27.驕れる者は
つるりとした石の床を男がいやらしい笑みを浮かべながら行く。
「陛下に謁見ですか?謁見の申し出が出ていないようですが、なにか急を要することでも?」
男が玉座の間への扉に手をかけた時、背後から文官長の声がかけられた。
男は振り返ると興奮を抑えきれぬ歪んだ顔をさらに歪め、突然笑い出す。
「謁見もなにも、今日から私が魔王なのですよ文官長殿!」
「はぁ……?何を」
「前魔王陛下は私の策にはまり先ほどそこの谷底に落ちて死んだ。ならば次の魔王は私でしょう?」
文官長はその下卑た響きに一瞬顔を顰めたが、さっと顔を伏せる。そして、妙に演技くさく朗々と喋りはじめたのだ。
「それはそれは、であれば貴方の言う通り次期魔王は貴方、ヒペグリフ子爵となるでしょう。しかし、あの陛下を策に落とすとは、いったいどんな手を使われたのか」
「あの汚らわしい人間の小娘を使ったんですよ。あれをよく思っていない者は多いので手を探すのも簡単な事でした」
得意げに男が話すのを顔色ひとつ変えずにこやかに聞く文官長。その薄花色の目が細められた理由がわかるほど、男の器は大きくはなかった。
「そうですか。幸福の君を」
「なにが幸福の君か。ただの人間の癖に魔力を持ったただの小娘ではないか」
顔を顰める男をそのままに、文官長はくるりと踵を返した。男が声をかけるとほんの少しだけ振り返り「準備がありますので。子爵はあちらの離れの部屋で少々お待ち下さい」とだけ言って立ち去る。
残された男は「ふん」とひとつ息を吐くと指示された部屋へ向かった。
「……っていう話を聞いたんですけど」
「犯人自ら出てくるとは、手間が省ける」
文官長、ヘイゼルは子爵と別れたその足で騎士団の詰所まで来ていた。突然やってきて話を聞かされたゴルドフは、詰所の隅の牢屋に転がしたボロ雑巾のようなものを横目に部下に何事か指示を出した。
「で、陛下とリリシア様の安否は?」
「問題ない。今は救護室で診てもらっているがお二人とも無傷だそうだ」
「え、無傷なんですか。さすが陛下」
「いや、聞くところによると瀕死の重傷をリリシア様が治したとか」
「リリシア様そんな治癒魔法使えましたっけ?」
「いや……」
両者首を傾げた。自分たちが知るリリシアは魔力こそあれレベルも低く簡単な魔法のひとつもまだ覚えてない非力な娘だ。とても瀕死の重傷を負った魔王を無傷までもっていくだけの治癒魔法が使えたとは思えない。
「いやー、謎ですね幸福の君」
「お陰で陛下は助かった訳だが、……正直まだ少し疑っていたが彼女は本当に幸福の君なんだな」
救護室で貰った小さな瓶に入った薄青色の水薬を飲んだら体からごっそりなくなった何かが再び満ちた気がした。
一瞬で気力に満ち溢れ怠さも消え、前世で欲しかったこの飲み物!と強く思う。
「リリシア様、いかがですか?」
「びっくりするくらい元気です」
看護師さんが気遣わしげに声をかけてくるのにありのままを返すと「それはよかった」とくすくす笑われた。
「エーテルで体調が良くなったならやはりMP切れが原因でしょうね。突然一気に使い切って体の方に反動がきたのだと思います」
「そうか……よかった」
魔王さまは酷くほっとしたように呟く。
「……あの、もう大丈夫なので、降ろしてもらってもいいですか?」
説明すると、私は今魔王さまの膝に座らされているのだ。
さっきまではふらふらでそんな事に構う余裕はなかったが、回復した今これはあまりにも恥ずかしい。
救護室にいる他の看護師さんが遠巻きににやにやしてるのが見えて、いたたまれない。
「さて、もう少し休ませてやりたいところだが、一仕事頼みたい」
「あの、降ろして」
私の話を無視するどころか腰に回った腕の力を強めながら魔王さまは話を続ける。
「幸福の君に危害を加えるなど本来ならば死罪だ。が、死罪にする前に役に立ってもらおうと思ってな」
「やだ物騒」
「そろそろ君の存在をバルトロジカに知らしめてやろう。そりゃあもう、盛大に」
死罪がどうとかその前に役に立ってもらうとかなんだか物騒な事を平気な顔で言う魔王さまに冷や汗がでるが、死……はともかくとして魔王さまをあんな目にあわせたひとがのうのうと生きるなんて私にも許せない。生憎私は聖人君子でもなんでもないただの小娘なのだ。魔王さまが無事な今相手に死んでしまえとまではあんまり思わないけど、とりあえず痛い目にはあってほしい。
「私は何をすればいいんですか?」
「おや、意外にも乗り気だな」
「魔王さまにあんな怪我を負わせた犯人に慈悲はないです」
「リリシア……!」
感極まったらしい魔王さまに背後からさらに強く抱きしめられ首筋に顔を埋められて擽ったさと圧迫されたお腹のせいで変な声が出てしまった。
「では、とりあえず衣装合わせだな!」
は、なんで衣装?と思っていたら、膝に乗せられたままくるりと抱き直され、お姫様抱っこでどこかへ運ばれる。
扉の前まで見送りにきた大勢の看護師さんたちがきゃあきゃあ言いながら手を振ってきてどんな顔をしていいかわからなかった。
