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へたれのうた

作者: 藍京

 新緑が萌える山間の高校に登校する生徒たち。新入学から慣れ始めた一年生の中にマンガ好きでおっちょこちょいな女の子リノがいる。

 ドジっぷりから『へたれ』と呼ばれているが、自身認めているようで気にはしていない。小さい頃から天然ともいえるドジな面があった。落ち着けばいいのに何を思ったのか慌てて転ぶ。運動会でもまともに走れないほどの運動オンチ。勉強はまあまあだが忘れ物が多い。よく家まで取りにいったものだ。その時から周りから『へたれ』と言われている。最初は嫌な顔をしていたが『へたれ』がリノの代名詞となった。

 そんなリノだが子供の頃は『お絵かき』が得意で先生や友達から誉められた。嬉しくなったリノは見たものはもちろん、思い浮かべたものまで毎日のように描いている。チラシやカレンダーの裏がリノのキャンバスだ。成長とともに絵が上手くなったリノは、文化祭など学校行事のポスター描きをよく頼まれた。『へたれ』な少女の唯一の才能かも知れない。

「おはよう!」

 駆けてきたのは同級生のユキ。リノとは対称的にしっかり者。きちんとしないと納得しないほどの真面目さが仇になることもある。

「遅刻するよっ!」

 時間ギリギリになりそうだとリノの手を引っ張る。

「あっ!」

 サキの引く手に足が追いつかずリノは倒れ周りの失笑をかった。

「まったくドジなんだから」

 頭の中は痛いのと恥ずかしさが交差し苦笑いするしかなかった。

 リノは漫画家になるのが夢でもある。中学の頃、マンガの本を手にしたリノは衝撃を受けた。絵だけでなく小説のようにストーリーを伝えるプロセスに感銘し、自分の将来の夢を描いていた。キャラクターやストーリーが浮かぶと授業中でもノートの端に描く。たまに先生に見つかり本で頭を叩かれることもあった。

 休み時間、トイレから教室へ小走り。人を避けたところで男子生徒にぶつかり倒れた。

「すいません!」

 リノはその場で正座して頭を下げた。

「そっちこそ大丈夫か?慌てるなよ」

 優しい口調で手を差し伸べた男子生徒。彼は校内一のイケメンと女子生徒から崇められている三年生の松本。手をとり立ち上がるとペコリと深々お辞儀した。松本は何もなかったかのように静かに去った。

 教室へ戻るとユキが二人を見ていたらしくリノを捕まえて小声で話した。

「さっきの松本さんでしょ。上級生からも人気があるから、近づかないほうがいいよ」

 上級生から何かされるかも知れないからと注意された。

「あ、でも私、興味ないから」

「へっ?」

 イケメンに興味がないというリノにユキは唖然とした。リノは男子でも人よりマンガ。イケメンというとマンガの登場人物くらいしか興味がなかった。

 昼休みでも一冊のノートをカバンから取り出して、マンガの下絵を描いていた。何人かのクラスメートが見てくれるときもある。

「これ面白いよ」

「うーん、どうかな?」

 みんなの意見が自分の描いたマンガの評価になる。リノはマンガを描くことに、ますます力が入る。だがユキは冷やかだ。

「そんなことより先ず勉強だろ」

 まるで母親に叱られた気分だ。リノの成績は中くらい。もっと勉強に身が入れば上を狙えるはずだとユキは思っている。しかし、リノの漫画家の夢まで壊したくない。そんなもどかしさがあった。

 リノは毎日学校帰りに図書館に寄る。勉強ではなくマンガを描くためだ。学生は勉強第一と考える厳格な両親がマンガなぞ許さなかった。以前、部屋で描いているところを見つかって大目玉を食らい、マンガを描く道具は全部捨てられてしまった。諦めきれないリノは密かに小遣いを貯めては少しずつ道具を揃えた。そして勉強をしている振りして図書館で描いているのだ。

 館内は利用者が少なく、管理人以外は人影が見当たらない。家で描くよりも絶好の場所だ。今日もひとり下書きしたノートから原稿へと描いていく。すると近づく足音に気づき慌てて原稿を手で覆うように隠した。

「何を隠してるんだよ。恥ずかしくないよ」

 そっと見上げると松本が立っていた。本を借りようと図書館を訪ねたらリノが目に入り寄ってきた。隠したつもりでも原稿は松本に見られていた。勉強でなくマンガを描いていること自体恥ずかしいと思った。だが、松本は恥ずかしいことでないと言う。

「ちょっと見せてごらん」

「えっ?あっ、はい…」

 隠した手を退けると松本は原稿を手にとった。一枚一枚見ている松本にリノは緊張して落ち着かない。

「面白いね」

「あ、ありがとうございます」

 深々とお辞儀するリノを見て休み時間でぶつかったことを思い出した。

「あの時と同じだね」

「あ、あの時はすいません…」

 申し訳ない気持ちで目を合わせられなかった。

「じゃ、いい作品期待してるよ。頑張って」

 そう言って松本は去っていった。

 初めて男の人と二人で話したリノ。しかもみんなが憧れるイケメン。ものの数分ではあるが『至福のとき』とはこうなのかなと思うと顔を赤らめた。リノにとって味わったことのないときめき。家に帰っても顔が綻んでいた。

