Flower of Ladakh
目の前を、花が歩いていた。
いや、正しくは、頭の花飾りか。
私は、それを眺めながら、人を待っていた。
ここは、高地にある、少し開けた町。
眼下の畑には、野菜を収穫している奴が見える。
町の広場では、今日も暇そうな年寄りどもが、世間話に興じ、
通りでは、使いの小坊主が、忙しそうに歩いている。
「ふわーあ、まだ、来ねえのかな」
大あくびをしながら、私は誰にともなく、そう呟いた。
町を見下ろす、高台の場所。
いつやって来るかも知れない、その人を、私は待つ。
だが、その人は、一向に姿を現さない。
痺れを切らせた私は、いつしか眠っていた。
「おい、あんた」
不意に、声をかけられ、私は眠りから目覚めた。
私を起こしたのは、青い目の小坊主。
仏僧でありながら、西洋人のような顔は、この地域特有の民族の証。
私は、身体を起こし、大きく背伸びをした。
「何の用だ」
「あんたの依頼主、宿で待ってるから、来てくれって」
「はあ?待たせておいて、何だそりゃ」
「知らないよ、そう伝言されただけだ」
ぶつぶつと文句を言いながら、私は町の宿へと向かった。
うす暗い部屋の中、寝台で動くものがあった。
「旦那」
相手の言葉で、私は声をかけた。
ゆっくりとだが、それはこちらを向いて、力なく言葉を発した。
「ガイドか?すまない、具合が悪いんだ」
そう言って、彼はため息をついた。
どうやら、低地からの旅行者がなる、高山病らしい。
「寝ていたら、だめだ、少しでも動いて、慣れないといけない」
「無理だ、頭がすごく痛いんだよ」
真っ青な顔色をしている。
高地順応をしないで、ここに来たのだろうか。
それとも、ここはまだそんなに高地でもないから、と油断したのだろうか。
「何か薬とか持ってきていないのか?外の人間なら、持っているはずだろう?」
「薬……、そうだ、私のカバンを取ってくれ」
部屋の隅に置かれた、彼のカバン。
私はそれを彼の枕元へと、置いた。
「ありがとう、ええと、確か……」
彼はカバンをまさぐると、何やら不思議な物を出してきた。
それを口にあて、押すような仕草をする。
シューと音がしたかと思うと、彼の顔色が少しずつ良くなったように見えた。
「そんなので、具合が良くなるのか?」
私の問いかけに、彼は軽くうなずいた。
「へえ、便利な物、持っているんだな」
彼は、しばしの間、それで体調を整えると、大きく深呼吸をした。
「はあ、少しは良くなったよ」
「そりゃよかった、じゃあ、早速出発するか?」
「もう行くのかい」
私はうなずいた。
「別に、ゆっくりでも構わないが、その分料金が増えるぞ」
「ああ、そうか……」
「それに、国境も雲行きが怪しい、行くなら早い方がいい」
その言葉に、彼は決心したようで、早々に荷物をまとめると、宿を後にした。
町を出立すること、しばらく。
突如、彼が話しかけてきた。
「君は、この地域の産まれなのか?」
ロバに跨り揺られつつも、彼の高山病は治ってきたようだった。
「ああそうだ」
「随分と顔つきが、変わっている、金髪碧眼とは、珍しい」
「先祖返りってやつだよ、ラダッキとは違う」
この地域には、様々な民族が住んでいるが、そのほとんどはラダッキと呼ばれる
チベットの色濃い、アジア系の顔つきの奴らだ。
だが、私はこの地域に昔から住んでいる民族の末裔で、
その顔形は、アジアではなく、ヨーロッパのものに近い。
大概の奴は、青い目を持つ程度だが、まれに私のような金色の髪を持つ者もいる。
「あ、ちょっと待ってくれ」
彼はそう言うと、ロバを降り、道沿いの草むらへと歩いて行った。
懐からカメラを取りだし、何やら写真を撮ったり、絵を描いたりしている。
「そういや、旦那の目的を、聞いていなかったな」
ロバを傍らに止め、私はしゃがみ込む彼に問いかけた。
「旦那は、どういった用事で、ここに来たんだ?」
彼は動かしていた手を止め、少し驚いた顔で振り向いた。
「植物の研究だよ」
「植物?」
「見てごらん」
彼の指差す先、そこには、いつも見慣れた青い花があった。
「この花は、この土地でしか咲かない花なんだ」
「へえ」
鮮やかな青い花。
だが、私は、この青よりも、もっと素晴らしい濃い青を知っている。
それを言おうかと思ったが、やめた。
