1.シドニーにて
シドニーの冬は寒かった。
この季節の気温は15度前後と聞いていたので下はチノパン、上はTシャツの上にパーカーというなんとも単純な格好だったが、それが甘かった。というより私の、赤塚真穂の記者としての海外出張の少なさが裏目に出たのかもしれない。
海風が碁盤の目状となっている街に吹き込み、どんどん体温を奪っていく。
空港からシドニーの中心、マーティンプレイス地区にタクシーで向かい、ついた途端に目に付いた服屋に飛び込んでカーキー色の外套を購入。早速それに身を包んだ。
路上販売のコーヒーとハムクロワッサンを朝食にし、近くのベンチに腰をかける。周りを見ると禁煙区域というわけではなさそうだったので、カバンから電子タバコを取り出して一服した。
時計に目をやると9時50分。
約束は11時にセントメアリーズ大聖堂前なのでまだまだ余裕はある。
資料をもう一度読み返そうと思ったが流石に街中で3日前に起こった傷害事件の資料を広げるのもどうかと思ったし、最近盗難や薬物関係の事件も増えているらしいので、先にホテルのチェックインを済ませることにした。
しかし、それがなんとも難で、オーストラリア英語は聞き辛いとは聞いていたが、ここまでとは思っていなかった。ただのチェックインに20分も取られたせいで、部屋には荷物を置いただけ。資料は大聖堂に向かいながら確認することにした。
3日前の夜、シドニー郊外の運動公園で日本人女性が腹部を刺された状態で発見された。
女性は重症だったが、その傷は死に至るものではなく、警察は病院で治療し、状態に応じて院内で事情聴取という形になった。
が、しかし女性自身英語が話せないため話はまるで進まなかった。昨日、警察は今後回復次第、再び事情聴取をするとのことで病院からは一時引き上げとすると発表した。
女性が発見された運動公園の位置は、シドニーから北東の位置にある。しかし運動公園の入口から発見現場まで女性自身が引きずられたような血痕が残っており、警察は犯人が別の場所で女性を刺し、公園まで運んだのではないかとして、そちらの方を中心に捜査を進めている。
ここまで確認して視線を上げると、ちょうど目の前に大きな時計台があった。
背高い木々に囲まれて、摩天楼から差し込む光がその異質な空間だけを照らしている。
思わず感嘆の声が漏れる。
「こんくらい、どうって事ねえよ」
と、その時背後から声をかけられた。
振り向くといたのは待ち合わせの相手、加賀勝だった。
「どうもお久しぶりです」
そう会釈すると、加賀は頭を掻きむしってため息をついた。
「元タッグの関係だろ?そう畏まるな」
「どちらにしても年下なことは変わりありません。敬語を使うことは変わりませんよ」
「さいでっか」
数秒の両者の沈黙後、口を開いたのは加賀の方だった。
「資料は確認済みか?」
「はい。羽田で1回、機内で1回、ここに来るまでに1回。計3回確認しました」
「ご丁寧なことで」
「資料は最低3回確認しろって教えたのは先輩ですよ?」
「はいはい」
そう言って先輩はこめかみを押さえる。
「変わってねえなあ」
「そうですか?先輩こそあんまり変わってないですよ」
すると先輩は大きくため息をついた。吐く息が白さがこの街の寒さを感じさせる。
「もう先輩って言うのやめろよ。部活じゃねえんだから」
「じゃあなんて言えばいいんですか?」
「加賀さんとか、勝さんとか」
「加賀さんはまだしも、勝さんなんて嫌ですよ。彼女じゃないんですから」
先輩は再び大きなため息をついて、じゃあ先輩でいいよ、といやいやながらそういった。
この他愛のない会話が懐かしい。もう一年半も前のことだ。こんな会話をしたのは。
うちみたいな小さな会社に、まずオーストラリア支部なんてものが存在すること自体知らなかった。先輩から真夜中、メールで来週からオーストラリアに行くことになった、ときた時には旅行だと思ってた具合だ。土日明けて月曜、会社に行ったら先輩の机上が綺麗になっていたことには驚いた。
