前編
気配はするけど、目には見えない。日常でたまにあるあるな現象に、怖い要素を加えました。
【1】
私はあの家にいることが耐えられなかった。
家族の仲に溝や不満があるわけではない。家そのものが嫌いなのだ。嫌い、といっても建物の形状が特別変わっているとか、そういうのではない。
私は家の中でする妙な気配に、ずっと悩まされていた。
気配がするのは決まって夜中。眠っている私を無理矢理に起こしていた。
不気味で、得体の知れないそれは、海底から水面に向かってじわりじわりと浮上しているのに似た、何かが迫り寄ってくる感覚だった。
何かが、いる。
私を夜な夜な苦しめるそれは、部屋の隅っこの窓がある場所から、いつも強く感じられた。上半身を起こして私は一角に顔を向けた。不気味で得体の知れない存在感は、怪しく垂れ流されている。
私は何も見ることができなかった。
暗闇に満ちた室内の一点を凝視するが、暗闇になれていない私の目には何も映らない。
地方の夜は深い、絶望的なくらいに闇は濃いのだ。
風の音さえ聞こえない。しん、とした息が詰まりそうなほどの静寂の中で、唯一耳に入るのは自分の震える息遣いだけだ。
何も見えないが気配はする。私は、金縛りに遭ったようにそこから視線を外すことができなくなっていた。暗闇に潜んでいる見えない何かも、じっと私の様子を睨んでいるだろう。そんな想像さえもしてしまう。
どれくらいの時間が経っただろうか。視線の先で起こった変化に私はギョッとした。唐突に、何かがこちらに向かって迫ってきたのだ。
そんな世にも恐ろしい体験をしてから、もう五年が経つ。当時は誰にも、両親にさえも相談できなかったこの出来事を、私は今、一人の男性にさらりと打ち明けられている。
場所はバスターミナル。私は夜行バスを待っていた。
「なるほど。だから一度も帰省をしたことがないんだね」
「そうよ。帰省どころか、私、高校を卒業したら、もう翌日にでも家を出て行くつもりでいたの。田舎に未練もなかったし、引っ越し先も早い段階で決めていたわ。親はもう少しゆっくりすればいいのに、って寂しがっていたけど、私は嫌だったの。それに、田舎から出ずに、あの家に居続けていたら、多分私、死んでいたと思う」
死んでいた。私は今でも、本気でそう思っている。
「怖い話だね。ところでそれってさ、誰かに相談とかしたわけ」
「相談……できるわけないじゃない。家の中に見えない何かがいて怖いです、なんて言えないよ。帰省できない理由もそれだから、特にね」
でも、もし幽霊でも何でも、その姿形を目撃することができていたなら、私は多分、両親をはじめ、友人らに助けを求めていたと思う。
でも何も見えないもののことで相談なんかできるわけがない。きっと、気のせいだよ、の一言で終わってしまうに違いない。
「そりゃ確かにそうだ。見えない何かが怖くて実家に帰れません、てのは恥ずかしすぎる」
「本当は今回も帰りたくなかったんだけどなー」
「今回ばかりはさすがに仕方ないだろ。でも、俺が唯一、帰省を拒んでいた君を家に帰させた人間ってことになるな」
「大袈裟ね。でも結婚の挨拶が終わったらすぐに帰るわよ。絶対一泊なんてしないわよ」
そう。私は初めて帰省することになっていた。それもこれも彼との結婚を決めたばっかりに。結婚するという報告を親にするため、私は五年ぶりに実家に戻ることになってしまったのだ。
電話口じゃなく直接会って、ちゃんとした挨拶をしたい。それが彼の要望だった。彼の言っていることの方が常識的、ということは百も承知だ。しかし、私は実家に帰るのを渋った。どうにかして帰らずにすむ方法はないものかと、あれこれ画策をしたが、彼に先手を打たれた。
夜行バスのチケットを二枚、買われていた。こうまでされたら、と私は諦めて潔く田舎に戻ることを決めた。
すると、私にある閃きが浮かぶ。そうだ。家に帰る分には問題はないのだ。あの家で夜を過ごさなければいいだけの話なのだ。
「ふふふ。一泊もしないで帰ることなんて、本当にできるかねぇ」
