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10.逃避


リリシアが走り去ってから、魔王城は酷い騒ぎであった。


酒に酔っていたとはいえ、リリシアの手から本が零れ落ちるまでその気配に気が付かず機密を聞かれてしまったヘイゼルとゴルドフは、2人とも酔いなどとうに忘れ顔を真っ青にし走り回っていた。

そして、一見そうは見えずとも誰よりも顔色が悪く動揺していたのは他でもない魔王陛下であった。



「リリシアは、まだ見つからないのか」

「は、城内にも庭にも居らぬと……夜目の効く者や鼻の効く者が再度見回っておりますが……」

「少女の走れる距離などたかが知れているだろう。早く見つけろ」

「はっ!」


バルトロジカ王国騎士団長にあるまじき顔色で再び走り出したゴルドフと入れ違いに、ヘイゼルが走り出てくる。


「陛下、庭の東側、隠れの森との境界に、これが」


息を切らしながら差し出したのは、リリシアの履いていた靴の片割れであった。


「リリシア様は、隠れの森に入られたと思われます……申し訳ありません、私が気が付かなかったために」


そう頭を地面に擦り付けるように下げるも、魔王はヘイゼルを見もせずリリシアの靴を凝視したまま冷たく告げた。



「言い訳をする暇があるのか」



その重く突き刺すような言葉を残し、魔王は場違いなまでにゆるりと歩き出した。


「陛下……?どちらへ」


ヘイゼルが恐る恐る聞くと、魔王は足を止めることなく


「私が行く。もうお前たちに任せてはおけん」


そう言って、闇の中へ消えて行った。







魔王城は、南側に城下町が広がり、西側の庭園を抜けると大きな川が、東側の庭園を抜けると城から城下町の奥の農園を囲うように暗い森が広がっている。

この森は隠れの森と呼ばれ、昼でも暗く、方向を見失い易く、夜には魔族の者でも近寄らない、一度入ったら二度と戻れぬ死の森と噂される場所であった。


そんな森の中、リリシアは膝を抱えて座っていた。どこで落としたのか靴はなく、そのまま走ってきたので足の裏には血が滲んでいるし、木の根やぬかるみに足を取られ転んだせいでどこもかしこも泥だらけだった。


こんな森の中、きっとこのままここにいたら死んでしまうだろうなと思ったが、指一本動かすのも億劫なほど疲れ切っていたし、無我夢中で走ってきたために帰り道もわからなかった。もう、緩やかに訪れる死の冷たさを味わうしかできることがない。




誰かが、見つけてくれなければ。

「まさか、私なんて、誰も」




魔王から問われるたび、「何もない」と答え続けたのだ。きっとリリシアから得られるものは何もないと気付きはじめていただろう。

何の益ももたらさない小娘を捨てる絶好の機会がやってきたのだ、魔王がこれに乗らないはずがない。


だから、誰も助けにはこない。



「お父様、お母様、先立つ不孝をどうかお許しください。リリシアは、カテリンのお家に生まれて幸せでした」


できれば、両親にも、兄妹にも、セーラにも、一目でいいからもう一度会いたかったな。



リリシアはざわざわと囁く木々の音を聞きながら、寒さに震える体を抱いて瞼を閉じた。









魔王は焦っていた。

リリシアがいなくなったと報告を受けてからもう数時間が経っている。

あのような小さな体でこの夜の寒さに晒されればどんな障りがあるだろうか。万が一リリシアを喪うようなことがあればと考えると、生まれて初めて胸が押しつぶされる心地がした。

