だから誰。
夜八時をまわって、七春の車は都内を突っ走っていた。
助手席には八神が座っている。車窓の向こうは、町明かりを押し潰すような闇。
中華料理店へと向かっていたはずの二人だが、どうやら車に乗っていたのは二人だけではなかったようだ。
「誰ーーー!?」
バックミラーの中、後部座席に座る男を見て、七春が叫ぶ。
スーツに身をつつんだ会社員風の男は、何故か全身ずぶ濡れ。俯いた顔は青白く、生きている人間とは思えない。
「男性社員の方です。」
八神が淡々と説明する。
「だから誰。」
ツッコみながらハンドルを握っている七春は、前方とバックミラーを交互に見る。
視線が何度も外と車内を行き来して、非常に危なっかしい運転だ。絶対に真似しないで欲しい。
「前、前、前、見て。」
別の意味で恐怖を感じている八神が、しきりに警告する。
「今は前より後ろだろ! いつから乗ってきた!?」
「さっきの急ブレーキの時に乗り込んできました。」
八神と「怪しもの」について話していた時だ。赤信号を見落とし、急ブレーキを踏んだ。
その後、八神がすごい剣幕で起こったので、咄嗟に謝った七春だったが。
どうやら、あれは乗り込んできた霊に対する怒りだったらしい。
「その時ゆってくれる!?」
「すみません、その時は焼売のこと考えてたんで…。」
「お前、焼売と俺とどっちが大事なの」
「焼売」
即答する八神。
その間、後部座席の会社員は、声も音もたてずに大人しく座っている。
見たところ、年の頃は三十代。生前はまだバリバリ働いていたはずだ。
スピードを緩めず走る車。この車に起きている異変に気がついているのは、車内にいる二人だけ。
「どーすんだよ。なんなんだよ。」
絶えずバックミラーを確認する七春。
「霊が車に乗り込んでくるなんて珍しくないでしょ。いちいち大騒ぎしてたら身がもちませんよ。」
「俺史上初なんだけど。後ろに勝手に乗られるとか。」
もっともな七春の意見。
ただ、八神の様子を見ると、そう騒ぐほどのことでもないというのも事実らしい。
人にとり憑いたり、人の車に乗ったりして移動する霊は多い。たいていの場合、憑かれている人間は気がつかない。
「貴方のドライブにそっと寄り添い、約束の地へと向かいます。」
「は?」
「言ってみただけです」
「は?」
あまりの恐怖に、人に優しくしている余裕すらない七春。見かねた八神がため息をつく。
「要するにただ乗ってるだけです。この霊が行きたい場所まで送っていけば、勝手に降ります。」
「そんな自分勝手な同乗ある?」
「人間なんて基本、自己中心のグズの集まりじゃない。ボクはさっさと滅べばいいと思うな。」
収録中アニメ、第三話。悪と一人で戦うことに嫌気がさした魔法少女の台詞である。
「その考えには心底同感だが、今の状況には関係ないだろ。真面目にやらないとスカートめくるぞ。」
収録中アニメ、第三話。魔法少女の使い魔の台詞である。
「この使い魔ちょっとエッチなんですよね。」
言いながら、シートの上で身をよじり、八神は後ろの男に気を配る。
背中を丸め、ただじっと座っている男。
「どちらまで行かれます?」
八神の問いにも、男は答えない。
代わりに七春が、運転席から八神の小さな膝をテシテシ叩く。
「話しかけんなよー!」
何故か小声。あるいは、怖すぎて声もだせないか。
「とりあえず、そのまま真っ直ぐはしって下さい。この霊が行きたい場所まで連れていくのが、一番手っ取り早いです。」
言われたままに、七春はアクセルを踏み込む。
「それで、目的地に着いたら、この霊が成仏するのか?」
ハンドルを握りながら七春が問う。
「成仏はしませんけど。この車からは降ります。」
「はん!?」
目的地だった中華料理店も通り越し、車は正直に真っ直ぐ進む。
やがて川にかかる橋にさしかかった。そのまま進んでいけば住宅街へと入っていく道だ。
「単純な考えだけど、家に帰りたいとか?」
「いい線ですね。それか、このあたりに寺でもあるのかも。」
窮屈そうにモゾモゾ動いて、八神は上着の下からスマホをひっぱりだした。近辺の地図を検索する。
「みゃ?」
「どうした」
七春が検索結果を尋ねる。
地図によると寺院は反対方向だった。
「寺がない。」
こうなると、七春が口にした「家に帰りたい」という説が強そうだ。
「…なんか、飯食いに行く空気じゃなくなったな。」
七春は深い深いため息をついた。
ここのところ、こういったものに巻き込まれることが本当に多くなった。
やはり無駄な力が開花してきているのか。
(嫌だ…。)
橋をわたりきれば、その先は住宅地。
車は少しスピードを落とした。慎重に進む。
その時、
ドン!
