雪解は望まない
「ゆきー。どこだー。」
砂利を踏む音がする。
ここに来てようやく、八神夜行は意識を取り戻したようだった。あの生霊の実の息子だ。
と、雪解は言っていた。
足音が近づく神殿の中には、その雪解を抱き抱えるシリカと、雪解が「はつはる」と呼んだ男。
そして、件の生霊がいる。
「やこー……」
外から近づいてくるその声を聞きつけたのか、生霊はノタノタと重たい動作で、神殿の外へ向かって歩き出した。
三歩進んで、
「んげっ。」
というよくわからない声をあげて、動きを止める。天井近くの暗がりに潜んでいた、シリカの蝙蝠に顔面追突されたらしい。
バシッ。
と鈍い音。
七春が自分の腕に止まっている蚊を、全身全霊で叩き潰した時のような音だった。
出血で着物を赤く染めていく雪解を抱え、放心状態のシリカに対し、使い蝙蝠は有能だ。
ご主人様の命令は、今なお機能しているらしい。
「うー……ん。」
悲しげな声をあげ、生霊はまたへシャリと体を曲げる。湿気た海苔みたいだ。
そしてそのまま床に座り込むと、背中を丸めたまま、姿を消した。
もとより、そこには何も無かったかのように。溶けるわけでも、チリになるわけでもなく。
ただ消えた。
「やこーくん……。」
ため息のような声で、雪解がその名を呼んだ。
霊が消えた気配を感じ、力が抜けたのかもしれない。シリカの顔も、雪解を見下ろすようにギシギシ動く。
目の前に起きたことが信じられずに、シリカは固まっていた。
糸のように繊細だった金色の髪も、雪解の血と一緒に固まっていく。
木の香りをさせる木造の広い部屋の中。誰も喋らない沈黙がおとずれた。
ふいに「はつはる」は、一言も発しないまま立ち上がると、雪解の手から引き抜いた巻物の怪しものを持ったまま背を向けた。
そのまま何かに焦るように、足早に壁に向かって歩きだす。
「どこへ」
と掠れた声でたずねるシリカにも答えない。
ただ、壁に激突する前に、こちらもフワリと消えた。幽霊みたいだ。
空気に溶け込むような体の消し方をする。
(消えた…。)
と思って見ていれば、入れ違いに今度は、雪解の開けた神域から、何かの獣が飛び出してくる。
忙しない。
「今のは初春か…? …雪解は。」
飛び出してきたのは大きな鼬だった。ブラウンの毛並みだ。
めちゃめちゃデカイ。
そして流暢に人の言葉を話す。
フェレットをそのまま大きくしたような生き物は、神域の光からピョーンと飛び出してくると、そのまま雪解に駆け寄ってきた。
雪解を膝に乗せ、抱いているというよりもはや一体化しているシリカを見て、
「こいつは初春と同じか。」
と納得した顔を見せる。そしてそっと雪解の背に鼻先をつけて、傷の具合を診た。
消えたり、出たり。
瀕死の雪解を取り巻いて、多くの者が忙しく入れ替わりに姿を見せる。
当の雪解は目を閉じて、浅い呼吸をしていた。シリカの瞳はどこか虚空を見上げていて、そこには何も映っていない。
一筋涙が流れていた。
頭の中には、特に意味もなく、ただ、シリカの人生の中で一番印象が強かったからという理由で、あの声優が浮かんでいた。
こっちだよ、と手をのばしている。その手をシリカはとらなかった。
そんな今更な後悔をする時間が、シリカには無駄に残されている。雪解がこの先の時間を生きれなければ、シリカには無駄な時間がいくらでも残る。
「土地神に話は伝えてきた。今、神域の中の巫女たちを鎮めてくれている。神域に入って、応急処置だけでも。」
大きなフェレットが、雪解の体を口にくわえようとしたところ、
「ゆき? いるのか?」
砂利を踏みしめる音が、すぐそこに来ていた。
格子扉がぶっ壊された、その向こうに人影。小さい。
鏡の怪しものに取り憑かれ、暴走して以降、意識を失っていた八神夜行だ。
平和な声を出しているあたり、彼はまだ何も知らない。
自分が引き金を引いた事件の概要を。雪解が苦しんだ時間を。その雪解を傷つけた女霊の存在を。
彼はまだ、何も知らない。
「…やこーくん!」
最期の力を振り絞って、雪解が叫んだ。
長い髪が自身の血で濡れて、木目の見える床に張り付いている。体はほとんどシリカに預けたままで、顔も上がらない。
それでも呼んだ。
悲鳴に近い声をだった。
すぐに壁に広がる光の穴、神域から、またしても巨大な獣が姿をあらわす。
こっちもデカイ。
長い鼻に大きな耳。下の方から沢山出ているのは、尻尾のようだ。犬によく似た姿のそれは、あまりの大きさに天井に毛が擦るほどだった。
