たっだいまー!
「八神くん、たっだいまー!」
ハイテンションな七春が、コケ神さまの神域から帰ってきた時、
八神は携帯ゲームに熱中していた。
その八神の手から、ニッコリ笑った顔のまま、携帯をすっ飛ばす七春。膝から下はグッショリ濡れて、土やら草やらがくっついていた。
「みゃーっ!」
八神が絶望的な悲鳴をあげる。
「何するんですかセンパイ!」
とっても悲しげな顔で訴える八神。
七春の胸をポカポカぶつ。
「なんてことするですか!おこりまふよ!」
ポカポカ。
そのポカポカ叩く八神の小さい拳に、もっと小さな、透き通る雫が落ちた。
涙だ。生温い温度で、立て続けに三滴落ちてくる。
「みゃ?」
驚いて、叩く手を止め、八神は顔をあげた。
そこには七春の困ったような笑い顔。目元にダイヤモンドがキラリと光り、次から次に落ちていく。
「シリカさんは、助けられなかったわ。」
声が弱々しい。「ただいま」の時のテンションは、あの一瞬で使いきったのか。
「そうですか。」
と八神は冷静に返す。
真夜中の七春宅。神域を開いていた和室の前の、広い廊下に二人はいた。
きちりと閉まった和室の扉。洋室扉と襖が表裏一体の仕様で、溢れだしていた植物などはすでに見えなくなっている。
同様に廊下を埋めていた蔦やら苔やらも消えていた。壁も床も元通りの、フローリング仕様だ。
その現実らしい現実に、七春はたった一人で帰ってきた。連れ帰る予定だったシリカの姿は、そこにはない。
助けられなかった、と素直に白状した七春は、笑い顔を作りながらも、涙を抑えきれずにいる。
初めから無理だと思っていたわけではなくて。
ひょっとしてこの人ならできるのかな、くらいに期待はしていた八神だった。
それでも、成功率百パーセントなんて思って送り出したわけでもなかったので。その結果を見たところで、八神は今更悔やんだりはしない。
ただ、涙には驚かされたが。
「泣かなくて大丈夫ですよ。」
「雪解さんもいたんだ。」
そこで七春は短く息を吐いた。
何度も息継ぎをして持ち直す。嗚咽をこらえるもっとも効果的な方法として、息を止めることを選択したらしい。
「ごめん。シリカさんが落ちたのはきっと、四年以上前のどこかだ。雪解さんがいたんだけど、八神くんに伝えられなくて…。」
そしてまた、短く吸って長く吐く。
肺へ送る酸素の、需要と供給のバランスが乱れている。
「雪解が、いた?」
半信半疑に、八神は問い返す。
「祟り神じゃなくて雪解だったんですか? 境界の巫女ですか?」
一歩後退、七春は八神から体を離した。自分の胸をバンバン叩く。やっぱり苦しいようだ。
「八神くんに言ったら、無理矢理でも駆けつけると思って。でもお前はマッキー持ってないし。それで神域の力に弾かれて、帰ってこれなくなったりしたらとか、俺も色々考えて。」
「なんて賢明な。」
全くもってその通り、確実に八神ならそうしていた。
だから伝えてくれなくてよかった、と言うのが正しい答えなのだろう。
しかし七春はホロホロ泣いている。きっと八神にそれを伝えなかったことや、雪解に忠告の一つもできなかったことを、後悔しているのだろう。
(あぁ、…それで泣いてんのか。この人らしいや。)
優しい人なので。
それはもう、春先から八神も重々承知している。
(雪解…。)
助けたかったと言えば、それは八神の正直な気持ちだ。
「伝えてくれれば、そりゃあ、何をしたって助けにいったさ。なんで教えてくれなかったんだ。」
低く落とした八神の声が、広い廊下に充満した。
それから秒殺で。
かばう隙も与えず、八神の握った拳が七春の頬を殴りつけた。
ガツン!
