうがないので辞めさせてください!」と辞表片手に泣く彼女を宥めるのに大変な時間を要したのだ。
……まあ、それもこれも全て過去の話。
今は平穏そのものなのだから、まあいいとしよう。
お茶をひとくち飲んで、私は再び教科書に目を落とすのだった。