14.家には帰らない
「私は、バルトロジカに残ります」
隣で兄が息を飲む気配を感じる。
目の前の魔王さまは困惑と驚愕の混ざった顔をしていた。
奥でセリだけがぱっと嬉しそうに笑っている。
この選択が正しいものかはわからない。もしかしたらバッドエンド直行かもしれない。でも、それでもいいと思った。
もう何度も死の覚悟を決めている私に怖いものなどない!
「リリシア!!」
……と思ったけど、前言撤回。隣の兄が血走った目で私の肩をガッと掴んで勢いよく揺さぶりはじめてちょっと選択を後悔した。
「リリシア!リリ!嘘だと言ってくれ!嘘だ!嫌だ!だって、リリが知らない国で一人怖がってると思って、あちこち脅したり色々して頑張って頑張って迎えに来たのに!どうしちゃったんだ!…………もしや、男?」
「あの、兄さま?」
さっきまでのポーカーフェイスっぷりはどこへやら、ついでにこれまでの私の中の兄さま像までぶち壊しながら兄は暴走した。
ふと私を揺さぶる手が止まったと思ったら、涙やら何やらでぐちゃぐちゃの顔をそのままに真顔で私の目を覗き込んでくる。
正直、めちゃくちゃ怖かった。
不意にきょろきょろと周りを見渡して、兄の目はぴたりと魔王さまを捉えた。
「そうか……魔王の名は伊達ではないと、そういうことか……」
「お、落ち着いて兄さま」
「よくも僕の可愛いリリを身も心も拐かしてくれたな!すでにあんなことやこんなことしてるんだろう僕の可愛いリリに!絶対に許さない!!」
お願いだから誰か彼を止めてほしい。我が兄ながら何を言っているんだろうこの人。こんな身近にも宇宙人がいたとは驚きである。
こんな驚きはいらなかった。
魔王さまも突然こんな事をまくしたてられてどう反応すべきか迷っているようで。後ろで控えていた近衛騎士さん達の方が早く現実に戻ってきていて「魔王陛下に何という物言い!」と怒っていた。
ちなみにセリはめっちゃ笑ってた。
「いや、嫁入り前の娘に手は出せないので手を繋ぐ以上はしていないのだが」
やっと口を開いた魔王さまだったけど、今言うべきはそれではないと思うの。
「あ、そうなんですか……?それは……セーフですね……」
オル兄さまも、今言うべきはそれではないと思う。
まあ、そんなこんなで、やっと落ち着いて話せるような空気になったので私は自分の考えを兄に話した。
兄は、私の話をじっと聞いてくれて、「リリシアの気持ちはわかった」と頷いてくれた。
「どうしても、一緒に帰らないのかい?」
「はい、ごめんなさい……」
「リリを連れて帰らないと私の立場が危なくなると言っても?」
「えっ!そ、そうなんですか!?」
そうか、国を背負ってきてるわけだから成果がないとやばい…!?
弱小貴族のうちでは王立研究所の研究員の兄の立場はかなり大事なはず…!
そんな兄に何かあったらどうしよう!
そう顔を青くしていると、兄は「なんてね」とくすくす笑った。
「ごり押しして無理矢理来てるからね、今回の訪問で私に何かあっても国は個人が勝手にやったこととする予定だったし、まあ大丈夫だよ」
「それは、よかったと言っていいんでしょうか……」
「まあ一度来て帰った実績を作ったんだ、上々だよ。まあ……帰り道で魔族に襲われて川に叩き落されるとかはあるかもしれないし、フィロジーア側で秘密裏に叩き落されて戦争の火種にされるかもしれないけどね」
へらへら笑いながらそう言うけど、それは笑って言う話ではないと思う。
自分で思うより暗い顔をしていたのか、魔王さまが慌てたように兄の言葉を否定した。
「こちらが貴殿に何かする事は無い。先代魔王の時代より無益な殺生はしない方針だ。百年に一度を越えてフィロジーアに手を出す益は今のところないのでね」
「それはいい事を聞きました。私に何かあれば多分第一王子があらゆる手を使ってリリシアを取り戻しにくると思うので、まあ何もして頂かないのが得策ですね」
そんな方針があったんだよかったと胸を撫で下ろして、引っかかった。
ん?なぜ第一王子が私を?
