第121話『内緒の話』
訓練場の片隅で地面に布を敷き、二人並んで座るアンリとミルティーユ。それぞれの両手には、彼女のバスケットから取り出された、蜂蜜を染み込ませた黄金色のパンが握られている。
ミルティーユが早速ほおばると、口内に甘美な味が広がる。少女はにこりと微笑んでアンリの横顔を見たが、その顔は何やら思案げだ。ミルティーユは小さく首を傾げた。
「今日はどうしたんですか? なんだかいつもと違うような……」
もう一度パンを形の良い唇でかじり、こくんと飲み込むとアンリに対して素朴な質問をぶつけるミルティーユ。
隣で同じようにパンを持つアンリであったが、先ほどからずっと心ここにあらずといった様子であったのだ。ミルティーユの指摘によってその事に初めて気がついたのか、アンリは少しだけ困ったような表情を浮かべて俯いた。
「う、うん。ちょっと考え事というか何というか……」
要領を得ない返事にミルティーユも困り顔になる。アンリは何やら観念したかのように軽く頭をかき、ミルティーユの方へと向き直った。
とはいえ、その視線はやや逸らされたままではあったが。
「あー、その、出来たら誰にも……特にエレンには内緒にしておいて欲しいんだけどね……」
目を泳がせながら小さな声を漏らしたアンリ。聞いたミルティーユは少しの間考えこみ、やがてアンリの顔を正面から見つめる。その瞳は陽光を反射する水面のように、なぜかきらきらと輝いていた。
「……ということは、つまりわたし達の間だけでの秘密ということですね?」
少女の弾んだ声に、今度はアンリが一時黙考する。
「うん、そうなるのかな」
「な、なるほど……えへ、えへへ……」
頷いたアンリに、ミルティーユは口元が綻んでいくのを感じていた。
「それでね……。……ミルティーユ?」
「あっ!? は、はい!! ぜひとも聞かせてください!!」
「う、うん」
アンリはミルティーユに事の次第をかいつまんで聞かせた。
執行者は武具を纏う際、そのイメージを想起する為に特定の口上を述べる者が多いこと。それで自分も何かしら心に響く口上を朝から考えているのだが、なかなか良い案が浮かばないということを少女に伝える。
同業者には聞かせられない、目の前の少女が執行者でないからこそ出来る相談ごとであった。
「ちなみに今僕が変身の際に使ってる口上はこうだよ……カルドラの名において、我、執行者とならん!」
正面を向いたアンリの凛々しい声が、訓練場の土の上を突風のように横切っていく。今は剣も持たず、鎧を纏うつもりもなかったアンリであったが、その口上は堂に入ったものであった。たとえその手に食べかけのパンが握られていても。
口上を終えたアンリは照れ隠しのように小さく笑み、隣の少女へと視線を向ける。ミルティーユがじっとこちらを見つめていることに気付くと、アンリは気を落ち着かせるために軽く咳払いをした。
「今のままでもじゅうぶん格好いいですよアンリさん」
「そ、そう?」
照れているアンリを見つめたままうんうんと楽しげに頷く少女。
「でもせっかくですし、私も少し考えてみます!」
「うん。おねがい。僕もいくつか候補を作ってみる」
アンリも口元に笑みを浮かべ、その手に持ったままだった蜂蜜味のパンをその唇に運んだ。しばし沈黙の時間が続き、やがてミルティーユが弾かれたように顔を上げる。
「あ、あの……じゃあこんな感じではどうでしょう!?」
顔を上気させたミルティーユがアンリの耳に口を近づける。アンリはどぎまぎしながらも身じろぎせず、少女の囁きに耳を傾けた。アンリの耳朶がミルティーユの吐息でくすぐられる。長いようで短い時間が過ぎ、ミルティーユの体温がアンリの側から離れていった。
「いかがでしょうか? アンリさん」
少女の瞳は期待感でいっぱいだった。アンリはミルティーユが考えてくれた口上を心の中でもう一度繰り返してみた。
「……うん、格好いい、かも」
アンリはミルティーユに笑顔を向けた。
「えへ……嬉しいです……」
二人は鏡に向かい合ったかのように楽しげに笑いあう。やがて笑い声が収まると、少女は両手を胸の前に当ててアンリに訴える。
「ここで今見せて……ううん、聞かせて欲しいです!!」
「え!? い、今かい?」
「はい!!」
上気した頬を見せるミルティーユ。
アンリは突然のお願いに逡巡したものの、期待に満ち満ちた双眸で見つめる少女に勝つ術はなかった。
「う、うん。分かった。じゃあやってみるね?」
アンリは立ち上がると召喚した剣を構える。その頬はほんのりと赤く染まっているものの、やがて覚悟を決めたのか目をつぶり、口元を引き締めた。
先ほどミルティーユが提案してくれた言葉を変身の口上として、劇場の役者のごとく高らかに叫んだ。ただ一人の観客の前で。
「我は神々の意思を継ぎし執行者。始祖神カルドラの名において、この剣で君を守る!!」
大きな剣を天上へと掲げたアンリの五体をまばゆい光輝が纏う。それは神々の作りし鎧となり、アンリの全身を覆い始める。ミルティーユは蝶の孵化を見守る子供のように、彼の変身をまばたきもせず見つめ続けていた。
やがて光の粒子が朝露のように消え去り、そこには赤銅色の鎧、【邪眼潰し】を身に着けたアンリが立っていた。彼は蘇ってきた恥ずかしさに顔を赤らめ、言葉少なに尋ねる。
「こ、これでいいかな?」
「はい!! 嬉しいです!!」
見つめるミルティーユに浮かぶのは、雲ひとつない空のように澄み渡った満面の笑顔。
アンリが一番最初に自分の前であの言葉を叫んでくれたこと。それだけでミルティーユの頬は熱くなり、胸は高鳴るのであった。