バチが当たればいいのに。
男は走っていた。
夜食を買ったコンビニの前から、誰かにつけられている気がする。
(まさかな。)
物騒な時代になってきたとはいえ、男がストーカーに後をつけられるなんて。
まさか、ないとは思うけれど。
(でも、さっきからこの足音は。)
カーン カーン
後ろをついてくるのは、ヒールの音。どう考えても女だ。
昔付き合っていた女も、やたら踵の高い靴を履いていたから、聞き慣れたこの音を聞き間違えたりはしない。
女に後をつけられる覚えなんて、当然、ない。
だが後ろをついてくる足音は、男が立ち止まれば止まり、走り出すと追いかけてくる。しかも音がついてくる方を振り返っても、そこに人影はない。うまく隠れながらついてきているらしく、正体は見せない、足音だけの女。
(くそ、なんなんだ!)
後を追ってくる足音から逃げ続け、男は夜の街を走りだした。
信号が変わるのも待てず、車道をわたる。街路樹の横を通り抜け、反対側の歩道へ入り、さらに走った。
背の高い高層ビルの角を曲がったところでやっと壁に背をつけて立ち止まる。
(落ち着け。相手は女。しかも一人だ。)
薄暗い路地裏へ誘い込めば、むしろこっちが有利だ。問いただして正体をつきとめてやる。そう思い、曲がり角に体を隠し、女が自分を追ってくるのを待つ。
走ったせいで、息があらい。
深呼吸二回で、男は息を殺した。
カーン カーン
足音は確実に近づいてきている。
はじめは遠くから聞こえていた音が、今ではすぐそばまで迫ってきている。
曲がり角の向こうから、細長い影が伸びてきているのも見えてきた。
(きやがれ………!)
これといって武器らしい武器もないが、とりあえず男は身構えた。
しかし、その時。
カーン……
物寂しげな響きをあげ、ヒールの靴音は唐突に止まった。
影の動きもピタリと止まる。
(どうした?)
角を曲がるまでついてきていたのだから、男を見失ったわけではないだろう。
しかし、足音はそれ以上近づいてくることはない。
背をつけている壁がいやに冷たいのを感じながら、男は角の向こうの気配に集中する。
(……待ち伏せがバレたか?)
気配をよみながらも男がそう思い始めるのと同時、曲がり角の向こうから伸びていた影は、やがて少しずつ後退していき、消えた。
(影が消えた。)
理由まではわからないが、どうやら後をつけてきた女は、ここへきて引き返したらしい。ヒールの響くような音も、もう聞こえない。
「はあ……」
押し殺していた息を吐き出して、男は座りこんだ。
緊張して強ばっていた全身の筋肉が解れていく。固いアスファルトの地面に手をついて、脱力する。
安堵すると同時に、怒りが込み上げてきた。
(なんだったんだ。)
近づいてくる足音が、耳について離れない。嫌な悪寒までしてきた。
何故か、今になって心拍があがってくる。
恐怖か、怒りか。
「………くそ、」
悪態をついて、男は立ち上がった。
帰ろうとして、壁に手をついた時、コンビニのレジ袋がないことに気がつく。
「あれ。」
追いかけてくる足音の気配をよむのに集中していて、すっかりその存在を忘れていた。
足下に目をおよがすが、見当たらない。
ニャー……
鳴き声のようなものに顔をあげると、一匹の猫がレジの袋を口から引っ提げていた。
中身のにおいにつられたのだろう。
しかも小柄な三毛猫だ。
「あいつっ……」
男と目が合い、猫は袋をくわえたまま、まわれ右をして走りだす。
「待てコラ!クソ猫!」
男も走りだした。
小さいくせにすばしっこい。
しなやかな動きで駆けていく猫を追いかけ、曲がり角とは逆方向、道の奥へと進んでいく。
(まったく、今日はさんざんだな。)
猫を追いかけ走っていくと、道の奥から、また一本外れた道にでる。
歩道があり、人通りも増えた。