魔王とはいえ隠れの森は平等に感覚を奪っていくが、それよりもリリシアの元へ一刻も早く辿り着かねばという思いが魔王の足を進めさせる。



時間が経っていてもう朧げにしかわからない蜘蛛の糸のようなリリシアの気配を手繰りながら進むと、隠れの森に相応しくない白が目に飛び込んできた。




「リリシア!」




常だって白い肌をさらに青白くさせ、木の根元で横たわっている様は生気を感じさせず、触れる事を一瞬躊躇わせた。

そっと抱き上げると氷のように冷たくなっているが、微かに胸が上下していて、魔王は安堵に息を吐いた。


リリシアの小さな体をマントで包み込むと、白い睫毛が震える。リリシアの藤の瞳が覗き、その夢を見るように揺らめく瞳は魔王を捉えた。



「まおうさま……?どうして」



か細い声に、リリシアが生きている安堵と不甲斐なさが襲う。



「……こんなところで寝ていては、風邪を引くよ」



こんな時でも本心を押し込め演技じみた事しか言えない自分に嫌気がさした。

リリシアを抱いたまま立ち上がろうとしたところで、リリシアが突然暴れて腕から逃げ出していった。



「リリシア?どうした?」

「だめ、だめです、だって私何もないもの」



もう一度腕の中に捕まえようにも何かに怯えるように逃げてしまう。



「魔王さまは、私の転生前の知識が欲しいんでしょうけど、26歳事務員にそんな知識ないもん。他人の作った技術にタダ乗りしてきた人間だよ。こんな文化レベルの高い国に出せる知識なんてないに決まってるじゃない!私は役立たずなの!いらない人間なの!」



魔王にも、自身にも叩きつけるように叫び、リリシアはぽろぽろと大粒の涙を零し泣きはじめた。



「知識もないし、技術もないし、魔力だって、普通だって!だからもう魔王さまのとこにはいれないの!」



わんわんと泣く姿は、いつもの感情の起伏の薄い冷ややかさとは真逆で。

迷子の子供のような危うさに、魔王はとても逃がしておれずその腕に閉じ込めた。


また逃げ出そうと泣きながら暴れているが、もう逃がしてやるつもりはなかったので余計に力を込めて動きを封じてやった。



「何もなくても、私には必要だ」



腕の中のリリシアが、びくりと震えた。



「確かに、どうせなら惚れさせて扱いやすくした方がいいだろうと過剰に口説こうとしていた。それでも、多少脚色こそすれ嘘を言ったことはないし一目見た時に可愛いと思ったのも本当だ」


「いつも嫌な顔ばかりしていた君が、いつの間にか困ったように頬を染めるようになって胸が温かくなった。ずっと1人でいた君が段々と他の者とも話すようになる様を見て笑顔が増えて良かったと思うのに私以外と接触するのに腹が立つようになった」


「君がうたた寝をしている時に涙を零しながら両親を呼んでいるのを聞いてしまって自分がなんて酷いことをしたのか罪悪感に潰されそうだったのに、それでも手元から逃すのが嫌だった」


「君がきっと何も国の益になる知識を持っていないとわかっていても、国に返してやりたくなかったんだ」



こんな事を言ってしまったら、リリシアはどう思うだろう。リリシアは家族に対する愛情が深く、たびたび帰りたそうにしていたから魔王の我儘ひとつのためにここに留め置かれていたと知ったら嫌われてしまうかもしれない。

そう思っていたから、魔王はリリシアの目を見れず抱きしめたまま心情をひとつひとつ吐き出した。たとえ嫌われても、今言わないといけないと思ったのだ。



一通り言ってしまってから、一度リリシアを閉じ込めていた腕をゆるく解いた。

リリシアが逃げられるように。





「好きだよリリシア、愛してる」





沈黙が訪れる。



しばらくののちに、返事の代わりに、すぅ、と寝息が聞こえる。一世一代の告白のつもりだったのに返答がこれとは、魔王は腹を立てていいのか笑えばいいのかわからなかった。結局口から溢れたのはからからとした笑い声で、魔王はあまりに格好のつかない告白を一通り笑い飛ばすことにした。



「まあ、手中に落ちてきてくれるまで何度だって言うからいいか。可哀想だが可愛いリリシア、覚悟をしておいてくれ」



そして魔王はリリシアの眠りを妨げないよう優しく抱え直すと、出来るだけ静かに普段はしまっている蝙蝠じみた大きな羽を広げて空に飛び上がった。


「そういえばこの羽もリリシアには見せた事ないな……怖がられないといいのだが」


普段はなにかと便利なので人型になっているが、魔王の本当の姿は人とはかけ離れた姿であった。

怖がられてこその魔王だろうに、人間の娘に怖がられたくないという発想をした自分を魔王はまたひとつ笑い、腕の中で眠るリリシアをそれは愛おしそうに見つめたのだった。


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