かなり大きな、そして鈍い音がして、車は急停車した。
まるで見えない壁にぶつかったかのように、止まる直前、激しく前後に揺さぶられる。
「ぐっ……。」
前のめりになり、ハンドルに顔面からクラッシュする七春。
またしてもシートベルトを強く握って堪える八神。
下手をすれば、明らかに怪我ではすまない衝撃だった。
だがいうまでもなく、この橋の終わりには壁など造られていない。
「なんなの。」
見えない何かが、行く先を遮る。
後部座席の、あの男なのか。
揺れが止まると、さらにエンジンが急停止する。静かになる車内。
車は、橋を渡りきる前に完全に停車した。
前方を照らしていたはずのライトが消え、橋の上はあっという間に闇にのまれる。
突然のことに両者ついていけない中、立て直すのが一歩早かった八神が、後部座席を振り返った。
「………あ、れ」
そこに、会社員風の男はいなかった。
停車しているとはいえ、窓は空いていないため、飛び降りることはできない。だが、生きてる人間でなければ話は別だ。
座席のシートには濡れたあと。そこには、確かに何かがいた。
「消えた?」
霊の姿は消えた。
だが、まだキンとはりつめている空気。
「マジもうなんなの。」
キーを回す七春。
しかしエンジンは中途半端に唸りをあげ、動こうとしない。
焦ってアクセルを踏みつけるが、それでも反応がなかった。
数回試す。
効果はない。
「どうなってんだよ、動かないぞ!」
「俺にキレられても。」
あてどころがないので八神にあたる。
霊感の全くない七春でも、嫌な気配を感じていた。まだ何か起こりそうな気配だ。
「こっちも、ダメそう。」
外に出ようと、ドアを押したり引いたりしていた八神が、言って運転席を振り返った。
その瞬間、
助手席と運転席の間のサイドブレーキにしがみつくように、男性社員の霊は再び姿を現した。
もがくように手を動かす。潰れた鼻、膨れた唇。眼球はなく、ぽっかり穴が二つ並んでいる。
「みゃん!」
驚いた八神が体を反らすと、それに気がついた七春も声をあげて身を引いた。
「でた!まだいた!」
台所で害虫を見つけた時と同じリアクションをする七春さん。
「連れていってくれ………連れていってくれ……」
池の鯉のように口をパコパコ動かして、男は救いを求めてもがいた。
「や、やっぱりどこかに行きたいみたいですね」
言いながら、八神は上着の下に手をいれ、塩の包みを掴んでいた。八神にとっても予想外の展開らしい。
「じゃあ、車とめんなよ!」
苛立たしげにツッコむ七春。
八神と一緒にいるせいかツッコミスキルが格段にあがり、霊にもツッコミをするようになってきた。
やはり、どんどん要らないスキルが磨かれている。
しかしその七春のツッコミにヒントを得て、
「…そうか。」
何かに気がついた様子で、八神が呟いた。
「どこかに行きたいってことは、車を止めているのはこの霊じゃない。むしろ、この車を足止めしている存在に、この男性の霊もつかまってる。」
「は!? それで!?」
「だから通りかかる他人の車に乗ってでも、この場所を離れようとしてる? 少し前から乗り込んできたから、たぶん彼自身の力で移動できる範囲が限られていて…。」
「なるほど、つまり!?」
冷静に分析する八神に、急かすような相づちをうつ七春。
今、この悲しき霊の叫びが、二人に届こうとする瞬間だった。
「つまり、この人をこの場所に縛りつけているものの正体がわかれば、対処できると!」
八神が上着の下から手をだし、握っていた塩の包みを破った。