「冗談言わないでよね。今晩発車する夜行バスは、明日の朝一番には目的地に到着するんでしょ。順調にことが進めば、昼過ぎには、家をおいとますることができるってわけよ」
「何だかんだ言って、親に引き留められちゃう気がするんだけどなー」
「うっさいなー」私は彼を睨んだ。「それよりも、バスが来るまであとどれくらい? あーあ。乗り物って、待っている間が暇よね」
「まだもう少しかかりそう。なぁ、暇ついでに良かったら、さっきの昔話。もうちょっと詳しく話してくれない?」
彼の言葉に私は正直困った。初めてなので、どう話せばいいのか分からなかった。
私はあの気配のおかげで人が死ぬ瞬間を、二度も見てしまったのだから。
【2】
――私の実家はね、近くに神社があるんだけど、それ以外は本当に普通で、二階建ての一般的な家なの。だからもし話を聞いて頭の中で想像するなら、あなたの家の間取りを思い浮かべてくれてもいいわ。
で、本題に入るんだけど、例の気配ってのはね、決まって私が使っていた二階の部屋で、一時とか二時前といった深夜に現れていたの。
初めては、高校の頃。受験で忙しい冬の季節だったかな。
それはね、ガンッ! て物を強く叩くような激しい音だったわ。寝ていたんだけど、大きな物音にビックリしたあまり、私は布団を撥ねのけて、飛び起きたの。それから何事かと慌てて音の出どころを探したんだけど、不思議なことに見つけられなかった。
ただその時に私は、部屋の暗がりから、ぼうっと、誰かがいるかのような気配を感じたの。それが強いものだから、無意識にその気配を辿るようにして、首をゆっくりとそこへ向けたわ。
そこは部屋の隅っこで、窓がある場所だった。暗闇に目が慣れて、閉め切っているカーテンが、うっすらと見えたわ。
その時にね、ぞぞっと寒気が走ったの。
そこに、いる。何かがいる気配がね、確かにしていたの。
「誰……?」私は人が、カーテンの裏で身を潜めているんだと思い込んでいたわ。
けど向こうから返事はなかった。誰かいるとだけは確信を持てていたんだけどね。
だって向こう側から今にも迫ってきそうな、感じがしていたもの。
その時はね、とにかく色々と悪い想像ばかりが働いて恐かったわ。それなのに不思議なもので同じ所から目が離せなくなっていたの。
人間の集中力って凄いのよね。じっと強く見つめていると、時計の針の音とか、他の音が一切耳に届かなくなるの。
じわーっと更に目が慣れてきた頃にね、私、微妙な変化に気がついて、思わず瞼をギュッと閉じてしまったの。
どうしてかって? カーテンの方から、本っ当に急にだよ、何かが、こっちに飛んでくるかのような感覚がしたんだもの。
まー、結局は何にもなかったんだけどさ。
でね、一番不可解なのは、その後なのよ。
恐る恐る瞼を開けてみるとね、あんなに強かった気配が、ちっともしなくなっているの。
不安から解放されて、ホッとしたけど、同じくらい不思議な思いをしていたわ。絶対何かいるって、私、決めつけていたから。
「気のせい、だったのかな? そりゃそうよね。なーんだ私バカみたい」ってね。
結局、確かめようがなかったから、その夜はもう忘れて寝ることにしたわ。
ところがね、その日からなの。夜中に変な物音で起こされるという現象が始まったのが。
「また。これって、もしかして昨日と同じ…………!」
ハッと目が覚めて、そばに誰かが立っているって、また感じたの。気配はやっぱり窓の方から強くしていた。
これが昨晩と丸っきり同じだったの。ふっと何事もなかったように消えたところまでね。もちろん、この気味悪い気配は、私に正体の見当さえ思いつかせてくれなかったわ。
だから私も、終わった後に、
「気のせい。気のせい」って、声に出していたんだけどね。
今考えると、気のせいだって自分に言い聞かせていたんだろうな。そうやって恐怖を誤魔化していたんだと思う。
あ。でもね。同じようなことが毎晩、連日で続いたみたいに言っているけど、実は気配がしない夜だってあったのよ。