街灯の明かりをやけに眩しく感じながら、猫の後ろ姿を探す。
ニャー……
挑発するように、車道の真ん中で男の方を振りかえる三毛。
前足を器用に使って、地面に落とした袋の中から、鮭弁当をひっぱりだす。
あいつここで食う気か。
「させるかーい!」
ガードレールをダイナミックに飛び越えて、男は車道へ飛び出した。
丁度、横断歩道の信号が、点滅から赤に変わる瞬間だった。
この日は、月のでていない夜だった。
関東某所のスタジオで、本日もごきげんに始まる声優ラジオの収録。
パーソナリティー七春解と人気声優が季節にそったお題でトークを繰り広げる番組。
『パーソナリティーは七春さんですよ!』第十三回のゲストは、絶賛活躍中の男性声優、姫川かぐや。
「というわけで始まりました、パーソナリティー七春解です!」
「はい、ゲストの姫川です、が、七春さんはどうしたの?」
開始早々にモチベーションの低い七春に、姫川がツッコむ。
「今日は……このテンションで、いこうと思います……。」
「いやいやいや。どうした? なんか、声も…おかしいね?」
的確に指摘してくる姫川に、七春はげんなりした声で答える。いつにも増して、人相の悪い七春さんである。
「そのことなんですけど、姫川さん。」
「はいはい。」
「叫びながら走ると、喉が疲れるじゃないですかぁ。」
「はぁ。そうですね。俺あんまり、叫びながら走らないけど、まあ、そうですね。」
「あと、熱い空気を吸うと、喉の奥がヒリヒリするじゃないですかぁ。」
「それもう相当熱い空気だね。」
「その相乗効果で、ここ数日俺はずっと喉の調子が悪いんです。」
「は?」
ごく当然のリアクションで返す姫川氏。
「貴方ここ数日、いったい何をしてたの? ていうか、声優、喉大事ぃですよ?」
「数日というか、一週間くらい経つのかなぁ? それくらい前にですね、全身火だるまの女に追いかけられまして。」
「なにやってんの」
「それからというもの喉と機嫌のコンディションが最悪。」
「次からは火だるまに追いかけられる前に気がつこうね?」
「うん……。というわけで本日のお題いってみますか!」
「イッちゃってくれつか!」
無理矢理テンションを跳ねあげる二人。
「くれつか、ってどこの方言なんだろな。さて、今日のお題は『花見』です!」
「散ったね~。」
花見の最盛期は一週間くらい前にすぎている。
「春編ってぇ、一応十五回で終る予定になってるんですよ。」
「はい。」
「だからそこから逆算したとしても、第十三回を録ってるこの時期が、もう春もそろそろ終わり頃だっていうのは、わかるじゃないですかぁ。」
「まぁ、ちょっと考えればね。」
答え辛そうに姫川が返す。
「だからこの一番春らしいお題を、もってくるタイミングを。んんん。」
「ちょっと惜しかったね。」
ちょっと残念な感じになるラジオ全体の空気。しかし、そこをうまく取り持つのが、本当のプロフェッショナル。
「でも、今年は桜が咲くの早かったし。それに俺、花見に関してならいいネタがありますよ。」
余裕の返しをする姫川。
「ありますか!今日来てくれたのが姫川さんでよかったぁ!」
「そこまで?」
わざとらしく涙をぬぐう七春に苦笑しつつ、パンと手を叩いて話し始める姫川さん。
「今年の花見の話しなんですけど、だからホント、一週間ちょい前くらい?」
「はいはい。」
「に、まあ、俺が出演させていただいてたアニメの、小さいイベントみたいなのがあったんですけど。そのイベントが終わったあとに、簡単な打ち上げ? 的なことをやろうという話しになりぃ、みんなでお花見にいったんですよ。」
「いーッスね」
「その時いたキャストさん、結構こまかい役の人も来てたから大勢いて、その中から六人くらいでいったんです。俺と、詩織くんと、たっつん……竜一さんと、あと志儀沼さんと、あげはちゃんと、あとヤコーくんとで。」