それを、男性霊の背後、濡れたスーツの足下へと撒き散らす。
「神威!」
八神が唱え、車内には火がはぜるような怪奇音が二回。
細かな塩の粒に、八神によって強い念が込められ、霊をこの場に縛っていたものの正体が明らかになる。
男性霊の背後に、半透明の白い糸が見えた。
それは男性霊の足に、執拗にからみついている。
「な、なんか、うどんみたいなのが絡んでんだけど。」
と言うあたり、どうやらその糸は、七春の目にも見えているらしい。
さらに糸の反対側の端は、車外に続いている。
七春が窓の外へと目をむける。
町明かりを頼りにしても、橋の上は真っ暗闇だ。まして下を流れる川の水面は、全く見えない。闇のなかに、一本の光の糸がのびているのが、かすかに見えるだけだ。
光の糸が行く先は、どうやら川の中か。
「何かありますか。」
八神に聞かれ、窓の外を覗きこんでいた七春はユルユルと首をふった。
「なんも見えねぇ」
見えない何かが、川の水の中から男を引っ張っている。
その七春の答えを聞いて、八神は蠢く男の霊を見下ろした。
「これは、いよいよ助けられないみたいです。」
これまで何度もきいた、八神の無感情な声。
「あのうどんを切るんじゃダメなのか」
七春の答えは、状況だけ見れば最適解だが。
「あれを切るのは無理、かな。」
「お前の怪しものでなんとか」
「無理です。」
強い口調で、八神が繰り返した。
「あれは神手だから、ひとの手で切れるもんじゃない。」
触手?と問い返す呑気な七春に、八神が長い長いため息をつく。
「ボケもTPOわきまえて下さいよ。神手です。神の手。この川の神が、あの霊を縛っている。」
「川に神なんかいるのか。」
「どんな小さなものにも神はいますよ。」
山神や海神と同じです、と八神が説明する。その存在を忘れて領地を荒らせば、当然怒りに触れる。
「このひとが何をしたのかはわからないけど、神の手に掴まれた以上、この川を離れることはできない。それが、神罰です。」
そう言う八神の視線は、車内にしがみつく霊の姿をとらえて離さない。
その光景から、目を離せない。
「連れてって……連れてって……」
どんどん弱々しくなる男の声は、やがて途切れる。しがみつく手から力が抜けて、プランと下に垂れた。
「連れていきたいんだが、…っ」
まだエンジンキーをガタガタしながら、七春が苦しい声をだした。
神の手によって、川底に縛られる。どんな気持ちだろう。
そこには、何があるのだろう。
神の制裁か、永遠の闇か。
今まさに、その川底へと向かう者を前に、八神は目を閉じた。
「センパイ、これは諦めましょう。」
完全に諦めた様子の八神に、
「はあ!?」
七春は手をとめて声をあげた。
「嫌だ! ほかになんかないのかよ!」
「神の手を切り落としたりしたら、次は俺たちが彼の二の舞です!」
「……っ!?」
八神の忠告に、七春は目を見開く。
「俺はこれ以上、関わりたくないです。」
冷徹な言葉。
だからこそ、言う方も辛いというのは、七春にもわかる。
目の前の魂を、救えないもどかしさは、きっと八神の方がよくわかっているはずだ。
「お前って、サイコーにサイテー…」
わかっていても、批判せずにはいられなかった。
それでも八神は正しい。
濡れたスーツの上から逃れようのない手に掴まれ、霊は唸りをあげて車外へと引きずられて行った。
閉まっているはずのドアをすり抜け、ほの暗い川底へと沈んでいく。
目を閉じないで。
神に祟られた人間の末路を、きちんとその目に焼き付けておこうね?