そして、あのことが関係して飛ばされたこと自体にも驚いた。
急に海風が強まり、私の髪を乱れさせる。
弱まったところで先輩が、行くぞ、と言って歩き出す。私はそれを追いかけるように髪を手ぐしで直しながら早足でついて行く。
「どこに行くんですか」
「被害者とアポが取れてる。半からだ」
そして、先輩はジャンパーのポケット綺麗に折りたたまれた紙切れを取り出す。
「場所はイーストシドニープライベート病院。決して大きい病院じゃねえが、設備がかなり整ってるらしい」
先輩の顔が、先程までの雑談の時とは打って変わって、仕事の顔に変わる。
肩幅の広く筋肉質な体と角張ったその横顔は一年半前と相変わらないが、こうやって見てみるとどこか、どこか口に表せないようなわずかな変化を感じずにはいられなかった。
そんなことを考えながら歩いていると、気づけばそれらしき建物が目の前にあった。
壁は絵の具で塗ったかのようにどこまでも白く、窓はひとつひとつ大きく冬の乾燥しきった真っ青の空をどれも写していた。
「行くぞ」
そう言って中に入って、カウンターの人と二言三言話した後、ナースが案内してくれた。
三階の階段を上がってすぐのところだった。
ナースの方が3回ノックをして中に入る。
「Hello,How are you?」
「good,Thank you.How are you?」
どうやら被害者と話をしてるらしい。しかし、やはり英語は無理なのか、
I can’t understand your English、という声が聞こえてきた。
先に踏み出したのはもちろん先輩だった。
軽くナースと会話をし、話をつけたのかナースは部屋から出ていった。
「どうも、今回取材をさせていただきます新海社の加賀と申します」
先輩は名刺を被害者の女性に差し出し、私に目配せをする。
「同じく、新海社の赤塚と申します。本日は取材を承諾していただきありがとうございます」
「いえ大丈夫です」
被害者の女性は30代とも40代とも見える顔だが、この事件の疲れのせいかやや頬がこけていた。
「早速ですが、取材の方に入りたいと思います。お怪我もある事なので15分ほどにしたいと思いますが、よろしいですか?」
「はい」
先輩は確認のため、被害者の基本情報を述べていく。
名前は国枝有菜。1985年生まれ。大阪在住で、来豪目的は観光。ちょうど一週間前に入国しており、昨日には帰国する予定だった。
「では、事件のことをお聞きしたいと思いますがよろしいですか?」
「はい、ですがあまり覚えてないんです」
「答えられる範囲で構いません。まずどこで誰に刺されたかわかりますか?」
国枝さんは数秒、顎に手を当てて思案する。
「刺された場所は初めて行った場所だったので、自分でもよくわかりません。刺した人の顔も暗くてよく分かりませんでした」
先輩は、そうですか、と相槌を打って手帳に走り書きのメモをする。
「国枝さんはどのような状況で刺されたんですか?その初めて行った場所と言いましたが、なぜそんな場所に?」
少し国枝さんは陰鬱な表情になる。
「ごめんなさい。説明不足だったかもしれません。私は刺された日の夜、道に迷っていたんです。そしたらある場所で急に刺されました」
なるほど。話が進まない。これは警察も通訳があっても進まないわけだ。
そこから先輩は何問か質問をするが、光が見える返事は来ず、取材は平行線を辿ったまま20分を過ぎていた。
痺れを切らした私は先輩に、時間、とだけ言うと先輩は頷いてこれにて取材はお開きになった。病室を出ようとしたところ健康調査と英語で書かれた紙がバインダーに挟まってあった。
今日の体重、血圧、脈拍、食欲など記入内容は日本と同様。質問は英語で書いてあるものの、やはり解答は日本語だった。
医師に伝えてほしいこと
最近、便の通りが良くないこと
肩とひぢの傷がなかなか治らないこと
そう言えばこの人は公園まで引きずられたんだっけ。
突然後ろから肩をつつかれて何事と思ってみると、先輩が分が悪そうな顔をしていた。