という鈍い音は、骨と骨との衝突音。勢いで当然押し負けている七春が、ふっとばされて廊下の壁にぶつかった。
そこでまた、肩と壁との衝突音。
「んっ…。」
ただでさえ呼吸困難の七春が、さらに息をつめる声がする。
衝突したのが壁でよかった。コントみたいに和室の扉を突き破っていたら、またコケ神様の神域に逆戻りだ。
「人殺し!教えてくれれば、助けられたのに。」
「ごめん!」
「ごめんで済むか!」
殴ったついでなので、「ニャーッ!」と八神が襲いかかり、七春の髪をブチブチむしるという酷い拷問に打って出る。
壁に寄りかかったまま膝を折る七春は、髪をブチブチむしられながら、クニャンと床に座り込んだ。
あまりにも八神が恐ろしすぎて、一応涙はひっこんだが。
「ごめん…! ごめん…!」
と謝り続ける声は、相変わらず弱々しい。
心が震えた。責められるほどに、後悔は深い。
シリカにとって、元の時間に帰るには、七春が助けに来たあの時が最後のチャンスだったはずだ。
同じように、八神が亡くした雪解を取り戻せるのも、あれが最初で最後のチャンスだった。
そのチャンスを棒に振ったのは七春で、故意だ。
「だって無理矢理神域に入ったら、八神くんが帰って来なくなると思ったんだ…!」
そこでやっと言い訳をする口調になって、七春が弁解する。
普段は鬱陶しいくらい自分勝手な七春は、こういう大事な時に限って、言い訳が出てくるのが遅い。
それは七春の人柄によるところにあるのだが、そんなことは今はさておき。
さんざん七春の髪をブチブチむしって、とうやら八神はそれで気が済んだようだった。ふいに手を止めおとなしくなると、七春の傍へかがみこむ。
「はい。知ってますよ。」
毎度のことながら、テンションの振り幅がメトロノームでできている八神。最初のふざけていた時の声とも、七春を責める声とも違う。
母親が子供をあやすような、とても優しい声を出した。
不意に、震える七春の背中を支える。
「知ってますよ。俺や雪解のことを、すごく…考えてくれたんですよね。」
境界の巫女が死んだとか。
殺人容疑で祟られているとか。七春には、全く関係ない話だ。
もっと言えば、シリカが神域に落ちたことも。タイムトラベラーになって、何か面倒に巻き込まれていることも。
七春にはそんなことは一切関係ない。
それでも初めから自分の為ではなく、人の為に動いているひとなので。七春は、優しい。
八神に至っては携帯での連絡がつながらなくなった時点で携帯ゲームで遊んでいたというのに。
「優しい人なんですよね。ちゃんと知ってますよ。だから泣かないで。」
殴ったり毛をむしったり、傷をつけるような事をしていたのは八神だが。
それは棚に上げて。
八神は態度を百八十度変えた。
「気にかけてくれていただけで十分ですし。謝ってくれたし、泣いてくれたし。俺だって亡くした人間を、タダで取り戻せると思ってはいませんから。だから、ありがとう。」
そして七春の頭を、自分の胸へと引き寄せる。
「貴方が無事でいてくれて、よかった。」
今はそれだけで十分なのだと、八神は七春の耳元で囁いた。八神の吐く息にくすぐられた横髪が、ユラユラ揺れる。
頭を抱え込まれた状態になった七春の、その目から、本当に最後の一粒の涙が流れた。
後悔はどうやら、そこで流れきったらしい。
「……………えー?」
と、七春はクッソつまらない声で問い返す。
しょうもないものを見る目で、八神を見上げて。
「お前なんか、言ってることと、やってることが違くない?」
「違くないでふよ!」
ふざけた八神が帰ってきた。
八神の言ってることと、やってることは、だいぶ違います。
「なんでお前殴ってから優しくなるの?」
ペタンと床に尻をついている七春が、不満そうに問い返す。頬が赤くなっている。殴られたせいだ。
むしられた髪も乱れてしまい、落ち武者みたいになっている。
「ねぇ、なんでお前殴ってから優しくなるの?」