「どうしたの?」

「ううん、何でもない」

 普段、大人しくて顔に出さない娘が笑顔で帰ってきた。首をかしげる母親だったが、明るくなってきたのかと思うと娘の心の変化に喜びを感じた。

 次の日、学校へ行くと女子生徒が大騒ぎしていた。リノが玄関に入ると数人の女子生徒に囲まれた。

「ねえ、松本さんと何があったの?」

「えっ?」

「昨日、図書館で二人を見た人がいるのよ」

 リノと松本が図書館にいたのを誰かに見られたようだ。しかも二人が付き合っているのではないかと誤解されていた。

「いや…図書館にいたら、たまたま松本さんがきただけ…」

「ホントに?」

 さらに近寄られ疑いの目で見られる。すると騒ぎに気づいた松本がやってきた。

「こら、何やってんだ」

「あっ松本さんだ!」

 ひとりが叫ぶと女子生徒が一斉に松本の方へ寄っていった。もうひとりがリノを指差したずねた。

「あの、この子と一緒に図書館にいたって本当ですか?」

「本当だよ」

「ええっ!」

 女子生徒は一斉に驚く。だが、松本は冷静だ。そして強い口調で切り返した。

「俺は図書館へ本を借りにいったら、たまたまその子がいて勉強していて、一言声を掛けただけだ勘違いするな」

 松本の説明で納得したのか女子生徒はリノから離れていった。

「まさか、あの子が付き合うわけないよ」

 遠くからそんな声が聞こえた。

「ま、気にするな」

 松本はリノの肩をポンと叩いて教室へ向かった。リノはいつものように深くお辞儀。しかし気になる言葉があった。図書館でマンガを描いていたのに「勉強してた」と言っていた。マンガを描いていたのが恥ずかしいのかなとリノは不安になった。教室にいくと何人かのクラスメートから「ごめんね」の声。誤解が解けてホッとした。

 放課後、リノは上級生の犬山に呼び止められた。

「ちょっと来てくれ」

「何ですか?」

 犬山のあとをついていくと校舎の裏へ連れて行かれた。そこには女番長の三年生桃子と二年の猿谷、岸がいた。

「な、何ですか…」

 金髪の女子プロレスラーのような風格の桃子が近づく。たじろいで後退りするリノを猿谷と岸が背中を押さえる。

「おまえ、松本と関係あるのか?」

 桃子が凄むとリノは泣きそうになった。

「いえ…何も関係ありません」

「本当か?そこの犬山が図書館で見たというんだよ」

 図書館で松本といるところを犬山に目撃され、校内に言いふらされたようだ。

「いや…偶然会っただけです…」

 桃子はリノの髪を鷲づかみにし、額をつけ睨みつける。

「いいか、松本はアタシが目をつけたんだ。二度と近づくなよ」

「は、はい…すいません…」

 つかんだ髪を離し、四人はリノから去っていった。恐怖と悔しさでリノの目から涙が止まらなかった。周りを気にしながら涙を拭い足早に帰った。

 リノは自宅のベッドに横たわり、しばらく呆然としていた。松本に会って舞い上がったせいなのか学校で白い目で見られるとは思わなかった。当分の間、松本には近づかないようにすることにした。

 マンガ本を買うと親にバレてしまうので数ページずつ本屋やコンビニで立ち読みしている。ある日、本屋で公募雑誌を目にする。何気に手にとり開くと新人漫画家の募集記事。すぐさまこの雑誌を買い、手さげ袋の端に入れた。もちろん親に見つからないようにするためだ。

 早速、家へ帰り部屋で雑誌を開きチェックする。それは新人発掘に力を入れプロへの登竜門ともいわれている出版社だった。年齢制限もなく幅広く募集している。締め切りは九月末まで。夏休み中には仕上げたいとリノは思った。

 一学期の終業式が終わり、配られた通知表を見る。ほとんどの科目が平均点。体育についてはもう少しといったところ。そこへユキが覗き込む。

「きゃっ!何見てんの!」

「ちゃんと勉強すれば成績があがるのに」

「してるよ!私はこんなもんなの!」

 憮然とするリノだが、いつも二人はこんな調子でふざけあっていた。

 終業式は半日で終わる。一旦、家に帰り図書館へ行こうとしているリノは、先に昼食を済ませようと手さげ袋を持って自転車でコンビニへ向かった。コンビニでパンとジュースを買い、駐車場で食べようと出ると自転車がなくなっている。一瞬、頭の中はパニック。止めたところを間違えたかなと辺りを見回すが乗ってきた自転車がない。しかもマンガを描く道具と原稿が入った手さげ袋は自転車のかごに入れたまま。『盗難に注意』と駐車場に貼られたプレートが憎たらしく見えた。ショックで顔を上げられないまま徒歩で帰った。まだ両親が帰ってはいないが、どう話そうかと部屋で頭を抱える。不注意で盗難にあった自分を責めた。

 駅の外で待ち合わせしている桃子。仲間と電車で遊びに行こうとしていた。そこへ犬山と猿谷が自転車を二人乗りできた。

「遅いぞ…どうしたんだそれ?」

 乗ってきた自転車が二人のものでないと気づく。

「コンビニにあったのを借りて…」

「借りたって、お前…かっぱらったんだろ。ヤバイぞ」

 桃子は喧嘩をしても盗みなどはしないというポリシーがあった。中学の頃に自転車や財布を盗まれたことがあり、それがクラスメートの仕業と分かり大喧嘩。学校側から謹慎させられた反発で荒れるようになった。原因がクラスメートの窃盗が引き金という苦い経験が他人に迷惑をかけまいと自制している。

