じゃやんねーよ!
タイル敷きの床、コンクリートの壁に、チラチラと明滅する頼りない白熱灯の明かり。
誘蛾灯に飛び込んだ虫が、羽を焼かれてフラフラと床に落ちる。
夜の公園の女子トイレ。霊がでると噂されるその場所に、声優の七春解、そして後輩の八神夜行は立っていた。
「さーいしょーは、グー!」
「じゃーんけーん、ぽん!」
暗い闇に覆われた広場で、二つの拳は争っていた。
「あー!」
「よし!」
闘いは無事に一幕ついたようで、八神がチョキを高々と掲げていた。
七春はパーをつきだしたまま、天を仰いでいる。
「では女子トイレに潜入する名誉な役は、僭越ながらこの俺がつとめさせて頂きます。」
「三回勝負にしとけばよかった……。」
夜の人気のない女子トイレに潜入するのに、特に争う理由はない気もするが。
ともかくも役割を決めた上で、二人はトイレの入り口に立った。
「とりあえず、先に言っておきますが。」
「なんでしょう。」
「再三言いますけど、俺は祓うのとか無理なので。俺にできるのは成仏を手助けすることだけです。」
まっすぐに七春の目をみて、文字どおり再三の言葉を口にする八神。
その八神の言葉に、七春は問い返す。
「成仏を手助けする、って、具体的にどうすればいいの。」
「要するに、あの霊がこの場所に残した未練を絶ちきる手助けをするってことです。」
そこまで説明してから、ふいに目を反らす。
「その手助けがホントの意味で救いになるかどうかは、俺にはわからないけど。」
その意味深な言葉の追加について、七春はそれ以上は聞き返さない。
むしろ、
(自分で言い出したことだとはいえ……正直、帰りたい…!)
八神を信じていないわけではないが、思った以上にオカルトな展開になってきているせいか、不安で胃が悲鳴をあげている。
心臓は跳ねたまま、奇妙な位置で停止しているし、背骨はうすら寒いものにつかまれたままだ。思考はぶっ飛んだまま、帰ってこない。たぶん、この面倒を片付けない限り、帰ってこない気なのだろう。
「も、いいから、…はやくっ……」
パーをだしたまま蒼白で答えた七春に、
「俺も怖いんですからね? 俺も怖いんですからね? 一人で逃げないでくださいよ?」
八神はしつこく念をおした。
「うつしよから妖しものをお頼み申す我が名は、神木を奉じ境界の巫女の命を継ぐ者なり。」
きちりと合わせられた八神の両の手のひらから、青白いかすかな光がこぼれはじめる。
「神命に於いて疾く成しませ。」
唱え終えて再び開かれた八神の手の中には、短い木の枝のようなものが握られている。
赤茶けた枝部分に、若々しい色をした葉が二つ。針葉樹の枝のようなそれは、どうやら八神の左の手のひらから現れたらしく、まだ枝の先が手のひらの中にあった。
「よっと。」
という劇的に軽いかけ声でもって、自分の手のひらから枝を抜きとる八神。
手のひらのあとには何も残らない。ごく当然のことながら、穴も空いていない。
「……で、これの使い方なんですけど。」
「お前待て待て待て待て待て。」
さらっとそのまま先に進もうとした八神を、七春が制する。
こいつ 手から なんか 出しやがった
「お前、今、ええええ、何したの!? その枝なに!? そこの説明ノータッチ!?」
「時間おしてるんで、さくさくいこうと思います。」
「ノータッチなのな!わかった!」
遠い目をして、いろいろと説明を投げていく八神。
「これは『妖し』の一種で『霊寄那』といいます。』
「あやし? れぎな?」
さっぱりついていけていない七春を置いて、八神の説明はさくさく進んでいく。
「要するに霊を寄せつける力のある木です。ゴキブリホイホイの幽霊Verとお考えください。」
「あい。」
わかってないけど、とりあえず返事をする七春は、若干アホ顔になりかけている。もともと顔芸の豊富な男ではあるが。
「さっきの女は、今は窓際から二番目の個室の中に移動してしまいました。なので、俺がこれを使って霊を刺激し、もう一度外に出します。」
そう言って八神が上着の下から取り出したのは、声優ラジオの中で七春がつまみだした小さな塩の包みだった。
「お前のマイ塩!」
それを指さして、七春が声をあげる。
「そうマイ塩。そして外に霊が出たところで、七春センパイが……」
八神が、手に持つ木の枝、霊木『霊寄那』を七春の手の中に押し付ける。
「この枝をもってトイレの外に走ります。」
「はい!?」
「この枝をもってトイレの外に走ります。」
