第138話『いちかばちか』
迫る【溶岩色の大鬼】を見据えたまま、アンリは積極的に前へと出た。この戦いになるべく時間をかけたくないからである。もちろん敵の意識がミルティーユに向かないようにしたいという思惑もあった。
溶岩色の大鬼は牙が生えた口を大きく開け、吠えた。周囲を震わす絶叫にも臆さず距離を詰め、剣を振り下ろすアンリ。
大鬼は両手持ちした大鉈でその斬撃を受けた。刃と刃がかみあってひときわ大きな金属音が響き、大鬼が踏みしめる太い両足が汚れた石畳の上に土埃をまき上げる。しかしそれだけだった。
溶岩色の大鬼はアンリの重い攻撃を受けてもよろめくことはない。さきほど眷属である草色の大鬼の一撃をあっさりと受け止めたアンリだったが、今度はその逆の形となったわけだ。
しかし、だからと言ってアンリが押し負けることもなかった。むしろこの大鬼に得物を両手で構える事を余儀なくさせたアンリの斬撃は賞賛に値すると言えるだろう。自身のこれまでの成長に加え、【魂の器】を彩る武器と鎧と武術の輝石が、巨躯を誇る簒奪者にも負けないほどの力を与えているのだ。
力比べは互角と見たアンリは一旦距離をとる。
そこに今度は溶岩色の大鬼が踏み込み、巨大な鉈を振るった。大きな体に似合わずなかなかの俊敏さだったが、アンリは自分に向かって迫る刃をいくぶん余裕を持ってかわす。
返す刃でアンリは溶岩色の大鬼の胴体を狙うも、その剣は後ろに飛びすさった大鬼に惜しくも回避される。
重装蜥蜴のように洗練された動きではないとはいえ、それでも歴戦の戦士を思わせる身のこなしであった。
――やはり簡単に勝たせてはくれないか。アンリは心のなかでつぶやいた。
ふたたび襲い掛かってきた簒奪者の攻撃を、アンリは肉厚の剣で受け止める。激しく火花が散った。しばらく両者の間で剣戟の音が続き、それに伴っていくつもの火の花が空中に咲き乱れる。
力は互角だったが剣技は明らかにアンリの方が上だった。このまま打ち合えば順当に勝つことができるだろう。溶岩色の大鬼の心に久しく感じていなかった恐怖と焦燥感が生まれる。その動きも自然と身を守ることを優先するものとなっていった。
しかしアンリも内心そこまで余裕がなかった。これ以上時間をかけると他の簒奪者や眷属たちもやってくる可能性がある。さすがに、他の敵に構いながら対処できるほど優しい相手ではない。
アンリは一か八か賭けにでた。大鬼の大鉈をあえて不安定な態勢で受け止め、よろめいて見せたのである。やや腰の引けていた溶岩色の大鬼はそれを見て好機と調子づき、先ほどよりも間合いを詰めて攻撃をしかけてきた。
アンリは最小限の動きで刃の軌道から体をそらした。完全にはかわしきれず、アンリの鎧が耳障りな音をたててえぐりとられる。後ろで見ていたミルティーユは息を飲んだ。
自分が優位になったと思っていた溶岩色の大鬼は突如悟った。うかつにも距離を詰めたことで、眼前の剣士の間合いから逃れられなくなっているということに。そしてもちろんそれはアンリが望んだことであった。この瞬間、勝利の天秤はアンリの側に大きく傾いたのだ。
それでも大鬼は死地から離れようと跳んだ。だがそれを予測していたかのように、アンリは逃げる大鬼を追う形で一歩を踏み込み、剣を上段から叩きこむ。愛剣【打ち壊すもの】はついに獲物をその軌道にとらえ、避けようのない斬撃となって溶岩色の大鬼の体を縦に深く切り裂いた。
しかし生命力を誇る溶岩色の大鬼、さすがにそれだけでは倒れない。
よろめく溶岩色の大鬼を前にアンリは追撃の構えをとった。自分が繰り出せる唯一の武術。
「【荒れ狂う暴風域】!!」
勝利を確信したアンリの声と共に、流れるように叩きこまれる分厚い剣の二連撃。