どういう事かと兄を見る。
「なにせ第一王子の初恋の相手はリリシアだからね、今回も相当来たがっていたのを……」
「待って!!」
「あ、リリシアは知らなかったか」
「なにそれどこ情報なのだって私第一王子さまなんて会ったことない!」
「あるよ、3歳の時にね」
「覚えて!ない!!」
とんでもない爆弾が投下された。まったく身に覚えがない。あわあわと混乱している私を兄はにこにこと見ているし、視界の端の魔王さまは怖いくらい無表情で押し黙っていて場の空気はめちゃくちゃだ。
そんなめちゃくちゃな空気の中で、兄だけは何も感じてない様子で話を続けていた。
「王子は私の学友でね、あんまりリリの話ばかりするから見てみたいって言うから会わせたことがあるんだ。どうだい?金も権力もあるしまあ顔もそれなりに性格もいい奴だよ。リリが望めば次期王妃も夢じゃないよ」
兄は笑顔で良かったね玉の輿だよと言っているが、
いやいやいや、何言ってるの!?
爆弾を落とされすぎて最早何も言えず口をぱくぱくさせるばかりだった私を無視して、なぜか兄は王子様のプレゼンをはじめていた。
その時、これまで黙っていた魔王さまが妙に真剣な面持ちで口を開き。
「兄上、私も立候補できるだろうか。」
「魔王さま!?!?」
「金と権力なら幸い魔王なので問題なかろう。顔と性格の判断はリリシア嬢に任せることになるが」
さっきまでの殺気漂う話し合いに匹敵するような声色でそう言う魔王さまを、兄は最初へらりと聞いていたが、次第に真剣な表情になった。
「魔族は、一夫多妻制などではありませんか?」
「魔族の中でもそういう種はあるが、私は違う。番となるのは生涯ただ一人だ」
その返答を受けて、兄はしばらく黙って何か考えているようだった。
私を迎えに来た話のはずだったのに、どうして私の結婚の話になっているのだろう。
私は現実から逃げ出してローテーブルの木目を迷路のように辿りながら今日の晩御飯の事を考えることにした。
しばらくして、兄が顔を上げる。
何を馬鹿なことをと一笑してくれるのを期待していたが、運命の女神は私にとても厳しい。
「すみません、一旦持ち帰らせて頂いても?」
可愛い妹を魔族の国に残したくないと、無理をして迎えに来たと、そう言ってくれたはずの兄はどこに行ってしまったのだろう。リリシアは悲しゅうございます。
真剣にこの国にその可愛い妹を嫁入りさせる算段をはじめた兄は、魔王さまともう二言三言なにか話してから「また来るからね」と言い残してすたこらと帰って行った。
走り去る馬車を見送って、嵐のようだったなあとぼんやり思っていると、魔王さまが隣にやってきた。心なしかいつもより距離が遠いのはなぜだろう。
「本当に、帰らなくてよかったのか?最後のチャンスであったかもしれないんだぞ?」
「じゃあ、帰りたいって言ったら帰してくれてたんですか?」
「……君を殺して私も死んだな」
「物騒!!!」
帰らない選択は間違っていなかったらしい。なんというか、私は前世も含めて生まれてこのかたそう思うまでの相手に出会ったことがないからわからないけど、好きって感情は人をここまで狂わせるものなのだろうか。
それならなんて恐ろしい感情だろう。
「前の私は流されるまま生きて何もしないうちに死んじゃったから、今度の人生は流される方向くらいは選んでみたかったんです」
「そうか。……それでも、君が残ると言ってくれた時とても嬉しかった」
その場で君を抱きしめたくなるほどに、そう言って照れたように笑う魔王さまがなんだかすごく可愛く見えた。
「魔王さまも物好きですね」
「そんな物好きに好かれたんだ、そろそろ覚悟を決めてもらおう。最初で最後のチャンスをみすみす逃したんだ、かわいそうだが私に落ちてもらわねば」
いつの間にか私と魔王さまの間の距離がなくなっていた。
腰を抱かれ、顎に指を掛けて魔王さまの顔を強制的に見させられる。
顔の良い男はこれだから怖いのだ。なぜこんな事をさらりとやってのけるのか。
そう感心すると同時に、魔王さまの事が好きとか嫌いとかはともかくとして、めちゃくちゃ恥ずかしいけど別に嫌ではなかった自分に愕然とした。
最初の頃は恥ずかしいとかより怖いとか気持ち悪いとかそういうことを確かに思っていたはずである。私はどうしてしまったのだろう。
固まってしまった私を金の瞳が捕らえる。
「リリシアはなんて可愛いんだろう」
とろりと溶けた目で心底愛おしそうに言われ、真っ白になった私はとりあえず逃走を図ることにした。
「それは!目の錯覚です!!」
と。