しっかり握ってくださいね
トンネルの中に人がいるのが見えた。
それは、人影などという曖昧な表現をされるようなものではなく、確かに人だった。
男だ。
というか、オッサンである。
丸い輪郭に短い髪。無精髭。
首には汚れたタオルをかけていた。
アンダーは白のタンクトップで、上から作業着のようなものを着ている。薄汚れたそれは泥がはねていた。
全体的に、小汚ないオッサンのイメージだった。
オゥオゥ オゥ オゥ
声が聞こえる。
声なのか、なんなのか、よくわからないが。喋ろうとして声に成りきらないような音だ。
男は、走っていた。
後方を気にしながら走る。
だから、体の向きに対して首の向きがあっていない。
後ろからはサイレン。
赤色灯を光らせ、殺気をまとってパトカーが追いかけてくる。
街中でもたまに見かける、見慣れた白黒カラーだ。人生がいくら長くても、できれば死ぬまで追いかけられたくない車である。
警察車両。
男は逃げていた。
泡も食えないほど、喉はカラカラだ。足元もおぼつかない。
まともな声もでない。
息を吸うと、変な音をたてながら、辛うじて肺に入り込んでいく。
少しメタボ体型の男は、無駄な脂肪をブルンブルン揺らしながら、必死にトンネルの出口を目指していた。
光のさす出口は、もうすぐそこだ。
だが、相手は車。走って逃げきるのは、難しい。
オゥオゥ オゥ……
喉が空気を吸ったり吐いたりする、苦しそうな声を引きずりながら、男は走った。
もう、右も左も構っていられない。
車道を縦横無尽に走る。
そして、
トンネルの出口側から走ってきた車が、猛スピードで男と正面衝突した。
吹き飛んだ男は宙を舞って地面に落ち、追尾してきていたパトカーの急ブレーキも間に合わず、今度はパトカーの車体の角に殴られた。
地面を転がって、壁に当たって止まった。
唐突に現れたそれは、その瞬間に消えた。
まるでそこには初めから、誰もいなかったかのように。
「え!?」
と、上木が声をあげる。なんの前触れもなく。突然に。
でして、また黙りこむ。
ので、
「なんなの。うるさいよ。」
と七春が短くコメントした。
普段、人のことをとやかく言えないほどウルサイ七春。
時刻は深夜二時をすでにまわっている。
粒の細かい霧吹きのような雨が降っていた。
足下はビジョ濡れだが、それほど強い雨ではない。
真っ暗な国道を撮影用のライトが照らしている。
横たわる道路を飲み込むトンネル。
その前に集まっている、キャストとスタッフたち。
心霊ロケにてトンネルに潜入して間もなく、さっそく霊が現れていた。
写真を撮れば顔がうつりこみ、七春が単独潜入をすればカメラにバッチリ姿がうつった謎の幽霊。
もともとは七春がパーソナリティをつとめる声優ラジオから派生したこの心霊ロケ。
最近、心霊ネタが多くでてくるラジオにちなんで、心霊スポットにマジで行っちゃおうという、イッちゃってる企画である。
そして、これだけ不可解な現象が起きてくれれば安泰だ。
「な、なんかいた!」
そう言って、トンネル内部の路上を指さす。パーソナリティ七春の親友、上木詩織。
霊感は、全くない人だが。
「なになに、もー。ホントにやめて。」
こういった現場には慣れていない姫川が、心から怯え、震え上がる。
七春が霊に遭遇してきた直後だ。立て続けに、今度は上木が騒ぎだす。
国道に腰を下ろす巨大な口。このトンネルに何かがいることには、間違いないが。
「何かって、何? てか、詩織くん幽霊見えたっけ?」
七春が不思議そうに問いかけて、
「見えない、見えたくない!」
というもっともな意見が返ってくる。
手を振り振り、否定する上木。
「………何が見えましたか?」
集められた四人の声優の中、唯一視る力のある八神が、不思議そうに聞き返した。
上木が見たものが幽霊ならば、当然ながら八神にも、その姿は見えているはずだ。
「いや、なんか、七春さんの言うようにオッサンだったと思う。首にタオルかけていて、作業着みたいなのを着た人が、パトカーに追いかけられていたよね?」