目の前の彼は、その花を懸命に、記録しているからだ。
野暮なことを言って、惑わせてはいけない、と私は判断した。
「さて、記録も終わったし、行こうか」
ノートを懐に仕舞いつつ、彼はそう言った。
川沿いの道を延々と歩く。
両側は大きな山塊、その隙間を青緑色の川が、勢いよく流れている。
私は、彼の様子を伺いながら、歩みを進めていた。
「あれは、何だ?」
今度は何を見つけたのだろうか。
彼は、道端の岩を不思議な目で見ていた。
私は、それを見、これの何が気になるのかと首を傾げた。
「旦那、これは岩絵だよ」
「岩絵?でも不思議な模様だ」
茶色の大きな岩に、絵が彫られている。
それは、角のある動物と、弓矢を持つ人、踊る人に、大きな手の模様があった。
「これは、昔からここにあった、でも何故、この模様なのかは誰も知らない」
「ふむ、チョルテンも、文字もない、一体何だろうな」
「大体、私たちは狩りなどしない、農耕で生活している」
「そう言われればそうだ、君たちはチンコー麦のツァンパが主食だ、だとすると……」
彼は何か思いだそうとしているようだった。
「仏教がこの地に来る前、今から千年、いや、もっと昔、ここに人が定住していたのかも知れない」
私はその言葉に、大層驚いていたらしい。
彼の顔が、途端に笑顔になった。
「驚くのも無理はないよ、今ですらこの厳しさだ、でもね、昔々はもっと温暖で住みやすかったと思うよ」
「まさか」
「ここは、文明の交易路、いろんな人が行き来し、人類は移動した、すごく夢がある話だ」
少々早口で、彼はまくしたてた。
その岩絵を、彼は記録し、写真にも収めると、嬉しそうに私に語った。
ずっと昔、まだこの地がラダックと呼ばれる前、人々が仏教を知らなかった頃。
周辺の地から、人がこの地を通り、定住し、争い栄えた昔の話を。
この地は、世界でも有数の辺境の地、また、争い絶えない最前線の地。
私には、彼の話はよく理解できなかったが、彼にとって、ここはとても魅力的に見えるのだろう。
ということだけは分かった。
谷間の町。
私たちはここで、一晩を明かすことにした。
この先、道は国境に近づき、武装した姿の人を見かけるのも少なくはない。
そこで、情報を集めると共に、体力回復をしておこうと考えたのだ。
ロバに飼葉を与え、一休みしようと、草むらに寝ころんだ時、それは聞こえてきた。
「こりゃ大変だ」
私は、彼にそれを伝えるために、宿へと戻る。
だが、宿に彼の姿はなかった。
宿の主人に聞くと、外に行ったらしい。
外には軍人がウヨウヨ歩いている、私は、大事にならないうちにと、彼を探し始めた。
町の家々を探し、寺の中を覗き、川沿いを探す。
そうして、畑の隅でうずくまる、彼を見つけた。
「旦那、ここにいたのか」
「あ、君か」
私が声をかけると、彼はすっとぼけた声で、そう返した。
「見てくれ、花がこんなに咲いている」
彼の前には、色とりどりの花が、鮮やかに咲き誇っていた。
「それどころじゃない、小競り合いが始まったぞ」
「ええっ」
「もう、この町から先へは行けない、どうする」
「そんな、これ以上、国境には近づけないのか」
「この道はな」
私の、何か含んだような言い方に、彼は反応を見せていた。
「その言い方、何か手があるのか?」
「迂回路がある、だが、険しい道だ、旦那の体力で行けるかどうか……」
突如、彼は私の肩を掴んだ。
「行きたい、いや、行かなきゃいけない、どうしても、私はそこに行かないと、いけないんだ」
彼のその必死の形相に、私の首は、縦に振らざるを得なかった。
一晩明け、私たちは来た道を戻り、橋を渡って、国境まで出られる道へと進み始めた。
「旦那、この先の場所は、ムスリムが多い、不用意な言動はやめてくれよ」
「分かったよ」
とは言ったものの、私は不安であった。
本来はこの迂回路も、外国人の入域規制がある地域なのだ。
万が一、軍人に見つかったら、えらいことになる。
かと言って、脇道に逸れると山賊が出かねない。
腰につけた山刀を握りしめ、私は彼に言った。
「旦那、今から旦那は私の親戚だ」
「突然どうしたんだ?」
「いいから、そういうことにしてくれ、旦那は親戚、私が何か言ってもうなずくだけにしてくれ」
私は、この地の民。
だが顔つきだけは旦那と似ている。
もし、軍人が何か言っても、親戚だと言い張れば、うまく騙せるだろう。