この場にいないはずの誰かが、八神に告げた。それはいつか夢でみた少女と同じ声だ。
「………っ。」
目を開く。
そこには、何もない。
はじめと同じように、暗く寂しげな空間に戻った後部座席。
濡れたシートが、全ては夢でなかったことを物語っている。
運転席から窓の外に目を凝らす七春には、光の糸と、小さな霊魂が、黒い水の中へ帰っていくのが見えた。
あの霊はまた、そっと川を離れ、他人に救いを求めるのだろう。
そしてこの橋の上で、また神にとらわれ、恐怖と生還の間に挟まれ、逃げ出せないままふりだしに戻る。
何年続くものだろう。
それは、誰にもわからない。
「助けられなかった?」
はやる鼓動を抑えながら、七春がポツリとこぼす。
「助けられませんでした。」
座席の上で態勢を崩し、八神がカクリと頭を下げる。
「スミマセン。」
一拍遅れて、思いだしたようにエンジンが息を吹き返した。
ライトが点灯し、車の前後を照らしだす。
現世の時間が、再び流れだした。
「いやぁ、とんだ道草くいましたね!」
実に不謹慎なことに、二人は中華料理店に足を運んでいた。
どんなことがあっても腹は満たす二人。
雑誌の評判やクチコミの通り、訪れた店内は賑わっていた。
壁やテーブルは全て食欲の赤で統一されている。小物には、中華つながりか、パンダのモチーフが多く見られた。
こうして人の多い明るい場所へ来ると、先程まで自分たちがいた空間と、同じ世界とは思えない。
死者の国からたった今帰還したばかりの二人は、とりあえず運ばれてきた中国茶で一息ついた。
「はーあぁ………。」
長ーいため息と共に、体をだらしなく傾ける七春。
見るからに迷惑そうな顔をして八神が、
「なんですか」
と返す。「何か不満ですか」と続ける。
そのぶっきらぼうな物言いが、俺も疲れてるんですけど、と言外に含ませていた。
「あの霊、あの後どーなるんだろうね。」
視線を虚空に置いて、疲れきった声で七春がたずねた。
それについて、八神は何も答えない。
代わりに、あるものを取りだし、胸の高さに掲げた。
「こんなものが車内に残ってました。」
と言って取り出したのは、あの男性霊が膝に乗せていたビジネスバッグ。びしょ濡れのそれは、金具の部分が錆びているらしく、開けるとキュイキュイと音をたてた。
水がくさったような、独特の臭いをはなっている。
「ちょ、は!? んなもん持ってくんなよ!」
大声で拒否する七春。
あまりに大きな声に、店内の客の数人がふりかえる。
その七春を一瞥して、八神は鞄を漁った。
中からでてきたのは、男性の私物と、おそらく仕事で使っていたであろう資料。
あの男性が、少し前までは生きていたことを裏付ける光景だ。
鞄と同じくびしょ濡れの資料は、所々文字が滲んで読めない状態になっている。
その読める部分だけをかいつまんで、八神が簡単な説明を語り始めた。
「あの人、川を埋める工事の責任者だったみたいですね。あまり大きな川でもないですし」
「はあぁ? あんなとこ埋めてなんになるんだよ。」
「便利になるし、金にもなります」
いいことずくめですね、と薄ら笑いをうかべる八神。明らかに皮肉だと、七春にも伝わった。
「それが、神の領地を侵すってことなのか。」
恐る恐るきいた七春の、この問いにも同じ笑い。
「助けられなかったことは可哀想だと思いますが、これなら自業自得ですね。」
ポンと資料を投げ出し、優雅にお茶に手をつける八神。
あまりにもあんまりな発言だが、至極もっともなので、七春は言い返さない。
後味の悪い思いをしながら、自分もお茶に手をつける。
神の領地を侵す。そんな危険な行為が、日常的な仕事の中にひそんでいる。神という存在に対して、認識のある人なら回避できた死の国への扉。
だが、そういった存在への畏れや敬い、信仰が失われつつあるこの時代には、回避しずらい扉なのかもしれない。
「あれが、神の怒りに触れた人間の末路なんですね。」
心にとめるように、八神が呟いた。しかし感情的なものを長くは留めず、すぐさまからかうような表情に戻る。
「でもよかったですね、七春センパイ。夏に入る前にいい経験ができて。」
「あん?」
「世の中救えるものばかりじゃない、って学習するいい機会でした。これなら、夏に心霊スポットに行っても、やたら霊を救いたがる行為が少しは抑えられますね!」
楽しげな八神の笑顔に、七春の表情はひきつる。
車に乗り込んできた霊の一件から、夏のロケのことは忘れていた七春だったが。
「うわ、忘れてたのに…。」
たまりにたまった不満を、全部ここでのツッコミに上乗せして、八神の顔面に思い切り吐き出した。
「思いださせんなー!」
春の前座は終わりを告げ、いよいよ夏がくる。