「なんですか?」
「今何ドルもってる?」
「ホテルにほとんど置いてきちゃって今は20ドルもないです」
このような場である程度のお金の確認をする。つまり謝礼金を忘れていてお金が無いのだろう。
「悪い。ちょっと下でおろしてくるから、話繋いでおいてくれ」
そう言うと先輩は病室を飛び出そうとするが、何か思い出したようにピタリと止まって国枝さんの方に振り向いた。
「今から下行きますけどどうします?クッパでも取ってきましょうか?」
「はい、お願いします」
クッパ?クッパと言えばあのゲームの厳ついキャラしか思いつかない。まあこっちのなにか指す言葉なのだろう。
先輩が病室を出ていってから、私と国枝さん2人になって何を話そうかと思ったが、右腕の大きすぎる包帯が気になったので、それについて聞くことにした。
「その傷、痛くないですか?」
「いいえ、痛いです」
「そうですか」
少しの沈黙。
取材というものはうちの会社ではタッグを組んでやるもので、以前まで組んでいた加賀先輩にも今組んでいる人にも取材の主なやりとりは任せていた。なぜか。単に私が人と話すのが苦手だからである。場が繋げない。気まずい。ふと鞄に先程買ったチョコレートがあったことを思い出した。
「チョコレートって食べれますか?」
「はい食べれます」
では、と言ってカバンから数個チョコレートを取り出して数個差し出す。いくら栄養価が高いといえどひとりの患者に箱ごと置いていくのはなんか違うと思った。食べながら何回か雑談を交わしていると、先輩が戻ってきた。謝礼金を渡して私達は病室をあとにした。
「全然話進みませんでしたね」
「まあな」
そう言って先輩は白光りする甘エビをを口に突っ込む。
取材後、昼時ということで来たのは魚市場。同じく郊外で、ここから被害者が発見された運動公園まで1キロ満たないくらいなので、あとでそこを見に行こうということも兼ねて、この場所を選んだ。
市場の雰囲気は日本とさほど変わらず、業者の人もいれば子連れの家族もいて、平日だと言うのにかなり賑わっていた。私たちはそれぞれの店で昼食なるものを買い、休憩場で食べることにしたのだ。
私はサーモンの刺身をひと切れ、口に運ぶ。
「あ、おいしい」
ついそんな声が漏れてしまった。
「ここの魚は築地と同じくらい新鮮でうまいぞ。あれ?もう豊洲になったのか?」
「先輩、箸で人を刺さないでください。みっともないです。あとまだ築地です。今年の秋か冬に移転するそうです」
「へー」
今度は先輩はエビを3匹殻を向いて、一気に口に運ぶ。
「酒が欲しくなるな」
「先輩、お酒飲まれました?」
「いや、あんま飲まねえけどやっぱ海鮮系は日本酒が飲みたくなる」
「帰ってこれば美味しい日本酒も飲めます」
声音とは、話の流れとは裏腹にその言葉は私にとって真剣なものだった。しかし先輩はそれを真に受けず、ビールはこっちの方が上手いからなと言って、それの代わりかボトルの水を呷るだけだった。
刺身の盛り合わせをペロリと完食し、一服しようと胸ポケットをいじったところで勘繰られたらしい。
「ここは禁煙だぞ。ってかお前タバコ吸ってたのか」
私は一瞬誤魔化そうとするが諦め、首を縦に振った。
「先輩がいなくなってから少し経った頃ですよ。始めは軽めの電子タバコでしたけど、今はカプリ吸ってます」
「体に悪いぞ。あとタバコってのは1本で人の寿命を12分縮めるんだ。自分の快楽のために人の寿命を縮める覚悟があるなら俺の前で吸っても構わんが、ないなら吸うな」
先輩お得意の屁理屈だった。私は苛立ちを覚えながら席をあとにして外の方に向かうことにした。
「Hello how are you?」
ふいに口髭を見事に生やした老人の店員から声をかけられ驚いてしまった。
「I’m fine thank you.and you?」
私がそう言った瞬間、店員は顔を輝かせた。
「おお。あなた日本人!わたしも少しだけ日本に住んでたことあるよ!」