 自転車の後輪部分を見ると自分たちの高校の校章プレート。所有者が分かるように番号が入っている。横にはマジックでリノの名前が書いてある。桃子は松本の件で脅した子だと思い出した。しばらく考えた桃子は二人に言った。

「おい、これウチの生徒の物じゃないか。足が付くぞ」

「あ、すいません…」

「鞄とかなかったか?」

「手さげかあったけど田んぼに…」

「馬鹿!アタシらが盗んだことになるぞ!戻してくる。先に行ってろ」

 二人から自転車を奪うように取り、田んぼ沿いの道を走っていった。女番長とはいえ、外見では判断できない優しさが桃子にはあった。

 しばらく走らせると田んぼの用水路に手さげ袋を見つけた。拾い上げると半分泥だらけ。中まで汚れている。そっと出してみるとマンガの描かれた原稿が出てきた。そこには作者名が書いてあり、間違いなくリノの物だった。

「あいつ、こんなものを描いていたのか…」

 手さげ袋を自転車のかごに入れ、リノの家へ向かった。

 キキーッ。聞き覚えのある自転車のブレーキ音に、部屋の窓から外をうかがうリノ。何だろうと門の外まで出てみると自分の自転車が置いてあった。

「よかったあ」

 誰かが見つけて持ってきてくれたと一安心も束の間。かごの手さげ袋が泥だらけになっているのに青ざめた。慌てて自転車を門の中まで入れ、手さげ袋を部屋に持っていった。中身を調べると原稿までが泥だらけで使い物にならない。言葉が出ないままじっと原稿を見つめる目から涙が流れる。

「なんで…」

 このまま自分の作品を終わらせたくないリノ。描き直しても締め切りに間に合いそうもない。次回の募集まで待つか悩んだ。原稿を広げて見ていると、ノートを半分に破いた紙切れが出てきた。そこには『私の子分がやったことを許してくれ』と殴り書きの字。文面から桃子の仲間の仕業だと察した。

「またあの人たちか…」

 落胆するリノだったが、不可解なのがわざわざ自転車を届けた桃子の行動。女番長といわれているが、根っからのワルではないのではとリノは思った。

 夏休みに入ってからも図書館でマンガの原稿を描く。新たに原稿に使うケント紙を買い今まで描いた汚れた原稿とノートを参考に描いていく。コピーのように同じに描けないのがひと苦労。とりあえず九月末までを目標にした。

「よっ」

 声をかけられて顔を上げると椅子から落ちそうになった。そこには桃子が立っていた。

「な、なんでここに?」

 動揺するリノ。図書館に入っていくところを偶然通りかかったというが、実はリノを待って謝ろうとしていた。しかし、いくら謝っても締め切りに間に合うか分からない。リノは今までの経緯を説明した。

「何か手伝えるか?」

 そう言ってもマンガを描いたことがない桃子。手伝うというが失敗を恐れるリノ。そこで提案してみた。リノがペンを入れた後に墨でベタ塗りしてみようというもの。試しに汚れた原稿を練習代わりに塗らせてみた。大きい体の割りには細かい作業をする桃子を見て感心した。

「意外と器用なんですね」

「意外は余計だろ」

「あ、はい、すいません」

 ペコペコするリノを見て桃子の口元が緩む。そして自分のことを語り始めた。

「アタシだって最初からこんなんじゃなかったよ。ファションデザイナーに憧れたこともあった」

 手先が器用なのはペンを手にしたことがあったからだ。落書き程度でも何度も描いていれば自然と感覚を覚える。桃子の筆さばきが上手いのもそのためだった。

「つまらないことで喧嘩しちゃってさ、学校側の監視に反発したって訳さ」

 睨む癖があった桃子の表情が幾分緩んでいた。

「もったいないよ」

「えっ?」

 リノから話しかけるのは珍しかった。それだけ桃子に興味を持ち始めていた。

「今からでも遅くないよ。専門学校があるからそこで勉強してもいいし」

「そうか…お前に説教されるとは思わなかった」

「い、いえ、あ、すいません…」

「冗談だよ。考えとく。あっそれ手伝うよ」

 桃子は柄にもなく照れくさかった。リノがペンを入れ、桃子がベタ塗りをする。こうした作業を二人で行うことにした。この日から夏休みを利用し、図書館でリノの作品を仕上げることを約束した。

 毎日のように二人で原稿を描いていく。思ったよりはかどり気持ちに余裕が出てきた。だが締め切りが近づいているのは事実。夏休みの課題も残っている。時折、桃子に見てもらったりもした。勉強も頑張ってマンガを入選させる。漫画家になるのを両親に認めてもらいたい。そんな思いがリノをふるい立たせた。

 夏休みもあと一週間。桃子のおかげで八割方仕上がった。あとは通学しながらでも間に合いそうだ。

 夏休み終了前の登校日。一週間残して夏休みの課題情況を先生に報告。リノは図書館通いで桃子の助けもあってほとんど終わっていた。先生に誉められ、ユキも感心していた。

「へー、やれば出来るじゃん」

「私はやれば出来る子なの」

からかうユキに笑顔で返した。

 帰りはいつもユキと一緒だが、用があるからとユキを先に帰した。リノは帰り際に桃子に会ってお礼を言おうとしていた。桃子の仲間に脅されるのではないかと心配があるが、心を開いてくれた桃子が何とかしてくれると思っている。少し『勇気』がリノの中に湧いてきた。

