後編
【3】
私たちは遅くにやってきたバスに乗って、一晩を揺れる車内で過ごした。
翌朝の七時になるより早く、バスは無事目的地に到着した。
車を下りて、早朝の冷たい空気を吸う。車内では独特の臭いが強かったため、私は気持ちを悪くしていた。それが外の空気を吸った途端、気持悪さは一気に拭われ、頭の中がすっきりと回復した。生き返った気分の中で私は、とうとう生まれ故郷に帰ってきたのだ。と強い実感を得た。
憂鬱だ。
「あまり眠れなかったみたいだね」と彼は私に気遣った言葉をかけた。
「あの家に、数年振りに帰るわけだからね。緊張してるかも」
それから私たちは話をしながら目的地である家まで歩くことにした。
「で、私の体験談を聞いてみた感想は。何か分かったこととか、気が付いた点はある?」
「一応。でも俺の考えを披露する前に一度、その昔話を簡単にまとめてみようじゃないか」
「そうね。いいわよ」
私は彼の提案に頷いた。
「お前が感じていた不気味な気配。話を聞いて分かったことは、決まった流れがあるってことだな。最初、つまり始まりの合図は必ず物音から。これで深夜に目を覚ますんだよな」
「ガンッ! とか、ゴンッ! ていう強い、弾けるような音に驚いて、起きたことを認識しているとね、今度は部屋の隅っこから音に負けないくらいの気配がしだすの。気配というより、何かがいるような、存在感に近いのかな」
「それが時間が経つとともに、煙みたく気配は消えてなくなる、っと」
「今言ったそんな現象が一週間続いては止み、また再開したりと、繰り返していたの」
「で、ある晩。いつもの気配の後に、隣人が苦しみながら死ぬ場面に出くわした。不気味に思っていただけの気配が、危険味を帯びてきたってわけだ」
彼は気を遣ったのか、私の父親も同じように死んだことを口に出さなかった。
「こうしてまとめてみると、私が体験した出来事って、たったそれだけのことなんだね」
彼は私の言葉を聞いたのか聞いていないのか、腕を組み黙り込んでいた。ただいつもより真剣な表情をしていた。
「考えを確認しながら話をまとめてみて、一つ分かったことがある。夜中の気配が隣人の死と関係しているとしたら、この気配は善くないものだということだ。きっと知らされていないだけで、もっと多くの人が死んでいると思う」
その時、私たちは偶然、告別式の案内板を見つけた。
「もしかして死神。悪霊とか怨霊が正体だとでも言うの?」
私は恐ろしさに背筋が冷たくなるのを感じた。そんな危険なものが気配の正体だとしたら、お父さんだけでなく、私の家族全員が殺される可能性だってあるわけだ。
ところが彼は首をゆっくりと右に左に振った。
「それは違うと思うよ。仮にそんな物騒なもんだったとしたら、真っ先にお前が死んでいるはずだ」
「それもそうね。でも善くないものとそんなふうに思っているんでしょ。いったい何なのかしら。どうして目に見えないのかしら」
「どうして見えないのか。俺からすれば、それは目に見えなくて当たり前なんだと思う」
「それはどうして」
「というよりも俺の考えだと、お前の話に出てくる気配は、形が見えなくて当然なんだな。あーっと待てよ、霊感の有無は関係ないからな。
お前は、怪現象や心霊現象、とにかく不可思議なことが起こると、それの元凶がセットとして何かしらの姿で、自分の前に現れると思っているだろ。そうじゃないんだな」
私は首を傾げた。彼が何を言おうとしているのかが、いまいち理解できない。
「つまり、今も言ったけれど、目に映らなくて当たり前なんだよ。気配は気配でしかない、てこと」
「で、でも本当に、人が迫ってくるみたいな、すーって近寄ってくるかのような感じがしたんだよ。それでも見えなくて当然だっていうの?」
「風だよ。気配を他に喩えるなら、風。俺らは、吹く風を肌で感じることができるだろ。でもどんなに強い風でも、それを目で認識することは不可能。要するに、お前は、存在感を強く感じるあまり気配には形があると、思い込みをしていたというわけだ」
「うーむ。納得できるような、できないような」
「もし幽霊とか悪魔とか、禍々しいものが存在して、お前ん家を根城にしているのだとしたら、夜中以外にももっと気配を感じているはずだろうし。それに家族の人も、察知しているはずだ」
