第116話『凱歌をあげる』
【虹の根元亭】の酒場兼食事処である一階には厚い木のドアで遮られた個室が二つある。今日、アンリ達はその中の一室を予約していた。部屋の中心にある円卓の上に出来上がった料理が続々と運びこまれる。どれも、値段がやや張る滅多に注文しないメニューばかりだ。
やがて料理の皿があらかた並び、皆が瞳を輝かせている中で、マナが周りを伺いながら挙手をした。
「その、とりあえずちょっと言っておきたいことがあるわ」
マナは隣のミナを見る。鏡と向かい合っているかのようにそっくりの姉妹は軽く頷き、同時にアンリ達三人の方へと向き直った。
「ええっと、本当にありがとね、あんた達」
「私達の試験につきあっていただき、ありがとうございました」
マナとミナはふかぶかと頭を下げた。アンリ達はそれを茶化すことなく見つめている。
「あたし達に課せられた試験についても、先生から合格のお達しをいただけたわ」
「私達は今まで先生に頼りきりで、ご存知の通り宿の取り方すら分からないような、未熟な執行者でした」
「でも今回の戦いを終えて、やっと一人前の執行者になれた……そんな気がするわ」
マナとミナ、二人の晴れ晴れとした顔を見ていたアンリの脳裏に、ここ数日の出来事が描かれる。
「うん……それは僕も同じだよ」
「そうね、あたしも。大型の簒奪者を倒したのも初めてだし」
アンリとエレンは顔を見合わせ、微笑んだ。特にアンリにとってはペルギア渓谷という未踏の地を歩いたことも初めてなら、五人という人数で長期のパーティーを組むことも初めてだった。辿りつくまでの行程や、山中で火を囲んで夜を明かしたこと、巣穴で挑んだ【尾長竜】との壮絶な戦い、彼にとってはずっと忘れることのない冒険となったことだろう。
「ま、無事に解決できたのだから問題なしだ! 神々は決して乗り越えられない試練を授けたりはしない!!」
サイファが杯をかかげた。
「そうね」
マナ、ミナも山羊乳入りのカップを手に持つ。アンリ、エレンもそれにならった。
「それじゃ、マナが音頭をとって」
「い、いいの?」
マナがエレンを、そして他のメンバーの顔をこわごわと見る。もちろん、エレン達の顔には優しげな表情が浮かんでいる。
「ええ。今回の【尾長竜】討伐、そのリーダーは貴方よ」
「そ、そうね。じゃ、じゃあ……」
おほん、おほんと軽く咳払いし、マナは極上の笑顔を浮かべて、小さな手に持つカップを勢いよく突き出した。
「【尾長竜】退治の依頼が無事に解決できたことを祝って……かんぱーい!!」
「かんぱーい!!」
四人の声が重なり、五つの杯が円卓の中央で、五角輝石の形のように打ち合わされる。
五人の執行者は卓上の高価な料理に顔をほころばせ、美酒に酔い、冒険の最中に起きた出来事を酒の肴にしていつまでも笑い転げていた。
ペルギア渓谷。
数日前まで巣穴と呼ばれる場所に王者が君臨していた。しかし今、もうその玉座に座る主はいない。
緑茂る山の中、澄んだ水が噴水のように湧き出る清らかな泉があった。この聖なる場所には簒奪者もその眷属も立ち入ることが出来ない。色鮮やかな花が咲き乱れ、小さな動物達が遊び場としているのかリスや兎が駆け回る。
その日、山中に住まう動物達はまるで聞き耳を立てるかのように声を立てるのをやめた。彼らに太古の昔から備わっている直感が、何かの異常をとらえたのだ。彼らはここ最近、同じような異変を何度か感じていた。しかし、今日のそれは決定的なものだった。
美しい泉の側に住まう一匹のリスは木の実を手に首を傾げた。今、己の瞳に映る景色が、ここ数百年以上起きたことがない異常事態だということに彼は気付かなかった。
かつて神の息吹とよばれていたその場所は、今ではただの小さな池と成り果てていた。湧水によって起こる、異形の者達を近づけない加護の力。それが、この楽園から失われていた。
リスは木の実を取り落とし、四つの足で必死に大地を蹴り、安全な場所を求めて逃げ去ろうとした。しかし、死神はもう彼が逃げおおせることの出来ない場所にまで近づいていた。
上から突き下ろされる三日月の形状をした剣。鋭利な刃がリスの胴体を抉る。赤い血が大地を染め、小さな獣は四肢をばたつかせて痛みにもがいた。
もはや逃げられない小動物を掴む、緑の鱗がびっしりと生えた手。まだもがく獲物をつまみ上げ、丸い双眸でしばらく見据えるのは二本の足で立つ蜥蜴型の化け物。その異形は血塗られた肉の塊を口元へと持っていき、丸呑みした。美味しそうに喉を鳴らし、湾曲した剣と丸い盾を再び構えると背後を振り返る。
そこにいるのは自分よりも大柄でより優れた武具を身に纏う上位の存在の群れ、そして自分達を生み出した畏怖と敬意の対象である女王。
女王――重装蜥蜴は片刃の直刀をかかげ、吠えた。配下の蜥蜴精鋭、蜥蜴剣士もそれにならう。
周りでは粗末な剣を持った悪鬼の群れが花をむしり、美しかった泉に泥や石を投げ込んでは笑っている。親鳥の逃げ出した鳥の巣の卵を狙う悪辣な蛇には、前にも後ろにも頭がある。ほんの数刻前までは青空が見えていたというのに、今では飛膜を背に生やした奇怪な人型の魔物が宙を舞い、大地を影で覆っていた。
まだ生き延びていた兎が下生えを駆ける。一体の眷属がそれを追う。周りで異形の者達がはやし立てる。
やがて……人間達が誰も気付かぬ内に、ペルギア渓谷に存在していた小さな楽園は死に絶えた。