「いや聞こえてるけど!やんねーよ!?」
「この枝をもって以下略。」
「いやいやいやいや。霊が寄ってくる木!この木!霊が寄ってくる木だろ!?」
壮絶な剣幕で問いただす七春から、八神は再び目を反らす。
「そんな効果もありましたね。」
「じゃやんねーよ!」
「あの霊は地縛霊です。この場所から離れられないでいる。でも、この霊木『霊寄那』は、地縛霊を土地から引き剥がすくらい強い力があります。これで呼んであげて、彼女をここから出してあげれば、あとは彼女自身が、自分でなんとかしますよ。」
「なるほどな!」
説得力があるような、ないような説明だが、目の前で霊木を召喚とかされちゃった以上、八神の霊力については信用できるらしい。
(てか、見えるだけですってあんだけ言っておいて、こいつどこが見えるだけだよ。)
見える以上のことをしている気もするが。
「ほら、センパイ、やるんですか、やらないんですか、やるんですか。」
早口に問われ、ツッコミ返す。
「なんでやる方を二回言うんだよ!」
「え、やるのかなって思って。」
「やるわボケ!ここまで来て引けるか!」
「ひゅー!ひゅー!やさしい!男前!顔でモテやがって!パーソナリティーの座を譲れ!」
「細かく誹謗中傷混ぜないでくれる!?」
細かく誹謗中傷されながらも、霊木の枝をもって、七春はトイレの前にたった。
その七春の緊張した面持ちを横目に、八神は一人、女子トイレの奥へと入っていく。
どうやら中はそれほど広くないらしい。一番手前に洗面台があり、その上に鏡がひとつ。個室は全部で三つあり、一番奥だけ和式のプレートがかかっている。
白熱灯は絶えず点滅し、どこか頼りなかった。
二番目の個室の前まで歩いて、八神は塩の包みを構えた。
ふいに声のトーンをあげ、アニメ声になる。
「ぼくの靴ひもは準備おっけーなんだからね!」
アニメ第一話、魔法少女が敵と闘う際の第一声である。
ビリ、と音をたて、八神が塩の包みを破った。そのまま中身を個室の扉に叩きつけるようにぶっかける。
「神威!」
凛とした八神の声が、四方の壁に反響する。そして、その声に応じるかのように、個室の扉が勢いよく開いた。
「みゃ!」
短く叫んで、八神が二歩うしろへ下がる。
開いた扉の下、ほぼ床につく位置を、長い髪の毛がゆっくり這い出してくるのが、トイレの入り口に立つ七春の位置からも見えた。
これが、この場所に強い未練を残した女の霊の姿。
(で、でたー!!)
口は開くが、声にならない。
これまで一度も幽霊の類いを見たことのなかった七春解。三十代突入直前にして人生初の心霊体験をする。
「う……、う、うー。」
口の端から、かすかに零れるような音。言葉にはなりきっていない。
髪に続いて、その髪に引っ張られるようにして、赤黒い棒のようなものが、床をなめるように個室からでてくる。
それが腕だということに気がつくのに、少しかかった。指がどこにいったのかわからないが、反りかえって手首にくっついてしまっている不自然な突起がそうだったのかもしれない。
腕に続いて肩が出る。
「あ、…あー、あ。あつい。」
顎の半分がただれて首もとまでたれ下がっているが、一応言葉のようなものを発した。熱い、だ。
「七春センパイ、走って!」
八神が指示をだす。
「…………ッ!!」
弾かれたように、七春は走りだした。
仕事ではじめて大きなイベントに呼ばれた時は、緊張で台詞がすべてトンだ。頭の中が真っ白になって、あの時は、こんな怖い体験は二度としないだろうと思ったものだが。
今再び、頭の中が白紙になる。
「台詞があぁぁ!トンだぁぁぁ!」
叫びながら走る。
コンクリートの壁にあちこち手をつきながら入り口をでて、広場へ走り出る。
先程までずっと悪寒にさらされていたはずの背中が今は熱い。熱をもった何かが、すぐ背後まで迫っているかのように。
八神に押し付けられた霊木は確かに効果があるらしく、焼けた女は、八神に目もくれず七春を追いかけてくる。
握った枝は温かく、また青白い光を放っていた。
叫ぶのと走るので、肺が苦しい。夜の公園の空気は少し気温が低いくらいだったのに、今は熱した空気を吸わされているかのように、喉の奥が痛かった。
「わああぁぁ!………あぐっ」
前へ向かって全力疾走していた七春の足が、急ブレーキで停止する。
意図しない自分の足の動きに、前倒しに転がる七春。
(ちょおおぉぉぉ!八神いぃぃぃぃ!!)