かなり高いところにある口から、こちらもまた慣れた日本語。
「待たせた、中は大丈夫だ。」
「大丈夫じゃねぇ、夜行の意識が戻った。」
巨大な犬に、大きいフェレットが苛立たしげに返す。
その八神夜行は、入り口で声をあげていた。惨状を目にしたようだ。部屋の奥に倒れている雪解と、それを取り囲む獣たち。
結局その獣たちが何なのか、シリカには全くわからない。
理解する力もない。
「雪解を中に運ぶ。あのバカをもう一度気絶させて、拝殿にでも放ってこい。」
動物世界の上下関係でもあるのだろうか。
よくわからないが。後から姿を現した巨大な犬が、フェレットに命令した。
頷くわけでも、返事で返すわけでもなく、フェレットは眉間に皺をよせた。フェレットに表情があるというのも変な話だが。
心持ち、目つきが鋭くなる。
「雪解をこんな目にあわせたのは、アイツの…。」
言いかけて、何かに気が付き言葉をとめる。
フェレットの首元のフカフカした毛を、真っ赤な雪解の手が掴んでいた。
それはすぐさま力が抜けて、床の上に音をたててコトンと落ちる。
「それを知られることを、雪解は望まない。」
雪解に代わって、神域から尻尾と大きな体を覗かせる巨大な犬が、そうこぼした。
透き通るような黄金の毛が、ワサワサとけたたましい音をたてて震える。葉擦れのような、騒がしい音だ。
悲しみに震えているのか、それとも怒りがそうさせるのか、その場にいる誰にもわからない。
「ごめんね…ごめんね……。」
聞き取れないほど小さな声で、雪解はしきりに繰り返していた。上手に息を吸えないので、口から音を発するので精一杯だ。
黄金の犬はせっせと雪解を、部屋の奥へと引きずっていく。
正確には、神域の中へ。
安全な場所へと、懸命に引きずっていく。
シリカの手の中から、やがて雪解の体は滑り落ち、床の上を移動していく。まるで現世にしがみつくように、雪解の指は床板を薄く引っ掻いていた。
他人の血に染まったドレス。
鉄の匂いをやけに強く感じながら。
シリカはまだまだ動かなかった。雪解を抱いていた形のまま、手をあげている。
爪の中まで血がついていた。
「…っゆき!」
木板を踏む音をたて、八神が神殿に入ってくる音。
その八神に大きなフェレットが飛びかかる音。
そんな音が右から入って左に抜けて。
そして、シリカの目の前は真っ暗になった。
目を覚ます。
八神夜行は、ヒンヤリ冷たい木板の廊下に倒れていた。
暑い。季節は夏だ。
一体、何をどうしたのか記憶にないが、八神はたくさん怪我をしているらしい。体中がガーゼと包帯だらけだ。
重ねて言うが、それで暑い。
それで暑いからどうしようもなくて、記憶の糸を引っ張ってみる。暑すぎて、ここまで転がってきたのだろうか。
ヒンヤリした床は気持ちいい。
それは確かだ。
(いや…、ゆきを探してたような。)
特に用はなくても探す。それが親衛隊というものだ。いえ、決してストーカーではありません。あしからず。
ゆっくりと、体を起こす。
長く息を吐いた。
どこかでカラスが鳴いていて、白の濃い空に、雲はかなりゆっくりした速度で流れていた。
世界は億劫なようだ。
頭が重いので、試しに首を左右交互に傾けてみる。右側でゴキッと音がして、左に至ってはボキボキボキだった。
すごく、こっている。
どうしたことだ。
(そんなに寝てたのか、俺。)
考えようとして、記憶がない。
立ち上がろうと膝をたてたところで、そこにいる一匹のフェレットに気がついた。
荒天鼬だ。
雪解の使う霊獣である。今日もいつも通りに不機嫌な顔で、八神のことを見上げている
体長十五センチほどの小さな姿で、じっとこちらを睨んでいた。
奇妙だ。
具体的に、何がどうだと言えないが。
いつもなら確実にナマイキな一言が飛んできていそうな場面で、何も言わずに突っ立っている。
その沈黙が不自然だった。
何も言われないので、八神も黙って見つめ返す。
心臓が急速冷凍を始めたかのように、左胸の中が騒がしく、冷たかった。
背中を蜘蛛の子が集団で這い上がってくるような、気味の悪い感覚がする。
嫌な、予感だ。
「雪解は死んだよ。」
おもむろに、荒天鼬が口を開いた。ぶっきらぼうな言い方だ。
しかし、その目は八神を捉えていない。
正確には、もっと後ろ。八神の背後に立っている、別の何かを見上げていた。
「お前が殺した。」
小さなフェレットが睨みつけている、その先。
八神の背後に、一人の女霊が憑いていた。