問題の恐怖の夜が七日続いたと思ったら、八日目からはピタッと止まって、平安な夜が続くのね。しばらくは。
安眠できる日が増えてこれでもう安心。そんなふうに思っていたら大間違い。
油断していると、今度はまるで誰かがスイッチを入れたみたいに、また怖い夜が一週間続くってわけ。
つまりね、気配に悩まされる夜は、家を出るまでの間、不規則な間隔を開けて、繰り返されていたの。これがかえって追い詰められているような気分だった。困ったことに、慣れを感じたことは一度もなくて、夜中に目が覚めてしまうと、常にビクビクしていたわ。
いつも何も見えない。目に何も映らない。だから、今回もまた、何も見えないに決まっているだろう、ってそんなふうに、決め付けをしたことは一度もなかった。
むしろ逆。今回こそは何かしらを目撃してしまうかも。今まで見えていなかった分、恐ろしいものを目の当たりにしてしまうかも。
そんなふうに想像して、これが日に日に悪化していったわ。
で、ある晩にね、とうとう最悪の体験をしちゃったのよ。
いつもみたいに物音に起こされて気配のする方を凝視していたら私ね、気配が消えたその直後に、トイレに行きたくなったの。正直に言うと、これには迷ったわ。何せあの恐怖体験の直後だったから、この際トイレは我慢してこのまま寝てしまおう、と一度は考えたの。考えたんだけど、結局トイレに行くことにしたの。
だって恐くてトイレに行けないだなんて、たとえ人に話さなくても、考えるだけでも自分が情けなくなるじゃない。
でもね正直後悔してるのよ。あんなのを見るくらいだったら、つまらないプライドなんか捨てて、そのまま寝ていれば良かったってね。
そうとも知らずに布団から出た私は、部屋を出て、へっぴり腰で階段を下りていったわ。
しぃんと音がなくて、真夜中って、まるで止まった時の中みたいなのよね。草木も眠る丑三つ時、っていうけど、本当にそのとおりだなって感じたわ。暗くて、無音で。私はこの時初めて、神経が敏感になるってことを体感したの。
木目が人の顔に見えたり。壁にできた染みが、血の跡に思えたりね。
無意識に、あちこちに視線がいっていたわ。
きっとそれがいけなかったんだと思う。
無事に一階のトイレで用をすませて、さて自分の部屋に戻ろうとした、その時にね、私は視界の隅でちらっと見たの。リビングにある大窓だったわ。
窓は庭が一望できる大きさで、庭の向こう側にある横隣の家までもが覗けていたの。
隣の家までは五メートルくらいの距離があるのかな。だから顔を近づけると、結構ハッキリと向こうの家の中も見えたのよ。部屋に戻ろうとする私の足を止めたのは、隣の家に見える明かりだったわ。
夜中だから当然、向こうの家もカーテンを閉め切っていたんだけど、室内に灯った明かりが幽かに窺えたのね。
暗がりの中で見える明かりだから、とにかく目立っていたわ。
電気の消し忘れかな?
などと思っていたらね、向こうの家から、妙な音……ううん。
「ぐげっ。ぐえっ。ぐげぇっ」
って、気味の悪い声が聞こえた気がしたの。最初は、猫か犬かが異物を吐き出そうとしているんだなって私は考えたんだけど、それにしてはやけに大きく聞こえていたの。
目先の隣の家で何が起こっているのだろうか。そう考えていると私、無意識のうちに窓際まで近づいていたわ。
すると、ドンッ! バタンッ! って、暴れ回りながら壁を殴るような鈍い音が、向こうから私の耳にまで届いてきたの。本当、ビックリしすぎて心臓が止まるのかと思った。
私が家を覗こうとしていることに気付いて、それで怒り出したのかと、肝を冷やしたわ。だけどどうやら違っていたみたい。
怖かったけれど、隣の家の住人が、なぜ暴れ回っているのか気にもなってね、私、窓際にもっと顔を寄せて、目を凝らして、もっと良く見てみることにしたの。
そしたらさ……向こうの窓に、バンッ、て手のひらが見えたの。窓ガラスを割って、手が直接出てきたんじゃなくて、カーテン越しに。こう、押し当てている感じ。
それから、どうしたかって?