 学校の裏道から帰る桃子。そこに犬山ら三人と連れの二年生二人が目の前に現れ行く手を阻む。一歩前へ出た犬山とにらみ合う。

「最近、付き合いが悪いんじゃないすか?」

「何?」

 リノを相手にしていた桃子。確かに犬山らと付き合いが疎かになっていた。

「もうアンタに付いていけない。番長の座を降りてもらう」

「なんだと!」

 カバンを投げ捨て取っ組み合いの喧嘩が始まった。力では桃子が勝るが相手は人数で太刀打ちする。さすがに人数ともなると桃子に疲れが見え始めた。

「やめて!」

通りかかったリノが騒ぎに気づき駆け寄る。

「馬鹿!来るな!」

 桃子が注意するがリノは二年生二人に腕をつかまれ押さえられた。三対一の喧嘩は桃子には不利になりひざまずくとリノが叫んだ。

「卑怯よっ!」

「何?」

 犬山が手を止めてリノに近づく。

「やめろっ!」

 桃子は猿谷ら二人に押さえられ身動きがとれない。

「三人でやるなんて卑怯よ」

「いい度胸だな。よし、ワタシとお前とでタイマンだ」

「タイマン?」

「一対一ってことだよ」

 犬山はリノが勝ったら桃子を放すという。

「やめろ!お前なんか相手にできない!」

 リノがかなう相手ではない。桃子はどうにか止めさせたいが犬山は聞く耳を持たない。戸惑うリノ。しかし、犬山が二年生二人に合図するとリノは犬山の前に突き出された。

「汚ねえぞ!」

 桃子が叫ぶも犬山はリノを捕まえては突き飛ばした。喧嘩をしたことのないリノ。何度も起き上がっては突き飛ばされる。完全に子ども扱いだ。

「リノ…」

 桃子は助けようと立ち上がるが、ダメージが大きく猿谷と岸に力尽くで押さえられ尻もちをついた。『何とかしたい』リノは犬山に突進するが力は歴然。かわされては投げ飛ばされた。しかし、リノは諦めなかった。『へたれ』と呼ばれているリノの心に変化が起きていた。

「リノ…もういい」

 桃子は見ていられなかった。

「早くカタつけちゃいなよ」

 猿谷の声に犬山が振り向きうなずく。一瞬のスキを見てリノが突進する。

「わー!」

「ん?」

 犬山がリノに顔を向けた瞬間、リノの頭が顔に当たり倒れた。

「えっ?」

 唖然とする桃子。他の生徒も狐につままれた顔をしている。誰もが犬山が倒されると思わなかった。

「こらっ!何をしている!」

 騒ぎを聞いて数人の先生が集まり全員生活指導室へ連れて行かれた。一人ひとり事情を聞き、その場で処分を決めることにした。学校側としては新学期に入る前に処分すれば、周りに騒がれることが少なく都合がいいからだ。騒ぎの発端となった桃子ら四人は退学。ほう助した二年生二人は停学。巻き込まれたという理由でリノは二学期が始まるまでの五日間自宅待機にとどまった。

 両親に激しく叱られたリノは当分の間、自宅から外へ出られなくなってしまった。両親が外出中でも、近所の人に見られて親に知らされるのが怖い。たまに親友のユキが様子を見に来てくれるのが責めての救いだ。お菓子など差し入れで心が和んだ。しかし、ユキはリノがなぜ桃子らにかかわっていたのか心配していた。

「なぜ、あんなことになったの?」

 どうしても聞かずにはいられなかった。お菓子を食べるリノの手が止まった。

「桃子さん、本当はあんな人じゃないの」

「えっ?」

 あれだけ女番長と恐れられていたのに『いい人』というリノの言葉に耳を疑い怪訝な顔をする。リノは図書館での出来事を話した。

「そうなんだ…でも他の人に話しても誰も信用しないと思うよ」

 中学から悪さばかりしてきた桃子。改心したとしても信じがたい。

「あの人どうなるのかなあ」

「東京へ行くらしいよ」

「東京?」

 ユキが聞いた話だとアルバイトしながら専門学校へ行くらしい。退学しているので同時に卒業検定を受けるという。リノが申し訳なさそうな顔をしているとユキはリノの肩をポンと叩いた。

「もう何も考えないほうがいいよ。あの人だって新たな道を見つけたんだから」

「うん…」

 机の上には描き終えたマンガの原稿が置いてある。どうやら自宅待機中、親の目を盗んで描いていたようだ。持ち出せないのでユキに郵便局へ持っていって欲しいと頼んだ。ユキが快く引き受けるとA4サイズの封筒に原稿を入れ手渡した。

「お願いね。あっ、送料が分からないけど」

「わかった。立て替えておくよ」

「ありがと」

 ユキは封筒を持って部屋を出た。部屋の窓から外を見るとユキが手を振って帰るのが見えた。

 山が紅く色づく季節。リノは相変わらずマンガに没頭していた。新作が思いついたようで、ストーリーが浮かんではメモをとるようにノートに描いている。

 それとは裏腹に夏休みの事が尾を引いているのか気分が乗らないときもある。帰りに図書館の前に立ち止まるが入るかどうか躊躇している。それを見ていた初老の女性がリノを呼ぶ。図書館の管理人だ。元気がないので心配になり、いつも来てくれているリノを管理室に入れてお茶を出した。

