クッキー
あれから、めまぐるしく時間は過ぎた。
事件がようやく落ち着きはじめたことを、この環境に慣れていないまでも、感じはじめている。
彼女の名前はシリカ・フィリィノリヒ。
霊能力者だ。
「雪解」
台所に立つ少女に呼びかけた。
手伝わせてもらっている浄霊の仕事から帰ってきたところだった。
声をかけた直後、室内で空気とせめぎあう謎の異臭の存在に気づく。
「むっ………」
咄嗟に、鼻と口を覆う。
明るい室内。薄黄色の壁紙に、磨かれた窓ごしに、光があたっている。
本来、清潔感あふれる場所でなくてはならないはずだが。
「この臭いは……なに?」
「あ、シリカさん。お帰りなさい。」
と振り返った少女。
臓器が吸い込むことを否定する程の臭いの中、一人だけ平然として台所に立っている。
巫女装束の上からピンク色のフリルのついたエプロンというミスマッチな格好だ。
彼女の名前は久遠院雪解。
この土地で、怪しものと戦う巫女という役割を担っている女の子だ。
年頃は十代半ば。それほど差がないおかげで、この頃はだいぶ打ち解けてきた。
「ただいま」
と言ってから、
「貴女、この匂いは何?」
と訊ねる。
敷居をまたぐだけでも、「せぇの」と心の準備が必要だった。
鼻の奥にツンとくる刺激臭をこらえて中に入る。
黒い泡に侵食されたシンク、窓は開いていないらしい。換気扇はまわっているようたが、いっこうに換気作業が追い付いていない様子だ。
正方形の狭い空間はとっ散らかった様子で、中央に据えたテーブルの上にも、作業台の上にも、食器や台所用品が転がったり、積み重なったり、雪崩を起こしたりしていた。
汚い。
「やこーくんが早く目を覚ませばと思って、栄養ドリンクを作っていました。」
と返す雪解の顔には、緑色の液体がはねている。プレデターの血液と同じ色だ。
淡々と喋る大人顔負けの落ち着いた空気。出会った頃から、雪解はこれが通常運転だ。あまり感情が面にでることはないらしい。
『やこーくん』とは、怪しものに憑かれて暴走していた少年の名前で、あれから時間が経っているのに、彼はまだ目を覚まさない。
原因は、もしかすると怪しものだけではなく、雪解のドリンクにあるかもしれないが。
「そう。……何が入ってるの?」
「霊草と納豆と生姜とピクルスと干物と……。」
「干物? なんの?」
「…………。」
「何故黙る。」
ちなみにその他数種の異物や雑草をペースト状にしたものを、雪解は栄養ドリンクと呼んでいます。
臭いが酷くて入り口から入れないので、シリカはその場で腕をくんだ。
「いい女だと思ったら、意外と家庭的なところはズタズタなのね。」
辛辣な言葉を投げつけてみる。
一瞬、何か言い返そうとしたのか、雪解の丸い頭がピクリと動いた。
が、何か考えているような間があった後、黙って手元の草を刻む作業に戻る。
なんの草だかわからないが。
「言い返さないの? …ホントは一人で、色々考えているのかしら。」
思い切って、真意をつついてみる。
「いえ、そんなことは……!」
勢いよく雪解が振り返った。
そして、その声の頼りなさが、かえって明白な答えになる。
何かを一人で、抱え込んでいると。
「どうせ私は、本来ここにいないハズの人間だから、いいじゃない。話してみれば?」
件の『やこーくん』が、鏡の怪しものに憑かれた日。
シリカは、四年後の時点からここに「落ちて」きた。
はじめのうちは、言うまでもなく、右も左もわからない状態だった。雪解を経由してあらゆる情報を手にしていくことで精一杯だった。
それでも今ならわかる。
怪しものが人に憑くということが、どれだけ大変な事件なのか。
「じゃあ少し、お話しに付き合ってくださいますか。」
戸惑いながら、雪解が小さな声で言った。
外は天気が良い。
迫るような入道雲に、その背景の空は青い。濃い青を見ると、ここに来る前に参加していた心霊ロケで、パーソナリティをつとめていた男を思い出す。