「ヤコーくんて、八神夜行くん?」
「そーそー。で、まあ時間もちょっと遅くなったんで、夜桜をみようって感じになって。で、川沿いに桜並木が続いてるとこがあって、そこをずっと歩いてたんですけど。」
そこで一度言葉を切って、再び姫川は続ける。
「その時、桜が咲き始めくらいだったんだけど、そこそこ綺麗だったんで、動画を撮ってたんですよ。」
「おお」
「ケータイで」
「うんうん」
「したら妙なものが写りこみまして」
「OH!」
一拍、ラジオに不自然な沈黙がおとずれる。
「ケータイに動画入ってるんですけど、ラジオじゃ伝わらないんで、口で説明しますね。ひたすら桜を撮ってたんで、動画撮ってた当時は気がつかなかたんですけど。」
「はい…。」
真顔で返答する七春。
「俺らが歩いてた桜並木の一本むこうの道を、三輪車が通りかかるのが、画面端に映ってるんですね。ただ…」
雰囲気を煽る狙いか、姫川がぐっと音量を絞る。
「その三輪車、誰も乗ってないんですよ。でもペダルが、回ってんの、ちゃんと。誰かがこいでるみたいに。」
「OH……」
「思えばあの時、変なこといろいろあったんだよな~。あげはちゃんが、やたら足下を気にしてたり、ヤコーくんは、迷子みつけたから親探すとか言って、いきなりいなくなっちゃったり。」
こういうのって、心霊現象?
首をひねりながらそう呟く姫川氏。
七春は黙って頭を抱える。
「姫川さん。」
「なんだい? ビビった?」
何故か嬉しそうな姫川の様子に、七春はゆるく首を振る。
「実は、前回のこのラジオで、八神くんは霊感があるって話しをしたとこなんですよ。」
「マジカヨ」
「だからこれ以上心霊ネタが続くとこの番組…。」
「心霊番組になっちゃうね。」
「最近、ホントごく最近、俺そういう話しが駄目になったので、話題を変えましょう。」
「ごめんなさいすぎる」
なんだかんだで収録を終えた七春は、帰り支度を済まして、スタジオの廊下を歩いていた。
姫川の話しが頭の中で再生されている中、
「七春センパーイ!」
聞き慣れた声で呼び掛けられ、振り返る。
「あ、八神くん。」
赤色チェックの上着を腰にまいた、いつものスタイルで、廊下の先からピョコピョコ走ってきたのは、件の八神夜行。
「七春センパイ、今お仕事終わったんですか?俺、超待ってたんですよー。」
そう言ってむくれたかと思えば、すぐさままた笑顔に切り替わる。
「七春センパイにどうしても会ってあげてほしい人がいて、待ってたんですけど、時間ありま……はぐぅっ!」
調子よく喋っていた八神だが、すべて言い終わらないうちから、七春に頭を鷲掴みにされ、息をつまらせた。
「そんなことより、お前のせいで俺がこの一週間、どれだけ苦しんだか。」
「や、やだなー。軽い霊障ですよー。そのうち治りますよおおおぉぉ離脱!」
徐々に力が強まる鷲掴み状態から、バックステップで離脱する八神。
「お前、逃げんな!この前の手から木の枝だしたやつも、まだ説明きいてないし!」
なお捕縛しようと、サッカーのゴールキーパーのように構える七春。
だが、
「……ん?」
廊下のつきあたりの角に不信な人影を見かけて、動きを止めた。
曲がり角のところにいる、手前の壁にほとんど体を隠し、頭だけだしてこちらを覗いている影。
黒髪をふたつにくくった女の子のようだが、七春と目が合うと、ヒョッと頭をひっこめてしまう。
「あ、彼女ですよ、会わせたい相手って。センパイにお礼を言いたいっていうから、連れてきちゃいました」
「お礼?」
記憶をたどるが、心当たりがない。
「あんな姿を見られた後だし、恥ずかしがっちゃってあんな感じですけど、気を悪くしないでくださいね。」