「確かに言うとおりかも。周りも気づいているでしょうね。でも不思議。どうして私だけが、それを強く感じるんだろ?」
「高校三年の受験シーズン。大事な時期だったわけじゃん。物事に対して神経が敏感に働いていたのかもよ」
それから私たちは、着々と、実家の方に近づいていた。
ちらりと神社の鳥居を遠目で確認した私の足が、細かく震えだした。体が無意識に怖がっているのだ。だけど私は心の隅で、もうすぐ家族に会うのだな、としみじみ感じたりもしていた。懐かしさに心が反応をしているのか、胸の鼓動は高まるばかりだ。
通りの右手にある神社。小規模なそれは山の側にあるので、周辺は木に囲まれていた。
神社を通過し、先の曲がり角を右に折れ、少し歩いたところに私の家はある。つまりこの神社は私にとって目印のようなものだった。
「そこにあるのは神社か。ちょっと寄ってもいいか?」
神社のことを考えていた私の心を読み当ててしまったのか、彼は、指で神社を指し、私に聞いた。
「あー。別にいいけど」
私的には早く家に帰り、結婚の報告等の用事をすませたかったのだけど、彼のわがままに付き合うことにした。すると彼は嬉しそうにして早足で神社へと向かった。その姿は好奇心剥き出しの子供と変わらない。
神社は寂れたこの町に相応しい、参拝に訪れた人を見かけたことがない程度のものだ。
そんなちっぽけな神社とも知らずに、私の彼は、鳥居前で丁寧に一礼をし、くぐって行った。手水舎で身を清め、先の手すり付の石階段に向かった。
境内はこの階段を上がった先にあるよ。と教えると彼は喜々として階段を駆け上がった。
寝不足で、さらに歩き疲れ中の私は、そんな彼の背中を追うように、ゆっくりと一歩ずつ石段を踏む。
階段を上がり切って境内に辿り着く。数年振りの神社を、私は大人になった目で堪能する。階段から見下ろすと、境内は二階建ての民家よりもほんの少しだけ高い位置にあるということが良く分かる。そんな境内の面積はとにかく狭い。更に言えば、拝殿がポツンとあるだけで何もなく、山の影に覆われた、面白さの欠片もない空間であった。
「こうして改めて見ると、本当に寂しいところだわ」
「ここはどんな御利益があるの?」
「御利益か。そんなものがあるのかしら。考えたことさえなかったわ。縁日とか初詣の時だけしか来なかったからね」
風が吹いた。拝殿を囲んだ樹木がさわさわと揺れて、地面にできた木漏れ日は踊るようにその形を変化させていた。吹く風は少し冷たかった。
それでも私は、木の葉のざわめきと、木の香り、澄んだ空気を堪能した。深呼吸をすれば疲れは飛んで、心は浄化されていく気さえしてくるから不思議だ。
そんな私を置き去りにして、彼はというと、ちっぽけな拝殿のあちこちを見ていた。
私は賽銭箱の前に立ち、両手を叩く。
帰省中の間、自分が無事でいられることを祈った。
それから彼のもとへ。いつの間にか拝殿の左脇に回り込んでいた彼は、境内の隅にある一本の木を、首を伸ばして見上げていた。
それは他と全く比べものにならないほどの大木だった。
「これは御神木かもな。後ろに倒れなきゃいいけど」
と、彼が言うので、私は首を伸ばして大木の後ろを見やった。
行き止まり――というより何もなかった。大木のすぐ後ろは、ちょっとした崖のようになっていて、足場がない。何も知らずに足を踏み外せば、四、五メートル下まで真っ逆さまだ。崖の斜面にも木が細々と生えていた。
幾本もの樹木の先に顔を向ける。瞬間、私は大きく目を見開いた。木々の隙間に覗く一軒の家を見てしまったのだ。
建物の外装、色合いに見覚えがあった。そして自分の家が、神社近くにあるということを思い出して、私は確信した。
すると彼は唐突に、「あれは、もしかしてお前ん家か?」
「そ、そうみたい。私、今日初めて知ったわ。自分の家が神社のこんな場所から見えていたってことに」
ショックを受けた。特に、二階の窓が覗けていたことに。あの窓の部屋は私がずっと使っていた部屋だ。空気の入れ換えでもしているのか、窓は全開状態にされていた。つまり私の立っているこの位置からでも室内は丸見えということだ。
私が言葉を失っていると彼は、「なるほどそうか」と私の部屋をしばらく凝視していた。