確か名前は七春だったか。着ていたシャツが、この青と同じ色だった。
「いいお天気なのでお外で。」
という雪解の意見を尊重して、二人は拝殿の前の階段へ移動した。
今日は、神社の境内も人がまばらだ。
階段の三段目くらいに腰かける雪解につられ、シリカも横に並ぶ。
「作戦会議をするときは、いつも決まってこの場所でした。私と土地神さまと。荒天鼬とやこーくんと。」
まるで、ずいぶん昔を思い出すように、雪解は遠くを見つめて言った。
神社の前の道を通りすぎていく車の音や、人々の喧騒もどこか遠い。
透明なアクリル板で、二人のまわりを囲んでしまったみたいに。
そこにある景色はよく見えているのに、音だけが遠くに聴こえる。
世界が曖昧だ。
「怪しものは、その四人で集めていたの?」
「はい。でもやこーくんが、どこであの怪しものに憑かれたのかはわかりません。普段は単独行動なんて、しない人だったので。」
『やこーくん』が憑かれたのは鏡の怪しもの。それは鏡にうつした相手の能力を奪う力があった。
怪しものに憑かれた八神も、何人かの巫女の力を奪っている。
「怪しものって人に憑くものなの? 物なのに。」
輝く金髪を落ち着きなく指にからめながら、シリカが問い返した。
「そういう話は、私もきいたことがないです。今回がはじめてでした。やこーくんはもともと、霊力が高い人だったので、それが関係あるかもしれません。あとは怪しものと……。」
言いかけて、雪解は中途半端に言葉を止めた。
それから、無理にパズルのピースをはめるように、違う言葉で続ける。
「やこーくんから、怪しものが離れてよかったと思います。その怪しものも、神社の外まで飛んでいって壊れてしまっていたので、無事に回収できましたし。…後の問題は、消えてしまった私の巫女の力だけですね。」
「そうね。」
直射日光が、肌の露出部分をジリジリと焼いている。同じようにジリジリと焦らされるような気持ちが、雪解とシリカの胸の中に渦巻いていた。
『やこーくん』が弾いて飛ばした怪しものの鏡は、すぐ傍の塀を乗り越え外に出てしまった。そして、地面に当たったのか、派手に砕けてしまっていたのだ。
その鏡に奪われた雪解の力の行方も、依然としてわかっていない。
そのことが何よりの問題であり、虫歯のように雪解を苦しめ続けていた。
(形あるものではないのだし。もう無くなってしまったのかしら。)
と思ってはみたものの口には出さないのは、雪解を傷つけてしまいそうだからだ。
シリカはこれでも、優しい女の子なのである。
「貴女の他にも、何人かの力を奪われたという話しだったでしょう。貴女以外の人の力はどうなったの。」
「やこーくんの中に残っています。やこーくんはおそらく、貯水槽みたいに、鏡が奪った力を貯めておくために利用されていたはずですから。」
貯水槽。と雪解が言うと、なんか可愛いらしい響きになる。
シリカの頭の中で、小さな鏡が奪った力が、もこもこと『やこーくん』の中に貯蓄されていくイメージ映像が流れた。
「あぁ、なるほど。じゃあ彼は今、巫女の力を持っているのね。でも貴女の力は、鏡に取り込まれてすぐだったから、彼の中に貯まらずに、鏡と一緒に砕けてしまった、と。」
話をまとめて、シリカは頬杖をつく。
雪解はまだ、石になってしまったみたいに、じっと遠くを見ていた。
何年も巫女として生きてきて、この先もそうであり続けると思っていた。
だからこそ雪解は、雪解自身が、巫女として生きていない自分を想像もできない。
「不思議ですね。」
唐突に雪解の口がカパンと開いて、そんな言葉がでた。
「昔は、自分が巫女じゃなかったら、お花屋さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか、色々考えていたんですが。」
「子供の時は、みんなそんなものよ。」