長い人生経験からかリノの顔を見て心中を察する。

「人はいろんなことを経験して大人になるのよ。頑張って」

「はい…」

 一杯のお茶と管理人の言葉で身も心もほっこりした。気が楽になったのか帰り道の足取りは軽かった。

 夕方、リノの家に一本の電話が入る。リノがマンガの原稿を応募した出版社からの電話だ。描いたマンガが入選の朗報に驚く。電話は連絡のみで後に詳細を届けるという。

 側で話を聞いていた両親が突然怒鳴った。マンガを描くのを禁止している上、勝手に応募したリノに辞めるよう要求する怒声。わが子でも許さなかった。

「あれほどダメだって言ったのに!」

 受話器を持ったまま親子喧嘩が始まってしまった。漫画家の夢を追いたいリノ。双方とも一歩も引かない。

「もういい!」

 怒ったリノは乱暴に受話器を置くと部屋に閉じこもった。これだけ感情をあらわにするリノは初めて。両親は互いに目だけ合わせ無言になった。

「勉強するのは分かるよ…でも私だってやりたいことがあるのよ…」

 リノはベッドで泣きながらふとんを被りうずくまった。

 次の日、学校でリノはユキに愚痴った。愚痴りたくもないが、誰かに話を聞いて欲しかった。夕べの事を溜息混じりに話す。

「仕方ないよ。親としては勉強を第一に考えているもん」

 まるで親の意見が復唱されたように聞こえ机に頬杖をつき口を尖らせる。

「でも、あなた入選したんでしょ?凄いよ」

「…」

 深く溜息をつくリノ。入選したとはいえ、未成年でもあり親の承諾がないとマンガを描くことが出来ない。漫画家の夢が断たれてしまうのではないかと不安になった。

 数日後、男女二人がリノの家を訪ねた。出版社の編集長と女性マネージャーが、入選報告の電話中に親子喧嘩を聞いて両親を説得にきたのだ。リノを含め、話し合いが行われた。先ず、両親に何故マンガがダメなのか問うと『低俗』だと決め付けられた。

「あなた方も子供の頃、マンガを読んだでしょ?」

 確かに両親もマンガに親しんではいた。しかし、夢中になり勉強を疎かにしてしまい、成績に影響が出て親に叱られた。自分の子にそんな苦い経験をさせたくないがために『低俗』という言葉で片付けていた。

「そこは躾の問題であって子供の娯楽を取り上げてはならない」

 編集長はマンガの役割と必要性を両親に熱弁した。どうやらマンガについて熱くなるタイプのようだ。女性マネージャーは編集長の性格を熟知し落ち着いているが、リノや両親は押され気味に聞いていた。

「あっ、失礼」

 我を忘れた編集長は、周りの様子に気づくと『またやってしまった』と頭をかいた。両親はマンガについて納得したとしても、漫画家になるともなれば上京を考えなければならないのではと言う。原稿は描き直しされることもあり締め切りを守らなければならない。地元から送るのでは遅れてしまい編集や出版に影響が出てしまう。編集長は上京させるつもりだ。しかし、両親は高校生で一人暮らしは危険ではと心配する。それに学業の問題もある。出版社側としては転入の手続きや奨学金制度を設けているので学費などは問題ないなく、学校へ行きながら仕事はできるという。本人の頑張りが必要だが、最低限の生活費などは確保できると編集長。それだけリノの作品に太鼓判を押している。住居については、新人漫画家のために契約している不動産所有の古いアパートがある。男性ならともかく女性には借りづらい。安心して住める物件を探したいと編集長は言う。

「私が見守っているので心配はないと思います」

 女性マネージャーが女の子一人にしないで生活させることを約束すると話した。リノはやる気でいるが両親はもう少し待ってもらいたいと態度を保留した。編集長らが帰ったあとは重い空気が漂う。リノは両親と目を合わせずに部屋へ戻った。

 学校の屋上でフェンス越しに外を見ているリノとユキ。心地よさが残るはずの空気がリノの胸には冷たさを感じる。ユキに編集長の話を聞かせていた。

「親として娘一人東京へ行かせるわけにはいかないよ」

 『面倒を見る』と言われても、両親としては大人でないリノを上京させるのに踏み込めない。女性マネージャーが仕事で一緒にいてもプライベートまで干渉できない。メディアによる事件や事故のニュースや情報で『東京は怖い』のイメージを強く持っている。上京をさせたくないのはそのためだ。

 真面目過ぎ、頭が固い、過保護…そんな親から離れたいが、やはり親は親。心配をかけられない。今でなくても学校が終わってからでもいい。そう思うようになっていた。

 学校帰りにユキは一人の女性に呼び止められた。しばらく立ち話をし、女性が去るとユキは驚いた表情で女性に視線を送った。

 今日のリノは図書館に寄る気分ではなかった。帰ると家の前に見たことのない女性が立っている。そっと近づくと女性が振り向く。

「よっ、久しぶり。今日は図書館じゃなかったのか」

「どちら様ですか?」

「アタシだよ」

「…えっ?」

 聞き覚えのある声。よく顔を見ると桃子だった。髪を黒く染めてワンピース姿。あまりにもギャップがありすぎる。あの女番長だとは思わなかった。

「不思議そうな顔するなよ。アタシだってオシャレはするぜ」

「はあ…」

 何のことだか分からなく頭が混乱しそうだ。

「ちょっと話したいことがある。近くの喫茶店サテンまで行かないか」

「うん、ちょっと待って」

 久しぶりに会えた嬉しさと変身した姿の驚きで胸がドキドキした。家にカバンを置いて二人で喫茶店に向かった。

 リノにとって初めての喫茶店。緊張しながら店に入る。落ち着いた大人の雰囲気にのまれそうになる。ちょっと場違いかなと恐縮した。桃子と向かい合わせに座ると、緊張をほぐそうと出された水を一口飲む。