胴体を連続で横薙ぎされた溶岩色の大鬼は苦悶の叫びを上げる。そしてそれが断末魔の声となった。ついに簒奪者の肉体は灰と化し、消滅して果てたのだ。
「アンリさん!」
ミルティーユの声に振り返るアンリ。アンリは心配げに自分の体を見つめている少女の顔を見て、安心させようと微笑んだ。鎧そのものはえぐりとられたものの、その下の体に大きな傷はない。ミルティーユもようやく喜びの笑みを浮かべる。
痛む足を気にせず駆け寄ろうとしたミルティーユだったが、その顔がまたもこわばった。視線はアンリを越えた先に向けられている。
アンリが視線の方向に振り向くと、瓦礫や建物にまぎれる形で新たな眷属の群れがいた。いつからそこにいたのか、数体の眷属はその手に赤い光や黄色い光を生み出している。魔術を使おうとしているのだ。
さすがに今からでは間に合わない。アンリがせめてミルティーユをかばおうとしたその時。
「水の槍!!」
「爆炎球!!」
聞きなれたふたつの声がどこからか響いた。ほとばしる水の槍と燃え盛る炎の球がアンリの視界を横切り、目の前の眷属の群れに突き刺さる。水の槍は二体の眷属を串刺しにし、炎の球は三体の眷属を巻き込んで爆散した。眷属たちは己が準備していた魔術を発動させる間もなく消滅する。
「エレン! サイファ!」
声の主を理解したアンリがそちらを向いて叫んだ。もちろん視線の先にいたのは幼馴染のエレン、そしてサイファ。二人の手には魔術を放ち終わったカードが握られている。
「あたしたちもいるわよっ!!」
言葉とともにマナ、そしてミナがそれぞれ武器を構え、アンリとミルティーユの側を駆け抜けて敵に肉薄し、それぞれ大技を振るう。眷属たちは両断されあるいは吹き飛び、多数がその攻撃で消滅した。まさにアンリは百万の味方を得る思いだった。
逆に慌てふためいたのが眷属たち。まだ自分らへの攻撃の気配を見せる者たちに恐れをなし、脱兎のようにこの場から逃げ出したのであった。
「アンリ!!」
戦闘が一段落してアンリに駆け寄ってきたエレンの顔には明らかな怒りの表情があった。彼女を置いてけぼりにしてアンリ単騎で危険に身を投じたのだから当然だ。
「ごめん、エレン」
アンリはこぶしが飛んでくることを覚悟して目を閉じる。しかし衝撃はいつまでもやってこなかった。恐る恐る目を開けるアンリ。目の前には無理に冷静さを作ったかのような幼馴染の顔があった。
「お説教は後よ。少し下がったところに拠点が作られてるわ。そこで敵の進行を抑えるの」
「……わかった」
すぐに気持ちを切り替えるアンリ。ミルティーユを救うことはできたものの、まだ戦いは終わっていないのだから。
「ミルティーユ、歩ける?」
アンリは少女に尋ねた。ミルティーユは大丈夫ですと答える。おそらく、ろくに歩けなかったとしても彼女はそう答えただろう。
しかしその足運びはぎこちない。明らかに無理をしていることを執行者たちは見てとった。
「すまないな、これが平時ならすぐに癒してやるのだが」
サイファが申し訳なさそうに言い、ミルティーユが慌てて首を左右に振った。
「いえ、私なんかのためにもったいないですから。平気です、ちゃんと歩けます」
「じゃあ僕が……」
少女を抱えて運ぼうとしたらしいアンリよりも先に動いた影があった。
「よいしょ」
「きゃあ!?」
それはこの中で一番の怪力の持ち主、マナであった。マナは自分よりも背の高い少女を軽々と持ち上げる。ミルティーユは信じられないものを目にした面持ちでされるがままとなっていた。
「ほら、さっさと下がるわよ」
空気を読んだのかそれとも読まなかったのか、マナはアンリ、エレン、ミルティーユの間で視線を行き来させると街中央の方へ向かって駆け出した。
慌てて仲間たちもそれを追いかける。新たな敵と遭遇することもなく、アンリたちとミルティーユはひとまず危地を脱することに成功したのだった。