15.第三閉架図書
今日は薄曇りの日が多いこの国では珍しく、雲ひとつない晴天だった。
冬の足音がずいぶん近くに感じられるので気温は低そうだが、陽の当たる窓際で本を読んだりしたら気持ちがいいだろう。
……しかし、私は今、青空も陽の光の一筋も見えない薄暗い地下室にいた。
魔王城地下の図書室……のさらにさらに地下、図書室第三閉架書庫。そこにひとり、小さなランプを持たされお使いにきているのだ。
30分ほど前、私は図書室の長机の隅っこで一人本のページを撫でていた。ページを手繰るでも文字を追うでもなく、ただただページの隅を撫で続けていた。
ここ最近、魔王さまに「可愛い」などと血迷ったことを囁かれても、息をするように手を握られても、前ほど怖いと感じなくなったことに悩んでいたのだ。どうせ魔王さまは私の記憶に興味があるだけ、そうわかっているのについ間に受けてうっかりどきっとしてしまう自分がなんなのか、わからなかった。
どうにも考えがまとまらないのでこういう時は趣味に没頭するに限る、と図書室で読書に勤しもうと思ってやってきたのだけれど、それもなぜだかうまくいかない。
文章が全く頭に入ってこなくて次のページに移れず、捲られるのを今か今かと待つページを宥めることしかできなかった。
そんなことをしていたら、一向に物語が進まない様子を見かねた司書さんが、「暇ならお使い頼んでいいかしら?」と仕事を振ってきた。
仕事内容は第三閉架書庫に本を取りに行くこと。司書さんの書いたメモも地図もある、子供のおつかいレベルの簡単なお仕事だ。
足を動かせば少しは気がまぎれるかもと二つ返事で了承したのだった。
「まさか、その仕事がこんなところでやるなんて……」
小さな呟きが、大量の本と暗闇に吸い込まれていく。
一応ランプは等間隔に吊るされているが、圧倒的光量不足により余計に暗闇が強調されていた。
端的に言えば、これなんてホラー映画の舞台?という薄気味悪さを演出していて、私の足は生まれたての子鹿だった。
前世からずっとホラーは苦手なのだ。
いつの間にか子鹿に転生した足を必死で動かして本棚の間を縫っていく。
本棚に記されている番号と司書さんがくれたメモ以外を極力見ないように進むと、そう時間はかからず目当ての本を見つけることができた。
できたが、ひとつ問題も生まれた。
「と、届かない…!」
低身長の運命である。
どんなに手を伸ばしても、飛び跳ねてみても、あと少しのところで届かない。
この薄暗い本棚の森をまた行って戻るのはものすごくやりたくないが、どんなに願っても背は伸びないのだからしょうがない。
戻って何か踏み台を探そう、でももう一度だけチャレンジしておこう、と諦め悪く手を伸ばした時。
何か黒い大きなものが背後から覆いかぶさってきた。
「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
自分にこんな肺活量があるなんて知らなかった。こんな絹を裂くような声がでることも知らなかった。人生最大の叫びだった。
突然現れたこの黒いのはなんだろうと考えを巡らせるが、パニックに陥った私の頭は間違いない、この後ろのはおばけだ!という答えを出した。閉架書庫に住んでて迷い込んだ人間を頭からゴリっと食べちゃうやつに決まってる。
誰か助けて誰でもいいから助けて、そう思ったのに、私の口はその思いとは反対に一人を名指しで呼んでいた。
「やだやだ助けて魔王さま!!」
この世界におばけがいるかどうかなんてことはさておき、手足を振り回してなんとか逃げようとした。
しかし、逃げようとした手を掴まれて、「あ、終わった」と思った瞬間、さっき助けを求めてしまった気のする人物の声が飛び込んでくる。
「リリシア!私だ!落ち着いてくれ」
ん?
背後から聞こえてきたのはおばけの呻き声ではなく、焦りを含んだ魔王さまの声だった。
そーっと振り返ると確かに真っ黒ではあるけどいつもの上から下まで真っ黒な衣装の魔王さまその人で、私の脳みそは活動をストップさせた。
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだ」
待って、私はさっき、誰に助けを求めた?
「いじらしく腕を伸ばしてるのが見えて、取ってやろうと思っただけなんだが……すまない、にやけるのが抑えられない」
迂闊にも魔王さまに助けを求めなかったか?