「コーヒー飲むか?おごるよ」

「はい…」

 注文すらしたことのないリノは言われたまま返事をした。

「よく来るんですか?」

「まあな。昔はたまり場にして店員に迷惑かけたよ」

 人に迷惑をかけたくない桃子だが仲間がいる前では粋がっていた。

「それで、話って?」

「お前、入選したんだって?」

「えっ?誰に聞いたんですか?」

「いつも一緒にいる子だよ」

 学校帰りのユキに声をかけ、リノの状況を知りたくて聞いたそうだ。やはりユキも変わった桃子を見て驚いたのだ。一人暮らしが上京するのに引っ掛かって落ち込んでいた話も聞いていた。そこで桃子が提案した。

「上京して一緒に住まないか?」

「えっ?」

 桃子が専門学校へいくことになり、親戚の部屋を借りることになっている。その部屋は一人では広すぎた。ユキからリノのことを聞いた後、友達を連れてきていいか親戚に電話を入れた。友達の面倒を見るのならいいとの返事。それをリノに伝えたかったのだ。

「何もそんなことまでしなくていいのに」

「お前には世話になったし、これは恩返しだと思っている。お前だって東京でマンガを描きたいだろ?」

「まあ、そうだけど…」

「何なら一度下見に来ればいいよ。親も編集長も安心するだろうから」

「桃子さん…」

「とりあえず、お前の親に話しときたい。アタシが上手く説得するからさ」

「わかった…」

両親が帰宅する時間に合わせて話し合うことにした。

 夕方、リノの家に桃子が訪ねた。もちろん元女番長でなく専門学校に通う先輩と説明してリノの上京について話し合った。親戚の事や部屋の事、そして上京後のリノの生活について話した。

「折角の才能を眠らせるのはもったいないですよ。厳しい世界だけど、何もしないで後悔するよりはいいかなと思います」

 両親は娘の失敗を恐れていた。しかし、何もさせないのは娘の成長を妨げるのではないか。桃子の話を聞いて前向きに考えることにした。

 日曜日、リノは桃子からあずかった地図と連絡先を頼りに母親と一緒に桃子の親戚を訪ねた。

「いらっしゃい。桃子から話を聞いてます」

老夫婦が部屋を案内した。子供が独立したので隣接した物置場と合わせて九畳分。四畳半二部屋の仕切り板を取ったような形だ。桃子と分け合うことになるが、レイアウト的に勉強や仕事に影響はない。老夫婦によると家の物は何でも使っていいという。子供がいなくなった寂しさがあり、我が子のように面倒を見たかった。家賃はいらないというが流石に気が引ける。生活に支障がなく管理費程度支払うことで話をつけた。母親は家を離れる寂しさがあるがリノのために決心した。

 その後、二人は出版社へ向かった。編集長と女性マネージャーは歓迎した。仕事内容や収支など話し合い、リノは新人漫画家として活動することになった。

 帰りの電車内でリノは母親に感謝した。

「おかあさん、ありがとう」

「私が出来るのはここまで。厳しいことを言うようだけど、あとはあなたの力でやりなさい」

「うん…」

 母親の励ましの言葉に涙を浮かべた。

「馬鹿ね」

 頭を撫でられたリノは母親の胸に顔をうずめた。

 家に帰り、話を聞いた父親は渋い顔をして黙っている。一人で生活できるのかと念を押す。リノは目を見開き父親の顔を見ながらうなずいた。力強い決意が伝わる。我が家から離れて暮らすリノに寂しさがあるが激励の言葉を送った。小さい頃からおっちょこちょいで何をやってもダメなリノが見つけた『いきがい』を応援せずにはいられなかった。

「ありがと…」

 両親の理解にリノはわんわん泣き出した。

「バカモノ!そんなことじゃ東京へ行かせないぞ!」

 父親の目が真っ赤になっていた。

 数日後、学校でリノの転校が伝えられた。クラスメートの暖かい応援にリノはうれし涙を流した。泣いた後の顔がみっともないと洗面所に向かう。教室を出たところで松本にぶつかり頭を下げる。

「あっ、すいません」

「まったく変わりはないな。向こうでも頑張れよ新人の漫画家さん」

「はい、ありがとうございます」

 深々とお辞儀をしたあと、松本の姿がなかった。松本ともお別れ。心成し恋心が芽生えたのか寂しさが込み上げた。

 いよいよ出発の日がきた。駅で見送るクラスメート。寄せ書きや手紙を両手いっぱいに受け取る。ユキが笑顔で両肩に手をかける。

「頑張れよ」

「うん」

リノに涙はなかった。別れる悲しさよりも希望に満ちた笑顔。ここで泣くわけにはいかない。まだ先があるのだから。

 駅のホームに桃子が待っていた。下宿先まで一緒にいくことにしていたのだ。

「いよいよだな」

「はい、お世話になります」

 東京へ向かう電車に乗り込み席に座ると、緊張から解き放されたかのように肩が楽になった。電車が動き出すと駅に集まったクラスメートが手を振る。リノも手を振って返す。しばらく進むと、ホームが途切れたあたりの線路際から手を振る松本がいた。