怖くなって、ダッシュで部屋に戻ったわ。布団を頭から被ると、今まで感じなかった恐怖が急に押し寄せてきてね、震えながら朝を待ったわ。一睡もできなかった。
相当のショックだったみたいで、当時の私は、その夜の出来事を誰にも話すことができなかったの。そしたら二日後くらいかな。警察の人が見えたり、近所が騒がしくなったりしてね。そしたらお母さんの口から、お隣さんが死んでいたってことを聞かされて、もっとショックを受けたわ。
その人がどんな死に方をしたのか詳しいことは教えてくれなかったけれど、でも私は、隣の人はよっぽど苦しい死に方だったんだと思っていた。
夜中に聞いたあの呻き声は死ぬ間際に漏らしたものだって想像してしまったの。私は、死のうとする人間の一番近くにいたんだって。死というのを、間接的にだけど見てしまったんだって。
まあ隣人は、町の人から評判が悪く、いわゆる死んで当然といった人だったから、悲しむ人間は誰もいなかった。お母さんは特に、ね。むしろ喜んでいたようにも見えたわ
だけど私は、死んだ人に対して、申し訳なさでいっぱいだった。
罪悪感が原因だったのかしら。人が死ぬ夢を立て続けに見たわ。余程のショックだったんだと思う。私、大事な時期だってのに学校を何日か休むはめになったの。
それでも不幸中の幸いだったのは、夜中の気味の悪い気配は、しなくなっていたの。おかげで元の生活に早く戻れたわ。精神面も回復して、夜中に起こされることもない。
これで安心、と思ったのも束の間。
また、あれが、夜中に起こされる日が始まったの。
今じゃあ、こうして気軽に話していられるけど、この時はさすがに辛くて辛くて。とうとう叫んじゃったの。
「出てきなさいよー!」って真夜中に、しかも大声でね。
何も見えない日が続くよりも、いっそ幽霊でも化け物でも妖怪でも宇宙人でも何でもいいから見えてしまった方が楽だってことに気が付いたの。
家の中は、ちょっとした騒ぎとなったわ。お母さんはたまたま用事で家にいなかったんだけど、父さんは凄く心配してくれたの。変質者が現れたもんだと勘違いして、ゴルフクラブを片手に、周辺の見回りに家を飛び出たわ。
予想はしていたけど、すぐに戻ってきて、それからたった一言。
「何も見なかった」
ただね、家に帰ってきた時のお父さんの顔が、とにかく真っ青になっていて印象的だった。本当は幽霊でも見たんじゃないのかと、私は心の中で思っていた。
それから………………。
……ごめん。ちょっと思い出しちゃった。
お父さんね、死んだの。見回りに出たあの日から、一週間後に。
死ぬまでの一週間。お父さんは毎日、深夜にうなされていたみたい。私は気付かなかったけれど、隣で寝ていたお母さんが言うには奇声を上げる時もあって、とにかく大変だったそうなの。
そんなお父さんの死に方は、凄まじかったわ。
凄かったのは、私の方もだった。その夜は、いつもより強い気配に襲われていたわ。
……ダン! ダンッ! ダァンッ!
本当に耳もとで鳴っていたんじゃないかってくらい、いつも以上に激しかったの。
ぐいって引っ張られたみたいに上半身を起こして、音に驚いていたあまり無意識に室内を見渡した。
だけど聞こえたのは、自分の息遣いと、心臓の激しい鼓動音だけだった。それ以外の音はどこからもしていなかった。
私を起こす物音が強烈だったから、その後から始まる気配も、強いものだったわ。
髪の毛が部分的に風に吹かれて、持ち上がったかのような気さえしたの。
反射的に顔を向けると、やっぱり窓がある方だった。
カーテンが閉められてあったんだけど、私は、カーテンの奥から異様なほどの気配をやっぱり感じていたの。裏に何かが潜んでいるのかってくらいに。
「誰かいるの!」
今度こそ、本当に何かいると察して、私は声をかけたの。
布団から出て、恐る恐る窓際に近付いた。手が震えるくらい怖かったけど、勇気を出して、カーテンを開けてみたわ。
しかし外には、誰も、何もいない。
それでも気配は止まずに続いていたからね、今度は、お父さんが危ないって胸騒ぎがしてきたの。
胸騒ぎと同時に、私は窓の外、ずっと先で、キラリと白い光が走ったのを一度だけ見た気がしたんだけど、もう頭の中はお父さんのことで一杯だったから深く考えようとはしなかったわ。
急いで一階に下りて、お父さんの様子を見に行ったら、そしたらお父さん……今でも思い出すと体が震えてしまうくらい、物凄い形相で全身をくねらせながら苦しんでいたの。爪が食い込むくらい胸を押さえていた。
心配しに様子を見にいったんだけど、恐ろし過ぎるあまり、どうすることもできず、私は狼狽えることしかできなかったわ。泡を吹きながら長く苦しんだ末に、お父さんは絶命したわ。
お医者さんの説明によると、お父さんの心臓にね、傷があったらしいの。でも普通の傷じゃなくて、太い針でもぶっ刺して貫通させたかのような穴が開いていたんだって。
どうして穴ができたのかは、お医者さんたちでも原因は不明だったみたい。
分かんないことばかりだけど、私は、お父さんの死から一つだけ分かったことがあるの。
早めにこの家を出て行くべきだ。自分もいつか得体の知れない気配に殺されてしまうかもしれない。
この時に私はね高校を卒業したら即、家を出て行く決心をしたのよ。
前編です。後編へと続きます。