いたよね?と言われても、全く見ていない姫川と七春は、カクリと首を傾ける。
そして視えているはずの八神も、一拍遅れて首を傾けた。
「あれ!? 見えなかった!? うそーん!」
「というか、七春センパイが遭遇した霊なら、霊杖の光に怯えて奥の方に行ってまいましたが。それに、霊ならともかく、パトカーとは?」
パトカーはパトカーである。
車である。
幽霊になったりはしないだろう。
「あ!」
今度は七春が声をあげる。
上木の次は七春だ。
また何か霊的なものが見えたのかと、怯え半分、姫川はウンザリしている。
誰だってそうだが、これ以上怖いめにはあいたくない。
天気も、幾分悪い。
「今度はなんですか?」
手にしている杖で肩をトントン叩きながら、八神が七春に問うた。
七春はピシッと上木を、正確にはその腰のあたりを、指さす。
「詩織くんが持ってるそれ、ユーミン!」
上木の腰のベルトに挟みこんである、黒焦げの棒に弦が垂れ下がっているもの。
弓だからユーミン、と七春が安直に名付けた怪しものである。
「鞄に入れてたのに! てか、それは普通の人が持ってたら危ないんだぞ!」
ユーミンは、七春が他に持っている怪しもののマッキーよりも自然回復力が乏しいため、七春が鞄に入れて保護していた。
やはりマッキーと同じように、名付けた七春が傍にいないと危険だと八神は言う。
が、
「七春センパイが傍にいるうちは大丈夫ですよ。」
と八神がすかさずフォローを入れた。
「それよりも、上木センパイがこれを持ってるということは、幽霊を見たというのは、もしかすると……。」
八神が言いかけ、
「そっか!記憶だ!」
七春が秒速で閃いた。
コロコロ展開していく会話に、乗りきれない上木と姫川。そしてスタッフたちが、ざわめく。
一体、今何が起きているのか?
上木にも見えたオッサンの霊とは?
この場所にいて、我々は安全なのか?
「何? ヤバイの? 真剣にもう嫌なんだけど。」
姫川さんの顔が蒼白なので、意地悪な八神も、ここは焦らさない。
説明しますね、の一言で全員の注目を集める。
そしていつも通りの明るいテンションを無理矢理呼び戻してきた。
結論を述べる。
「上木センパイが見たのはおそらく、この場所に残っていた記憶です。一時的に爆発した強い感情は、その場所にこびりついて残ることがあるんです。」
七春はふいに、夏祭りの日を思い返す。
遊歩道のはずれにある縦穴に落っこちた時、自分が見たもの。
それは、いつのものかもわからない、八神の記憶。
まだ七春に出会う前の八神の、後悔や孤独、疑心が土地にしがみついて残されていた。
まだ頼りない、弱々しい八神の姿。
(アレと同じように、ここにも記憶が残っていた。)
そして、その記憶はおそらく、ここにいる霊と同一人物だろう。
写真に写った霊と、七春が出会った霊。
そしてユーミンを偶然手にしていた上木の見た記憶。
共通点は、『首のまわりにモヤモヤしたものがかかっているオッサン』だ。
全く同じ男が、あらゆるパターンで目撃されている。
偶然ではないはずだ。
「上木センパイが持っているそれは、本物の霊的アイテムで、『怪しもの』といいます。その場に残る記憶を、可視化する力があります。便利なんですよ!」
八神が明るく言い放つ。
明るく言い放つが、内容はいたって奇妙。
にわかには信じられない発言だ。
「つまり、詩織くんが見たのは、ここにいる霊が生きていた頃の記憶、か。死ぬ直前の強い想いが、ここに残った。」
七春が冷静な口調で喋っている。
と、気味が悪い。
なんだか天井が下になって、床が上になったような感覚だ。あのバカな七春が冷静に解説するなどと、なんの前触れかわからない。
その場の全員が、ムズムズするような違和感を必死にこらえた。
そんな中、八神が七春にそっと何かを耳打ちし、七春は軽く頷く。
「ちょっと、きいて!」
とパーソナリティが一声あげれば、視線が集まる。
いい加減、雨に濡らされてシャツが体にはりついてきた。
「これ以上の調査は危険と判断し、ここでトンネルでの撮影は中止にします!」
