失意の神域
あつい夏の日のことだった。
照りつける太陽。焼けたアスファルト。
斜め四十五度からの紫外線が、肌を抉っていく。猛暑の夏だ。
神社の社の中を、八神夜行は歩いていた。この土地の神に仕える巫女を探している。
巫女なんて大袈裟な肩書きがついているだけで、本人はごく普通の年頃の少女であることを、八神は知っていた。
そして、そのことを自分だけが知っているということに、背徳的な優越感も持っていた。
「ゆきー。どこだー?」
名前を呼びながら、木造の廊下を歩く。足下の木がミシミシと音をたてる。
入り込む陽光。蝉の叫び声。
生温いけれど、キンとはりつめている汚れのない空気。
神社など神域における、見守られているような、落ち着いた空間。
廊下のつきあたりまで来て、八神は足を止めた。
やこーくん……
かすかに、呼ばれた気がした。声がするのは、足を止めた場所にある戸の中からだった。
木の香りを漂わせる引き戸。中に人がいるような気配はないが。
「ゆき?いるのか?」
戸に手をかける。ひんやりと冷たい。
少し勝手の悪い戸を、ガタガタ言わせながら横にひく。
部屋の中から押し出すように、冷気が流れだしてきた。
「やこーくん!」
今度こそハッキリと聞こえた悲鳴に似た声。暗い部屋の奥へと目をこらす。
そこに、彼女はいた。
畳敷きの床の上に、這いつくばっている巫女服の少女。暗闇の中、赤い袴がよく映える。肩に届くほどの長さの髪が、床の上に垂れていた。
そして、その彼女を押さえつけるように、体の上に乗り上げている、一体の獣。
細い瞳の色は青。黄金の毛並みに、四本の足。ピンとたった左右対称の耳に、つき出したハナ。ヒゲがピャンピャン飛び出している。
キツネだった。
ただ、大きさは通常のそれを遥かに越えている。頭の高さは、天井をこするほどだ。
「六尾……狐…?」
本来、巫女である彼女に逆らうことはない、血の契約を交わしていた神。
それが今、六本の尾で巫女を縛りあげ、床に引き倒していた。
狐は何も言わない。
ただ、尾で絡めとった巫女を部屋の暗がりへと引きずりこんでいく。
引きずられ、床に擦られて、はだけた巫女服の下から鮮血が覗く。
「ごめんね…ごめんね……」
少女の口からこぼれる言葉は、泡のように虚空へと消えていく。のばした手は力なく空を掴み、畳をなでた。
僅かにあげた顔は、恐怖と劣等感に歪んでいた。
乱れて顔をにかかった絹糸のような黒髪の下で、瞳から涙が溢れ出す。
「たすけて…やこーくん…たすけて……」
「……っゆき!」
叫び、部屋の中へと踏み込む。
その瞬間、彼女は悲痛な叫びをあげて、部屋の奥へと引き込まれていった。
そして、目が覚めた。
「…はぁ、…はぁっ……」
勢いよく起き上がると、自宅のベッドの上だった。
二階建ての質素なアパート。所々塗装の剥げ落ちた外観。
室内は狭く、ベッドが入ると、一つしかない部屋の4分の1が埋まる。入り口の隣には洗面台があり、その上の鏡は割れていた。
部屋全体が燃えて真っ黒な炭と化している。壁紙がはがれ、天井もはがれて垂れ下がっていた。
「………はあ、…夢、……」
乱れた息を整えるため、大きく吸って、大きく吐く。
体中が熱気に包まれていて、背中を生暖かいものがつたっていくのを感じた。
この異様な状態の部屋で、悪い夢を見て目を覚ます。
いつもの朝だった。
世界はいつもの通り朝を迎え、陽が昇り、鳥が鳴く。
この世界がいつも通り回っていくことだけが、戦いながら生きていく者の、唯一の救いだ。
遅れて、携帯の目覚ましアラームが鳴り出した。
(あの後から、この夢ばっかりだ。)
十六の頃からで、と指折り数えて、もう四年経っていることに気がつく。
ベッドを這い出し、一つしかない窓を開ける。足下には無数の半紙が散乱し、部屋を埋めつくしていた。
足の踏み場もないほどの紙は、全て墨で文字が書きなぐられている。
「おはよう。やこーくん!」
窓の外から入る風を受ける八神に、爽やかな声がかかる。
それは、夢の中で八神を呼んだ声だ。
たった今、八神が目を覚ましたベッドの隅に、巫女服の少女が佇んでいる。肩まで届く髪を一つに束ね、俯いた口元は笑っている。
「いい朝だね!朝ごはん、何か作ろうか?」
「やめろよ」
何かを振り払うように、頭の横で八神が手をふる。
その不機嫌な声にも怯まず、声は楽しげに続ける。
「厚揚げのお味噌汁? それともいなり寿司?」
「雪解に化けるのはやめろよ!」
ベッドを振り返り、声を荒げる八神。
その直後、顔がくっつくほどまで距離をつめた巫女服の少女は、下からすくいあげるように視線を合わせた。
その目は憎しみに満ちている。
「お前が殺したくせに。」
「………っ!」
