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26.私にしかできない事

月の綺麗な夜だった。

ただ、私には夜空を見上げるだけの気力が残されていなかったからそれを知ることはなかったけど。


こつりこつりと、成人女性の足音にしては随分とゆっくり道を叩く音が響く。

ずしりと肩に食い込む鞄を抱え直しながら、私は重い体を引き摺るように人気のない夜道をひとりきりで歩いていた。


先日、同僚の一人が急に退職届を上司に叩きつけ、そこから有給を取り続けているので私が彼女の仕事の引き継ぎ資料を作らなければならなくなり、連日終電の日々が続いているのだ。

他の同僚は私をかわいそうなものを見るように遠巻きに見るだけで手伝ってくれようとはしないので過剰労働は避けられなかった。今慌てて求人を出してはいるらしいが、人が入ってくるのはまだまだ先だろう。「今だけ!今だけだから!」と上司は言うが、今っていつまでの事を言うのだろう。そんなことを言って、彼女の仕事を引き継ぐのは私になってしまうんじゃないか。そんなことになったら死んでしまう。


(まあ、残業代が出るのは救いだなあ……)


残業代を働かない頭で計算してその額にへらりと笑っていると、すれ違った若い男がおばけでも見たような顔をした。失礼な。

まあ、こんな夜更けにへろへろよろよろのコンシーラーでも隠しきれないクマを目の下に飼っている女がへらへら笑って歩いていたら私もおばけかもと思うかもしれないけど。


駅は同じく疲れた顔のサラリーマンや、飲み会帰りらしい赤ら顔のおじさん、こんな時間に何をしていたのか若い女の子でそれなりに混雑していた。

就職祝いに親から貰った革製のパスケースを改札にタッチし、(お母さん元気かな、今度の連休で帰ろうかな)とぼんやり考え、ホームをとぼとぼと歩く。隅の方の乗車位置で先頭を取り、座れたらいいなあと思いながらスマホを取り出しSNSを眺める。背後から酒に酔ったグループの騒ぎ声が聞こえた。


(やだなあ、場所、変えようかな)


そう思うも、まもなく電車がやって来るというアナウンスが聞こえ、耐えることにする。階段から遠い隅の車両は座れる可能性が少し高いのだ。家の最寄駅までの20分、立ち続けるのはできれば避けたい。


背後はますます賑やかだ。

肩にかけた鞄の持ち手をぎゅっと握り直し、近付いてくる電車のライトを見る。

そして訪れる衝撃、何が起こったのかわからなかった。そして、疲労でよろめく足は踏ん張りがきかなかった。世界はスローモーションのようで、(こういう時って本当にスローモーションになるんだ)と感動し、目を閉じる。


(お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許しください)

(死ぬなら、もうちょっと色々やっておけばよかったなあ。あそこにも行きたかったし、あれも食べたかった)

(……まだ、死にたくないなあ)