片言の日本語だが、語気は強い。いや、強いという言い方は変かもしれない。勢いがあると言った方が正しいだろう。日本人に会えたことが嬉しかったのだろうか。
「日本人はあまり来られないんですか?」
「はい、ここは市の真ん中から離れてるから。ほんとに会えて嬉しい。ここで買ったら2割引にしとくよ!」
「割引なんて言葉もご存知なんですね」
「はい。スーパーが近いところに住んでましたから」
そこまで言うと、彼の緩んだ顔が瞬間的に引き締まった。それに気づき後ろを見やると、そこに居たのは明らかに柄の悪そうな若い連中だった。
店員は私のときと同じように英語で挨拶すると、真一文字にレジに向かう。途中、私の方に振り向いて、言葉の流れなのか英語のままごゆっくりと言った。
会社へのお土産をいくつか選び、連中が店を出たのを確認できたのでレジに向かった。
「観光ですか?」
英語でそう問われた。最初は頷くつもりだったが、隠すことでもないしここで情報が入るならと思って、いえ取材です、と私も英語で答えた。
「取材といいますと?」
「先日の日本人が刺された事件です」
「それはご苦労様です」
そこで会話は止まったがひとつだけ聞いておきたいことがあった。
「なぜ、私が日本人とわかったのですか?」
老店員は何も不思議ではないようだった。
「How are you?
と聞いて
I'm fine thank you.And you?
と答えるのは日本人だけです。普通は
Good thank you.How are you?
です。この国では少ないですが、アメリカなどでは日本人と見分けて詐欺などをされる人もいるらしいですからあなたも気をつけた方がいいですよ」
それを聞いた瞬間、身体全体に電気が走ったような気がした。そういうことか。ここまでの違和感が全て消化された。
そういうことだったんだ。私は高揚する気持ちを抑えるため深呼吸をし、もうひとつだけ質問することにした。
「この辺に日本風か日本人が経営するマッサージ店、もしくは整体はありますか?」
ホテルに戻って資料の整理、確認などをしていたらすっかり日が暮れてしまっていた。
オーストラリアは夜に出歩いてもとくに物騒なことはないらしいので、迷いなく先輩とその場所に向かうことにした。
「ここです」
海辺の誰の目にもつかないような倉庫の裏。いかにもって感じの場所。先程の市場とは目と鼻の先である。
「先輩って理系と文系どちらでした?」
いきなりの質問だが先輩はなにも気にしないように答える。
「高校も大学も文系だ」
「そうですか。知ってるかもしれませんが、私はこの仕事やってるせいか文系に間違われますが一応名帝大の理学部でした」
私は胸ポケットからライターを取り出してしゃがみこむ。歩きながらライターを付けては消して、つけては消してを繰り返す。
そしてあるところでつけた瞬間燃え方が変わった。あとは多分このへんに市販の漂白剤を垂らせば...。あたりだ。
私は立ち上がって少し呼吸を整える。
「では、この事件の私の考えを述べさせていただきます」
なんだか少し緊張して唇が震える。先輩の前でこんなことをするのが久しぶりだからだろうか。あってる自信があるからだろうか。わからない。けど悪くはない。
「まず、被害者の国枝有菜さんは恐らくこの付近で刺されたと思われます。潮風と漂白剤を合わせれば簡易的なルミノール反応を見ることができます。もう既に見にくくなっていますが、ほらここに」
私は再びしゃがみこんで、反応がでた場所を指さす。漂白剤をかけた場所全てに白く光ってルミノール反応が起きている。おそらくもっと広範囲にやればかなり出てくるだろう。
「なぜ刺されたのか、それは多分薬物が関わってきます。アジア、とくに日本や中国では薬物の規則が厳しい。ですがオーストラリアは大麻、言えばマリファナは暗黙の了解の部分となっています。最安値だと日本円で3000円ほどらしいですけど、お肉みたく、葉や枝の場所によっては高額になる場合もあるそうです。それは先輩もご存知だと思います」