息をつめ、半歩下がる。
「…あ、五行護法…」
人差し指と中指をたて、唱えかけた八神の頬を、巫女服の少女は容赦なく平手で打った。
「うるさい。」
僅かに乱れた髪を、耳にかける。
「おれはこの姿が気に入っている。人間風情が指図をするな。……あぁ、それとも見るに耐えないか? ご執心だったものな。」
言葉を返せない八神を上目遣いに見上げ、少女はケラケラと乾いた笑いを発した。
苦しげな表情の八神の肩に、すり寄って額をこすりつける。
「四年経ってみてどうだ? 気が変わったか? 人間は短い時間でも、心変わりをする生き物だからな。そろそろ自分だけでも、この苦しみから解放されたいと思ってきた頃合いじゃないか?」
「お、俺は…」
また八神は半歩下がり、少女は一歩つめる。
この狭い室内では、確実にいつかは逃げられなくなる流れだ。
最悪の結末は、そこまで差し迫っていた。
その時、
ピンポーン
平和な音が鳴り響いた。家のチャイムだ。客人らしい。
自然と外へつづく扉へ視線をうつす八神。
扉の向こうから、ノックが数回。
「八神くーん。起きてるー?」
さらに平和の鐘が鳴る。この能天気な声は、
「な、七春センパイ……。」
「ちぇっ」
表に人がたずねてきたことで、巫女服の少女は子供のように不満の声をあげ、八神から離れた。
体が白く濃い雲に包まれ、その雲が再び霧散する時には、少女の姿も消えていた。
ほんの一瞬で姿を消した少女。
脱力し、部屋の中に座り込む八神。
心拍数が上がっている。体の熱は、いつのまにか頭まで上がっていた。オーバーヒートした脳味噌は、すぐには正常に機能しなかった。
二分間の沈黙のあと、止めてなかった携帯のアラームが、なりっぱなしであることに気がつく。
二度目のチャイムとノック。
(出ないと……。)
反射的に立ち上がり、フラフラしながら扉にとりつく。足が震えてうまく立てない。
ドアノブに手をかけ、体重をかけて扉を押し開けた。
まぶしいほどの日光と、同じ程明るい笑顔が、飛び込んでくる。
「お、ちゃんと起きてるな八神くん。オハヨ」
「七春センパイ…。」
力なく呼びかけた八神の様子に、七春は眉間に皺をよせる。
「大丈夫か?元気ないな。」
「大丈夫ですよ!」
精一杯、いつもの声を絞りだす。
「それよりなんでセンパイが。……はっ! 家まで昨日の青椒肉絲代を催促しに来たんですか!」
「ちっがいますー。ばーか。」
「来月まで待って下さい。」
「だから違うって。」
ふざけてチョップを食らわす七春。優しすぎるくらいに寸止めだ。
てっきりホントにぶつけられるものだと思った八神はキュッと目を閉じる。
その八神の頬に、七春の大きな手が触れた。
「あれ、ここ赤くなってね? 痛くないか?」
「痛くないですよ。赤いですか?」
少女に平手で打たれたところだ。正直に言うと、あまりに強い力で打たれたので相当痛い。
ほんとかよ、と短く言って七春の手が頬を癒すように撫でる。あたたかくて、気持ちいい。
「あはは、寝相悪いから。変なアトがついたのかな。」
無理して笑う八神に気がついたのか、七春は撫でる手を止めなかった。
ただ、何も言わない。
「……センパイ、俺、大丈夫です。」
「うん。いいから。」
耳元で囁かれ、抵抗しないまま撫でられる。おとなしい八神に、七春は長く息を吐いた。
「あの子供の霊を救ったあと、ここまでお前を車で送って。結局最後までお前が元気だったから、逆に心配になって顔を見に来たんだ。けど、来て正解。」
やっぱり無理してただろ、と少し説教くさい声色の七春。
さすがに声優。囁く時とも普段の声とも違う。これは演技とは違うが、意図して声を操っていることには変わりない。
実際には昨日姫川の家であった騒動とは全く違うところからきているキズや疲れだが、今の八神には勘違いの優しさでも嬉しかった。
「霊の次は俺の心配ですか? 飽きない人ですね。」
「お、やっと普通に笑った。しかしお前寝癖すごいな。」
「いつも通りです!」
「普段からそんな爆発してたらマズイだろ。」
七春に冷静につっこまれるほど、八神の頭は鳥の巣状態になっている。今鳥が飛んできたら、そのまま新居にされそうだ。
「すぐ直して来ます。だがら朝ごはん奢って下さい。」
「仕方ねぇな。モーニング奢ってやるか!」
言って、七春は扉の横の壁にもたれかかる。
「ここで待ってるから、早くしろよな。」
「とか言って帰らないでくださいね!」
「なんで疑うの」
笑いながら、部屋の中へと引き返す八神。
改めて、煤と黒かびで真っ黒の室内をじっと見つめる。そこにはもう、自分以外の何者かの気配はない。
洗面台の上、割れた鏡に姿をうつす。鏡にうつる八神は、ムキュッと笑った。
「大丈夫、いつもの俺だ。」