17.続フィロジーアからの来客
鯉、故意、虎威、古意、請い、こい、恋。
数少ない友達が今すれ違ったあの殿方が素敵、だとか、婚約者のなんたら様がお手紙をくれた、だとか、頬を染めはにかむように笑っていたことを思い出す。
萩野由理として生きていた時も、クラスの誰それが誰それと付き合ってるらしいとか、職場の誰それが結婚するだとか、そういう話は常に傍にあった。
だけど、それらは私の人生とはいつも関わりのないところにいて。「恋心」なるものは自分には存在しないのだと思ってこれまでずっと生きてきた。
だというのに、その私が恋だと。
まさかの事実に目を背けるように、柔らかなクッションに顔を埋めた。
「リリシア、君のご家族がバルトロジカに来るそうだ」
その日のお茶の席でまず言われたのはその事だった。魔王さまに恋心を抱いているのかもと思ってしまった今、二人きりのお茶会は厳しいものがあったが、話題のおかげで助かった。
確かに先日兄が来た時「また来る」とは言っていたけれど、こんなにすぐだとは。しかも何が目的なのか全員で。私は家族の行動力に感心するばかりだが、魔王さまはそうではないようで、何となく暗い表情をしている。
「……君の父上が君を迎えに来るのかもしれないな」
私の視線に気付いた魔王さまが、少し言いにくそうに暗い表情の理由を口にした。帰さない帰したくないと言いながら、魔王さまはいざとなるといつもこうだ。魔族を統べる魔王さまであるというのになぜ私に関してはこう変に自信がなくなることがあるのか。そんな事されると思い上がるのでやめて頂きたい。
「魔王さまは、私の父が私を返せと言えば応じるということですか?私、帰ってもいいんですか?」
「かっ帰らないと言ってくれたではないか!」
むしゃくしゃしたので試すような事を言えば、慌ててそう返ってくる。なんだ覚えてるんじゃないか、ていうかやっぱり帰したくないんじゃないかとにやけそうになるが、表情筋が死んでいたお陰で真顔で通せた。
「ええ、誰が何と言おうとまだ私は帰りません。だってまだ何もしてませんもの」
何でもない風を装ってそう言うと、魔王さまは私から見てわかるほどあからさまにほっとした様子で、「そうか」と呟いた。その緩んだ表情にきゅんとしてしまったのはお茶を飲むことで無理矢理隠した。
家族がバルトロジカ王国にやってくる日はすぐに訪れた。兄が一人で来た時も思ったが、そんなに簡単に関所の通行許可とはもらえるものなのだろうか。
魔王さまと魔王城の前まで出迎えに行くと、馬の蹄と馬車の車輪が石畳を踏む音がして思わずそわそわとしてしまう。前髪を直してみたりドレスの裾を気にしたりしていたら傍の魔王さまに笑われてしまった。
到着した馬車を運転するのは見知ったカテリン家の従者の一人だったし、その扉を開けて出てくる面々の懐かしさに涙が出そうになる。
「リリシア!」
「父さま!」
少し白髪が増えたような気のする父と抱き合う。鼻をすする父に大袈裟なと苦笑すれば、その父の背後からは母や姉妹たちが顔を覗かせ笑顔を見せてくれた。
母は私と同じ藤色の目を細めて髪を優しく梳いてくれる。
「リリシア、元気そうでよかった」
「母さまは少し痩せました?心配かけてごめんなさい」
「突然の事だったもの、リリが謝る事じゃないわ。でも、本当に、生きててくれて良かった」
どこか噛みしめるようにそう言う母に、帰郷を拒んだ事をほんの少し後悔した。
「ようこそバルトロジカ王国へ、私がこの国を治めるジークハルト・シュテルフ・リントヴァルドと申します。バルトロジカの風は冷たい、話はどうぞ中で」
凛と響く声でカテリン家再会シーンに割って入ったのは魔王さまだった。すっと細められた金の目が光り、私はなんだかその存在感に圧倒されてしまった。