「えっ?松本さん?」

 窓を開け、顔を出して手を振る。

「へたれーっ!頑張れよ!」

「へたれじゃないもん!」

 松本の言葉に反論するように叫んだ。松本の見送りに笑顔からこぼれる涙が風に飛んでいった。

「へたれじゃ…ないもん…」

 聞き慣れた言葉を初めて否定した。『へたれ』からの卒業。これから何が起こるのか分からない試練を乗り越えようとするリノの決意でもあった。

「おい、寒いぞ。窓を閉めろよ」

 ドスの効いた声で桃子が言う。もちろん脅すつもりでなくわざとだ。一瞬、リノは驚いて窓を閉める。

「あ、すいません」

「なんだ、へたれが直ってないじゃないか」

 笑う桃子にリノが顔を赤くする。

「ひどい!もうトラウマだよ」

「わりいわりい。だけど松本のやつ、お前に気があるんじゃないのか?」

「そんな…だって桃子さん…」

 桃子が目をつけていたことを思い出し慌てて否定する。

「いや、アタシなんかよりピュアなお前のほうがお似合いだよ」

 悪い気はしないものの恐縮しきりだ。

「そうでなければ見送りなんかこないよ。お前だって気にはしてるんだろ」

 見透かされたように言われる。確かに図書館で出会ってから松本に対する心境の変化はある。それに何故松本が『へたれ』を口にしたのか。リノが『へたれ』と呼ばれているのは知らないはず。誰かからリノのことを聞いたのだろう。しかし、確信している訳でなく松本への想いと戸惑いは自分から否定はできなかった。

「あいつ卒業したら東京の大学に行くらしいよ。そしたら会ってみろよ。アタシも応援するぜ」

「東京へ?でもそんな私は…」

 遠慮がちに話すが嬉しさもあった。桃子にからかわれながらもリノは故郷をあとにした。

「お邪魔します」

 今日から東京での生活が始まる。老夫婦は温かく二人を迎えた。部屋は掃除をされているが、前に訪ねた時と違いアコーディオンカーテンで仕切られていた。さらに双方の部屋に一人分のテーブルが用意されている。勉強や仕事に集中できるよう配慮したという。リノと桃子は老夫婦に感謝した。リノは部屋を借りられるだけでもいいと改装はしていない。

 ある日、桃子が何本か紙の筒を両手で抱えて持ってきた。肘には紙袋がぶら下がっている。廊下ですれ違うリノが驚く。

「どうしたの?」

「いや、ちょっとね」

 桃子は照れながら部屋へ入っていった。同じ家に居ながら、この日は桃子と顔を合わせてない。食事になっても同じ時間に食べることはなかった。夜寝る前、カーテンをずらして桃子のほうを覗く。やはり気になってしょうがない。バーッ。いきなりカーテンが開き桃子と目が合う。睨む桃子。

「プライバシー侵害だろ」

「すいません…」

 昔と同じように蛇に睨まれた蛙の状態。桃子はにやりと笑う。

「一応、断れよ」

「はい…」

 仕切られたカーテンから入るとリノは目を疑った。部屋全体が淡いピンク。まるで乙女チックな部屋だ。桃子は壁紙を買ってきて張り替えていたのだ。

「桃子さん、こんな趣味でした?」

 無理もない。あの女番長から想像がつかない部屋に模様替えされていたのだから。

「なんだよ。アタシだって女だよ」

 頬を染める桃子。方やリノの部屋は殺風景。女の子らしい飾りもない。

「女気ないなあ」

 桃子にからかわれるが派手なのは好まない。部屋として使えればよかった。

 リノが通学することになった学校は芸能人の卵や仕事を持つ学生を理解している。とはいえ、成績や態度が悪ければ退学もある。普通の学生より授業時間が少なくても合格点は必至。勉学に心して励まなければ点が取れない。転校前よりもリノは勉強に取り組んだ。

 ある日、女性マネージャーから携帯電話に連絡が入る。投稿されたマンガの連載について話したいという。

「連載…いよいよ…」

 本格的にマンガを描けると胸が踊る。出版社へ向かい、編集部の一角で女性マネージャーと話し合う。ガラス張りのつい立がテレビの悩み相談のようで緊張する。月一の連載のスケジュール。リノは真剣に聞き入る。仕事はよしとしても、女性マネージャーは勉強時間が減って学校に行けるのか心配した。

「両立を覚悟でここに来ましたから」

 初めて会った時より力強い言葉を聞き、リノの成長に女性マネージャーは目を細めた。

 しかし、女性マネージャーの次の言葉に耳を疑った。

「連載が始まる頃にイベントがあるから来て欲しいの。そこで自己紹介してもらうわ」

「え、じ、自己紹介?」

「ええ。だめ?」

「だめじゃないけど…」

 多人数の前で話すのはからっきしダメ。引き篭もりがちにマンガの生活をしていたリノにとって、まるで地獄をみるようなもの。

「とにかく自己紹介だけはきちんとして」

「はい…」

 出版関係者はもちろん、新聞社の取材も来ることになっている。そこでドジを踏んだらと思うと額から汗がにじみ出た。出席する返事をしたものの、頭の中がパニックになりそうだ。

 その晩、リノは桃子に相談した。人前であがるのは誰でもあるというが気が気でない。とりあえず挨拶文を書いてみる。ベタではあるが悪くない。桃子は何度もリノに復唱させた。記憶をたどって復唱するのは誰でも出来る。要は人前で挨拶出来るかどうか。