大事なことなので二回聞きました。
「再三言いますが、俺は他人に期待はかけない主義です。だからセンパイがシリカさんを連れ戻すのに失敗しようと、雪解を助けられずに後悔しようと、俺の知ったことではありませんね。」
そしてまた、サラッとドライな八神に戻る。
「酷い!」
という七春の正直な抗議。
「でも、雪解を助けたかったのも正直な気持ちなので、そこは一発殴らせていただきました。」
ケロっとした顔で八神が答えた。
目をウルウルさせて、殴られた七春がジッと八神を睨み返す。
「……八神くんって、サイコーにサイテー。」
「日本語は正しく使ってください。」
神域の向こうで、シリカは雪解の体を抱えていた。
出血が止まらない。
違う。止血できそうなものが何もない。
ひとまず、ドレススカートを引きちぎって使ってみるが、全く足しにならなかった。
申し訳無いけど雪解自身の着物を使おうと、肩口から袖を引き裂いてみる。
雪解の体は、神域から半分飛び出た状態で倒れていた。
変な格好だ。壁から上半身が生えるような形になっており、腰から下が見当たらない。
「雪解お願い、しっかりして。」
目は開いている。意識はあるのか。
雪解の背中に深く突き刺さっているのは、やはりナイフの刃のようなものだった。物を投げてくる霊というのを、シリカは見たことがない。
一体、何をどうして、こうなったんだ。
「貴女が死んだら、全部、無意味だわ…。」
残留を決めたシリカの覚悟も、シリカを助けにきた声優の努力も。全ては無に還る。
雪解が、この先の時間を生きれなければ。
(どうして生霊が人を襲うの。)
たとえ理屈を知れたとしてもどうしようもない疑問が、頭の中に浮かんで消える。シリカも霊能者として、あらゆる霊を見てきたが、このところ謎の現象によく見舞われるようになった。
自分の知識が歯が立たないという、新しい種類の恐怖だ。
そして、
シリカのその疑問に、答える声があった。
「もう霊ではなく、魔物か。」
低い男の声で、そんな台詞が耳に入ってくる。
女霊の背後、彼女が壊した格子扉から、一人の男が神殿に足を踏み入れてきた。
逆光で顔が見えないが、着ているのはハイネックのノースリーブ。腰を太いベルトで締めて、金具でベルトに何か大きな本を固定している。
(辞書?)
の、ような形の何かだ。
「雪解。」
突然現れた男は、ドタドタと慌ただしく神殿に踏み入ると、女霊の横を素通りして、シリカに抱えられた雪解に駆け寄った。
不安と絶望に歪む表情のシリカに、
「君は私と同じか?」
一瞥してそんな言葉を投げる。
歳は四十代にも八十代にも見える。彫りの深い面立ちに、渋い顎鬚。
人間の年齢で例えようとすると上手く表現できないが、樹齢二千年とか言うとしっくりくるような。不思議な魅力を持つ男だ。
「はつはる…。」
もそもそ動いて、雪解が顔を上げた。
シリカの黒いドレスに包まれて、雪解の白い着物が鮮やかに映る。
「きてくれたんですね。」
「もう一つは、手筈通りに。」
言葉を交わし、男はそっと雪解の手を握る。
いや違う。
雪解の手の中の、巻物の怪しものを掴んだ。神域を開くために、雪解が自分で作った怪しものだ。
手をゆっくりと動かして、それを雪解の白い手から引き抜く。
「やこーくんに見つからないところに…。それがあると、土地神さまが、やこーくんを護れないから。」
そこでようやく、男は振り返った。
そこにはまだ、「お腹痛いポーズ」の女霊がいる。雪解を刺して、目的を失ったようだ。
右にも左にも体をねじって、今は壁に体を擦りながらウロウロしている。
「うーん……おうちがないの………」
帰り道がわからないようだ。ウネウネしている。この場に七春がいれば、「トイレに行きたいなら行け」と言うだろう。
シリカと謎の男。
二人が女霊を見つめる中、少し遠くから砂利を踏む音が近づいてきた。
「ゆきー。どこだー?」




