第123話『獣の唸り』
「くっ……一体どうすればいいのだ……ぐおおおおおおおおお!!」
野太い獣のような声が響く。その声を発したのは美しい銀色の長髪を持つ女性である。名はサイファ。頑丈な鎧に身を包む、熟練の片手鎚の使い手。
「【饒舌の粉薬】……これを……外せばいいのか……? いや、それはあまりに危険だ……【沈黙の尾針】に出くわしたらどうする?」
【沈黙の尾針】とは巨大な蠍の姿をした簒奪者である。その名が示す通り、蛇が鎌首をもたげるように前傾している尾の針には、犠牲者から言葉を奪う猛毒が備わっている。しかもその針は一本ではなく、剣山のように無数に備わっており、獲物を狙ってこの武器を尾から猛烈な勢いで飛ばすのだ。
「喋ることができなくなったら【癒し】が使えなくなるのだぞ!! ワタシの命を何度も救ってくれた【癒し】が!! やはりこの輝石を外すなどありえんことだ!!」
【虹の根元亭】の彼女が借り受けている一室で、ここ数日サイファはずっと悩み、唸り声を上げていた。
サイファの目は色とりどりの宝石達の上をせわしなく這い回る。しかし、宝石達はかすかに輝くだけで彼女の悩みに答えてはくれない。故に、サイファは果てしなく自問自答を繰り返す。
その髪は千々に乱れ、瞳は嵐の翌日の池の水底のように濁っている。サイファを良く知る者達は、黙って立っていれば美人、という評価を彼女に対して下しているが、今はその美しさすら朝靄の向こうのように霞んでしまっていた。
「くそ……足りない……二十二の横枠では足りないぞ……あんまりだ……いったいワタシにどうしろというのだ……うわああああああああああああああああ!!」
世の執行者達――特にアンリ――が聞いたら卒倒しそうな発言をするサイファ。普段、彼らは十にも満たない種類の輝石でやりくりしているのだ。アンリに至ってはたったの三種類である。
「となると、やはりこれか……これしかないのか……」
サイファは右の目で赤い宝石を見、左の目で青い宝石を見た。それはかつて神々が編み出したアーツが込められた輝石。赤は武術。青は魔術。
赤色の一つは言うまでもなく【頭骨砕き】。先日、冗談めかして【魂の器】から外すことをほのめかした時、仲間達がこぞって止めに入った重要な技。
もう一つの青色は【光の矢】の輝石。サイファは大抵、【癒し】に己が精神力を回すため、この魔術を使った回数はそれほどでもないが、これも重要な技であることに変わりはない。かつて堕落した神と戦っていたアンリを救ったのもこの魔術だった。
彼女の両の瞳は二色の輝石の間で行ったり来たりを繰り返し、やがて……。
清々しい朝の時分。アンリとエレンはいつもの朝食を取っていた。話題はもっぱら仲間であるサイファのことだ。彼女が輝石の入れ替えについてずっと悩んでいたことはもちろん二人も知っている。というか、時折サイファの挙げる唸り声のせいでこの宿の誰もが今回の事態を知っていた。
「いくらサイファでも、さすがにアーツは外さないわよね……」
「うん……普通はカードを選ぶよね……」
サイファが刻印している数多の輝石の内でカードの割合は多い。カードには神々の魔術の力が込められているものの、一度使うと輝石の力を回復させるまで二度と使えない。その中の一枚を外したところで、彼女の戦力がそれほど下がるという訳ではないはずだ。
そう、【頭骨砕き】や【光の矢】を外すことに比べれば、いくぶんましな損失と言ってもよいだろう。
アンリもエレンもサイファが放つその二種のアーツに何度も助けられている。いくらサイファでも、そのどちらかを【万能薬】の輝石と入れ替えたりはしないだろう。それが普通の考え方だ。アンリとエレンの意見は一致していた。
……そう、普通なら。
……普通の考え方の持ち主なら……。
……。
そんなやりとりをしている二人の耳に、宿の扉が勢い良く開かれる音が届く。
そこに立っていたのはちょうど噂の対象となっていた銀髪の少女サイファ。先日まで乱れていた髪はいつもの輝きを取り戻し、瞳は澄んで世界をまっすぐに見つめていた。
神殿から直帰したサイファはアンリ達の円卓に大股で近寄ってくる。なぜか湧き上がってきた不安な気持ちを抑え、アンリとエレンは何も言わずに彼女の挙動を見守った。やがてサイファは立ち止まると卓上に両手を付き、声高く宣言した。
「喜べ!! 【光の矢】の代わりに偉大なる【万能薬】が刻印されたぞ!!」
「いやああああああああああああああああああああ!!」
アンリとエレンの絶叫が、まだまどろみの中にいた数人の執行者達をたたき起こした。