そう思いながら、私たちは荒れた道を進んだ。
しばらく行くと、案の定、軍人たちが道を塞いでいた。
「止まれ、この先は行けないぞ」
横柄な軍人だ、仰け反って私たちを見ている。
私は彼を後ろに隠すようにして、軍人と交渉を始めた。
「私たちは、この先の村に用がある、通してくれ」
「だめだ、砲撃も始まっている、それに、後ろの奴は外人じゃないのか」
軍人の目が険しくなる。
「彼は、私の親戚だ、この先に彼の家があるから、送らないといけないんだよ、なあ!」
そう言って、私は彼を見やる。
その様に、彼は大きくうなずいた。
「うーん、顔も似ているなあ、親戚なんだろうなあ」
「だろう?頼むよ、すぐそこなんだよ」
「仕方がない、通してやる、だが安全は保障できないぞ」
「悪いな、ありがとう」
私は、軍人に形ばかりの礼をすると、彼を連れて足早にそこを通過した。
そうして、奴らの姿が見えなくなった頃、彼が口を開いた。
「驚いた、あんな嘘でも通用するもんだな」
「私のなりは特殊だから、こういう時に役に立つんだ」
谷間に差し込む、陽の光を浴びて、私の髪は黄金色に輝いていた。
それから私たちは、いくつかの町と峠を越え、国境が見下ろせるところまで辿り着いた。
「おーおー、派手にやってるな」
山のあちこちから、腹に響く轟音がしてくる。
どうやら、小競り合いが、砲撃戦にまで発展したらしい。
「で、旦那、この先はどうする?」
振り返り、ノートと睨み合いをする彼を見やる。
「まず、この町に行きたい」
彼のノートに書かれた、文字。その町は。
「……あの町だな」
私は指を差した。
そこには、土煙がもうもうと上がる町が見えていた。
町を目指し、進もうとした私たちを、見慣れない恰好の二人が塞ぐ。
「止まれ」
聞き慣れない言葉。
ここの言葉ではない、隣国の言葉か。ただ、身振り手振りで、なんとなく意味は通じる。
この先に行くな、ということらしい。
「お前たち、動くな」
奴らの恰好、国境の向こうの武装ゲリラか。
いつの間にか、こちら側まで侵入してきていたらしい。こっちの軍人は何をやっているんだ。
こいつらには、軍人を騙したような手は通じない。
姿を見られたからには、殺しにかかってくる。見逃すようなことはしない。
私は、彼の跨るロバのケツを、思い切りひっぱたいた。
「う、うわ、わ!」
いななきを上げて、ロバが走りだす。
「旦那、先に行っててくれ!」
遠ざかるロバを、一人の小銃が狙う。
私は、山刀を抜き放ち、その腕を一撃で叩き切った。
血が、灰色の道に飛び散り、もう一人の銃が、私を狙う。
銃口の軌道に合わせて、火花が飛び、砂利だらけの道に土煙を舞い上がらせる。
切り落とした腕ごと、小銃を引っ掴むと、私はためらわずに引き金に指をかけた。
乾いた音が、谷間に響く。
顔面から血を吹き出し、ゲリラ兵は崖下の川へと転落していった。
その様子を見、振り向いた私の頬を、何かがかすめた。
続いて、腹に衝撃。
腕を切り落とした奴が、残った片手で、拳銃を構えていた。
「やってくれたな」
山刀を握りしめ、私は奴に飛びかかると、馬乗りになって、その首に刃をあてた。
「た、助けてくれ」
ゲリラ兵の命乞いの言葉か、だが、そんなものは知らない。
腕に力を込める。
「お、俺は、軍に、言われて、仕方なく」
「黙れ、私たちの故郷で、好き勝手やりやがって」
体重を一気にかけた。
空気の漏れる音がし、地面に赤黒い血がおびただしく流れる。
私は、奴の衣服で刃の汚れを拭うと、彼の去った方へと歩きだした。
「どこにいるんだ?」
彼に遅れること、しばらく。
私は土煙の絶えない、その町へと辿り着いていた。
砲撃は激しさを増し、町に人のいる気配は、まったくない。
それでも、依頼主である彼の姿を求めて、私の足は動き続けた。
ふと見ると、町はずれのところに、私のロバがいるのが見えた。
ロバも私の姿を見て、こちらへと寄って来る。
「おまえ、どうした、旦那はどこに行ったんだ」
私の服を噛み、ロバはこっちへ来いとばかりに、しきりに町の外へ向かって鼻を鳴らす。
背後で、家が崩れる。
ここにいるのも危険と私は判断し、ロバの誘う方へと行ってみることにした。
谷あいの奥、そこに、彼は佇んでいた。
「旦那、ここにいたんだな」