 次の日、桃子はリノを近くの公園へ連れて行く。リノに度胸をつけさせようとしていた。しかし、始まる前からリノの顔がこわばっている。

「何にもしないうちに緊張してちゃ何にもなんないだろ」

「うんうん、分かってるけどさ…」

 『へたれ』振りが出てしまっている。昨晩覚えた挨拶文を口にしてみる。まるで新人の役者が初めて台詞を言っているようだ。挨拶くらい流暢に発したい。通り過ぎる人が見ている。親子連れも見ている。

「学芸会の練習?」

 そんな声も聞こえてくる。リノは卒倒するのではないかというくらい顔が真っ赤だ。桃子はリノの両肩に手を添えてベンチで休ませる。

「はあはあ…」

「しょうもないなあ」

 息が荒いリノを見て苦笑いする。それでも何度も挨拶を繰り返させた。リノの利点は最初嫌がっても次第に頑張りを見せる。不良に痛めつけられて立ち上がったときもそうだった。繰り返すうちに人が見てても挨拶の言葉が出るようになった。

「やっとだよ」

「すいません…」

 何とか漕ぎ着けてはみたが不安は残る。帰った後でも部屋で練習を続けた。

 学校が終わると連載のため原稿を描くリノだが、イベントの日が近づくにつれ落ち着かない。この日も原稿を描こうと真っ直ぐ帰るつもりでいた。帰り道で本屋を目にする。いつもは原稿のことで頭が一杯。わき目もそらさずに通り過ぎて本屋に気づかなかった。ふとイベントの挨拶を思い出し寄ってみる。個人経営の小さな本屋。本棚の間は人ひとり通れるくらい。

 ここの店主の老人が掛けたメガネから上目遣いで見ている。リノは軽く会釈して本を探す。挨拶、スピーチ…そういった項目の棚から一冊の本を取り出す。冠婚葬祭はもちろん、学校や社会人までその場で使える内容が書かれていた。イベントで役立つものを探していたリノだが、将来のためにとこの本を買った。

「ほう、今の若い子にしちゃあ感心だねえ。ろくに挨拶も出来ない子がいるのに…」

「あ、ありがとうございます」

 店主は買って帰るリノを見て目を細めた。

 部屋で買ってきた本を読んでみる。過去に楽しんだ事や楽しまれた言葉を入れると話しやすい。格好つけて難しい言葉を入れてしまうと緊張感が増す。リノは格好良く挨拶するのではなく、自分の経験を言葉に置き換えようとメモしていく。メモに箇条書きした言葉を見ていくと、なるほど話しやすいかもと思った。ノートの改めて挨拶文を思いのままに書いてみる。声に出して読みながら修正していく。

「これなら肩に力が入らないかも」

 リノの挨拶文がまとまった。

 マンガの連載が始まると中々の評判で出だしは好調だ。リノの作品に同世代が共感を得たようだ。だが、イベントの挨拶でイメージダウンは避けたい。

 リノは桃子に同行してもらい当日着ていく服を探した。桃子はデザイナーを志すほどファッションセンスはある。店で選んで試着する。見映えはよく目立つがリノは気に入らない。もう一度選んでもらっても乗る気がしない。

「どうした?悪くないと思うけど」

 せっかく選んでもらっているのに申し訳ない。鏡のリノは自分でないように思えた。

「着るのはお前だから強くは言わないが晴れの舞台だからな」

 桃子のアドバイスを聞いても悩む。ふと先日買った本を思い出した。『格好つけると緊張する』格好つけるよりも自分らしさを出したら…。そう考えながら店内を歩くと一着の服を目にする。

「これ、どうかな…」

「んー、地味じゃないか?」

 イベントで着るには地味かも知れない。手にとって試着をしてみる。落ち着く…むしろ新しい空気が体を吹き抜ける。爽やかなエネルギーを感じている清々しいリノが桃子にも見えた。

(そうか。こいつにはこいつのスタイルがあるんだな)

着ていく服が決まった。

 イベント当日。新人漫画家と紹介されたリノがステージに上がる。会場が騒づく。派手な出で立ちが多い中、明らかに地味な装い。女性マネージャーも心配そうにリノを見る。紺のブレザー、赤いチェックのスカート。どう見ても学生だ。場違いかと思える会場の視線をよそに挨拶を始める。

「初めまして。リノと申します。現在高校一年の十六歳です。今回の新人コンテストに入選していただき有難うございます。私は子供の頃からマンガが好きでずっと描いてました。時々両親に叱られましたが今では応援してくれてます。両親だけでなく、友達も応援してくれて私の描いたマンガに対して意見を出してくれる読者でもあり励みになりました。これからはプロして描いていかなければなりません。編集部だけでなく読者からダメ出しがあるでしょう。でも私は真摯に受け止めてより良い作品を描いていきたいと思います。これからも宜しくお願いします。ありがとうございました」

 終始満面の笑顔をしたリノは周囲から輝いて見える。飾り気のないピュアな姿に拍手が沸き起こる。恥ずかしながら一礼してステージを降りる。

「あなたらしさが出て良かったじゃない」

 地味だと心配した女性マネージャーが褒める。リノは胸を押さえてホッとした。

「これから一生懸命描かせてもらいます。宜しくお願いします」

「こちらこそ宜しく」

 気持ちを切り替え深々とお辞儀をした。これからがリノにとって戦いでもあり試練でもある。読者に愛される漫画家になることを誓った。


     完

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