応接室の臙脂の布張りのソファに腰掛けると、魔王さまは口を開く前に深く頭を下げた。
「こちらの勝手でリリシア嬢をあなた方家族から奪ってしまった事、平穏を壊した事、大変申し訳なく思う」
動揺する私と私の家族を前に魔王さまは言葉を続ける。
「リリシア嬢は我が国の大切な幸福の君。到底許せる事ではないだろうがお返しする事が出来ない事をここに謝罪致します」
「……私としては、リリシアが生きてくれていただけでそれ以上の幸福はないと思っています。それに、そこのオルダシスからリリシアはこちらでやりたい事があるから帰らないと自分で言ったとも聞いている。この娘がそんな事を言ったのは初めてのこと、……きっとこちらで大事にして頂いたのでしょう」
父はそう言って、魔王さまにどうか頭を上げてくれるよう頼んだ。そうしてやっと顔を上げた魔王さまだったけど、父の顔を見てまた深く頭を下げる。
「父君の寛大な御心に感謝を。リリシア嬢の身は私が身命を尽くし守る事を誓います」
そう、なんだかプロポーズじみた言葉とともに緩やかに頭を上げられた魔王さまの瞳は強い光を湛えていた。
映画のワンシーンかなにかのようで、なんとも胸がいっぱいになってしまって声が出せなかった私に、姉フランシアの声が響く。
「魔王陛下、リリシアをお嫁に迎え入れて頂けると言うのは本当ですか?」
姉はそれはもう、ものすごく真剣に、そう口にしていた。
父と魔王さまは握手を交わしていた手もそのままに二人揃って目を丸くしている。私はそこの窓を破ってこの場から消えて無くなりたかった。
魔王さまは二、三瞬きをしてから真っ赤になっているであろう私をじっと見つめる。
「それは、父君とリリシア嬢の許しが得られれば、すぐにでも」
本当に窓を破って外に飛び出してやろうかと思った。
それは、イケメンがこちらをじっと見つめてふわっと柔らかに笑って言っていい台詞ではない。心臓があまりにもうるさいし、酸欠にでもなったように苦しい。
人生初の恋心を突きつけられている私にはあまりに攻撃力が高すぎる。
ちなみに父にはまた別の攻撃力が高すぎたようで、父はなんだか青ざめて口をぱくぱくさせていた。
母と姉妹は場違いに黄色い声を上げる。
「ああ、よかった!これで安心できます。妹は少し内気で、でもそこが可愛いところでもあるんです。色々と不遇な子でしたが、本当にいい子で、どうぞよろしくお願い申し上げます」
「リリ姉さまは思慮深くて、みんな気が付かないけどとっても愛情深くて賢くて優しい自慢の姉さまなんです!魔王兄さま、絶対幸せにしてくださいませね!」
「リリシアは私の綿菓子ちゃんなんです。生まれつきのせいで可哀想な目にもたくさん合わせてしまったから、これからはその分も幸せになってもらいたいのです。魔王様、どうぞ娘をよろしくお願いします」
三人からそれぞれ懇願された魔王さまは、あれやこれやと言い募られても困惑の色を少しも見せず「勿論」と微笑んでいた。
なんだか外堀を埋められている気がして、焦って最後の砦、家長の父を見ると父は思いつめたような表情をしていた。
「魔王陛下、リリシアをどうぞよろしくお願い致します」
と、ぐっと拳を握りながらも魔王さまに頭を下げていた。
実質、私の魔王さまへの嫁入りが確定した瞬間である。嫁入り?結婚?私が?誰と?魔王さまと?
前世も含めてはじめて恋心を抱いたばかりだというのに、いくらなんでも刺激が強すぎるのではなかろうか。
もう少しお手柔らかにお願いしたい。
パニックに陥る私を、家族全員と魔王さまが注目する。
どうする、私。
「じ、時間をください!」
私が口に出せたのはその叫びひとつだけであった。