そう言いつつも先輩の顔を確認できない。なにかこわいのだ。私は一目もせず話を続ける。
「麻薬にはカンナビノイドという成分が含まれてます。主に酸素と水素から成るので近くで火をつけると燃え方が激しくなります。それも確認しました。そして国枝さんは日本人ではありません。英語も喋れます。まず日本語下手でしたし、あれくらいならわかりました」
ひとつため息をつく。
「ここからは私の推測です。おそらく国枝さんは薬物の売買に関わっていた。それを漏らしたのか、漏らされたのか、互いに齟齬があったのか国枝さんは密売に関わる人に刺されてしまった。しかし、国枝さんは死には至らなかった。でもこのままこの場所で自分が見つかってしまうと薬物の売買に関わっていたことがバレてしまう。だからこの場所から離れた公園なんかで見つかったんです」
そこで間が空いて話の終わりだと察したのか今度は先輩が口を開いた。
「推測ってここまで推測なのかよ。色々と飛ばしすぎだ。何個か質問がある」
飛ばしすぎという意見に僅かに狼狽するが何事もないように冷静に返答する。
「どーぞ」
「まずなぜ国枝さんは日本人としてここに来たんだ。偽名を使うのはいいが何故日本なんだ」
「これも推測ですが、日本人というのは英語が話せる人の割合も少ないですし薬物の規則も厳しい国です。犯罪に関わるためパスポートを偽装するなら日本って結構有名ですよ」
「2つ目だ。なぜ英語が喋れるってわかった?」
そうだ。私の決定打となったのはここである。
「それはいくつか理由があります。1つは何気ない会話の中で。日本語初心者の人でありがちなんですが『痛くないですか?』と聞いた時あの人は『いいえ、痛いです』と言ったんです。『痛くない』の『ない』を否定と勘違いしたんです。
決め手は英語の挨拶の仕方です。お土産屋のおじいさんに聞きました。
How are you?
と聞かれて
I’m fine thank you and you?
と言うのは日本人だけだって。
ネイティブや英語をちゃんと話せる人はこういうそうです。
Good thank you Hou are you?
ってね。
他にも日本人は英語が無理なことを
I don't speak English
といいますが
I can't understand English
の方が流れ的には良いそうです。
英語が話せると思った理由はこんなです」
先輩はやや呆れ気味に大きくため息をつく。
「じゃあ最後、何故この場所で殺されたって?」
「あれです」
私は迷わず振り返って、遠くの光るマッサージ店の看板を指さした。『ひぢ』
「例えばですが先輩はギターという単語のアクセントの部分。aかeかって言われたらちょっと迷いませんか?」
「確かにちょっと迷うな」
「正解はaですが、ふと目に止まった看板にeでguiterと書いてあったら信じちゃいませんか?」
先輩は無言で頷く。
「それです。国枝さんは問診票にひぢと書いてありました。『じ』と『ぢ』は発音は一緒ですので無理はありませんが、彼女の『ひ』の字が気になったんです。書き方がおかしい。もしかしたらどこかで『ひざ』の反対を見て『ひぢ』になったんじゃないかって。私達は英語の看板があってもあえて読もうとはしません。しかし人は何かの危機的状況になった時記憶力、判断力が一瞬だけ爆発的に上がるというのを以前本で読みました。覚えかけの国の文字の反対を見てそう書けるのはその時に見たからではないかと思ったからです」
私の指さしていた光る看板。2枚構造になっているものの、潮風なりで裏が剥がれ周りのライトで見事に『ひぢ』を映し出していた。
わずかな沈黙のあと先輩は声を上げて笑った。笑いに笑ったあと先輩は私の元に歩み寄り私の頭に手を乗せながらこう言った。
「推測に推測を重ねたものだが、成長したな。赤塚」