事情をわかった風で紹介する八神につられて、何の件やらわからないまでも、一応その旨については了承する。
「ああ、それは構わないけど?」
廊下のむこうの彼女は本当に恥ずかしがり屋さんならしく、モジモジしながら角から姿を現すと、それ以上接近せず、そのままその場でペコッと頭を下げた。
黒のビジネススーツに高いヒールの靴。着ているものは大人っぽいが、中身はまるで学生さんのようにあどけない。
その姿は新社会人を彷彿とさせるものがあった。
「絶賛就職活動中だったそうで。当時の姿に戻して貰ったんだそうです。」
「やっぱり新卒さんか。」
納得してから、
「ん?、戻して貰った?」
問い返した七春に、八神は嬉しそうに笑う。
「はい。結局、彼女は復讐はしないで、自力でお寺の近くまで行ったんだそうです。人を怨まないことを自分で選択した彼女は、最後に、センパイにお礼を言いにくる間だけ、あの姿にして貰ったんですって!よかったぁ!」
嬉しそうに語る八神の側で、七春は思考をめぐらせる。
「えーと、つまりあのコは…」
「公園の女子トイレにいた、焼け死んだ女の子ですよー。」
「は? あのコが!?」
記憶の中の焼けただれた姿とは、うって変わって、綺麗な姿だ。
「センパイに会いにくる前に、自分を殺した男のところにも行ったらしいですけど、彼女がいなくなってから、コンビニ弁当を夜食にする寂しい生活していたらしくて、『ざまぁ』って言ってました。」
可愛いらしい容姿に反して辛辣な対応だ。
別段驚くこともないという風で、世間話をしてるような軽さで話す八神。
「あのコ、自分を殺した男を、殺さなかったのか。」
呆気にとられた七春が、問う。
新社会人として、これからの生活に期待に胸を膨らましていた少女が、あんなに無惨に殺されたのに。
「きっと、心が強いコだったんですよ。」
「あんなに可愛いコに、人を怨んで欲しいとは思わないけど、でも…。」
曲がり角のむこうの彼女は、照れくさそうに頭だけだして微笑んでいる。
「あんなにいいコを殺したやつなら、バチが当たればいいのに、って思っちゃうよな。」
「あはは。同感。」
心から口にしたような七春の深刻な声色に、しかし八神は軽快に笑いとばした。
心底、楽しそうだ。
「大丈夫ですよ!女を殺すような奴は、絶対に神罰が下るから。どこにも逃がさない。」
笑っている。
(でもコイツ、目が笑ってない。)
二人で夜の公園を歩いた時のことを思い出した。
(八神はきっと、自分が手を貸せば、彼女が復讐しに行くとわかってた。だから、はじめは素通りしようとしたんだよな。)
そのことに気がつくのに、七春はこの一週間かかったわけだが。
「じゃあ、俺、彼女を送ってきますので。」
そう言って、八神も廊下の先へと歩いていく。
「八神くん。」
その後ろ姿を、七春が呼び止めた。
「何はともあれ、あのコが復讐に走らなくてよかった。これでお前も少しは、後味の悪さなくなると思うし。」
予想していない言葉だったのか、八神は一瞬、驚いたような顔を見せた。
それからすぐ、その表情をひっこめる。
「………わあ。やさしいお言葉。」
廊下の端につき、壁むこうの彼女といくつか言葉をまじわしてから、八神は廊下の突き当たりの壁に手をついた。
短く詠唱して、八神の手が撫でるように壁をなぞる。
するとそこに、天井までとどくかという巨大な扉が現れた。
赤と黒に塗りわけられた扉は木製らしい。
なんにしても、明らかにこの世の常識では考えられない位置に出現した扉。
新卒の少女は、八神に導かれ、何度も七春に頭を下げながら、扉の中へ消えた。
呑気に手なんぞ振りながら、八神も扉の中へ消える。
扉はしばらくすると、何事もなかったかのように、消えた。
二人を見送って、七春は一人、廊下に残された。
「今度は手から扉ですかー。」
二度目となると、もう驚かない。