第136話『守りたいもの』
「お母さん! お母さん!」
そのころ、ミルティーユは母親のことを探し求めていた。
少し前、彼女が母親のナターシャと一緒に避難しているとき、大きな爆発が起きた。今まで以上に住民の間にパニックが起き、混乱する人の波に押され、やがてナターシャとはぐれてしまったのである。
街の中央を見上げればいつも建物ごしに見えるはずの神の息吹も今では見えない。
――とてつもなく恐ろしいことが起きている。
ミルティーユは少しでも安心したいと母親の姿を求めた。そして今はこの街にいないはずの、一人の少年の顔も思い浮かべる。
さまよう少女はいつの間にか中央広場に向かう道ではなく、逆に外周部へ向かう道へと入り込んでしまっていた。あたりは散々破壊が行なわれた後なのか、建物のほとんどは原型をとどめておらず、吹く風には生臭さが混じっていた。
やがて明らかに間違った道を進んでしまったことに気付いて立ち止まり、ミルティーユがもと来た方へと向き直ろうとしたその時。
「きゃあっ!?」
突然、先ほど通り過ぎたばかりの家の外壁が轟音と共に吹き飛んだ。慌ててそちらに視線を向けるミルティーユ。すさまじい力が加わったのか、壁には大きな穴が空いている。少女が呆然と見つめるその穴からのそりと出てきたのは、薄緑色の皮膚をもった大柄の鬼だった。
その大鬼の姿を目にした時、ミルティーユがなるべく思い出すまいとしていた忌まわしい記憶がよみがえる。かつて自分を襲ったあの魔物が、また目の前に現れた。時を置いてふたたびやってきた悪夢に、ミルティーユは目を逸らすことができずただ見つめるしかなかった。
下あごから牙が生えている口はべったりと血で汚れ、口内をもぐもぐと動かしている。その太い手には赤く染まった人間の腕が握られていた。大鬼は人の腕の肉をおやつとばかりにかじっていたのだ。
新たな獲物を見つけた大鬼は手に持つモノを投げ捨て、ニッと笑った。加虐心や嘲りといった悪意に満ち満ちた、とても醜悪な笑みだった。もちろん大鬼が見つめる視線の先にはミルティーユがいる。
「ああ……」
かつての恐怖心がよみがえったことに加え、凄惨な光景も見てしまったこと、そして明らかに自分が殺戮の対象とされていることにミルティーユの体はたちまちガクガクと震えだす。それでも逃げ出そうと一歩、また一歩と後ずさる。
大鬼は右手に持つ大きな鉈を見せつけるかのように構え、ミルティーユへと近づいた。彼女はまだギリギリの理性が残っている頭で思う。この光景も、あの時と一緒だと。
ミルティーユはさらに数歩下がったものの、やがて瓦礫にひっかかって尻もちをつく。転んだ際にひねったのか足に鈍い痛みが走った。しかしその痛みとは関係なく、彼女に立ち上がる意志は湧いてこない。
もはやあの恐ろしい怪物が逃れられない場所にまで近づいてきている。
(アンリさん……!)
ミルティーユは絶望の中でわずかに祈り、ぎゅっと目を閉じた。
暗い視界の中で大鬼が笑う気配がした。
ついに死を告げる神が少女のもとにやって来たのか、石畳を蹴る音がどんどん大きくなる。そして。
(大丈夫だよ)
「……えっ?」
あの時と同じ声を聞いた気がして、ミルティーユはまぶたを開き、おそるおそる顔をあげた。瞳の中に映った光景に、少女はもう一度、夢を見ているのではないかと感じた。
そこには自分がまた会えることを願ってやまなかった一人の少年の姿があった。
そして、胴体を真っ二つに断たれて宙を舞うあの忌まわしい怪物の姿も。
かつて手も足も出なかった大鬼をアンリは一刀で始末していた。たちまち灰になって虚空へと消える魔物の残骸。
ミルティーユは未だ呆然としてその光景を見つめていた。アンリはそんなミルティーユを安心させようと小さく微笑みかけた。その顔は汗や汚れにまみれている。
「ごめん、遅くなって」
アンリは倒れたままのミルティーユに手を伸ばし、少女はおずおずとその手をとった。触れた手のひらはとても温かく、たしかな実感をミルティーユに伝える。
ようやく今の光景が夢でも幻でないことを理解し、立ち上がったミルティーユはアンリに抱きつくと鎧に包まれた胸板に顔をうずめる。そして子どものように泣きじゃくった。
「アンリさん……アンリさん!!」
少し戸惑いながらも、やがてその頭を優しく撫でるアンリ。戦場の真っただ中において、しばし涼やかな風が二人を包んだ。
しかし何かがうごめく気配を感じ、アンリは首をめぐらせる。視線の先には先ほどの魔物と同じ姿をした大鬼が十体ほど群れを成していた。
アンリが先ほど切り捨てた、二人の因縁でもあるこの魔物の名前は草色の大鬼という。眷属だ。
あたりの建造物をめちゃくちゃに破壊し、新たな瓦礫を増やしていた眷属たちだったが、おもちゃを見つけたと思ったのか、草色の大鬼の一団はアンリたちをターゲットとして歩きだした。
そしてさらに大きな肉体を持つ色違いの大鬼も彼らの後を追うかのように現れた。体は大まかに言って二色で構成されており、赤色以外に目立つのは黒に近い暗色。
その二色の肉体が溶岩を思わせるからか、ついた名前が溶岩色の大鬼。草色の大鬼を眷属として支配する簒奪者である。
アンリは近づいてくる魔物たちの方へ向き直り、一歩前に出てミルティーユを背にかばう。
そして手に持つ愛用の両手剣、【打ち壊すもの】を掲げてアンリは叫んだ。
「我は神々の意思を継ぎし執行者。始祖神カルドラの名において、この剣で君を守る!!」