だが、彼は微動だにしなかった。
「砲撃が酷くなった、ここも危険だ」
さらに近づき、私はそう声をかけた。
近づいて、分かった。彼は何かを凝視していることに。
「見つけた」
「え?」
「ここだ、ここだったんだ」
「どうした、旦那」
振り向いた、彼の顔に、私は驚いた。
泣いていた。
それも、大量の涙と鼻水を垂らしながら。
「ようやく、私は見つけた」
そう言って、彼はまたも涙を溢れさせていた。
「おとぎ話だと思っていた、こんな高地に、この青い花がある訳ないと思っていた」
泣きながら、彼は私に語った。
「死んだ母が、私に話してくれた、コーンフラワーの群生地、ついに私は、辿り着いた」
彼が震える指で示す先。
だが、私には。
泣いている彼をその場に残し、私はそれを摘みあげた。
「旦那、これは花じゃない」
砲撃で崩れた、岩山。その隙間に光る、青いもの。
「……これは、青い石だ」
青い石。
コーンフラワーブルーと呼ばれる、幻の石。
私の知っている、濃い青の色。
「コーンフラワーは、もっと低地に咲く、これは、その花の色をしている石だ」
「そんな、花ではないのか」
「残念だが、そうだ」
私の言葉に、彼は膝から崩れた。
「では、では、母の言った、コーンフラワーの群生地とは」
「この石のことを、例えて言ったのだろう」
彼の瞳が、見る見るうちに力を失くしていくのが、分かる。
「母が、見た、コーンフラワーは、これだったのか、母しか知らない、山奥の……」
その言葉に、私は奇妙な引っかかりを覚えた。
「旦那、旦那の母親って……」
「母は、ダルドの出だ」
驚いた。彼の母親は、私と同じダルド民族だったのだ。
「昔、この地で紛争が起こり、母は難民として、この地を逃れた」
彼の話によると、彼の母は死ぬ直前に、故郷の、このコーンフラワーの事を語り、
ダルドの一族に伝わる、秘密の遺産だと言い残したらしい。
だが、この場所は、ダルドの私も知らなかった。
まさに、彼の母親だけが知る、遺産なのだろう。
「母の一族は、もう誰も残ってはいない、皆、紛争で死に絶えた」
今も続く、国境を巡る熾烈な争い。
私も、幾度となく、それに巻き込まれ、家族を、一族を失うのを見てきた。
交易で暮らしていた、我らラダックの人々は、周辺国の都合とやらで
皆、翻弄され、そして命を落としていった。
砲撃の音を聞きつつ、私たちは、長い時間ここに立ち尽くしていた。
「旦那、どうする?」
「何、を」
「この石だ、これは旦那に遺されたものだ」
私は、手の中の石を、彼に渡した。
「これは、旦那と、私しか知らない、煮るも焼くも、旦那次第だ」
彼は涙を拭き、その石をじっと見つめていた。
「このままに、しておこう」
おもむろに、彼は立ち上がると、その石を、そっと元のところに戻した。
「ダルドは花の民、ダルドのコーンフラワーは、この場所でひっそりと咲くのがいい」
崩れた岩で、その場所を覆い隠し、彼はそう言った。
「旦那らしいな」
彼の言葉に、安心したのか、私は突如、意識を失った。
どれぐらい気絶していたのだろう。
私は、身体を揺らされる感触で、目を覚ました。
「ああ、やっと起きた」
彼の顔は、またも涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「さっきの奴らに、やられたんだね、お腹に傷が」
そう言われて、無意識に腹を触る。
「銃創は貫通していた、止血だけはしたけれど、早く医者に見せた方がいい」
彼の、上質そうなシャツが、私の腹に巻かれている。
柔らかく、肌触りのいい、シャツ。それが、血で汚れている。
「旦那、なんで……」
「君は、私の母と同じ、ダルドだ、私が、ガイドで君を指名したのも、偶然ではない」
あの町で、私がガイドとして請け負った、仕事。
全ては、必然、縁だというのだろうか。
痛む腹を庇いつつ、私は身体を起こした。
「旦那、町まで送るよ」
不安気な顔の彼に、私は精一杯の笑顔を向けた。
「ガイドは、依頼主を、無事に送り届けてこそ、一人前のガイドだ」
いつの間にか、砲撃の音は止んでいた。
私たちは、国境を離れ、安全な町まで歩き始める。
幻のコーンフラワーブルーは、あの岩の隙間で、未来永劫、ひっそりと咲き続けるのだろう。
誰にも知られず、ひっそりと。
1999年。