涙が出てしまった。先輩がいなくなってしまった悲しみ。記者として仕事をし始めてからずっと隣にいてくれた人が急にいなくなってしまった悲しみ。その悲しみ諸々が全部吹き飛んだような気がした。
「どうしていなくなっちゃったんですか。どうして。どうして。私は先輩とまた一緒に仕事がしたいです。屁理屈も聞きたいです。またラーメン奢ってくださいよ。まだまだ未熟者ですから色々と教えてくださいよ」
先輩は何も答えなかった。ただただ私の頭を撫でていただけ。それだけでも良かった。
泣いて泣いて泣き疲れて、それでもひとつ言わなければならない。
「先輩、この事件全部わかってたくせに」
「あ?ばれてたか?」
「当たり前です」
少し恥じるように先輩は頭を搔く。
「いやぁーこの国はあんまりこういう事件少ないからな。聞いた瞬間、薬が絡んでるってことはわかったよ。あと被害者の名前『国枝有菜』中国とかだと日本の名前で『有菜』って人気なんだよ。だからだいたい分かってた」
「クッパっていうのは?」
「あれはオーストラリアの言葉で1杯の水とかペットボトルの水とか飲料を指す。それで通じてたら英語が話せるってことだ。だからちょっと試してみたんだよ」
先輩は僅かにのけぞって胸をはるがそれにはおかしい点がある。
「ここに本当に何日か観光できていたとしたら見栄張ってそういうのを覚える人もいますよ。それはなんの証明にもなりません」
「ちっ。生意気になりやがって」
他愛もない会話。たった一日の仕事仲間との再会。また一緒に仕事をしたい。こんな時間が続けばいい。そう思った。
シドニー市内へ戻る道中、警察に伝えるべきかどうかという話をした。記者は日本でも警察の名誉と威厳を守るため、ある程度の情報提供しかしない場合もある。しかし、先輩の答えは意外なものだった。
「被害者の女性がもうじき自首するだろ。どこぞのメガネの探偵じゃねえが、生きてるってバレたらまた命を狙われるかもしれない。これ以上嘘を積み重ねてもいずれ警察には気づかれる。傷が浅いうちに言うのが得策だろ」
もっともだった。
「で、これは記事にはしないんですか?」
「警察の発表があり次第しようと思ってる」
「そうですか」
ここで会話が途切れてしまった。シドニー市街へ入って喧騒に満ちてはいるものの、やはりなにか気まづい。先輩はこのまま事務所に戻って仕事をするそうだ。どこにあるかはわからない。不意にさよならと言われるかもしれないのがこわくて、私は人混みが少し落ち着いたところで先輩の裾を固く掴んだ。
「戻ってきてください」
先輩の顔はどこか温かみがあるものの、どこか冷たくなんだか見ていられなかった。私は俯きながらも続ける。
「あの事件は先輩のせいではありません。先輩だけのせいではありません。私たちにも責任があります。みんな待ってますから、戻ってきてください」
顔を上げると先輩はそっぽを向いていた。
「先輩!」
先輩は私の腕を振り払った。
「あれは俺の責任だ。何人の人が傷ついたと思ってる。俺のたった1枚の記事で。俺は自分の親にも顔向けできねえんだよ。そいつの親にも...。いいか赤塚覚えておけ。記者というのはひとつの言葉、1枚の記事で人を傷つける。それだけは覚えておけ」
俺はこっちだからといって先輩は右に曲がる。私は待ってとは言えなかった。遠くへ行かないで。その思いは思いとしてとどまり、口にも行動にも移ることはなかった。
それでももう遠くなってしまった先輩に向かって私は叫んだ。
「それでも!私はずっと待ってますから!」
ホテルへ戻って一息ついて今日の日記をつけることにする。記者を始めたときからつけている日記。
小さいルーズリーフをファイルにとじる形式にしているそれは、やはり何年も使っているせいか、表面はボロボロである。
先輩との再会。
この気に1から読み返してみることにしよう。
あの時何があったのか。それをちゃんと知るためにも。
感想のせいでカサカサになった指で1番最初のページをめくる。
3年前の日記である。
4月9日
今日から記者らしく日記をつけてみようと思う。名前は「赤塚真帆の事件手帖」