叫び続けていたせいか、息継ぎのタイミングを間違えた。一番声に出したい部分が、声にならずに頭に響く。
足首が熱い。力強い圧迫感。
地べたの砂利が体に当たっているのとは違う、明らかに誰かに足を掴まれている。
泣く泣く振り返ると、輪郭のハッキリしない何かが、七春の足にしがみついていた。足首を掴まれた、だけじゃない。意志をもって、七春に、いや、霊木にすがりよっているのだ。
赤黒い体と、夜の闇の境が判然としない。体を包む、くらくらと揺れる陽炎。
「あ、あー。あー、つい。あつい。あつい。」
彼女はまだ、体を焼かれていた。
救いを求め、青白い光に手を伸ばしながら。
「やあぁぁぁぁ!!」
そこで、七春の意識は途切れた。
次に目を覚ました時には、事態が全て片付いていたなんて、ベタな展開だ。
普通のアニメやドラマならそう思うところだが。今回ばかりは意識を失ってよかったと、心から思う。
目を覚ました七春は、駅の外のベンチに寝かされていた。
(あれ……なにしてんだ、俺。)
体を起こす。特に異常はない。
固いベンチに寝かされていたせいか、若干背骨が痛いが、とりあげるほどのことでもない。
駅の中は明かりがついてはいるが、扉は閉まっていて、駅にくっつくように建っている売店はとっくに本日の営業を終えていた。
(今、何時?)
考えながら、手をついて上体だけを起こす。体にかけられていた赤色チェックの上着に気がつき、上着の持ち主を探してあたりを見回す。
駐車場にある自販機の前に彼はいた。そこの自販機で買ったイチゴミルクをストローでちみちみ飲みながら、先程まで二人がいた公園の方を、ボンヤリと眺めている。
やがて、こちらの視線に気がつくと、駆け足で戻ってくる。
「七春センパイ気がついてよかった。体は大丈夫ですか? 特に足。」
イチゴミルク片手にそう問われ、叫び返したいがそんな気力もない。
「だ、大丈夫そうじゃないです。」
「うわぁ、無理させてスンマセン。」
「いや、八神くんが悪いわけでは……。」
飲みますか、と差し出されたイチゴミルクを素直に受けとる。かなり久し振りに飲んだ気がするんだが、今はこの甘さが体にしみた。
どこかへ逃げ出したきり帰ってこなかった薄情な思考が戻って来たようなので、遠慮なくフル活用する。
二人はつい先程まで、公園の女子トイレで、幽霊と対峙していた。
その霊にしがみつかれた瞬間を、あの時こちらを見上げていた顔を、思い返してまた気分が悪くなってくる。たぶんしばらくは忘れられないはずだ。
「あの女、どうした?」
恐る恐る聞いてみれば、
「もう行っちゃいましたよ。」
と返しがある。
ともかくも、恐怖の対象だったものがもう居ないという事実に、安堵する。
七春が体を起こしたので、あいたスペースに八神が腰掛けた。
「ありがとうございました。」
唐突な感謝だ。
「何が。」
「俺はお経も読めないし、お祓いできるわけでもないし、死んだ人に出来ることなんて、限られてるって思ってた。だから、見かけても無視してた。霊が見えることも、聞かれない限り誰にも話さなくて。」
でも、と呟いて、八神の顔が側にせまる。
「出来ること限られてるってわかっていても、それが最善の方法だとは思えなくても、助けることを諦めない。センパイはスゴいです!」
言って、八神は星のない夜空を仰いだ。
「やっぱ、何事も考え方かぁ。なんかスッキリしました!七春センパイのおかげです!」
「…え? いや、よくわかんないんだけど。」
なんとなく感心されているのはわかるが。
「気にしないでください!黒歴史に関わるこっちの話しなんで!」
何故か上機嫌になっている後輩を前に、しかし疲労を隠せない七春は、もうなんでもいっかぁ、と思ってしまう。
(なんか、思いがけずとんでもない体験をした気がする。疲れた。)
改めてケータイの時計で時間を確認し、日付をまたぐ前に家につくのは諦める。
「いろいろ話すのはまた次の仕事の時にして、とりあえず帰ろうか。あの女はあのトイレから出られたんだろ?」
立ち上がって上着を八神に返しながら、その八神が、公園で言っていた台詞を思い返す。
「そういえば八神くん、あの場所から出られれば、あとはあの女が自分でどうにかしますよとか言ってたけど。あれどーゆー意味?」
「え、そういう意味ですよ?」
上着を巻き直しながら、八神が答える。
「あの女の未練は、自分が理不尽に殺されたことへの怒りや憎しみ。恨みや哀しみ。」
二人は、ならんで帰路を歩きだす。
「俺がそれらを無くしてあげることはできないけど、彼女が自分の手でそれらを無くすために、彼女をあそこから出してあげることはできた。だから、……」
足をとめ、くるりと七春に向き直り、八神は無邪気な笑みを浮かべた。
「今頃、彼女は復讐に行ってると思いますよ? 自分を殺した男のもとへ。」
この一夜の体験が、全ての始まり。
声優、七春解がこの先まき込まれていく、あらゆる心霊体験の始まりだった。
 