トンネルへの侵入を防ぐかのように、片手を前につきだして、七春が言った。
こうして指示を出していれば、本当に心霊声優であるかのようだ。
だが実際は、八神の指揮である。
「俺と八神くんで残って、霊がロケについて来ないようお祓いしますので、みんなはバスに戻って待機!オッケー?」
さすがは声優なので、そういう演技は得意な七春。
そして七春は、アドリブに強い。
一同、顔つきが深刻になったものの、反論は上がらなかった。
重ねて言うが、こういうロケをやっていても、霊の類いを信じている人ばかりではない。
だが今になっては、そういうようでもなかった。
誰もが疑わなかった。
この場に存在する恐怖を。
つまり撮影を中止するのは単純に、その恐怖が自分に降りかかることだけは避けたいということだ。
こうして、世に公開される、『声優ラジオから派生した特別企画』としての動画の撮影は終わった。
で、
ここからは公開されない部分になるわけだ。
七春のウマイ言い訳通りに、八神と七春の二人だけが、件のトンネルの前に残っていた。
カメラはないが、照明だけは残してくれているおかげで心強い。
上木や姫川などのキャストを含め、その場の全員が退避した後だった。
「結局、こうなりますか。」
と眠そうな顔で言う八神。
交通がないのをいいことに、呑気に道路に突っ立っていた。
時刻はいよいよ、大変なことになっている。
「八神くんと俺で対処するっていう、いつものパターンねー。」
という七春も、先程まではビビりまくっていたくせに、今はふわふわと大あくび。
「眠たいですか?」
八神がたずねる。
こんなやりとり、前にもあった。
「うーん。俺、ラジオやってから来たから超眠いんだよねー。車の中でもあんまり寝てないし…。」
と言ってウトウトし始めるので。
「みゃあああああ!!」
と八神がわざと大声をだす。意地でも寝かせないつもりである。恐ろしい。
「センパイがあの霊を助けるって言うから、俺はここにいるんですよ。センパイが寝ちゃうなら、俺は帰りますからねっ!」
八神からすれば、霊なんてものは日常的に視る光景だ。
それをいちいち、遭遇するたび助けようとはしない。
「だいたい、上木センパイの話が正しければ、パトカーで追いかけられて死んだ霊ですよ。犯罪者じゃないですか。わざわざ助けてなんの意味があるんですか?」
相手が七春である時点で答えはわかりきったような質問だが、八神はあえて口にした。
案の定七春は、ごく当たり前な顔でこう返す。
「死んだ人間助けるのに、いちいち意味とか要らないだろ。別に犯罪者でも変態でもいいじゃねぇか。」
「変態はさすがにマズイでしょう。どんだけノーガードですか。」
「いいから、早くなんとかして。本格的に眠くなってきた。」
本格的に情けない台詞の七春。
ため息をついて、八神は持っている霊杖を七春に押し付けた。
(……なんて、予想通りの回答をする人だ。)
そして、空いた両手をパタンと合わせる。
「うつしよから妖しものをお頼み申す我が名は、神木を奉じ境界の巫女の命を継ぐ者なり。」
八神の小さい手のひらから、ニョキンと飛び出す艶のある濃い緑の葉。
「神命に於いて疾く成しませ。……さ、七春センパイ。こっちをどうぞ。」
八神が自身の手から引き抜いたのは、細い木の枝。
それが何かは、すぐにわかった。
七春はその枝に、よくない思い出がある。
「や、やだっ。」
霊杖をギュッと両手で握りしめ身を引く七春。
に、詰め寄る八神。
「一番初めに教えたやつだから、ちゃんとデキますよね?」
怖いくらい優しい声で、問いかけてくる八神。優しい笑顔も、八神の顔に張り付いていると、サタンの微笑みに見える。
「そ、それ、最初の時の枝だろ…。」
とても悲しい声で七春が訴える。
春先に、この小さな枝を使って、トイレの霊を助けだした日の記憶がよみがえった。
足にしがみつく、丸焦げの女霊。
八神の手に握られているのは、『霊木』だ。
「はい、しっかり握ってくださいね⭐」
八神が満面の笑みで言った。
トラウマ、ふたたび。