そして、萩野由理の人生は唐突に幕を下ろすこととなった。

大きくも小さくもない街に生まれ、なんとなく流されるままに生きて生きて、何かを成せもせず何者になれもせず、世界から押し出されて消えていく、何もない人生。

ああ、生まれ変わったらもう少しマシな人生でありますように。












落ちながら思い出した。

なんだ、前世も人に突き落とされて死んでるのか。今世も同じ死因とか、どれだけ運が悪いんだろう。


足は空を踏み、腕を伸ばせど掴める藁すらなく、重力に従って落ちていく。

喉は張り付いて悲鳴すら出ない。

高所恐怖症だから下をまじまじと見た事はなかったけど、ここから落ちては助からないだろう事は知っている。


私はまた、何もできないまま死んでいくのか。


もうどうにもならないけど、魔王さまをおいていくのはいやだなあとぼんやり思う。



そこで、私の意識は一度途絶えた。












頬に当たるひんやりした感触に目を開ける。


頬に当たっていたのは黒く滑らかな岩のようなもののようだ。岩にしては滑らかすぎるし、岩だとしたら私は今生きてはない。ならばこれは何なのだろう。

もしかしたら私はもう死んでいてここは冥府なのかもしれないが、起き上がってみると微かな体の痛みもあるし、頬をつねってみたら痛かった。


「死んで、ない?」


呟きが谷底で反響する。

上を見上げてみれば細く切り取られた曇り空から白い雪が降ってくる。


あの高さから落ちたら生きてはいないだろうに、私はなぜ今生きているのだろう。そして、この黒い岩は、いったい。



《リリ……怪我はないか……》



か細い声が頭に響く。

そんなはずないだろうと考えないでいたが、私を囲む黒い岩は、いつか触った魔王さまにとてもよく似ていて、似すぎていた。

あちこちにある岩の切れ目から赤黒い液体が静かに流れていることを除いては。


(もしこれが、魔王さまだとしたら。)


考えたくない最悪に嫌な汗が伝う。



「まおう、さま……?」

《ぎりぎりで受け止めたから、衝撃でどこか痛めているかもしれない……すまない》



閉ざされていた目が開き、薄らと金色が見えた。


「魔王さま!なんで、なんで……っ」


立ち上がり駆け出すと微かだと思っていた体の痛みが襲いかかる。痛みを後回しにしてもがくように魔王さまの頭にしがみついた。


《愛するものを守ろうとするのは、当然だろう》


また見栄を張っているのか、幾分しっかりした声が響いた。こんな時までかっこつけなくてもいいのに。どうしてこのひとは。


私なんかのためにこんなになってくれるひとに、私は何ができる。考えても出てこないけど、出てこなくても捻り出せ。

ファンタジーな世界の中、転生者、幸福の君なんてファンタジーな称号が付いているんだから、何かできるはずでしょう。


ぎし、と鈍い音を立てて魔王さまの龍の体が小さく動く。見れば、蝙蝠のような羽は痛々しく歪に形を変えていた。


《しかし、困ったな……この体では飛べない。まあすぐにゴルドフかヘイゼル辺りが気付くから、きっと、すぐ君を迎えに来てくれるさ》

「魔王さまは、どうするんですか……?」

《これだけ血が流れてしまえば……もう長くはないだろうな》


す、と薄く開いていた目が閉じる。苦しげな呼吸が聞こえる。


魔王さまが死んじゃう?私を庇ったせいで?


そう考えたら、血の気が引いた。その反面、それなのに魔王さまが落ち着き払っていたから、頭に血が上った。私の体ながら血の気が引くのか血が上るのかどっちかにしてほしい。


上回ったのは苛立ちの方だった。

私に執着してって言ったばっかりなのに。嬉しそうにしていたくせに。




「死なせて、たまるか!」




私が叫ぶのと同時に、辺りにきらきらとした光の洪水が起きた。

光は私を中心に渦を巻き、温かな風が頬を撫でる。


光が収まった時、私は酷く疲れていた。なんか、体の奥底から何かがごっそり無くなったみたいで思わずその場にへたり込んでしまう。



「リリシア!」



頭の中ではなく、耳を通して魔王さまの声がした。

ゆるゆると顔を上げると、傷ひとつない人の形をした魔王さまが目の前にいた。

よかった、イケメンの顔に傷がついたら世界の損失だもの。あ、でも傷跡が残ってるイケメンもそれはそれで好き。


「君、いったい何を。何の治癒魔法を使ったんだ」

「わかりません……死なせてたまるかって思ったら、出ました」


光の残滓が辺りにふよふよ浮いている。

私が何かしたのは間違いではないんだろう。幸福の君パワーで強力な回復魔法でも出たんだろうか、ありがとう神様の御都合主義。

魔王さまは労わるように私の頭を撫で、おでこに唇を落とした。私は違う意味で死んだ。



「さて、ならば仕返しと洒落込もうか」



頭上を仰ぎ見て魔王さまが言う。


「が、このまま正面突破ではすぐ終わってしまって面白くない。彼らにはより強い絶望を味わってもらわねば」


獲物を前にした肉食獣のような目に、背筋がぞくりとした。

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