「はい。でも今は、巫女の仕事ができないことが恐ろしい。……巫女じゃなくなったら私、どうすればいいんでしょう。」
子供の頃は夢があって、可能性の幅もひろかった。あれになりたい、これになりたい、という夢があって、夢の中なら何にでもなれた。
大人になれば行ける場所や、できることがもっと増えて、もっともっと可能性がひろがると思っていたのに。
案外に大人になってみれば不自由だ。
体が大きくなる代わりに、可能性はどんどん削られていく。知識の代わりに想像力を手放す日々。
巫女として生きていない自分を、想像すらできない今の自分。
「巫女の力が無くなったなんて、絶対に誰にも言えません。やこーくんが知ったら、きっと自分を責めるでしょう。そういう人です。土地神さまにも知られるわけにはいきません。力の無くなった巫女は、土地神さまが責任をもって処分しなくてはいけませんから。そんなことをさせるわけには……」
小さい拳を握りしめて、雪解はそこまでを早口に言った。
なかなか表情からは読み取りづらいが、一人で何かを抱え込んでいるという、シリカの予想はあたったようだ。
思った以上に、精神的にも不安定ならしい。
「貴女はすぐ、そうやって一人で…。」
「だって、土地神さまが外からお帰りになったら、私に力が無いことくらい、一目でバレてしまいます。それまでに、私だけで、なんとかしないと。」
思い詰めすぎだ、と言おうとしてから、シリカは自重した。
雪解が巫女として過ごしてきた時間は、シリカの知らないたくさんの時間でできている。
軽率な発言は、彼女をかえって悩ませる結果になりそうだ。
「言い分はわかったわ。」
言って、シリカは炎天下に立ち上がった。
黒いドレスについた、白いフリルが柔らかく揺れる。
「でも、誰にも相談しないで一人で解決しようとするのは、よくない結果を招く気がするの。……ホントに。」
シリカの湖底色の瞳を、雪解がまっすぐ見つめ返した。
その瞳が、戸惑いにゆらぐ。
ではここで通常運転の七春さんを見てみましょう。
「八神くん、マジで頼むからゲームで使うクッキー送って!コイン貯めたいの!」
「そこまでしてイベントキャラが欲しいんですか。」
二人がくだらない会話をしているのは、八神の自宅の前だった。
ボロいアパートが、夜の闇にシルエットを浮かび上がらせている。部屋の中の惨状を知られるわけにもいかないので、八神としては、ここで七春を追い払いたかった。
ここまで送ってもらっておいてアレだが。
「くっそ。なんで買ってもでないの。一番好きなのに。こうなったら、意地でも欲しい…。」
七春がよくわからない意地を見せている。
たった今まで、穴に落ちたり、池に落ちたり、爆発に巻き込まれて死にかけていたとは思えないテンションだ。
目の前でくだらない意地を見せる七春を、八神は不審物を見る目で見上げている。
まるでごく普通に、二人でドライブにでも行っていたようなテンションの軽さだ。
「七春センパイは、どんな時でも七春センパイですね。」
だがその軽さが、八神にとっては有り難い。
明らかに異質なものと向き合っている自分を、否定されないこと。
同じように危険な現場に立って、一緒に戦ってくれたこと。
それが終われば通常運転に戻って、いつも通りに接してくれること。
それ、全部が。
「ゲームのクッキーですね。了解、あとで送ります。」
「やった!さんきゅ!」
たかだかゲーム内の動力一つで、七春は嬉しそうに笑った。
「こちらこそ、送ってもらって有り難うございました。気を付けて帰ってくださいね。ユーミンの名前を七春センパイがつけたので、また持って帰ってもらうことになっちゃいましたけど。」
「うん。大丈夫。八神くんも、幽体離脱しないように寝てね。」
「しませんよ??」
大きく手をブンブン振りながら遠ざかっていく七春を、見送る八神。
アパートの上は、きらめく星の海が、綺麗だった。
(俺はやっと…、ひとりぼっちから抜け出せたのかな、雪解。)




