第137話『指一本触れさせない』
まずは先頭にいた一匹の草色の大鬼が得物を持ってアンリへと挑みかかる。大きな肉体、太い腕、その膂力が込められた鉈の一撃がアンリを襲う。過去の記憶を再現するかのような光景に、アンリの背後にいるミルティーユの体がこわばった。
アンリは慌てることなく剣を正面で構え、その刃を難なく受け止めた。耳障りな金属音が響く。あっさりと受けられたことに、怪力が自慢の大鬼は赤い目を驚きに見開いた。さらに力を込めても腕はぴくりとも動かない。
逆にアンリが剣を押し込むと大鬼は無様に後ずさった。
以前は手も足もでなかった忌まわしい記憶の中の魔物。だが執行者となって戦い続けて成長した今、もはや眼前の大鬼は大した相手ではないことをアンリは実感する。そのために相手の攻撃を真向から受け止めたのだ。己の中にまだかすかに残る恐怖心を克服するために。
――もはや恐れはない。
アンリはさらに踏み込み、愛剣【打ち壊すもの】を振り下ろす。ただ一閃。
まさに叩き斬るという言葉が適切な斬撃が草色の大鬼の肉体を両断した。眷属はたちまち消滅して灰となる。
それを見ていた大鬼たちは牙を剥き、今度は三体が一斉に襲い掛かる。アンリも即座に反応した。
「はっ!!」
気を吐いてアンリが剣を振るう。先に動いたはずの大鬼たち三体であったが、先手をとったのはアンリであった。アンリの【打ち壊すもの】は我が意を得たりとばかりにうなりをあげて大きな鬼たちへと襲い掛かった。
一体目は斜め上から両断し、続く二体目は逆袈裟に切り上げる。やや遅れて突っ込んできた三体目には体を回転させて横からの斬撃を見舞った。
草色の大鬼たちが誇る肉厚の胸板も、丸太のような腕も、錆の浮いた鉈も、その剛剣の前ではなんの障害にもならない。
魔物たちはその名の通り、野に生える草のようにあっさりと刈られていく。
アンリはその場をほとんど動いていない。後ろにいるミルティーユの側に近寄らせまいと門番のように立ちふさがっている。彼女が足を痛めているらしいことはアンリも気付いていた。
次は五体の草色の大鬼が怒りの雄たけびと共に殺到した。この小さな存在を集団で引き裂いてやろうと。
しかしそれはアンリにとって望むところであった。
両足を広げて腰を落とし、上半身を捻りながら頭の後ろで剣を構える。
アンリが幾度となく放ってきた武術、【荒れ狂う暴風域】。
間合いに入ってくるまでの時間はわずかだったが、それだけの威力増大で十分。眷属たちの群れへ、アンリはまさに暴風となって突っ込んだ。
剣が三回転してアンリがその動作を終えた時、彼の周囲に動く草色の大鬼はいなかった。宙に舞う無数の灰だけが、数瞬前までそこに眷属たちがいたことを示している。
「すごい……」
見守っていたミルティーユが心奪われたかのようにつぶやく。自分が安全な街で過ごしていた時、この剣士はいったいどれだけの戦いを乗り越えてきたのだろうか。
残る草色の大鬼はあと一体。怖気づいたのか大鬼は一歩、二歩と後ずさる。しかし三歩後ずさることはできなかった。何かが己の胸を背後から貫いたからである。
自分の胸を貫いているものが何なのか確認する間もなく、最後の草色の大鬼は消滅する。その後ろに立っていたのは溶岩色の大鬼。己の眷属の不甲斐なさにその背を背後から貫手でえぐったのだ。
自分の眷属をその手で始末したことになんの感慨もない表情で、簒奪者はアンリのもとへゆっくりと近づいてくる。
溶岩色の大鬼はアンリにとって未知の簒奪者だ。巨体を誇る草色の大鬼よりも一回り大きく、手にする鉈のサイズは眷属のそれと比べて長く幅広だ。向かい合っているだけで少なくとも重装蜥蜴と同程度の圧力を感じる。アンリの体にわずかな緊張が走った。もちろん背後で見守るミルティーユが感じるプレッシャーはそれ以上である。
自分に何かできることはないかと考える少女。さきほどひねった足では満足に走ることも出来ないし、うかつに動くとアンリの気を散らして邪魔をしてしまうかもしれない。
……となると執行者ではない非力な存在である自分にできることはこれだけだ。
ミルティーユは大きく息を吸い込む。
「信じています。アンリさん!」
恐怖に負けじと精一杯の声で発せられるミルティーユの声援。
少女の声を聞いたアンリの口元に小さな笑みが浮かぶ。
振り返る余裕はなかったが、アンリは片手をあげて少女の声援に応えた。