ヒペグリフ子爵は苛立っていた。
文官長に指示された部屋に来てからもう随分と時間が経っている。
茶の一つも持ってこないとは次期魔王に対してあんまりではないかと苦情を言おうとしたが、廊下を見ても人気がなくしんと静まり返っていて、どこか恐怖すら感じる静寂に怖気付き部屋に戻ったのだった。
それでも腹は立つもので、赤い天鵞絨のソファに深く腰をかけ貧乏ゆすりを続けている。
「お待たせいたしました、こちらへどうぞ」
気配の一つも、物音の一つもなく突然声をかけられ子爵は思わず肩が跳ねた。
見ればいつのまにか開いていた扉の前に顔をベールで覆った侍女が立っている。子爵が驚きで何も言えずにいると侍女はそのまま扉を出て歩いて行ってしまい、慌てて追いかける羽目になった。
「随分と待たされたが、どうなっている」
「失礼しました、色々と準備がございまして」
文句を言うが返ってきたのは抑揚の少ない声で、どこか気味が悪かった。
「準備とは」
「ええ、なにぶん突然のことでございましたので」
「なんでこんなに人がおらぬのだ」
「ええ、なにぶん突然のことでございましたので」
何を聞いても何の答えにもなっていない同じ答えしか返ってこず、子爵はそのうち黙ってしまった。二人は静まり返った廊下を淡々と行く。
永遠のような時間をかけたどり着いたのは玉座の間だった。
扉の前まで来ると侍女は横にずれ、何も言わず頭を下げるばかりだ。暫くして開けて入れということかと察した子爵が重い扉を開けると、その中は大勢の人で溢れていた。
着飾った貴族連中が眩い照明の下突然開いた扉を、子爵を見つめ、その姿を認めたと思ったら海を割るように玉座までの道が開ける。
この者達を一人残らず従え好き勝手にできると思うと興奮に胸が高鳴ったが、それも一瞬の事。開けた道の先の玉座に座る影を見るまでだった。
「な、なんで、死んだはずだろう!」
玉座に座っていたのは黒い髪に射るような金の目の男、谷底に突き落としたはずの魔王だった。
「何を言っている?私はこの通りだが?」
「汚らわしい小娘を追って谷に落ちただろう!どうして生きている!」
汚らわしい、の一言に魔王の目が鋭くなった。空気が凍る。部屋に満ちていた音楽もぴたりと止まって、時間すら切り取られてしまったかのようだった。
が、それは一瞬で穏やかなものに変わり、奏でられている音楽も休符を越えまた美しい調べを歌い出す。
「夢でも見ておられたか?そうだ、今日は幸福の君のお披露目でな、子爵もその姿を見ていくといい。幸福が授けられる事だろう」
子爵が青い顔で玉座を見つめていると、傍から真っ白なドレスの上と真っ白なローブで身を包んだ娘が出てきた。
真っ白な髪も相まって人間離れしたその姿に、子爵は今度こそ立っていられずへたり込んでしまう。
「彼女が幸福の君、リリシア・カテリン嬢だ」
魔王の一言にそれまで静まり返っていた人々が歓声を上げる。
その歓声に優雅に微笑んでみせるのは、確かに、確かに谷底に落としたあの汚らわしい人間の小娘だった。
「なんで……どうして……」
愕然とする子爵を無視して魔王は口を開く。
「先刻、彼女は悪漢に襲われてしまい、彼女を庇った私は無様にも傷を負った。その程度の相手に遅れを取った私など捨て置けばいいものを、彼女は慈悲をもって助けて下さった。その恩に報いるべく、私は生涯彼女に忠誠を誓うとここに宣言する」
魔王の凜とした声に一際大きな歓声が響く。
あの人間はレベルも低く特殊能力もなく魔法の一つも使えないと聞いていた。傷を負った魔王を救えるような力などないはずだ。嘘だ。出鱈目に決まっている。
「そして、主犯はヒペグリフ子爵という話だが、どういうことか」
周りの目が一斉にこちらを向いた。
「な、なんのことでしょう。私を陥れようとする者の仕業かと」
乾いた喉から捻り出した声は掠れ震えていた。
「それがお前の答えか」
そう魔王が地を這うような声で言うが早いか人波を縫って騎士団員達が子爵を取り囲んだ。
子爵は何か叫びながら逃げようとするが、赤子の手を捻るように容易く拘束されてしまう。
そんな中聞こえてきたのは、それこそ嘘であってほしいと願う言葉だった。
「素直に罪を認め謝罪の一つでもしていれば一瞬であの世に送ってやったものを。そいつを監獄島に流せ」
聞き間違いかと顔を上げると、目の前には真っ白な娘が目を吊り上げて立っていた。娘はその細腕を振りかぶる。
「悔い改めよ!!!」
ばちん、と頬に衝撃が走り、更に何かが無くなった感覚があった。その感覚は一瞬で消えてしまったためなんだかわからなかったし、小娘に頬を打たれた屈辱の方が大きかったのですぐに忘れてしまう。
怒りと屈辱で子爵はリリシアに掴みかかろうとしたが拘束されていて叶わず、連行されながら「お前のせいで」と叫び続けるのが関の山だった。
……一切の良運が子爵から取り払われたのだが、彼にはもうそれを知る術はない。