神社を出て、今度こそ真っ直ぐ実家に帰った。
結婚相手を連れて帰ったことに、母は白目を剥いて倒れそうになるくらい驚き、それから大変喜んだ。高校を卒業し、家を出てから、初めて顔を合わせることになる母は、私が大きくなった分、小さくなったように思えた。私が吸い取ってしまったみたい。
それから私たちは母から聞いて、父の部屋へ向かった。
正確には、父の部屋だった場所だった。今では父の部屋の面影は微塵もなく、がらんとした空間に仏壇があるだけとなっていた。私は、父の遺影に両手のひらを合わせた。
「お父さん、ただいま。何年も、帰ってこられなくてごめんなさい。私ね、結婚することになったんだよ」
そんな私の姿を見ていた母は、眉を八の字にさせて訊いてきた。
「あんた、いつまでいられるの?」
「今すぐにでも帰るつもりだよ」
本当はそうハッキリ宣言してやるつもりだったが、心が揺らいでしまい、不覚にも声が小さくなってしまった。何せ母とは高校を卒業して以来、初めて顔を合わせるのだ。しかも母の体は私が成人して大きくなった分、縮んでいるふうに見える。そんな母の困った顔を見ると、どうも意志が鈍ってしまう。
私は隣にいる彼の脇腹を肘で小突いた。「代わりに言ってくれ」という合図だ。
そんな私のサインに、彼はウインクをして応えると、
「お義母さん。我々は他の用事があるので、非情に残念ではありますが、今日は一泊させてもらって明日の朝一番には家を出る予定です」
と、彼は私の予想と反したことをさらり言ってしまった。
「たった一泊なの」と母はショックを受けたが、それは私も同じだった。
一泊もしてしまうことになってしまった私は、居ても立ってもいられなくなり、父の部屋を後にした。二階へ上がって自室のドアを開けた。
室内の様子は、高校を卒業し家を出た時と、さほど変わっていない。強いて挙げるなら、掃除されて綺麗になっている、ということだけだった。
私は窓際に寄って外を眺めた。
鬱蒼とした木々ばかりが目に映る。それらを私は山の一部だと思っていたが――いや山の一部には違いないのだが――まさか神社の一角だったとは考えたことさえなかった。
今でもその事実に驚いている。
なんだかんだ言っても、私は久し振りの実家を堪能していた。気が付けば夜が帳を下ろしており、一番恐れていた時間となっていた。
すると心配ごとばかりが頭の中で駆け回り始めた。あの気配はやはり今でもするのだろうか。どうにかして一晩を無事に過ごす方法はないかしら。
と悩んでいたところにある考えが閃いた。
私は自分の部屋ではなく、別の、父の部屋で眠ることを思いついたのだ。母に頼めば、あっさり了承してくれた。
それに疲れも溜まっているのだから、今晩はぐっすり朝まで眠れるだろう。
絶対安心と決め付けた私は、鼻歌を歌いながら布団を二枚敷いた。本当に疲労が溜まっていたので、夜の十時には就寝していたと思う。
【4】
自分の計画は完璧であると思っていたが、そうではなかった。長年染みついた癖みたいに、私は真夜中に、目を開けてしまったのだ。
だけど物音や気配を感じて起きてしまったわけではないらしい。少しホッとしていた。
ところが隣で眠っているはずの、彼の姿が見当たらない。
室内を見渡すがやはりいない。トイレかしら、と思いながら、私は彼が戻ってくるのを待った。ところがいくら時間が過ぎても戻ってくる気配はない。
私は少し心配に思い、様子を見に行こうと決めた。
部屋を出て、廊下を歩き、トイレのドアを前にした時、私は目を大きく見開かせた。トイレに明かりが灯っていないのだ。
行方不明の彼が今、どこで何をしているのだろうか。予測できていなかった事態に私は腕を組んだ。暗い廊下の真ん中で頭を悩ませていると、私はふっと、強い視線を背中で感じた。誰かが私を見ている。近くで人が立っているという気配を感じて、恐怖心を抱いた私は全身が硬直していることに気付いた。
私は動けなくても、背後にいる気配は、足音を幽かに立てながら、こちらに近寄ってきていた。
そして気配はなんと私の肩に直接触れたのだ。
気配に触られたのは初めてだった。私は、「ひっ」と短い悲鳴を上げ、腰を抜かした。
「大丈夫か?」
聞き覚えのある声……と思ったら行方不明となっていた彼の声だ。