「そうか……私もリリシアに助けを求められる程になったのだな」
緩む顔を手で隠そうとする魔王さまをどうこう言えないくらい、顔が熱かった。
「げ、幻聴です……」
「いや、確かに聞いた」
そう強く言い切られて、私はどうやら逃げられないということを悟った。
これならおばけの方がいくらかマシであったかもしれない。いやごめんなさいやっぱりおばけは無理。
「そ、んなことより!なぜ魔王さまがこんなところに?」
せめて話は逸らしてやろうと思ってそう問いかけた。
「本を司書に頼んだのだが、忙しいから自分で行けと言われてしまってな。傍目に全くそうは見えなかったので少しばかり火炙りにしてやろうかと思ったが……司書様様であったな」
そう言いながら魔王さまは私の頬を撫でた。
本棚に張り付いていた私の背後から本を取ろうとしていたので最初からだいぶ距離は近かったが、じわじわと距離を詰められる。
「あの、魔王さま、近いです」
「はあ、こんな埃臭い場所ですらリリシアの可憐さは全く色褪せないな」
「目の錯覚です普通に埃にまみれた薄汚い女です」
「その謙虚さもまた愛おしい」
「そんなこと言ってもこの国にさらなる繁栄をもたらしそうな知識はあいにくお出しできませんで」
そんなに近付いたら逆に見にくくないか?とすら思う距離で見つめられて、目を開けてられなくてぎゅっと目を閉じる。目を閉じたら魔王さまの動向が一切わからなくなって自分の首を絞めたが一度閉じた瞼を開ける度胸がない。
「疑り深い事もまた美徳だ。この際だから存分に疑っておくといいさ、でもちゃんと後で私に落ちてくるんだよ」
「そういう予定は今のところありません……!」
「今のところ、な。」
ヒィ。耳元で言うのは勘弁して欲しかった。これ見よがしに体が跳ねてしまって、見てなくても魔王さまがにやりと笑ったのが感じられる。
限界を超えた恥ずかしさにいっそ失神したかったが、そんなことで失神してくれるほど私の体はヤワではなく、耐えるしかなかった。
「リリシアが取ろうとしていたのはこの本でいいのかな?」
かと思えば、無駄な色気のかけらもないけろっとした声が降ってきた。
ようやっと目を開けると、一冊の本が差し出されている。タイトルを見るに確かに私が取ろうとしていた本だ。
魔王さまはさっきまでの密着具合がなんだったのか、適切な距離を置いて微笑んでいる。
これはもしかしなくてもまたからかわれたのではないか。遺憾の意だ。
しかしお礼は言わねばならない。
「あ、りがとう、ございます……」
「リリシアのおつかいは他にもあるのか?」
「いえ、これだけです」
「そうか、じゃあ戻ろうか」
そう言って踵を返し魔王さまはさっさと歩いて行ってしまう。こんな洋館ホラーの舞台みたいなところで置いていかれるなんてたまったものではないので慌てて追いかけた。
そのまま何もなく図書室まで来ると、カウンターの中で司書さんがなんだかにやにやしているのが見えた。もしかしなくても謀られた気がする。
頼まれていた本を手渡すと「ご苦労様」とドレスについた埃を払ってくれた。その時、微笑むと言うには少し下心がありすぎる笑みで耳打ちしてきた。
「せっかくふたりきりにしてあげたんだからもっとゆっくりしてくれば良かったのに」
と。美少女に耳元で囁かれるのはご褒美でしかないが、内容がとんでもない。
何を勘違いしているのか。魔王さまは私の知識のためとあとからかうと面白いからっていう理由で私を口説いているのだし、私だって嫌悪感が薄まってきた?ような?気がする?だけで断じてそういう気持ちはない、はずである。
そう小声で説くも、司書さんはにやにやするだけであった。
司書さんの視線に耐えられず挨拶もそこそこに部屋へ帰ろうと階段を上がろうとした時、自分で思うよりずっと司書さんの言葉に動揺していた私は見事に足を踏み外した。
幸いにもまだ数段しか上っていなかったのでたいした怪我はしないだろう良かったねと頭の冷静な部分が言う。
が、私を受け止めたのは硬い石の階段や床ではなく、硬くはあるが柔らかくもありついでにいい匂いのする魔王さまの腕だった。
「大丈夫かリリシア!怪我は?どこも痛くないか?」
「へぁ、は、はい……大丈夫です……」
「そうか、よかった……」
お願いだからそんな心からほっとした顔しないでほしかった。
今日はずいぶん少女漫画展開が起きるなあと人ごとのように思う自分と、肩を抱く魔王さまの腕とその瞳に不覚にもどきどきしてしまう自分がいて、なんだかもうよくわからなかった。
こんなこと生きてきて初めてだから、どうしていいかわからない。
「足をくじいているかもしれんな、掴まっていなさい」
抱きとめられた状態から体がふわりと宙に浮く。いわゆるお姫様抱っこだ。本当に今日は少女漫画展開が多すぎる。
階段を上り廊下を行くと、城内の人通りも多くなって、ものすごく注目された。憐れみすら感じる視線が刺さって痛い。
「大丈夫です!大丈夫ですから降ろしてえ!皆さん見てます!」
「私の部屋に連れ込まれたくなければしっかり掴まって黙っていなさい」
即黙った。
そんな余計なイベントまで起こってほしくない。イベントは一日一つまでにしてほしい。心臓と脳みそがもたない。
騒がしかった私の黙りようがツボに入ったらしく魔王さまが笑ってぷるぷる震えるから余計に強くしがみつかなくてはいけなくなって困る。
もういっそのこと例え嘘でもこんなイケメンに口説かれお姫様抱っこをされてるなんてラッキーだと現状を楽しんでしまった方が勝ちなのではとすら思える。が、レベルが低すぎて楽しみ方がわからないのでその案は却下した。
結局私は白目を剥いたままお姫様抱っこで医務室まで連れて行かれたし、ついでに自室にもお姫様抱っこで抱かれて行ったのであった。