頭の中の混乱が薄れて、冷静さを取り戻す。私はスクッと立ち上がった。
真っ暗なせいか、彼の姿は全身が黒に染まっているようだった。
「もう! ビックリしたじゃない。……じゃなくて今までどこに行っていたのよ」
「気になることがあって。外へ出ていた。それよりも気配の正体が分かった。どうして、何かいるような存在感を抱いていたのか。なぜそれを肉眼で確認できなかったのかの理由もな」
「ほ、本当に?」
「ああ。ちょっと来い」
彼は踵を返すと、了解も得ていないというのに、いきなり私の腕を掴んで引っ張るように歩きだした。私に急いで靴を履かせ、家を一緒に出た。
家を出て夜道を歩く。彼は気持ちが悪いくらいに無口になり、付いてこいと言わんばかりに前をスタスタと歩いていた。
私を導くように、彼の足は迷うことなく道を進んだ。そして辿り着いた先は、午前中に立ち寄った神社であった。
夜の神社。闇に浮かぶ白石の階段。彼はそれを躊躇うことなく、上がっていった。闇に消えようとする彼の姿を見失わないよう、私も慌てて後を追う。
上がった先に見る境内。黒い闇に覆われていた。
「こっちだ」といって、彼はさらに歩く。
拝殿を左回りに進み、彼はある場所で立ち止まった。
「足もと気をつけろよ。落ちると大変だから」
「あ。うん。でもここって……」
私が顔を上げると、神社の御神木が目に映った。ここは、私の部屋の窓が一直線上に見下ろせる場所だ。
「お前を長年苦しませていた正体は、これだ」
彼は御神木の一カ所を指さした。
追うようにして目線を向ける。私は、「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
御神木には、藁人形が磔にされていた。見たこともないような、長い釘で深々と突き刺されている。
「ついさっきまで誰かがここで丑の刻参りをしていたんだ。丑の刻参りっていうのは、簡単に説明すると、恨みの念を飛ばして怨敵にぶつける、っていう呪いの一つだ」
「じゃあ私が感じていた気配ってのは……」
「ここの御神木から飛ばされていた念だろう。部屋の中で気配が風のように迫ってくると感じていたのは、飛ばされた念がお前の体を通過したところだったんだろう」
「私の部屋に体を真っ直ぐに向けて、釘を打っていたから」
お化けのような白装束姿の女が、私の部屋に体を向けて、藁人形に釘を打ち付けている。その様子を思い浮かべた瞬間、私は恐怖で体が震えた。
それと同時に私はあることに気付いてしまった。
「じゃあ、お父さんが……お隣さんが死んでしまったのは」
「多分、呪いの影響だろう。隣人が苦しみながら死んだのは、きっと呪いによる効果だったんだろうな」
「じゃあお父さんは?」
「親父さんが痴漢がいると思って、外へ見回りに出た時、血相を変えて戻ってきたのは、多分丑の刻参りをしている人物を見てしまったからだと思う」
つまり、お父さんはとばっちりを受けたってことなの? 恨まれるようなことはしていないのに、丑の刻参りを見てしまったばっかりに……。
そしてまた誰かが犠牲になろうとしている。磔にされてある藁人形を見て、私は思った。
「じゃあまた、人が呪い殺されようとしているのね。大変だわ」
「いや。多分、もう呪いで人が死ぬことはないと思うよ」
「どうして? だって丑の刻参りは……」
「見て……」
言いながら、彼は崖下に懐中電灯を照らした。
そこには、人が大の字になって倒れていた。落下した時に、あるいはその最中に打ち付けたのか、体のあちこちが妙な方向に曲がっていた。すでに死んでいるらしく、その表情は凄惨をきわめていた。
私は叫び声を上げた。思考が回らないほどの絶望の叫び声だった。
「俺に見られて余程驚いたらしい。その拍子に足を滑らせて落ちたんだ。病院に電話はいれてある」
と彼は感情のない声で私に何やら説明をしていたが、その声は耳にはもう入っていなかった。
この人が、丑の刻参りをしていたなんて。お父さんや様々な人を呪っていただなんて。
それを考えることができたのは、数時間が経った後だった。
今はただ、母の死に、叫び声を上げるしかなかった。
2014年。
幽文学賞の短編賞に送りつけ、見事、落選!された小説です。




